Day6

 亮介は朝食を済ませ、昨日吉沢に言われたようにシャワーを浴びることにした。

ナースコールを押すと、スピーカーから声が聞こえてくる。

「どうしましたか?」

「シャワーを浴びたいんですが、大丈夫ですか?」

「そうですね男性は8:30から10:00までです」

「あと、傷の周りをビニールで覆ってもらえますか?」

「わかりました。これから伺います」

「あっ。それと電動シェーバー貸してもらえますか?」

「わかりました。お持ちします」

 数分すると、若い看護師が電動シェーバーを手に持ち部屋に来た。

 名札を見ると和島と書かれている。

「じゃあ、ビニール巻きますね」

 亮介の点滴を取り、腕の傷と首の傷を包み込むように、ビニールを巻いてテープで止める。

「お風呂に入った後にまた、点滴をしに伺いますね。ナースコールで呼んで下さい」

 若い看護師はそう言って電動シェーバーを渡すと出て行った。

 風呂にも一人で自由に入れない自分が情けなくもあった。

 風呂に向かうと、もう既に風呂は済ませたのだろう、先に一人の老人の患者が介護士に世話を受け、着替えているところだった。

 介護士からお手伝いしますかと聞かれたが、大丈夫ですと断った。着替えが終わると、介護士が老人を乗せた車椅子を押して外に出て行った。

 なるべく傷に触れないように体を洗い、シャワーを浴びた。何日ぶりのシャワーだろうか。

 湯船にも手を挙げながら、入浴した。一人でつかる風呂は格別だった。

 風呂からあがり、覆っていたビニールをはずし近くのゴミ箱に放り込む。新しい下着に着替え、入院着を着る。レンタルしている入院着はいつ変えてくれるんだろう。そんなことを考えながら、洗面台でかなり長くなった髭を電動シェーバーで剃った。通常は一般的なシェーバーを使っているのだが、レンタル品しか使えないということで仕方なかった。

 大分すっきりしベッドに戻り、再度ナースコールをすると先ほどの和島という若い看護師が来てくれた。

「傷口は濡れませんでしたか」

「大丈夫です。ありがとうございました」涼介はお礼を言った。

 点滴を再び右腕につけ、電動シェーバーを渡すと看護師は去って行った。

 いつまで点滴し続けなければならないのだろう、邪魔で仕方がない。


 10時頃だろうか、涼介は時間を持て余し点滴のスタンドをひきづりながら、ナースセンター前の食堂に出てみた。数人の患者がテーブルに座りお茶やコーヒーなどを飲んでいた。

 涼介も、自販機で缶コーヒーを買うと、小上がりの座敷に座り、缶コーヒーを飲みながらスマホの電源を入れてみた。着信履歴やLINEポップアップが次々と出てくる。FACEBOOKの更新情報も何度もポップアップが上がった。

 それを全て確認する気にはならなかった。他人の幸せな写真をみるのが辛かった。FACEBOOKもアプリをアンインスールし電源を切った。


 本棚から週刊誌を取りだしぱらぱらとめくっていると後ろから声が聞こえる。

「おにいさん。いやおじさんかな」

 涼介が振り向くと水色のスエットのパンツに黄色のシャツを着た小柄で少しぽっちゃり気味の女性ががスマホを手にしながら話してきた。20代後半だろうか。

「暇してるの?」

「ん?まあそうだね」

「あたしも。お話していい?」

「いいけど、めずらしいな。ここの病棟で患者さんから話しかけられたのは初めてだよ」

「私も話しかけたのはじめてだよ。話しかけられたのはあったけど。ちょっと怖そうな人多いし、なんか首曲がっている人とか、廊下うろついているおじいいちゃんとか.....」

「ああ、それはきっと俺と同室の人だよ。くせはありそうだけど、そんな悪い人じゃないと思うけどね。でも話しかける勇気はないな」

 涼介の向かい側のベッドにいる、たしか宮本とかいう患者のことである。いつも顔だけあさっての方向を向きながら歩いている。何故そうなのかはよく分からないが。廊下をうろついているのは、ごのさんのことだろう。

「それに廊下うろついているのは、ごのさんて言うらしいよ。そんなに悪い人じゃないって師長さんが言ってたよ」

「師長さん?」

「婦長さんのことさ。ほら男も女も看護師って呼ぶようになっただろ。だから師長さん」

「ああ、なるほど。でもごのさんって?変な名前」

「ああそれかい、しのごの言うからごのさんなんだってさ。本当は確か古田さんだったかな」

「あははは。雰囲気的になんか分かる」

「俺は大丈夫なのかい?」

「おじさん普通そうだから」

 普通か、他人からはそう見えるのかもしれない。ただ涼介はこの病棟においても自分自身が最下層、最低の人間に思えてならなかった。未来に不安しかない、ただのおじさんだ。

「おじさん普通そうか。そうかな」苦笑しながら涼介が答えた。

「もう長いのここ?」

「いやそうでもないな。今日で3日目だよ」

「じゃあ、私とそんな変わんないね。私は2日目 」

「それじゃあ俺が1日先輩だ」

「先輩って。そういうのあるの?」屈託なく笑いながらその子が返してきた。

「こんなこと聞いちゃいけないかもしれないけど、君はいくつなの。厭なら言わなくてもいいけど」

「31。でも店では26で通してたけどね」

「店?キャバクラででも働いていたのかい」

「まあそんなところ」

「26でも充分通じるよ」

「ありがとう。うれしい」

 あんまり詮索してはいけないと思い、そのことについてはそれ以上は聞けず、涼介は話を変えた。

「名前はなんて言うんだい?」

「佳奈。山崎佳奈って言うの。かなって可愛くない?」

「そうだね。可愛い名前だね」

「おじさんは名前なんて言うの?」

「亮介。藪内涼介って言うんだよ」

「ふーん。かっこいい名前だね」

「そんなこともないだろ」

「なんか探偵さんみたいな名前」

「そうかな、そんなこと言われたこともないけど」

「何している人?」

「SEだよ」

「えすいー?」

「システムエンジニア。コンピュータの仕事だよ」

「へえ。頭いいんだ」

「そんなことは無いよ」

「結婚してるの?」

 痛いところを突いてくるな。亮介は苦笑しながら答えた。

「バツイチだよ」

「あっ。そうなんだ。わたしも」

「そうなのか」

 あまり深く聞いてはいけないだろう。亮介は話を変えた。

「それより佳奈ちゃん少し聞いていいかな?」

「何?」

「食事って食堂でとってるかい?それとも自分のベッドかい?」

「ベッドだね。なんか食堂でとっている人たちの中に入りずらくて」

「だよな。一緒だ。それにこの邪魔な点滴もあるし」

「そうだね。じゃあ、今度一緒に食べようよ」

「そうだな。たまには一緒に食べようか」

「食べよう。食べよう」


 こんな普通に思える女の子が、この病棟にいるのか。涼介は少し戸惑った。何故ここにいるのかはわからないが、さし障りのない話をしながら涼介は時間を過ごし、心の和らぎを感じた。

 そういえば家族や病院関係者以外で話すのは久しぶりだな。

 部屋に戻ると、奥のベッドのカーテン越しに二人の人影が見える。


 自分の隣のベッドだ。会話も聞こえてきた。夫婦だろうか奥さんと思われる人が、かいがいしく世話をしている様子が窺われる。

「どう、うちとは違うからいろいろと大変かもしれないけど」

「うん。やっぱりうちはいいなあ」

 吉沢が言っていた週末退院で自宅から帰ってきたのだろう。

「でもあなた、うちに帰ったらまた昼間からお酒飲んじゃうでしょ」

「そうだな。そうかもしれない。でもやっぱりうちはいいなあ」

「先生ももう少し頑張れば、退院できるって言ってたから」

アルコール中毒なのだろうか。男というものは弱い生き物だ。何かにすがってしか生きて行けないんじゃないだろうか。仕事、地位、金、女、酒、ギャンブル、薬。

 男は放出することでしか満足できない。放出できないものを、内に溜め、溜め込んだものが消えてなくなればいい。それができない。溜め込むことに限界があるのじゃないだろうか。全てを投げ出したい衝動があるんじゃないのか。

 そんな弱い人間が国を治める。だから色々起きるんじゃないのか。汚職、クーデーター、テロ、そして戦争。

 そんな人間達が原爆のスイッチを握る。当たり前だが俺に総理大臣なんてできないな。簡単に自分がぶっ壊れてしまう。

 911。2001年、あの年ニューヨークにいた。あのビルにいた。ワールドトレーディングセンタービルに。

 テロの半年前だった。

 半年後、そんなことが起こるとはまるで思えなかった。

 ニューヨークの人たちは優しかった。こんな分けのわからない日本人にも。

 国籍という意識がないように感じた。人種の坩堝だからかもしれない。みんながニューヨークを目指すから。

 あの時見たTVの光景は。みんな走っていた。逃げまどっていた。煤まみれになりながら。

 多分何も考えず皆走っていた。自分の命を守るために、家族の元にたどり着くために。何故そこまでになり得るのだろうか。一般市民が。政治とも関係のない一般市民が巻き込まれることに。

 男達が起こした犯行だ。宗教とかは良くわからない。でも人間同士の話だ。何故、普通に一生懸命生きている人間を巻き込むのだろう。それを超えるほど、それほど憎かったのだろうか。

 男たちが様々な歴史を作り、そして壊してきた。

 様々な技術が生み出されてきたが、人間は幸せになっているのだろうか。幸せに向かっているのだろうか。

 女という生き物はどうして強く生きれるのだろう。

 分かってはいるが女には任せられない。下らないプライドが邪魔をする。


 亮介は聞こえてくる二人の会話に離婚した妻のことを思い出した。そして少し羨ましく思えた。

 結婚したのはもう10年以上も前のことだ。

 7年付き合っての結婚だった。付き合い出した頃勤めていた会社の取引先の社長の娘だった。

 縁故採用だったのだろうか、同じ会社に勤めていた。

 なんとなく呑みに誘ったのが始まりだった。呑みに誘うということは亮介にも好意があったのだろう。

 亮の妻は次女なこともあり、義父の会社に別段魅力もなかった。

 自分はサラリーマンで生きていくものだと思っていた。

 その後会社は変わったが、サラリーマンで生きていくのが当たり前だと思っていた。

 その時の仕事もやりがいのある仕事だった。辞める気はさらさら無かった。

 結婚する前に、結婚の挨拶のあとだったか2人になった時妻は言った。

「亮ちゃん。お父さんの会社に来ればいいじゃない」

「いや、それは無理。入る気はない」

 その会社は販売会社だった。営業系の仕事をしたこともあったが、技術職で生きた来た自分が役に立つとは思えなかった。

 妻は黙っていた。

それから結婚後しばらくすると亮介の会社で地方の部署を東京に統合することになった。

 その時、義父からいい会社だからうちに来いと誘われた。やってもらうことはたくさんあると。妻は父親を尊敬していた。妻もそのころは父親の会社で手伝っていたから東京に行くとしたら単身赴任になる。妻も父親の会社に入るのがいいと言ってくる。

 亮介自身Uターンしてきた身である。一人で暮らす母親のこともある。仕事は好きだが、今更東京で働くのには抵抗がある。定年まで帰ってこれないかもしれない。いや戻れないと考えたほうがいいだろう。

 結局義父の会社に入ることになった。

 会社を辞め、有給休暇消化で自宅アパートにいたころ妻が言ってきた。

「うちのお父さん、ずるしてるんだよ」

 何でも本来メーカーから決められるユーザー請求に上乗せして請求している顧客があるという。ばれないような顧客に限って上乗せ請求しているとのことだ。

「それって詐欺じゃないのか」亮介はいらついた。

 前の会社を辞めてから、今更教えることなのだろうか。そんな会社で働かなければいけないのか。

 入社はしたが、そんないやな気持もあり朝令暮改の義父にあわせることはできなかった。

 結局、1年半ほど働いて辞めた。

 妻は二人姉妹である。跡取りと呼べる人間がいない。後あと聞くとやはり跡取りがいるといないでは銀行受けも違うらしい。

 それから2年ほど別居した。

 別居中に時々は会ったこともあった。

「お父さんが会社に帰ってこないのかって言ってたよ」

「いや、それは無理だ」亮介は妻に返した。

 それからだ、妻から離婚届が送られてきたのは。

 当人同士の問題で離婚したわけではないのが悔しかった。

 俺は利用されただけなのだろうか。

 あの時も母親から罵倒されたな。こっちがぼろぼろの精神状態なのに。

 そうあの頃から既に精神状態はバランスを失い始めていたのかもしれない。

 8年ほど前のことだ。

 別居している時には不倫もした。

 行きつけのスナックで働いている女だった。

 9つほど亮介より若い女だった。昼間は整体師をしていた。

 昼間の職場に整体してもらいにも行ったな。色々整体の方法も教えてもらったっけ。

 あれは妻を裏切っていることになるのだろうか。出ていけと言ったのは妻の方だ。

 何もなくなった俺は、あいつにすがっていたのかもしれない。

 沖縄にも一緒に行ったな。大好きなところだ沖縄は。

 みんながゆっくり人生を楽しんでいるように感じる。

 あくせくしていない。

 結局2年ほどで別れたが。


「あなた、隠れてお酒飲んじゃいけないよ」隣のベッドから声が聞こえてくる。奥さんのようだ。

「わかっているよ。うるさいな。ここじゃそんなことできないだろ」

「あなたのことだからわからないわ。看護師さんにもしっかり監視してもらうように言っておくから」

「わかってるよ」

「それじゃまた来るからね」

 奥さんが帰っていったようだった。

 声の様子からすると二人とも亮介より年上のようだった。


 山崎佳奈の元には両親が二人の幼子を連れて見舞いに訪ずれた。

「翔ちゃん」入口のドアできょろきょろしている翔をカーテンの隙間からみつけて、佳奈が叫んだ。

「どこ?」翔が尋ねる。

「ここよ」佳奈がカーテンを開けた。

 佳奈の顔を見つけた翔が勢いよく佳奈のもとに走りかけてきた。

 佳奈は翔を抱きかかえた。涙があふれてくる。

 茜は母の押すベビーカーで眠り込んでいた。茜の寝顔をのぞき込む。

「ごめんね。お母さんばかで」

「どうして泣いているの。おかあさん」翔が問いかける。

「うれしいの。翔とも茜とも会えて」

「ぼくもうれしいよ」

 佳奈はベビーカーから茜を抱きかかえた。

 茜も目を覚ましたようだ、

「傷はどうなの」母が聞いた。」

「だいぶ良くなったんだよ。それほど深くはなかったみたい」

「本当にお前ってやつは」父が口を挟んだ。

「怒ってない?」佳奈は上目づかいで心配そうに父を見た。

 翔が佳奈のベッドに乗り込み、遊んでいる。

「怒ってるさ。だけど娘の命を心配するのはあたりまえだろ」

「反省してます」

「店はどうなったんだ」佳奈の顔が曇った。

「昨日電話した」

「なんだって」

「迷惑かけたのを謝ったのと、辞めさしてほしいって」

「それで」

「辞めていいって。利息もいらないって言ってくれた」

「そうか」

 それを聞いて両親は安心したようだった。

「ほら」父親が上着の胸ポケットから紙袋を取り出し、佳奈の前に差し出した。

 佳奈は受け取ると中を覗き見た。お金が入っていた。

「ごめんね」

「一人で抱え込むな」

「ありがとう」

 それから30分ほどじゃれついてくる翔と遊びながら、母親の小言を聞いた。

 茜はベビーカーでそれを見て笑っている。

 両親の声は上の空だった。子供たちと遊ぶことがうれしくてしかたがなかった。

「おばあちゃん。おかあさんいじめないで」翔が佳奈を庇った。

「いじめてるんじゃないのよ。もう言わないからね翔ちゃん」母も孫には弱い。

「また時間が取れたら来るからね」

 母親がそう言うと、帰るのをいやがる翔と茜をなだめ、4人は帰っていった。


 佳奈は父親からの紙袋の中身を確認してみた。

 40万円とメモが入っていた。

佳奈へ

お父さん達も年金暮らしでそれほどの蓄えは無い。

お前も知っているから、お父さん達にも言えなかったんだろう。

頼りない親で申し訳ないが、家族なんだから甘えなさい。

佳奈の命以上に必要なものなんて何もいらないんだ。

和幸君とのことで迷惑をかけたと前に言っていたが、そんなことはもう忘れなさい。

負い目を感じる必要なんてないんだ。

翔と茜を残してくれんたんだ。

それだけでも私達は喜んでいるんだぞ。

今回のことももう忘れなさい。

事故にでもあったと思えばいい。

翔と茜と佳奈と父さん母さんで助け合って生きていこう。

翔と茜は母さんと父さんが責任持って面倒見るから、休暇を与えられたのだと思ってゆっくり治しなさい。

入院費もいれて40万入れておいた。

足りなかったら、お母さんにまた言いなさい。


照れ屋な父親が口では言いづらくメモに書いたのだろう。

佳奈は溢れる涙が止まらなかった。




 亮介の部屋では、3時ごろにはまた、ごのさんが部屋に顔を出し「ごはんだよ」と話しかけてくる。

部屋の中をきょろきょろのぞき込みながら誰も相手をしないとすごすごと廊下を戻って行った。

 夕方、空いている1つのベッドに男が入ってきた。週末退院から戻ってきたのだろう。

 髪の毛を後ろでまとめた一風変わった男だった。

 黒のナイキのジャージの上下を着て、黒縁の眼鏡をかけていた。

 カーテンを開けたまま荷開けをしているのが亮介のカーテンの隙間から窺えた。

 多くの書籍を取り出している。

「あら、甲斐さん。お帰りなさい」

 丁度入ってきた師長が、窓のカーテンを閉めながら気軽に話かけた。

「どうも。また戻ってきました。宜しくお願いします」

「こちらこそ宜しくね。家はどうだった?」

「まあ、本をとりに帰ったようなもので」

「本が好きなのねえ」

 もう長い入院なのだろうか。独り者なのか。

 話し方からみても師長とは親しそうに思えた。

 荷開けを終えると、外に出て行った。

 6時になると、夕食のアナウンスが流れ、食堂に出ると偶然佳奈と一緒になった。

「おお、佳奈ちゃん。偶然だね、一緒に食べるかい」

「そうだね。一緒に食べたい」佳奈の目は少し赤かった。

 二人は窓際の奥のテーブルに夕食のトレイを置き、椅子に腰を下ろした。涼介の点滴スタンドが他人の邪魔にならないようになるべく端のテーブルを選んだ。

「どうかしたのかい」佳奈の目が少し赤い事を気にして、亮介が聞いてみた。

「家族が今日お見舞いに来てくれたの」

「そうか。良かったね」

「うん。嬉しくて」

 今日は優も香も来なかった。月曜なので二人とも仕事がある。忙しいのだろう。友人に精神科に入院しているから見舞いに来てとはさすがに言えない。特に何も感じてはいなかったが、佳奈の話を聞いて少し羨ましくなった。

「今日もごのさん部屋に来たよ。そっちの部屋には行くのかい?」

「いや見ないよ。やっぱり女性部屋は来れないんじゃないの」

「そういうことか。看護師さんから言われてるのかな」

「今度話しかけてみたら?意外と友達になっちゃたりして」

「あんまり勇気ないけどな。機会があればね」

「あんまりここの人達は他人に関わらないみたいだね」

「それは感じるね。部屋の人達とも話したことないよ。今までは他に一人しかいなかったけど」

「そうなんだ。新しい人が入ってきたの?」

「いや、週末退院って言って土・日は家に戻るらしい。それで二人今日帰ってきた」

「そんなシステムあるんだ。私も戻りたい」

「それより早く退院したほうがいいだろ」

「それもそうだね」

 食事を終え、佳奈は亮介と逆方向の部屋に戻って行った。

 男性と女性で部屋の配置は分けられているのだろう。

 9時の消灯まで亮介はTVを見ながら過ごした。

 9時になり歯を磨き、薬を服用し、ベッドに横になった。

 向かいと横の患者からいびきが聞こえだした。

 今ではあまり気にはならなかったが、二人ともとなるとやはり気になる。

 特に今日戻った隣の男のいびきがひどい。時間が増すごとにひどくなってくる。

 1時間ほど目を瞑っても眠れない。

 丁度良く点滴を交換しに男性の看護師が入ってきた。

「点滴交換しますね」

「お願いします」

「眠れませんか?」手を動かしながら聞いてくる。

「隣のいびきがうるさくて」

「ちょっとひどいですね」ちょっとどころじゃない。

 看護師は手を休め、隣のベッドに出向いた。体をゆすりでもしたのか、いくらか、いびきは小さくなった。

 看護師が戻り点滴を交換し終えると戻って行った。

 それから隣の男のいびきはまたひどくなった。

 眼を瞑るが、なかなか寝付けない。

 いやな記憶がまた蘇ってくる。鬱蒼とした林の中。そして高校の頃が蘇ってきた。

 万引き行為をしたのは高校の頃だった。工業高校に入学していた。母親から手に職をつけろと進められてだった。大学に行かせる金はないと中学に入ると言われた。

 自分に理系のセンスが無いことは自分でも分かっていたが、大学に行けないのであれば手に職をつけるしかなかった。

 高校では陸上部に所属していた。最後にはそこそこの成績を残していたはずだ。

 別に不良グループに属していたわけではない。ただシーズンオフは暇だった。

 亮介は友人とバイトなどをしていたが、友人の中には万引きを繰り返すものもいた。

 万引きしてきた物を学校で安く売るのである。

 中には革ジャンをハンガーがついたまま着こんで店から出てくるなんて奴もいた。

たまに一緒になった時にやってしまった。

 盗ったのはクリームソーダの黒い財布だったろうか。

 別に欲しかったわけではない。仲間はずれになるのが怖かった。ただそれだけだったはずである。

 煙草を吸い始めたのもその頃だった。シーズンオフだけだったが。

 化学科の奴にはクロロホルムを実験室から盗んできて、女に嗅がすとか言ってた奴もいたな。亮介は電気科だった。

 結局、学生鞄に入れてて蒸発させちゃったんだっけか。

 一体何だったんだろうな。意気地なしが。

 結局眠りについたのは4時頃だろうか。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る