Day8
礼子は外来患者の午前中の診療をしていた。廊下の長椅子には既にたくさんの患者が待っている。
「山本さん。山本篤史さん、どうぞ」
入ってきたのは礼子にストレス解消法を聞いたあの患者だった。電車の中でパニック障害を起こし通院を始めたとのことだった。礼子はうつ病と診断した。
心なしかいつもより顔色は悪い。
「どうですか、調子は。薬は効いてます?」
「はあ。あの先生、すみませんが、あの薬を飲むと、眠れなくなることがあるんです」
「朝まで眠れないんですか?」
「そういう時もあります。なので飲むのが怖くて、会社がある前日は飲まないようになっちゃって」
「それでは、一日、半錠にしてみましょうか?」
「それでも効くのであれば」
「この薬は副作用が人によって違うんですが、飲み続けることで効いてきますからね」
「わかりました。でも先生、眠れないとき、僕はいつ死ねるんだろうと考えてしまうことがあるんです。いや暗い部屋の中でタオルで自分の首を絞めようとしたこともあるんです」
いきなりの直球が礼子の鎧から隙間を抜けて、胸をえぐった。
「消えてしまいたいとか?」なるべく平静を装い礼子は聞いた。
「そうですね」
「そんな時はどうしてるんですか?」
「眠剤を1錠多く飲んで眠るようにしています」
「眠れますか」
「なんとか」
「眠剤足りなくなったんじゃないですか?」
「はい。でも仕方なかったんで」
「どうしてもだめなときは病院に来てください。注射で抑えることもできますから」
「わかりました」
「生活の方はどうですか?」
「変わりありません。毎日DMのシール張りです。辞めたい。でも辞められないです。私には特技もないしこの歳で他にできる仕事なんてない。早期退職の面接の圧迫も苦しくて」
山本の会社では早期退職を断ると、部署替えをされた。セカンドライフ部という部署だった。そこでは会社の仕事とは関係ないDMを毎日作らされる。セカンドライフ部は外部のコンサルティング会社によって運営されていた。定期的に面接がある。何がセカンドライフ部だ、体のいい島流じゃないかといつも山本は思っていた。組合があれば駆け込みたかったが、会社に組合はなかった。組合も無く家族的な雰囲気で働ける会社と会社案内にはうたっていた。
礼子にはどうしたって仕事の話は救いようがない。話を変えることにした。
「ストレス解消法はみつかりましたか」
「いや、たまに飲みに行くぐらいです」毎夜のようにキャバクラやガールズバー、風俗など夜の街を彷徨っているとは言えなかった。こんな自分と気軽に話をしてくれる娘を探して彷徨っていることを。預金もどんどん減っていた。
「けっこう飲むんですか」
「いや焼酎水割りで5・6杯ですか」本当は10杯以上は毎日余裕で飲んでいる。酒量は増々増えている。
「あまり飲み過ぎないで下さいね。そうそう山本さん、ゴルフとかやらないんでしたっけ」
「昔はやってました。結構好きでしたけど、今は行く気にはなれないんです」
「自然の中に行くことはいい事ですよ」
「それはわかってはいるんですが、順調な生活を送っている友人と周るのはどうも気が引けちゃって」
「そうですか。でもなるべく外に出てくださいね。ハイキングとか、散歩でもいいですよ」
「わかりました。なるべく出るようにします」
礼子は山本からパソコンに顔を向き直し処方薬を入力した。
「それでは今までの薬は半錠にしておきますね。眠剤は多めにしておきますね。前回の1.5倍でいいですか」
「はい」
「でも、お酒を多く飲んだ時は止めてくださいよ。薬の作用をあげちゃう可能性がありますから。それにお酒も飲みすぎないように」
「わかりました」
「他には何かありますか?」
「いや特には」
「それでは、次の診療はいつにしましょうか。今まで通りひと月後、午前の水曜10時からでよろしいですか」
「はい。それで構いません」
「じゃあ今日はこれで終わりです」
「ありがとうございます」
山本はあまり気持が晴れたという風でもなく席を立ち、部屋を出て行った。
礼子は出ていく山本の後ろ姿を見送りながら心の中で謝った。すみません、私にはこれ以上のことはできないんです。
午後3時頃、亮介の部屋にはまた「ごはんですよ」とごのさんが現れた。
カーテンの少し空いた隙間から、ごのさんと目があった。
軽く会釈をして挨拶をした。せざるを得ない状況であった。
ごのさんも突然で照れたのか頭を下げ、そのまま来たほうの廊下へ歩き去っていった。
向かいの宮本とかいう患者はナースコールで看護師を呼び出していた。
本当によくナースコールをする患者だ。
「どうしましたあ」スピーカーから看護師の声が聞こえる
「点滴終わりました。交換お願いします」
「宮本さん、伺いますが、こちらでも時間把握してますからわざわざ呼ばなくてもいいですよ」
「すみません。よろしくお願いします」
看護師に注意されているようだ。その後数分すると看護師が来て点滴を交換していった。
それからしばらくすると吉沢が顔を出した。最初は幾分顔が沈んでいるように見えたが、亮介を向くといつもの笑顔で話しかけた。
「いかがですか?」
「夜眠れないんです。消灯が過ぎても、2時間ほどは眠れなくて」
「眠剤を飲んでもだめですか?」
「いや、不眠症は眠剤で効いてはいると思うのですが、隣のいびきがうるさくて」亮介は声をひそめて言った。
「そうですねえ」礼子は困りながら考え込んだ。
「部屋替えとかはできないですか?」
「空きがないんですよね。申し訳ないんですが。でも退院する患者さんがいるかどうか調べてみますね」
「すみません。それか眠剤を増やすことはできないでしょうか」
「2錠までなら大丈夫ですよ」
「それでお願いします」
「わかりました看護師に伝えておきますね。とりあえず、隣の方は金曜には家に戻られると思いますので、今週はあと2日我慢してください。」声を潜めながら礼子が答える。
「はい。宜しくお願いします」
礼子は笑顔を残し戻って行った。
夕方には会社帰りの優が顔を出した。窓脇に置いてある、パイプ椅子を亮介のベッドの脇に置き座り込んだ。
「どうよ、調子は」いつもながら明るく優が聞いてくる。
「まあまあかな」
「ここはどう?」
「眠れない」
「まだ、悩んじゃってるの?眠剤も飲んでるんでしょ」
「いやそういうわけじゃないんだ」
「いびきがたまらくうるさいんだ」亮介は隣のベッドを指さしながら声を小さくして言った。
「あっ、そういうこと。それは仕方ないね」優も声を小さくして言い返した。
「他には?」
「環境はいいよ。居心地がいいというのか。ここの人達はあまり他人に関わらないから」
「なるほどね。やっぱり他の病棟とは違うのかね」
「それに....」
「それに?」
「ここは無菌室みたいなものだろ。ここで悪意は感じない。悪意というウイルスがいない」
「ふーん悪意ねえ。私はあまり感じたことはないけど。いやな奴はたくさんいるけどね」
「前は俺は悪意だらけに感じてたよ」
「そんなものなのかね」
「そんなものさ」
「そういえば、お姉ちゃんから聞いたけど、ここって患者さんから退院したいって希望があったら、患者を尊重して退院させなきゃいけないみたい。こういう病棟の性質上。だからしっかり治るまでそんなこと言わない方がいいよ」
そういえば入院した頃、香がそんなことを言ってた。
「でも夜眠れないのはきついぞ。騒音だ。こんなことなら退院したいよ」
「何とかならないのかね。病室を変わるとか」
「入院した時、空きが一つだけありますとか言われたから、今の空きはないんじゃないのか」
「それじゃ我慢するしかないね」
「眠れないといろいろ考えちゃってね」
「どんな?」
「まあいろいろだな。いやな事とか。小さいころおじちゃんが交通事故で死んだだろ。俺が小学校に入ったときぐらいだったかな」
「ああ。私はよく覚えてはいないけどね」
「あれが初めて人の死というものを初めて目の当たりにした時だった。昨日まで普通に遊んでた人が急にいなくなったんだ」
「そうだろうね」
「あれ依頼、死というものがものすごく怖くて、みんないないとき、ひとりぼっちになった時はいつもこたつの中でうずくまっていた。みんなが帰ってこないことが怖くてね」
「へえ、初めて聞いた」
「人って生と死への欲望のバランスがどこかのタイミングで変わるポイントがあるんじゃないかと思ったんだ。それは死にたいというよりも死というもの対して受け入れるというか、現実として考えられるポイントが」
「そんなものかね。私はそんなこと考えたこともないけど」
「それは人としてそれぞれ違うんだろう。何かに裏切られたりしながらも、それを克服する努力をして、一生懸命生きたほうが後ろにずれるんじゃないかってね。俺は努力が足りなかったからそのポイントが早かったような気がする。だけど死ねなかった。克服する努力をしなかったからなのかもしれない。だからもう少し努力してみようと思うんだ」
「なるほどね。でもあんまり考えすぎないでよ」
「まあそうだね。おとなしくしてるよ」
「そういえばさあ、亮介の部屋にはなんであんなにカメラがあるの?」
「ああ、あれかい。あれは仕事だよ。お袋に色々言われて、焦ってたんだろうな。ネットで見ると日本の中古カメラを海外輸出すれば高価で売れるっていうサイトがあったんだよ。日本のカメラは高品質だからって。それでやりだしたんだ。コンサルタント料まで払って」
母親にいろいろ言われ焦っていたのは本当のことだ。ただ母親を安心させたかった。東京に行かなくても生きて行けるということを見せたかった。
「それで?」
「結局田舎には仕入れ場所がないというか少ないんだ。ネットで仕入れてもその分送料がかかるから、利益なんてほとんど出ない。失敗さ。本当に焦ってたんだ」
「ばかだなあ」
「本当にばかだな俺は」
「友達はできたの?」
「まあ友達というか話相手ぐらいはね」
「女性?」
「女性は女性だけどそんなんじゃないよ」
「怪しいなあ」優が首を傾げながら亮介の顔を覗き込む。
「そういえばお袋はどうしてる?」照れ臭かったのか、亮介は話を変えた。
「元気だよ。たまには電話してあげれば」
亮介は入院してからまだ母親に連絡してなかった。いや連絡できなかった。母親の声を聴くのが辛かった。
「そうか。良かった」
「姉さんに聞いたけど、正夫さんの家に行ったんだろ」
あの、自分が仲間はずれにされていると思って、3軒先の正夫さんの家に行った件だ。
「ああ、その話。もう大丈夫。薬も効いているんじゃないかな。私もなるべく行くようにしてる」
「いろいろ悪いな」
「大丈夫。まあゆっくり治してね。また来るわ」
優はパイプ椅子を窓脇に戻し、手を振りながら帰っていった。
「どうしたの?何を見てるの」
佳奈のカーテンの隙間から通りがかった一人の女性が声をかけた。
佳奈の隣のベッドに入院している患者だ。確か五十嵐という女性だった。歳は40と言っていた。今までにも何度か話かけられたことがある。
「子供の写真なんです」スマホを見ながら、佳奈が答えた。
「ああこの前、来てた子達ね。声が聞こえたわ。いくつなの?」カーテンが閉まっていて子供たちは確認ができなかったのだろう。
「5つと2つです」笑顔で佳奈は答えた。
「可愛い盛りね。見せてもらってもいい」
「はい」
ベッドに寄ってきた五十嵐に、佳奈はスマホをかざして見せた。スクロールして見せると次から次から出てくる。
「可愛いわねえ。うちの子供なんて大きくなっちゃったから相手もしてくれないわよ」
何度か五十嵐のところに見舞いにも来ていたが、カーテンを閉めていて、声しか聞こえなかった。
「そうなんですか」翔もいつかはそうなるのだろうか。
「この子達のためにも早く退院しなきゃね」
「そうなんです」
五十嵐は笑顔を見せ自分のベッドに戻って行った。
佳奈は我慢できなくなり、ベッドを降り、スマホを手に部屋を出た。翔と茜の声が聴きたかった。病棟で電話を掛けるエリアは限られていた。
食堂の一角の電話エリアに着くと、自宅に電話をした。
母が出た。
「もしもし山崎です」
「おかあさん。私、佳奈」
「ああ、どうかしたかい」
「翔と茜の声が聴きたくなっちゃって。翔と茜起きてる?」
「ああ、いるよ。ちょっと待ってて」
翔ちゃーん。茜ちゃーん、お母さんから電話だよ。はーい。電話の奥から母と翔たちのやりとりが聞こえてくる。
「もしもし。おかあさん?しょうだよ」
「翔ちゃんお母さんだよ。いい子にしてる?」
「うん、いいこにしてるよ。きょうねえ、おじいちゃんとかわにいってきたよ」
佳奈の家に近い千曲川のことだろう。子供の頃よくお父さんが連れて行ってくれた。佳奈も子供達を良く連れて行く。広い河原がある川だ。
「へえ川で何したの」
「いしでおやまつくってえ、かわにいしなげてきた」
「そう、お山作ったの?石投げてきたの?うまく出来た?」
「うまくできたよ」
翔の隣には茜がいるのだろう。下の方から代わってという声が聞こえる。佳奈の目には涙がにじんでいる。
「翔ちゃんはお兄ちゃんなんだから、茜のことも見てあげなくちゃいけないんだよ」
「うん。わかっているよ。あかねちゃんのこともみてるよ」
「そうだね。翔ちゃんいい子だもんね。お母さんももうすぐ戻るからね」
「うん。はやくかえってきてね」
「もうすぐ戻るからね。茜ちゃんに代わって」
「はい」
茜に受話器を渡したのだろう、茜の声が聞こえてきた。
「おかあしゃん。あかねだよ」
「茜、おかあさんだよ」
「わーい。はやくかえってきて」
「もうすぐ帰るからね。お兄ちゃんの言うこと聞いてね」
「うん。きょうもいうこときいてたよ。かわでおやまつくったの」
「よかったねえ。いいこにしてるんだよ」
「はーい」
「おばあちゃんに代わってくれる?」
「はーい」
おばあちゃーんという声が小さく聞こえる。茜が居間に戻った母を読んでいるのだろう。少し経つと母が電話に出た。
「二人ともいい子にしてるよ。こっちのことは心配しなくていいからね」
「ありがとう」
「いつ退院できそうなんだい」
「多分1週間ぐらいだと思う」
「そうかい。行けたらまたみんなで行くからね」
「お願い」
翔、茜、ばかなお母さんを許して。
佳奈は電話を切った。流れる涙が止まらなかった。食堂には誰の姿も無かった。
亮介の点滴が終わろうとしていた、また交換するのだろうか。そう思っていると、10分ほどした頃だろうか、師長が入ってきた。
「薮内さん、点滴はこれで最後です」
「そうですか、やっと解放されます」
「良かったですね」
「点滴も取れたんで、怪我の治療は形成外科の外来で行うことになります」
「ここから一人で行くといく事ですか?」
「いえ、看護師が付き添いますので、二人で行ってもらうことになります。明後日の1時からでよろしいですか?」
「はい。大丈夫です」
「それでは、お願いします」
看護師は笑顔でそう言うと、亮介の右腕から点滴をはずすと点滴スタンドを持ち帰っていった。
帰宅した礼子はいつも通り風呂上りのビールを飲み終えるとベッドに横になった。
今日の外来の患者の山本のことを考えてしまう。
鎧かあ、昨日の雄介が言ったことが思い出された。
私の鎧は修理が必要なんだろうな。
診療に来る人たちも鎧を壊しちゃったのかな。
担当ではないがナースセンターで噂になる、ごのさんのあの奇怪な行動や言動、宮本さんが首を曲げて歩くのもナースコールを頻繁にするのも自分で手に入れた鎧なのかしれない。自分を守るために。自分なりに鎧をみんな作っているのかもしれない。
それが壊れちゃうんだよね。少しづつ少しづつ。
礼子は18歳の死んだ女の子のことを思い出した。
リストカットをして通院しだした。有望な陸上選手だったって言ってたな。妻子ある男子高校教師と付き合っていたと言っていた。陸上の監督だっけコーチだっけ。
本当の原因はわからないが、それが原因だったら、男なんてまだいっぱい出会えるじゃないか。
葬儀に行った時、母親からiPodで聞いていた最後の曲が沢田聖子の"走ってください"でポーズがかかっていたと聞いた。
そんな古い唄どこで知ったんだろう。その男性教師に教えてもらったんだろうか。もう走れなくなっちゃったのかな。
鎧を捨てちゃったのかなあ。
学校からの飛び降り自殺だった。遺書はなかった。
私も雄介と結婚しとけば良かったのかな。雄介という鎧を手に入れれば良かったのかもしれない。でも、雄介といると同業がらいろいろな患者の話が出てきた。雄介は淡々と話すのだが、礼子はいたたまれなくなることがあった。やはり同業者は無理だと思った。パートナーは全く違う職業のほうがいい。
「少し仕事はセーブしたい。明日、橋爪先生に相談してみよう」礼子は呟き、薬を服用すると眠りについた。
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