Day3

 亮介は車に差し込む穏やかな朝の陽の中で眼を覚ました。ここに来て3日目になる。その間一食もとっていないが不思議と腹は減らない。腕や首の傷も痛くは無かった。

 ラジオを点け、天気予報を聞きながら、スマホの電源を入れてみた。天気予報では今日も晴れらしい。

 スマホには多くの着信履歴が残っている。

 優からのLINEメッセージも入っていた。

"そっち行くから"

 涼介は少し焦った。すぐにここがわかるとは思わなかったが、ここに来るとは。

 優もやはり何か不穏な空気を感じたのだろうか、それとも母から言われたのか。

 煙草に火を点け、一服すると、今日が人生の最終日とすることを決め、ラジオとスマホの電源を切った。

 車から出ると、程よい暖かさに身を包まれた。

 昨日設置した絞首台に乗り、ロープを首にかけた。台から足をはずし体重を首にかけると鈍い耳鳴り音が耳の奥から聞こえる。体が震える。

 いくら自分から死を望んではいても、体が拒否反応を示してしまう。ついには足を台にかけてしまう。それとも心の奥底では死を望んではいないのか、それさえもわからない。

 涼介はロープを首からはずし、台を降りた。これが最後と思い、胸ポケットから煙草を出すと、残りは一本だけだ。口にした最後の一本に火を点ける。

 これが本当の最後だと呟き、煙草を捨て絞首台にのった。ロープを首にかけ、思い切り台を蹴飛ばした。ロープが首を締め、先ほどと同じように耳鳴り音が始まる。体が震え、目の前の景色はぼやけはじめ、意識が無くなる感覚が襲ってくる。

 ......直後、地面でのたうちまわる涼介がいた。

 30秒ほど地面をのたうちまわったのだろうか、我に返り、枝にかかるロープを見上げた。

 枝も折れていないしロープも切れてなどいない。落ちるまでの記憶が全くない。何が起こったのだろうか。これでもだめなのか。

 亮介はロープを枝から外した。

 車に戻り、時計を見ると正午近くになろうとしていた。

 ロープと踏み台にしたごみ箱を手に、林の中を奥に向かって歩きだした。

 いったいどうして、こんな所でこんな事をしているんだろう。周囲へのあてつけなのか、それとも自分自身への嫌気なのか。涼介は吐き出しきれない胸の澱みを抱えながら彷徨った。

 今までの人生で自殺を遂げた何人かの友人や後輩、同僚の顔が浮かんだ。その時はなんで相談してくれなかったのだろうかと悔やんだが、相談された自分はいったい何をしてあげられたのだろう。そんなこと思うこと自体が自分のおごりでしかなかったのだ。ましてや相談する余裕がある人間など自殺なんかしやしない。自分がそうであったように、人を遠ざけるものだ。

 振り返っても、ただ運がよかっただけで生きながらえてきた人生だったのではないか。何度か転職もした。ただの自己満足の繰り返しだったのだ。離婚もした。

 前に進めず、となりの芝生の青さを勘違いして同じことを繰り返す自分の幼稚さに嫌気がさす。

 子供のころから人が怖かったのかもしれない。家では大酒を呑んだ祖父と母が毎夜のように大喧嘩をしていた。香と優、涼介、そして母、4人で雪の中、道端で酔いつぶれ寝転がって喚き叫ぶ祖父を迎えに行ったこともあった。近所の家から電話があってのことだったと思う。子供ながらに恥ずかしい思いをしながら喚き叫ぶ祖父を4人で連れ帰った。母は厳しい人だった。強い人だった、我の強い人でもあった。涼介の望みが受け入れられることは少なかった。そういえば、家を新築して一月ほどたったころだったか、畳に穴が開いているところがみつかった。まるで覚えがない涼介のせいにされ、こっぴどく怒られたことがあった。以来、反抗期もあってかあまり話かけることもしなくなった。中学・高校では新聞配達や、アルバイトに精を出した。

 父は涼介に対して何も言わない人だった。

 子供の頃、~起きろよ起きろよ皆起きろ 起きないと班長さんに叱られる~と口づさみながらと軍隊のように起こしにくる父が好きだった。

ただ、中学以降は母親に対しても祖父に対しても何も言えない弱い父親を軽蔑もしていた。

 涼介が東京の会社を退職しUターンで戻った翌年、60で死んだ。急性心不全だった。

 親父は人生を楽しく生き抜いたのだろうか? 居酒屋に一緒に行くこともなく、本当に二人だけで腹を割って語らったこともなく終わった父親との関係を後悔した。ただ葬式の時に親父の友人から、涼介が帰ってきたことを本当に喜んでいたと伝え聞き、少しは胸のつかえが取れたことを思い出した。


 高校を卒業すると、長男であるが故に戻ってくることを前提条件にではあるが、逃げるように東京に就職した。

 山のなかで育ったからかもしれない。子供の頃からあの山の向こうには何があるんだろうと思っていた。あの山の向こうを見てみたいといつも思っていた。


 涼介は藪をかき分けながらも奥へ足を進め、絞首台のロープを掛けられる程太い枝のある幹を探した。

 小一時間も歩いたのだろうか、静寂の中で車のエンジン音がして止まった。

「りょうすけー」

 叫ぶ声が聞こえる。優の声かそれとも姉の香の声か?女性の声だ。こんな姿で戻ることほど恥ずかしいことはない。涼介は更に奥へと足を進めた。

 彷徨いながらもロープを掛けられる幹を探すが、適当な幹を探し出せない。涼介は歩を止め腰を下ろした。

 次第に陰鬱な厚い雲が空を覆いだした。このまま雨でも降れば低体温症で死ねるだろうか?夏の終わりとは言え山の中は夜になればかなり温度も下がる。

 山の遭難では低体温症での死者も出ていることは知っているが、なかばそれは期待でしかなかった。

 もう自分では死ねないのだろうか?あの自分を呼ぶ叫び声の影響で臆病になってしまっているのか。涼介は腰を上げ歩き始めた。

 日も暮れ始め、薄暗くなった山の中を、ごみ箱とロープを手に彷徨う自分が情けなかった。


 突然、奥の方から黒い大きな生き物が走って林の中を横切って行く。

 熊?熊かそれとも違う生き物なのかも判別しづらかったが、怖れという感情が湧きたつことを覚えた。

 まさか怖いのか、俺は死ぬことが。もう断ち切ったはずなのに。突然の出来事に戸惑いながらも、自分の感情が信じられなかった。

 歩を進めているうちに山の裏側に出てしまったのだろうか、車道が見える。遠くに街の明かりも見える。

 もう無理なんだろうか。うまく言えないが、あの叫び声で向こう側にいた自分がこっち側に戻ってきてしまった気がする。

 涼介は車道に出、山を下り始めた。


 車道を下り始め30分程歩くと、温泉施設が道沿いに見えた。建物の前には広い芝生の庭園が広がっている。

 亮介は庭園に忍び込み、芝生の上に大の字になり寝そべった。

 まるで警察から逃げる指名手配犯の気分を味わっているようだった。

 温泉施設には家族連れだろうか、乗用車が続々入り込んでいく。施設からは笑い声も漏れ聞こえてきた。


 「ああ、俺はこれからどうすればいいんだろう」亮介は一言呟いた。

 そのままどこかに逃げてしまいたい自分がいる。金もない自分がどこに逃げればいいのかもわからないが。

 東京まで歩いて行ってホームレスにでもなろうか。

 東京まで何キロあるんだったかな。300キロぐらいだったか。たどり着けるんだろうか。

 そんな事しても服は血だらけだ。きっとどこかで不審者として捕まるだろう。

 30分ほど寝そべっただろうか、意を決してLINEで優にメッセージを送信した。

"すみません、死にきれませんでした。山を降ります。"

 もう日は落ち、辺りは暗闇が覆っていた。



 山崎佳奈に一本の電話が入った。携帯を見ると、店のオーナーの木元からだった。

嫌な感じがしたが、仕方なく電話に出ることにした。

「今日は出るんだろうな。もう一週間も出てないんだぞ」わかってはいたが、木元からの電話は出勤の催促だった。

「....いや、ちょっと子供が熱を出しちゃって」佳奈は子供をだしに嘘をついた。

「そんなこと、親に任せておけばいいだろう」実家に住んでいることは木元も知っていた。

「そうもいかなくて」佳奈は苦し紛れにそう答えた。

「おまえなあ。バンスも払ってないのに、そんなことよく言えるな。実家に行くぞ」木元のだみ声が聞こえてくる。

 バンス、要するに店に30万円の借金があったが払えない。木元は見るからにヤクザ風のチンピラだ。このまま店に出ないと本当に実家に乗込みかねない。

「それはやめて下さい」

 佳奈は連絡先の住所も電話番号も本当の事を書いてしまった事を今更ながらに悔やんだ。

「なら、店に出るんだな」

「わかりました。明日は必ず出ますから」もうそう答える他なかった。

 佳奈は2ケ月ほど前からピンクサロンで働いていた。

 昼食で入ったラーメン屋のカウンターの片隅に、雑然と重ねて置いてあった一冊の夜専門の求人誌に目が止まった。ぱらぱらとめくっているうちに目に入ってきたのがその店の求人だった。家からも車で1時間程かかり、まず知人には会わないだろうと応募した。

 昼間は共済の宅配のアルバイトをしていたが、とうていそれだけではやりくりはできない。別の働き先を探してはいたが、大した資格ももっておらず、なかなかみつからなかった。

 少し太り気味ではあるが、容姿に少しは自信があった。癒し系といわれたこともあった。少し歳は取ってしまったが。

 見も知らずの男とキスをし、裸をなめまわしなめまわされ、男のモノをくわえ勃起させ、奉仕する。それの繰り返しに嫌悪感が先にたってしまう。泥酔客はいくこともできない男が多い。何のために来るのだろう。

 そんなことをしながらもどうにか2ケ月が過ぎた。


 幸せな家庭を夢見てた。和幸と二人で幸せな家庭を作ろうと結婚したのはもう5年も前のことだ。出来ちゃった結婚だった。あの頃までは楽しかった。そう全てが楽しかった。自分自信を明るい人間だと思っていた。このまま全てがうまくいくと思っていた。

 和幸とは以前働いていた居酒屋で知り合った。あの頃、和幸は運送会社で働いていた。力仕事が多いからなのだろう、逞しい体だった。あの胸板の厚い逞しい体に抱かれることが幸せだった。佳奈が悦ぶ術も知っていた。今では触られたくもないが。

 佳奈も結婚を機に仕事を辞め、長男の翔が生まれた。

 結婚して一年もしないうちに、和幸は会社を辞め働かなくなった。親会社から来た年下の上司と喧嘩して辞めたなどと子供のようなことを言っていた。

 たまに日雇いの仕事をしても家には金はいれない。もっぱら酒とパチンコに消えていく。

 3年目に長女の茜が生まれても変わらなかった。自分の貯金も消え、佳奈も子供たちを両親に預け、働くしかなかった。

 和幸のパチンコを咎めると暴力をふるわれることもあった。

 この男は何を考えて過ごしているんだろう。後ろ姿を見て、殺してやりたい思ったことは1度や2度ではない。

 仕事の事、子供の事、お金の事。和幸を責めるたびに喧嘩になった。罵声を浴びせられることはいつもの事だ。

 次の日には酒のせいにして覚えてないという。子供たちを連れて実家に逃げ込もうとも思ったが、両親に心配はかけたくなかった。

 昨年、ようやく離婚することが出来た。

 離婚届けを書いたのは、茜が生まれて半年後だった。和幸はなかなか印鑑を押してくれなかった。さらに罵声を浴びせられた。金ずるとしか思っていなかったのだろう。もうどうしようなかった。和幸の家に向かい、和幸の両親に全てを話した。義父が和幸に印鑑を押させると言ってくれた。

 和幸の両親は涙を流し謝ってくれた。佳奈も泣いた。申し訳ありませんと謝った。

 もっと早く話した方がよかったんだ。でも気を使って言えなかった自分を悔いた。

 離婚して和幸のアパートを出、両親が住む近くの実家に戻った。

 子供達はどうしても守りたかった。どうしても金をかせぎたかった。でもこの仕事は続けていく自信がない。

 和幸はあの後どうしたのだろう。養育費や慰謝料も取りたかったが、あの様子の和幸からは一銭も出てこないだろう。弁護士に相談したことはあったが、無いものを請求してもなどと言われ諦めた。連絡を取ったことはなかった。取りたくもなかった。きっと実家にでも戻ったのだろう。謝られたあの両親には請求はできない。和幸には兄がいた。兄も結婚して実家を出ていたはずだ。


 佳奈は思い余って仕方なく一本の電話をかけた。

「ごぶさたしてます。山崎です。山崎佳奈です」

「おう、久しぶり。元気にしてるか?」

 以前勤めていた居酒屋のオーナーの八木だった。八木はやくざの知り合いがいると聞いたことがある。

「何とか。実は相談したいことがあるんですけど」

「相談って何だいったい」

 佳奈は今の状況を説明した。説明しながらも涙があふれ出てくる。恥ずかしかったが仕方なかった。できるなら八木などには連絡などしたくはなかった。頼みたくはなかった。

「うーん、難しいなあ。助けてやりたいがあそこのオーナーはちょっとやばい筋だからなあ。金は貸してやってもいいが、利息とか言っていくらふっかけられるかわからんぞ。それ相応の見返りでもあるんだろうな」

「見返りって?何にもできないですよ。お金なら少しずつでも返します」

「あるだろ、その豊満な......」

「体ですか?」

「まあ、そんなとこだな。愛人になってくれよ」

 八木の下卑たにやけ顔が浮かぶ。八木の下で働いていた時もなめまわすような視線を感じたことがある。

 佳奈は携帯の電源を切った。男って生き物は。

「私もうだめかもしれない」佳奈は呟いた。


 暗い気持ちで家に戻ると、下の娘の茜が寄ってくる。幼い手で佳奈の小指を握りしめ、居間に連れて行く。

 「おかあしゃん。おつかれさまあ」

 居間では茜の兄の翔がすやすや眠っていた。

 だめだこの子達だけは私が守らなければ。二人を見つめながら、また瞳に涙が浮かんだ。

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