Day5
朝8時になると朝食の院内放送が聞こえる。だがいつまで経っても朝食が運ばれては来ない。すると昨日のたぶん調理士だろうか女性ががカーテンから顔を出した。
「藪内さん、食堂に朝食できてますよ」と伝えてきた。
持ってきてくれるのは最初だけらしい。なら、始めから言ってくれればいいのに....呟きながらも点滴のスタンドを抱え食堂に向かった。
あまり人に構わないのがルールなのだろうか。
食堂のテーブルでも多くの人が食事をしている。あまり会話は聞こえなかったが、自分の席は大体決まっているのだろう。他の人と同じテーブルで食事をする気分でもなかった涼介はワゴンから自分の名前の朝食を引き出し、それを持ち帰り自分のベッドで食事を済ませた。
今日も奥の2つのベッドからは人気が感じられない。奥の二つは空きベッドなのだろうか、それにしてはカーテンが閉まっているが。
涼介はベッドに横になり、TVの電源を入れ、イヤホンを耳にした。
退屈で暇な一日が始まる。煙草でも吸いに行きたいが、さすがにここではそうもいかない。全面禁煙のはずである。煙草も手元にはない。それにこのフロアーからは出られない。
山崎佳奈はスマホを取り出し、LINEにメッセージを打っていた。
”すみません。いろいろあって入院してしまいました。会えるのは来週ぐらいになってしまいます”
メッセージを山本宛てに送信した。
すると、すぐメッセージが返信されてきた。
"どうしたの?大丈夫?"
"ありがとう。大丈夫です”メッセージを返信した。
”わかった。来週でいいよ。またLINEして"
そこへカーテンが開き、母親が顔を出した。
「どうしたの一体。深夜の病院からの電話には驚いたのなんのって」母が立ったまま眉間に皺を寄せ、険しい表情をしながら聞いて来た。
「もう我慢ができなくなっちゃって」
「まあ、昼間あんなこともあったしね」
佳奈はベッドから降り、部屋の片隅に置いてあるパイプ椅子を持ってくると、ベッドの脇に広げ置いた。母親が座り込んだ。
「子供たちはどうしてる?」
「今日はおじいちゃんが見ていてくれてる」
「入院したことは言ったの?」
「そりゃ言うわよ。10日ぐらい病院に入院したからいなくなるって」
「泣かなかった?」
「翔は泣いたけど、茜はまだよくわからないみたいね。でも家を出るときは静かに遊んでたよ」
「連れてこれないかなあ」
「会いたいの?」
「うん。めっちゃ会いたい」
「あなたの方が小さな子供みたいね。明日おじいちゃんが時間取れたら二人で連れてくるよ」
老母一人で二人の幼子を連れてくるのは到底無理だ。ここまで、電車とバスを乗り継いでやっと来たぐらいだ。父親の軽乗用車でなら連れて来れる。
「ありがとう。夜には電話いれるね」
「それより、昨日のお金どうしたの」
「友達に借りた」
「そんなの私達が貸してあげるから、返しちゃいなさい」
「ありがとう」
「店はどうするの」
「もちろん辞めるよ」
「辞めさしてくれるのかい。利息がどうのとか言ってたじゃない」
「電話してみるよ」
「大丈夫なのかい。警察にお願いしたほうがいいんじゃないのかい」
「多分大丈夫だと思う。ほんとにごめんね、親不孝な娘で」
「はいよ。ゆっくりと治しな。着替えとか必要品持ってきたからここに置いとくよ」
母は立ち上がり、パイプ椅子を元の場所に置くと帰っていった。
亮介の部屋に吉沢医師が顔を見せた。亮介はイヤホンをはずしTVのスイッチを切った。
「どうですか。よく眠れましたか?」吉沢が笑顔で声をかけた。
「いや、結局寝付いたのは2時ごろでしょうか。眠剤も頂いたんですが」
「初日ですからね。まだ慣れていないこともあったんでしょう」
「それもあったんですが、深夜に叫び声が聞こえたりして」
「ああ、深夜に入院患者があったって聞きました」
「毎日あんなことがあるのでしょうか」
「いやいや、昨日は特別ですよ」
「そうなんですか。少しは安心しました」
吉沢は穏やかな笑みを返した。
「そういえば、奥の2台のベッドは空きなんですか?」亮介は気になっていた奥の2人について聞いてみた。
「いや、全部埋まってますよ。週末退院で今はいないだけなんです」
「週末退院ですか?」
「ええ。大分体調が戻られた患者さんで希望があればが土・日はご自宅に戻るんです」
「なるほど、そういうことですか」
「他には心配事ありますか」
「シャワーとかは浴びれないんでしょうか」
「傷をビニールで覆えば大丈夫ですよ。時間は決められていますが、共同のお風呂があるんで。今日は日曜日なので明日から入れると思います。入る前に傷を覆うように看護師にお願いしてください。」
そうか今日は日曜か。曜日の感覚が無くなっていた。
「わかりました。ありがとうございます」
「なにかあったら看護師に何でも聞いてくださいね。この後形成の先生が来て傷の手当しますね」
どうしても事務的に聞こえてしまう。腹を割らないのは自分のほうなんだろうか。
吉沢と入れ違いで形成外科の医師と看護師が顔を出し、腕と首の傷の手当をして去っていった。
傷跡の包帯を取り、ワセリンを塗り、新たに包帯を巻く。簡単なものだ。
腕の傷は切ってから2日程経ってから病院に来たため、細菌が入っている恐れがあるため縫うことはできないとのことだった。
傷跡にワセリンは塗るが、自然治癒に任せるらしい。生きている限り傷跡は消えることはないのだろう。
昼食も済ませ、少しうとうとしていた午後3時頃だろうか、廊下から声が聞こえる。
「ごはんだよ」
なんだ?部屋の入り口を見ると、見知らぬ老人が部屋のドアから顔を出し、また「ごはんだよ」と話してくる。白髪まじりの頭髪が短い小柄な男だ。
「何言ってるの、ごのさん。まだ夕食の時間じゃありませんよ。部屋に戻ってください。」
向かいの患者のベッドに来ていた看護師が老人を窘めた。そういえば先ほどナースコールで看護師を呼んでいた。頻繁にナースコールをする男だ。それほど用があるのだろうか。
ごのさんというのだろうか、老人は看護師と目があうと気恥ずかしそうにすごすごと廊下を戻って行った。
看護師が今度は涼介のベッドに来て手慣れた様子で点滴の交換を始めた。看護師から師長さんと呼ばれている女性だ。師長さんとは聞き慣れないが昔でいう婦長さんのことだろう。そうか看護婦から看護師に変わったから師長さんなのか。入院したのは小学生以来だろうか、あの頃はまだ看護婦さんだった。
「ごのさんて言うんですか?あの老人」亮介は聞いてみた。
「ああ、古田さんのこと。しのごの言うからみんなからごのさんて呼ばれてるの。確かうちの若い看護師がつけたんだっけ」
「歳はおいくつの方なんですか」
「たしか65ぐらいだったかなあ」
「なるほど。面白い人ですね」
「たまに来るかもしれないけど、悪気はないから。許してあげてね」
看護師は笑顔でそう言い、点滴を交換し終えると去っていった。
夕方になると、香が顔を出した。
「着替えの下着持ってきたよ」
「ありがとう。いろいろとごめん」
「大丈夫だよ。電動シェーバーも買ってきたんだけど、個人で持ってちゃだめなんだってさ。自殺防止のためだって。あんなのでどうやってやるのって思ったけどね。ナースセンターにレンタル品があるから、それ借りてだって。人が使ったのなんて使いたくないよね」
「まあ仕方ないよ」
「ほかに何かほしいものある?」
「特にはないよ。お袋さんはどうしてる」
母親は高齢なことと足が痛いということもあるのだろう、病院には未だ顔を出していなかった。
「大丈夫元気にしてるよ。でも...」
「でもどうしたの?」
「うーん。ちょっと妄想というか、まわりのみんなから仲間はずれにされてるみたいに感じちゃってるみたいで、ほら3軒先の正夫さんのうちに”仲間はずれにしてくれるな”ってお願いに行っちゃったみたい」
正夫さんとは、区の名士のような存在だった。
「仲間はずれにしてくれるなって?」
「うん」
自分の事も影響しているのだろう、孤独感を味わっているのだろうか。涼介は胸が痛くなった。
「でも大丈夫だよ。私、後から正夫さんのとこにちょっと老人性のうつで心配性になってるだけだって説明しといたから。母さんも逆に正夫さんに言ったことでほっとしたみたいだったよ。それに病院にも私が連れていってるから」
家の近くの病院で通院治療を受けているとのことだ。
「ごめん。それと警察にも行ってくれたんだってね」
優から、捜索に出た警察の後処理の聴取のため、香が行ったことを聞かされていた。
「ああ。旦那と一緒に行ってきたよ。まあちょっと緊張したけどね」
「俺は行かなくてもいいの?」
「犯罪じゃないんだから、必要ないよ。もう終わった」
「そうなんだ。ほんとにごめん」
自分を殺そうとしたことは犯罪ではないのか。自分では犯罪を犯したような気持である。いっそ逮捕されたほうが気が休まるんではないのか。
亮介が山から下りてきたとき、何度も交番のまえを通った。とことん疲れて交番に助けを請いたい気持ちには何度もなった。だが入れなかった。犯罪者のように追われている気持だった。
「車も引き取ってきてくれたんだ」
「そうそう、旦那がね、やってくれたよ。マンションの駐車場に置いてあるよ」
「脱輪してたし、出せなかったでしょ」
「レッカー頼んだだよ」
「たかかったんでしょ」
「いや、会員証があったから安く済んだみたい」
「シートは血だらけ?」
「みたいだね。でもタオル掛けておいたって。あの車、もう変えたら?動きも変だって言ってたよ」
「そんな金ないよ。個人事業主にそんなに簡単に金貸してもらえないし」
「まあ、退院してからいろいろ考えればいいよ。涼介はまず自分の治療に専念すればいいから」
「ありがとう」
「またなにか必要なものあったら、電話してくれていいからね」
香は帰っていった。
香からの1本の電話があったのは去年の秋の確か土曜の夕刻だった。
「母さんが車に轢かれたって」
「えっ」涼介は言葉を失った。
「でも、命には別条無いから。私今病院にいるんだけど、自転車で横断歩道を渡ってたところを女性の車に轢かれて救急車で運ばれたみたい」
足を骨折し、腕に怪我をしたが、他は大丈夫とのことだ。車のボンネットに打ちつけられ道路に落ち、気を失ったまま救急車で病院に運ばれたようだ。女性の不注意のようだ。
その日は面会時刻も過ぎていたため、涼介は翌日病院に顔を出し、元気に同室の患者さんたちと会話をしている母親を見て安心した。
一月ほどで退院もした。だが、それからは疲れやすくなったのだろうか塞ぎがちになった。自信を失っているのだろうか、弱気なことも言うようになった。
今の案件が終わったら、もう東京の仕事は受けるべきではないな。なるべく母親のそばにいよう。だがこっちに仕事はあるのだろうか。涼介は不安が募った。
今年に入って案件が終わると、戻ってきたが中々仕事はみつからなかった。
なるべく毎週母のところには顔を出すようにはしていたが、仕事がないことを薄々感じていたのかもしれない。自分を見て母親も不安になってきたのか、言葉はきつくなっていった。
「私の育て方が悪かったんだ」
この歳になって育て方もくそもない。けれどそんな言葉や母の姿が辛かった。
今日は消灯の9時には歯を磨き、眠剤を飲むと、割と早く眠りにつくことができた。
吉沢礼子は、一日の仕事を終え自宅に戻った。もう夜11時を過ぎていた。夕食は病院の食堂で済ませてきた。
室内着に着替え、ソファに寝そべると心身ともに一日の疲れがどっと押し寄せてくる。
それでも仕方なく風呂に向かった。風呂から出ると、冷蔵庫から缶ビールを出し、プルトップを空け一気に口元に流し込む。
礼子はなるべく当たり障りのない言葉で患者に接しようと心がけていた。
精神医になってまだ数年の20代の頃には精神のバランスを崩したことがある。先輩から患者と一線引いて診療しないと自分が巻き込まれてしまうとアドバイスを受けた。それ以来なんとかバランスを押しとどめていた。
この頃は新しく始まるマイナンバー制度の話ばかりだ。老人性うつ病の患者が多いが、老人性うつでは細かいこと全てが心配になる。新しく始まるマイナンバーが心配で心配でしょうがないらしい。
礼子でさえ、マイナンバーなんてどこが便利になるのかよくわからない。国が管理するのが楽になるだけであって国民にメリットなんてまるでないじゃないか。そんなことに多額の税金が使われるのか。
おじいちゃん、おばあちゃんにとってみたら一体どうなってしまうのか、普通の生活ができるのか心配でしょうがないのだろう。
「心配しなくてもだいじょうぶですよー」と言ってみても納得してくれる患者もいるが、食いついて聞いてくる患者もいる。
「そんなことこっちに聞かれてもわからないわよ」とはさすがに言えない、
ただでさせ、情報漏洩や詐欺まがいの行為まで出てるのに末端の老人や私達までなんで巻き込まれなければならいんだろう。悪政以外のなにものでもないんじゃないか。
そういえば、この前外来の患者さんから、先生のストレス解消法ってなんですかって聞かれたな。答えに困って外食やショッピングですかねと適当に答えておいた。
医師になってから解消法と呼べるようなものはない。
山にでも登ってみたいなあ、これから紅葉の季節も近づくしきれいだろうなあと思う。礼子は、高校時代山岳部にいたことがある。それほど多くの山に登ったわけではないのだが、登頂時の爽快感は何物にも代えられないものがあった。
あの患者さんもいろいろ溜め込んじゃったんだろうな。確かOA機器の営業をやっていたがノルマのストレスで、自分で会社の商品を買い続けて家はOA機器だらけになっちゃったらしかったな。空売りとか言ったっけ。ついにお金が払えなくなって会社に言ったら、倉庫係に異動させられて今では早期退職勧告を受けて毎日DMのラベルを張る仕事をさせられているって言っていた。
逆の立場の患者さんもいたな。一流企業の人事部で早期退職勧告を社員に告げる立場の課長さんだった。社員からの目に耐えられないと言っていた。
会社に悪意はあるのだろうか?全てを救ってあげることは私にはできない。私が聞いてあげることであの人達は少しは救われているんだろうか。
TVを点けると新幹線で焼身自殺した老人のニュースが流れている。巻き込まれた女性が一人死亡したと伝えている。年金が少なくての生活苦を気にしての犯行で、焼身自殺をする前には、見知らぬ老婦人に飴をあげようとして拒否されたとのことだ。
やったことは卑劣だが、この人も誰かに話を聞いてほしかっただけじゃないのか。やるせなくなりTVを消した。
だめだだめだ、そんなこと考えていたらこっちがおかしくなっちゃう。一線を引かないと。
礼子は呟き、学生時代の友人に処方してもらった軽度の精神安定剤と眠剤を飲むとベッドに横になった。
「もっと強い薬にしてもらったほうがいいかもしれない」また一言呟き、眠りについた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます