Day7

 朝食を済ませた涼介に、カーテンの外から声を掛けてくる人がいる。

「すみません。カーテン空けてもいいですか」

「はい」

 カーテンが開かれると、掃除のおばさんだろうか、手には入院着を持った薄緑色のユニフォームを着た女性が立っている

「新しい着替えここに置いておきますね」ベッドに新しい入院着を掛けた。

「シーツも交換しますね」

 涼介はここにいては邪魔だろうと思い、新しい入院着に着替えると食堂で時間を潰すことにし、廊下へ出た。

「よう、元気かい?」涼介が食堂の小上がりで寝ころびながらスマホからのイヤホンを耳にしている佳奈を見つけた。

「ああ涼介さん。なんとかね」イヤホンを取りながら佳奈が答えた。

 涼介も小上がりに腰かけると、佳奈も起き上がった。何かいつもと雰囲気が違う。暗そうな顔をしている。

「何かあったのかい?」

「いや特には。亮介さんも眠そうだね」

「部屋の住人のいびきが煩くてね。眠れなかったんだ」

 亮介は結局3時間ほどしか眠れず、目を赤くしていた。目の下にはくまもできている。

「ねえ、聞いてもいい?」

「何?別にいいけど」

「土曜の夜に廊下で騒ぎがあったの知ってる?」佳奈が唐突に聞いてきた。

「ああ。眠れなくて起きてたから、知ってるよ。何でも新しい患者が入院したとか先生が言ってたね」

涼介が入院した深夜のできごとである。

「あれさ、実は佳奈なんだよね」

「えっ」涼介には次の言葉がみつからない。

「ちょっと、やっちゃったんだよね」佳奈が話を始めた。

「最初の日は個室に入れられて、ベッドに固定されちゃって。ひどくない?」

 亮介が聞いたあの叫び声の状況では仕方ないのかもしれない。次の日から4人部屋に移されたと佳奈は言った。

「私さあピンサロで働いてたの、ちょっとだけ。いやいやだけどね。軽蔑する?」

 ピンクサロン、要は風俗である。涼介自信も若いころには何度か行ったことがある。少し驚いたが今の自分に他人を軽蔑する資格なんて無い。

「いや、別に」

「でさあ、そこのオーナーからバンスもらってたから辞めたかったのに辞められなかったんだよね。」

「なんだい?バンスって」涼介が聞いた。

「知らない?そういう店の前渡し金。要するにお金借りてたの」

 キャバクラやピンサロでは女の子を集めるために、そんな金で縛り付けるらしい。英語のアドバンスからきているらしいことは後で知った。

「ふーん」どこまで聞いていいのかわからず、涼介は ただただ相槌をうった。

「ずっと店ばっくれてたんだけど、家に行って親に全て話すとか脅されてたんだ。私実家だから。まあやくざもどきのオーナーだからね。そんなんで店できれちゃって、店のナイフふりまわしちゃった。店も自分も血だらけにしちゃったんだ」

 腕をめくって傷痕を見せながら佳奈が言った。包帯が痛々しい。

 腕や腿を自分で切ったらしく救急車で運び込まれたらしい。

「精神科ってなんか牢みたいなとこに入れられるイメージがあって、泣き叫んじゃった。夜、目を瞑るとあの血まみれの光景が離れないんだよね」

「いくら借りてたんだ?」

「30万円」

「何のために?」

「生活費。私子供いるんだよ」

「えっ?本当に」

「うん」

「ひとり?」

「いやふたり」佳那が照れ笑いを浮かべた。

「男の子?」

「上が男の子で下が女の子」

「何歳?」

「5歳と2歳」

「へえ。可愛い盛りだね」

「そう、可愛いの」佳奈が笑窪をたたえた笑顔を見せた。

「なら貸そうか?」亮介は言ってみた。まだ出会って三日程度である。ただ、一度は死んだ身である。その金が返ってこなくてもいい、できることがあればしてあげたかった。それ以上の何かを与えてもらった気がする。佳奈との会話で空虚な心が満たされていく。

「いや、いい。他の人に借りた。今回の件で親にもばれて、それも親が貸してくれるって。もう終わっちゃってるよ、私」いつもは無邪気な笑顔を見せるかなの顔が重く沈んだ。父親が30万円を用意したらしい。

 涼介も自分の左腕の醜い傷を見ると、あの時の林の中での光景を思い出す。終わっているのは自分の方だ。

「それに」

「それに何だい?」

「男の人と、そういうお金の貸し借りとかの関係になりたくないから」

「そうか。そう言えば、なんか太宰にそんな話があったな」ふと、涼介は思い出した。

「何?太宰って神社?」

「太宰修。昔の小説家さ。人間失格とか聞いたことないか?まるで俺の事を書いているようだがな」

「あはは。読んだことはないけど、聞いたことある。わたしもだね」

「その小説家の別の小説の話さ。佳奈ちゃんはもっともっときれいな景色を眼に焼き付けるといい。ほら病室の窓からもいろんな景色が見えるだろ。何千、何万、何百万回もきれいな景色を見てたら、そんな光景消えちまうよ。まだ若いんだしな」

それを聞いた佳奈が、瞳をまるくしながら答えた。

「涼ちゃんすごいね。かっこいいこと言うねえ。さすが年の功。それと佳奈って呼び捨てでいいよ。年上なんだし、亮ちゃんなら許す」いつのまにか涼ちゃんだ。まあ悪い気はしなかった。

「年の功は余計だ」笑いながら涼介が返した。

「なんて小説?」

「何だっけかなあ。タイトルは忘れちゃったよ」

「思い出したら教えてね。話してみてよかったよ。なんか涼ちゃんって聞いてくれそうなオーラまとってるよ。担当の先生よりすっきりした」

「そう言ってもらえるとありがたいよ。子供達とは会えたのかい?」

「うん、この前みんなで来てくれた」そういえば、家族に会えてよかったと言っていたな。

「そうかそれはよかったね。いつもは子供達と遊んでるんだろ」

「そうだね。上の子は保育園に行ってるけどね。休みの日はみんなで公園に行ったり、千曲川の河原で遊んだりしてるんだ」

「楽しそうだね」

「楽しいよ」

佳奈は少しはいつもの元気を取り戻したようだ。こんな俺でも、少しはまだ役にたつのかな。佳奈の笑顔がうれしかった。



 吉沢礼子は病院の仕事を終え、帰りに友人の橘川雄介のメンタルクリニックを訪ねた。礼子の勤める病院からは車で20分程である。

「どうしたんだい、今日は?」

「薬を処方してほしくて」

「もう終わったのかい。1カ月経つのか。早いなあ、あっという間だ、ひと月なんて」

「自分で処方すればいいのに」雄介が聞いた、

「病院に知られたくないしね。雄介にもたまには会いたいし」

「うれしいこと言ってくれるね。人のプロポーズは断ったくせに」

「あはは。プロポーズなんてあったっけ?」とぼけたような笑顔で礼子は返した。

 学生時代、礼子と雄介はつきあっていたことがあった。

「それよりどうなんだい体の調子は?」雄介は心配そうに聞いてきた。

「うーん。なんか忙しすぎてバランス崩しそうなの」

「鎧はまとっているのか?」

「鎧かあ、なるべくお客さんとは一線を引くようにはしているよ」

「うん。鎧がないと戦場に裸で突っ込むようなものだからな。矛はいらないけどな。矛を持つと患者と喧嘩になっちゃうしな。さすがに精神科医が患者と喧嘩しちゃまずいだろ」

 鎧だったら、矛じゃなくて槍とかじゃないのか、そんなことを考えながらも礼子は答えた。

「でも、すきまからいろいろ入ってきちゃうみたい。私の鎧はもう古いのかも」

「礼子がバランス崩して、ここに来たのはいつだったっけ」雄介が聞いてきた。

「もう10年ぐらい経つのかな」言いづらそうに礼子が答えた。

「思い出したくないかもしれないけど。患者だった若い女の子が自殺しちゃったって暗い顔して泣きながら飛び込んできた」

「うん。あの女の子18歳だった。今でもお墓にお参りに行ってるよ」礼子は下を向きながら答えた。。

「あの頃は鎧も身に着けず無防備だったよなあ」

「そうだね」

「もっとぶ厚い鎧を作るんだな。礼子は精神科医に対する思いが強いから。俺は親父がやっていたからなっただけだけどさ。単なる仕事として」

 橘川メンタルクリニックは元々雄介の父親が開業していた医院を雄介が引き継いだものだ。

 雄介が引き継いでから父親がやっていた小さな医院を建て替え、3階建てのビルにした。壁面が白く塗られたきれいなビルの1階でクリニックを開いていた。それなりに患者で賑わっているようだ。

「やっぱりそうなのかな」

 礼子は中学生の頃、幼馴染だった友人の母親が自殺した。子供の頃からよく遊んでくれた優しいお母さんだった。友人の家に遊びに行くと夕飯までご馳走してくれた。後で聞くと鬱病に悩まされていたらしい。幼馴染は中学まで一緒だったが、それ以来友人も暗くなっていった。次第に礼子も掛ける言葉を失っていった。

 そんな友人や友人のお母さんを知っているから、そんな人たちに寄り添いたいと思い精神科医を目指した。雄介にも話したことがある。

「患者に嫌われてももいいんだ。一線も二線も引かないと、自分が壊れちゃうぞ。鬱はうつるものだ。」

「私向いてないのかなこの仕事に」雄介の前だと弱音がつい出てしまう。

「弱音を吐くなんて礼子らしくないぞ。君は名医だよ。何百人も助けてる」

「ありがと。雄介にそう言ってもらうと気が晴れる」

「そうかい?」

「うん、有難い。そういえば雄介はストレス解消法ってあるの?」

「そりゃやっぱりゴルフかな。山や高原の自然のなかでやるゴルフは気持いいぞ」

「ゴルフかあ。あるんだねやっぱり」

「なんだ、礼子はないのか。一緒にやるか?」

「ゴルフねえ。いや、私はいいや。山にでも登ってみようと思っているんだ」

「そうか、礼子は山岳部にいたことがあったんだっけ。山もいいねえ。俺は疲れるのはちょっといやなんだけどさ。でも登るんだったらつきあうぞ。足手まといになるかもしれんが」

「ありがと。登るときはお願いするかも。それから、薬ちょっと強めにしてもらってもいいかな」

「あまり薬に頼るなよ。少し強めの処方しておくけど。眠剤はいつも通りでいいんだろ」

「うん」

「外来の担当患者減らしてもえないのかい。礼子のとこのあの偉い先生。上司だろ頼んでみれば」

「橋爪先生ね。先生も学会とかで忙しいし、他の先生のこと考えると頼みづらいよ」

 雄介も学会で会ったことがある。もう初老の精神科医である。学会内でも役員に名を連ね、一目おかれている存在だ。礼子の病院では精神科のトップにあたり、礼子の上司である。

「そんなことを言ってるからおかしくなっちゃうんだよ。ちゃんと頼んでみな」

 雄介は礼子から顔を外し、パソコンに向かい処方する薬を打ち込んでいる。

「また酒でも呑みにいこう」向き直って雄介が言った。

「奥さんに悪いよ」

「大丈夫だろ。医者の寄り合いとか言えば。本当に医者の寄り合いなんだし」

 橘川雄介は礼子にふられた後、結婚していた。礼子は未婚である。

「それじゃ、時間できたらね」

「ああ、それからひと月後じゃなくても自分でおかしいと感じたらいつでも来いよ。礼子なら時間外でも歓迎するから」

「ありがと。そうするね」

 礼子は席を立つと出口へ向かった。雄介も後から見送りについいてくる。ここはわざわざ予約を入れなくても受け入れてくれる。本当にありがたいことだと思いながら出口で雄介に手を振り、出て行った。


 夕食終えTVを見ている亮介のところに看護師が顔を見せた。昨日の和島という若い看護師だった。

「薮内さん、傷の手当と、あと血液検査のための血液採取お願いしていいですか」

 いやとは言えない。そういえば入院時の血液検査で酵素が出ているようなことを言われた覚えがある。山中をずっと歩いてきたからじゃないかと言われたが、その検査なのだろう。

「はい。お願いします」

 傷は腕に4か所、首に2か所ある。それぞれの包帯を取り傷を確認してワセリンを塗る。それから新たに包帯を巻き、テープで止めた。

「大分よくなってますね」

「そうですか」

「では、血液採取しますね」

 和島が採取する場所を探している。左腕は傷のため、包帯で巻かれている。右腕には点滴がつながれている。

「取れる場所が少ないので、左腕の甲から取りますね」

 注射の刺さる痛みがした。和島は注射器を見ているが、頭を傾げている。失敗したようだ。

「すみません。もう一度お願いします」

 もう一度注射の刺さる痛みがする。もう一度注射器を見るが怪訝な顔をする。またしても失敗したようだ。

 おいおい大丈夫なのか。亮介も心配になる。

 「すみません。先輩呼んできます」恥ずかしそうに顔を赤らめながら、和島は部屋を出て行った。

 その後すぐに代わりの看護師がきた。和島より3つ4つ先輩なのだろう。

「すみません。失敗しちゃったみたいで」

 看護師の申し訳なさそう顔を見ると、怒るわけにもいかない。

「大丈夫ですよ」

「すぐ済みますから」

 手際よく作業を進め血液採取が済んだようだ。さすがに先輩はちがうものだ。

「あの、点滴っていつまで続くんでしょう?」念のため亮介は聞いてみた。

「そうですね、もうすぐ取れるはずですよ」看護師が笑顔を向けながら答えた。

「そうですか。安心しました。どうも動きづらくて」

「早く取れるといいですね」看護師は再び笑顔を見せ、部屋を出て行った。


 今日も消灯になると騒音のようないびきが聞こえ始めた。

 たまらんと思いながらも布団に潜り込む。少しは慣れたのだろうか、それとも心が落ち着いたのだろうか、あの時のいやな光景は蘇っては来ない。思い出が蘇る。

 最初に入った会社では寮生活だった。

 同期の友人と同部屋になったのは3年目だったか。会社の定年を終えて寮に住んでいる、寮の管理人から同部屋の寮の友人のことで警察から電話だと伝えられた。

 何のことかわからず、電話に出ると、その男が近くで暴れているとのことだった。

 急ぎ別の友人と、警察に言われたその場所に自転車で向かった。

 行ったこともないマンションだった。どこにいるのか探すと、マンションの階段に向かって着ていた衣服が一つづつ落ちている。

 靴、ズボン、ジャケット、Yシャツ、右の靴下、そして左の靴下。衣服は階段を登っていく。上を見上げると最上階あたりか、裸の友人がいた。酔っぱらっているのだろう何かを喚いていた。

「ふざけるな」

「俺が悪いんじゃない」

 別の友人とその男を宥めすかし、寮へと帰って行った。昔の祖父を思い出した。

 人間はどこかに限界があるのだろう。あいつは今何してるのかな。面白い奴だったな。

12時頃には眠りについた。


 和島絵里は自分の机に突っ伏していた。

「どうしたの絵里。休憩時間だよ。休憩行こう」同期の木崎恵子が聞いてきた。

「もうだめ私。立ち直れない」絵里は突っ伏したままだ。

「どうしたのさ」

「採血2度も失敗して先輩に頼っちゃった。落ち込むわあ。私センス無いのかな。」

「そんなことあったの。難しかったの?」

「手の甲しか採血する場所がなかったから」

「ああそういうことか。難しいよね。怒られたの?」

「怒られはしなかったけど、恥ずかしかった」

「どの患者さん?」

「薮内さん。一番奥の部屋の」やっと絵里は顔を上げた。

「ああ。やさしそうな患者さんじゃない。私ついたことはないけど、あの部屋で見たことあるよ」

「うん。いい患者さんで良かったよ」

「良かったじゃないでしょ」シフトを確認していた、師長の小池が睨みながら、口を挟んできた。

先ほど、小池には先輩看護師と代わってもらった経緯を説明していた。

「これからは失敗しないようにしないと。今度薮内さんについたら謝っておくようにしなさいよ」

「はーい」やぶへびだと思い絵里は立ち上げり、恵子と休憩所に向かった。

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