Day4

 涼介は温泉施設から4時間程は歩いただろうか、やっとの思いで自宅にたどりついた。途中、橋から飛び降りたい気持ちも擡げたが、やはりできなかった。

 部屋には優と香、義兄の貴がいた。大家に合い鍵で開けてもらったらしい。

 貴が涙を浮かべながら、言った。

「何をやっているんだ。........ただ戻ってきてくれて本当によかった」貴は亮介の頭を引き寄せ、抱いた。

 優や香は簡単な食事を近くのコンビニから買ってきてくれた。時計を見ると、朝4時になっていた。

「食事したら病院行くよ。警察にはこっちで連絡しとくから」香が腕や首の傷を濡れたタオルで拭きながら言う。

 香の車に亮介、優、貴と乗り込み、香の運転で病院に向かった。亮介の家からは車で10分ほどである。

 救急入口から病棟に入ると、せわしなく医師や看護師が動き回り患者の世話をしていた。病棟の明るさが亮介にはまぶしかった。救急病棟を備え、建物はかなりの年数を経過していると思われるが病院自体の歴史も古く、地区の中でも大きな総合病院である。

 救急外来で涼介はベッドに横たわり腕や首の治療を受け、左腕には点滴をつけられた。

 血圧を計った看護師が怪訝な表情を向けて寄こした。血圧は220にもなっていた。

 腕や首の傷を手当され、担当の救命医は状況を聞きながら事務的に淡々とパソコンに入力していく。

「何で切ったの?」

「...カッターです」

「切ったのは腕だけ?」

「腕と首です」医師は亮介の方を向き、腕と首の傷を確認する。

「いつ?」

「2日ほど前でしょうか」

「ならすぐには縫えないね。細菌が入っている可能性もあるし。他には?」

「首をくくりました」

「何で?」

「ビニールロープです」

「そう」

 こちらをじっくり見るふうでもない。毎日こんなことは日常茶飯事に起きているのだろうか。

 周りには多くの患者や看護師、医師が働いている。そんな中でいい歳をしてバカな事をしでかした無様な姿を他の人間に見られ、内容を聞かれていると思うといたたまれない。

 腕の傷の処置を終えると、2階に車椅子で点滴ごと運ばれ、空きベッドに横になった。

「このまま入院したほうがいいでしょ」優が亮介に言った。

「帰れるんなら、帰りたいけど」亮介は自分の部屋でぐっすり眠りたかった。

「いやいやいや。私達も心配だから」

 それもそうだろ、こんなことを引き起こしちゃったんだから。

「分かった」亮介は優に答えた。

 実際には救命医に勧められ、香が承諾したらしい。

「それじゃあ、また後で着替えとか必要なもの持ってくるから」香が亮介に笑顔で言った。

 優達は帰っていった。そうか今日は土曜日だ、みんな休みなのか。申し訳ない気持ちでいっぱいになった。あきらめと疲れもありそのまま眠りについた。

 起きたのは午後3時頃だろうか。起きて間もなくして一人の女性が現れた。白衣を来ているので医師なのだろう。

 精神科医師の吉沢と彼女は名乗った。歳は30後半ぐらいだろうか、年相応な落ち着きを持つ穏やかそうな笑顔を見せた。

「藪内涼介さんで宜しいですね。落ち着きましたか?」

「なんとか」

「ここから精神科病棟に移ってもらうことになります。移ってから詳しくお話聞かせてもらいますね」

 "精神科病棟"の言葉が強くのしかかる。

 優が時間を聞いていたのだろうか、紙袋を持って顔を出した。

 優は吉沢に会釈した。吉沢も優に会釈する。

 涼介は救急外来からエレベーターで7階の精神科病棟に看護師に車椅子で運ばれた。吉沢と優もそのあとを続いた。

 精神科に入院するなんてことは、これまで全く考えたこともなかった――。いや違う、本当は10年ほど前の離婚当時かそれ以前から精神の病に侵されていたんじゃないのか。下らないプライドが邪魔をして、自分でそれを認めたくなくて押さえこんでいただけだったんじゃないのか。どす黒い澱みを垂れ流し溜め続け、澱みの中でもがき苦しんだだけじゃなかったのか。見栄っ張りの自己満足なあほ野郎なんだ。

 エレベーターホールで、出入り口のドアで看護師がカードキーを入れる。自由には出入りはできないようだ。

 病棟内に入ると、クリーム色の明るい壁、白い廊下。建物自体は古いのだが改装もしているのだろう、病院だから当たり前なのかしれないが明るく清潔感のある病棟だった。他の病棟と一緒だ。イメージが違う。亮介のイメージでは灰色のイメージだった。ただその明るさが亮介の瞳の奥に痛みを感じた。

 左手に進み、ナースセンターの前を過ぎると、ロビーのような一角に患者さん達なのだろう、数人の人たちが銘々に本を読んだり、コーヒーを飲んだりしている。

 廊下を進み、突き当りの右手の病室が亮介の部屋だった。4人部屋の入って左の、廊下側の一角が涼介のスペースである。

 全ての区画は薄いベージュのカーテンで閉じられていた。どんな人がいるかもわからない。会話も無く、看護師も他の人のことには触れない。

 精神科とはそんなものなのだろうか。

 病院からレンタルした入院着に着替え、ベッドに入ると看護師にベルトを取り上げられた。自殺予防のための没収らしい。売店など別のフロアへの退出も禁止とのことだった。所謂軟禁状態の生活が始まった。

 吉沢と看護師から必要事項の説明を終え、考える間もなく、何かやたらと書類にサインをさせられる。まあ何かあっても病院の責任じゃありませんよということだと思う。サインした書類を持ってさっさと吉沢と看護師は退出した。

「とりあえず、下着と洗面用具は用意してきたから。あとは何が必要かな?」

 優が紙袋の中から下着を取り出し、脇の引き出しに納める。

「ごめんな、優。迷惑かけちゃって」

「大変だったんだよ。車のシートの血を見るまでは全くそんなことしてるとは思ってなかったけどね。それからお姉ちゃん達と警察呼んで、警察犬まで出動して大捜索だったんだから」

「本当にか?」

 警察犬2頭が出動したらしい。もし昨日の夜LINEを送信していなければ、今日も引き続き朝から捜索を始める予定だったという。ということは俺は警察犬までまいたということなのか。

「ねえ死にたかったの?」窓際から持ってきたパイプ椅子広げ、座りながら優が尋ねた。

「どうなんだろうな、死にたかったというよりは消えたかった。全てから解放されたかった。いや、逃げたかったんだろうな」

「どうして?」

「もうこの世界に飽きたのかもしれないし、いやになったのかな。今の世の中に適応できない自分が厭になったのが正しいのかな。それに今の俺の歳には竜馬も太宰も三島も松田優作だって生きてやしないんだぜ。これ以上生きていくイメージがわかないんだよ」

「は?何それ。誰もそんなイメージもってないじゃん」

「まあそうなんだろうな、仕事も家族関係もうまく行ってるときはそんなイメージなんかなくても生きていけると思うけど。お袋のこともあるから、なんとか自分の仕事ができて少しでもお袋のそばにいられるようにしてきたけど、それがいやだったんじゃないかな、お袋は。今年に入ってもうこの家に帰ってくるなとか、育て方が悪かったとかいろいろ言われてたよ。東京に行っての仕事はもうできないしやるつもりもない。いい歳だしこっちで俺ができる仕事なんてそうそう見つからないよ。自分では自分でやれることをやってきただけのつもりだけだったけど、結局ずっと逃げまくってただけなんだな。全てを先送りにして」

「こっちだって探せばあるよ、仕事ぐらい」優が務めて明るく亮介に話した。

「昔の会社の同期が俺のこと"人間嫌い"って言ってたよ。その頃はよくわからなかったけど、今はわかるよ。わかるやつはわかるんだな。俺は人間が嫌いなのかも、というか自分しか信用できないのかもしれない。今じゃその自分さえも信用できないけどな」涼介は答えた。

 涼介は元義父の会社を辞めてから、長野での仕事がなく、案件毎に請け負うシステムエンジニアとして東京で働きはじめた。ウイークデイは東京で生活し週末のみ長野に戻り、なるべく実家に顔を出し母親の畑仕事を手伝う生活をしていた。ただ、通勤や仕事のことを考え、駅から近い場所にマンションを借りていた。最初はそこを事務所にして仕事に使おうとしたマンションだった。案件資料をそこで作り、打ち合わせの時には東京に出向くという仕事を想定していた。ただ亮介が仕事を始めた頃を境に情報漏えい事件が相次いで起こり、セキュリティはかなり厳しくなった。情報を外に出せなくなったので、顧客に出向くしかなかった。

 扱えるソフトウエアも特殊なため、ほぼ100パーセント東京の顧客であり、東京に行かざるを得なかった。

母親は昨年自転車で車にひかれ、一ケ月ほど入院していた。それまでは全く元気に過ごしていた母親が、それ以来、体の怪我は治ったが、ふさぎがちになり老人性のうつ病を患っていた。不安定な涼介の仕事に心配が尽きないのだろう、涼介にあたる言葉も日増しにきつくなってくる。一言一言が涼介の胸をえぐる。そんな母を見るのも辛かった。

「でもさあ、どこかで聞いたことあるけど人って生まれながらに何年の人生を歩むのか決まってるって。やっぱりあれって本当なのかな。それとも意気地がなかっただけなのか」自嘲まじりに涼介がつぶやいた。

「ちょっと迷っちゃっただけでしょ」

「迷ったというか、狂ったというか」

「まあ戻ってきたから許してあげるよ。また明日来るよ」

 優は部屋を出ていった。優のさりげなさがありがたかった。


 ナースセンター前を通りがかる優を見て、吉沢がナースセンターから出てきて、声を掛けた。

「すみません。薮内亮介さんのご関係者ですよね」

 優が立ち止まり、振り返った。

「ああ先生。妹の薮内優ですが」

「あの、遺書があったと聞いたのですが」

「ああ、遺書と呼べるか、メモみたいのなのが車に残してありましたけど」

「診療の参考にしたいので、見せてもらえることはできますでしょうか?」

「ああそれならここに」優がバッグから取り出した一枚の紙を吉沢に渡した。吉沢はそれを読み始めた。

「早く、どこかで燃やしちゃおうと思ってたんですけど」優が言った。

 吉沢は眉間に皺を寄せながらそれを読み終えると、笑顔で優にその紙を返した。

「ありがとうございました」

「ばかな兄貴ですみませんが、よろしくお願いします」

「こちらこそ宜しくお願いいたします」吉沢が頭を下げた。

 優も笑顔で会釈をすると帰っていった。


 亮介は、一人になると、少しの安堵と死にきれなった自分への情けなさが胸の奥から湧いてくる。

 時折、窓の外からは野球でもしているのだろうか、少年たちの歓声が聞こえ、涼介の耳に響いた。

 ベッドを降り、窓際まで行って見ると河川敷のいくつかのグランドで少年野球チームが試合をしている。少年達や応援する両親の姿がまぶしく、羨ましく思えた。

 ベッドに戻り目を瞑るが、様々な思いが頭の中を走り中々寝付けない。イヤホンをつけ、テレビを見ながら時を過ごすが、中々頭に入ってこなかった。

 1時間ほどすると、吉沢が診察にきた。

「どうですか?」吉沢は首を傾げ、亮介の顔を覗き込みながら聞いてきた。

「はあ、まあだいぶ落ち着いてはきましたが」何とも答えようが無い中で涼介は応じた。

「傷は痛みますか」

「いえ大丈夫です」

「何か心配事はありませんか?」

「いや、特には」

 未だいろいろと考えてしまう自分がいたが、同室の患者もいる中でなかなか素直に声が出てこなかった。

「ここでは言いにくいこともあるでしょうね。別の部屋でお話させていただいて宜しいですか」

 察してくれたのか、ナースセンター横にある個室で診療が始まった。

「不安は未だありますか?」

「未だ何とも言えない精神状態ですが。先生、私はうつ病なのでしょうか?」

「起こしてしまったことから考えると、そのような状態ではあると思いますが、断言はできません。今はまだ不安な状態が続いているかと思いますね。ただ、今回の事で心もリセットしたと思って、心もけがもゆっくりと治していきましょう。軽めの鬱病の薬も用意するように言っておきますから。もし眠れないようでしたらナースセンターで看護師に言って下さい。眠剤を用意しますので」

 眠剤、すなわち睡眠導入剤のことである。

 性格なのだろうか、今の状況がそうさせるのかどうしても身構えてしまう。心では思いをさらけ出したいのだが、頭では拒絶してしまう自分がいる。見透かされているというか見下されているというのか医師といえども向こう側の人間に思えてしまい、事務的な口調に聞こえてしまう。

最初の診療はそれで終わった。


 山崎佳奈のもとにまた木元からの電話があった。アルバイトの宅配中であり、上司の田中と一緒だった。上司といっても年齢は佳奈より年下である。田中にすみませんと言い、宅配先のアパートの影で電話を受けた。

「もしもし山崎です」

「約束だからな。今日の夜は出てもらうぞ」木元のだみ声が耳元で響く。

「すみません。まだ子供が」

また嘘をついてしまった。

「ふざけるな。これからお前の家に行く。親に聞いてもらわないとな」

「ちょっと、待って下さい」

電話は切れていた。こちらから電話をしても繋がらない。

「すみません。子供が急に熱を出してしまって、早退したいのですが」

バイト先の田中に申し出た。また嘘をついてしまった。

「山崎さん、大丈夫?顔真っ青だよ。分かったあとは俺がやっておくから」

 田中は事務所まで車で送ってくれた。

 佳奈は、藁をもつかむ気持ちで店の常連客だった山本にLINEから電話を入れた。佳奈を指名して店に何度かきてくれた客である。指名客は何人かいたが、延長も何度もしてくれて、よく来てくれた。人の好さそうな男とである。仕事は確か営業をしているサラリーマンだと聞いた。歳は40前後だろうか。本来、客との連絡先の交換は禁止されているが、何度もお願いされ、LINEぐらいならいつでも拒否できるからいいかと交換した。

 だが電話は繋がらなかった。

 山本は仕事中なのだろう。LINEでメッセージを送ることにした。

"tel出れない?"

 5分ほど待つと山本からのメッセージが返ってきた。

"どうしたの急に。今とりこんでて。 あと10分ぐらいしたら電話できると思う"

"了解。ごめんなさい、忙しい中"

 佳奈はメッセージを返した。

 20分ほどすると山本からLINEで電話があった。

「どうしたんだい」

「ごめんなさい。本当に申し訳ないんだけど、お金貸してくれないですか?」

 思い切ってお願いしてみた。友達に頼める話でもない。恥ずかしいがもう他に頼むところが無い。切羽詰まっていた。

「えっ?何があったんだい」

「オーナーが家に乗込むって」

「どういうこと?」

「店に出ろって。このごろ行ってなかったの。それからバンスがあるの」

「何だい?バンスって」

「借金のこと。店に入る時にお金借りてたの」

「いくら?」

「30万円」

「ちょっと待って。頼りにしてくれるのはうれしいけど、俺ゆうなちゃんとは店以外で会ったこともないんだぜ。そんな大金貸してくれって急に言われても」

 佳奈は店ではゆうなと名乗っていた。

「そうだよね。本当にごめんなさい。でも山本さんしか頼めないの。もう店辞めたいの」

「金を払えば、辞めさせてくれるのかい」

「わからない。でもなんとかなると思う」

「きちんと借用書書いてくれる?」

「必ず書くから」

「本当に信用していいのかい?」不信気な山本の声が聞こえる。

「もちろん。毎月少しづつでも払うから」

 返すあてなどないが、毎月少しづつなら返せるかもしれない。

「そうは言われてもなあ」

「本当にお願い。今度外で食事でもしよ。その時借用書も書くから」

「わかったよ。どうすればいいの?」

「銀行口座を教えるから振り込んでほしいの」

「今からかい?」

「もうオーナーが家に来ちゃうの」

「うーん。ネットバンクでなら振り込めると思うが」

「ありがとう。ほんとにごめんなさい」

 佳奈は口座番号と振込先をLINEで送り、銀行に車で向かった。

 ATMで確認すると、山本から振り込みがあり、急いで佳奈は30万を引き出した。

 銀行を出ると、再度木元に電話をしたが出る気がないのか繋がらない。

 どうしても木元と両親とは会わせられない。母親には居酒屋でバイトしていると嘘を言っていた。父親は元公務員で厳しい父親だった。

 佳奈は急ぎ自宅へ向かった。

 自宅に着くと、そこには白のレクサスが止まっていた。店でもよく見たことのある木元の車だ。

 玄関に入ると白いエナメルのピンチラが履くような靴がある。家に入り、居間へ進んだ。居間ではテーブルを挟んで年老いた両親の前で木元が胡坐をかいている。母親は泣いていた。父親はうなだれていた。翔や茜は裏の部屋で寝ているのだろうか。

「やっと帰ってきたか。お前の事は全部説明させてもらったよ。娘がどんなとこで働いてるのか、どんな仕事をしているのか。借金のこともな」

 佳奈はその場に崩れ落ちた。

「さあ、店にいくぞ」木元が立ち上がった。

「ちょっと待って。お金は用意したから」佳奈は立ち上がり、ATMの横においてあった紙袋に入れた金を差し出した。

 木元はそれを受け取り。中から札束を取り出し数え始めた。

「足りねえな。貸した30万と利息20万併せて50万必要だ。あと20万だ」

「そんなこと聞いてない」佳奈が叫んだ。

「いいからいくぞ」

 佳奈は手を引かれ家を出された。レクサスの後部座席に押し込めらる。

 隣の家の玄関から出てきたママ友の静香が驚きながら見ている。

「お前には、そこそこ指名客もついているからな。そう簡単にやめてもらうわけにはいかないんだ」

 運転しながら木元が話すが、もう佳奈の耳には入ってこなかった。いつもなら窓から見える緑の山々が薄暗いグレーの平板にしか見えない。

 なんでこんなことになってしまったんだろう。生きていくためには仕方なかった。あの家にももう居場所が無い。もうどうしたらいいかわからない。

 店の前で降ろされれた。その店は飲み屋街の外れにある雑居ビルの1階にある。

 佳奈は店の前にある大き目なコインパーキングを探ってみた。

 今日はホームページ上では出勤にはまだなってないはずである。既に出勤にされているのだろうか。

 だが、見覚えのある車がやはりあった。常連で佳奈を指名してくる客の車だった。

 通常は送りの車で送ってもらうのだが、自分の軽乗用車で来た時にはこのコインパーキングに車を置く。

 佳奈の出勤時間に合わせ、ここで待っていたのだろう。鉢合わせしたことがあった。ストーカーのように、佳奈の店の終わりまで待っていたこともある。車の後をつけられていたこともあった。何とかまいて、自宅までつきまとわれはしなかったが。

 今日も来ているのか。常にホームページでチェックしているのだろうか。あの男は何の仕事をしているんだっけ?自営業とか言ってたが。店に行って出入り禁止にしてもらおうと思ったこともあった。だが店に入り始めたばっかりでの指名客は有難かった。

「俺のがほしいんだろう。旦那だった奴のよりおれの方がいいだろ。他の客のより俺の方のがいいんだろ」気持悪いことを平気で口にしていた。思い出すだけで気持悪くて仕方がない。

 未だ開店前の薄暗い店内に入っていく。入り口と、客相手をする5つのブースだけがスポットライトがついている。

 控室に入ると、他の女の子は未だ来ていないようだった。開店まではあと30分ほどある。

 この狭い空間が自分を壊していく。圧迫され息苦しくなる。

 自分用の青いドレスを手にとった。ドレスを見るだけで、男との光景が眼に浮かんでくる。喉が詰まり吐き気をもよおす。

 スマホを見るとLINEにメッセージが入っている。

"大丈夫だった?"

 山本からだった。

"ありがとう。またLINEする"

 佳奈はメッセージを打ち込み、送信した。

 その時店長の笠木が顔をのぞかせた。

「ゆうなちゃん、久しぶり。今日は頑張ってね」

 一言言って去って行った。

 佳奈は店ではゆうなと名乗っていた。笠木のあたりまえのような笑顔が自分を更に落とし込んでいった。

 その時オーナーの木元が車を置き、店に戻ってきた。従業員用の駐車場は少し離れた所に借りている。

「ゆうな着替えたか?おまえのでっかいおっぱいをなめに客が来るぞ」控室にいる佳奈に外から声をかけた。

 もうだめだ。もう既に限界を超えていた。

 控室の脇の小さなキッチンに置いてあった果物ナイフを手にとり店に出た。

 自分の腕や腿をナイフで切り裂き、ナイフを振り回しながら何かを叫び続けた。あとはまるで覚えが無かった。

 佳奈は狂乱状態のまま救急車で病院に運ばれた。笠木に抑えられたらしい。木元にも笠木にも怪我は無かった。



 午後6時になり、亮介の部屋には、調理師だろうか夕食を持って来てくれた。味気ない病院食ではあったが、いつもラーメンや丼ものなどの外食が多い涼介にとっては久々にバランスの取れた食事に懐かしさを感じた。

 1時間ほど経つと、周りの部屋から患者達が食べ終えた夕食の食器を運び出し、廊下を歩いて行くのが見える。片づけはしてくれないのかと思い涼介も食器を持ち、点滴をひきずりながら廊下に出た。

 ナースセンター前に食器をかたずけるワゴンが置かれていた。20代ぐらいから車椅子の老人まで様々な患者が食器をかたずけにでてくる。あまり話し声は聞こえない。涼介も食器をかたずけ部屋に戻った。

 消灯の9時になり、歯を磨き終え、ベッドに横になる。目を瞑るがなかなか寝付けない。対面の患者だろうか、軽くいびきが聞こえはじめた。4人部屋のはずだが、なぜか他の二人の気配は感じられなかった。

 眠れないようだったらナースセンターで眠剤をもらえると医師が言っていたことを思い出し、ベッドを出てナースセンターに向かった。眠剤をもらい部屋に戻り服用する。

 目を瞑ると、あの山のなかの光景とともに自分の人生での自分の厭なところばかりが思い出される。

 今まで思い出したこともないようなことが、記憶の奥から湧き出てくる。

 小学校にあがったばかりのころだろうか、みんなで親戚の家に行った時に、たしか居間にあった叔母の財布を新聞紙に包み持ち出したこともあったな。あれは財布とわかっててやったことなんだろうか。あとでお袋にこっぴどく怒られたなあ。

 小学低学年の頃だろうか、学校帰りに学習塾に通っていた。学習塾専用の黄色いバッグを学校にも持ち歩いていた。学校からの帰り間際、そのバッグの中を見ると、知らないテニスラケットのカバーが入っている。そのカバーの中を見ると同級生の女の子の名前が書いてあった。でもそれを次の日その子には渡さなかった。いや渡せなかった。誰か盗んでバッグに入れた奴がいるんだろう。でも盗んだ犯人にされるのが怖くてそのまま捨てたことを思い出した。そんな自分の小ささが思いだされる。

 社会人成り立てのころに知り合った友人に矢野という奴がいた。裏で覚せい剤の売人をやっているとこっそり教えてくれたことがあった。あいつはGTRに乗っていた。羨ましかった。友人でいたいがために、そんなことやめろとは言えなかった。あわよくば一度ぐらい自分もなどと思っていたかもしれない。今の自分だったら薬を買っていたかもしれない。あり余るほどの金を持っていれば。矢野は絶対自分ではやらないと言っていたが、後から中毒になり、廃人のような状態で逮捕されたと噂で聞いた。もしかしたらあいつは俺に助けを求めていたのかもしれない。

 今までそんなこと思い出したこともなかったのに。自分への嫌悪感が増してくる。

 いったい自分はどれほどの人を傷つけ騙してきたのだろう。自分さえも騙し続けてきた。今の自分は誰にとっても邪魔なだけの存在なんじゃないだろうか。あの時死んでおけば....。

 うとうとしだした2時過ぎ頃だろうか、廊下の奥からか、すさまじい嬌声が聞こえてきた。

 女性の甲高い声である。何かを叫んでいるが、何を言っているのかはわからなかった。

 泣き叫んでいるようにも聞こえた。看護師の抑え込んでいるような声も聞こえる。

 毎夜こんなことが繰り返されるのだろうか?涼介は改めて不安に襲われた。


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