・井杜 相馬

 今年は不作だな。それが、井杜相馬いもりそうまが去年の入部の顔合わせ時に言われた言葉だった。強豪とまでは言えないが、弱いわけでもない。そんな仁多花高校バレー部は、全体的にそこそこという具合なチームだった。ただ、前二年間に入ったメンツに比べると、相馬達の学年は人数自体も少なく、背が高く体格の良い生徒が少なかった。ただ、それだけのことだったのだ。


「ここに呼ばれた意味は分かっているかい?」


 相馬の目の前で踏ん反りかえるように座っている教頭は、嫌味で嫌な奴だと生徒から大変不評をかっている教師だった。校内放送で呼び出され、職員室に足を踏み入れると目敏く相馬を見つけ、席を立つこともせず呼びつけられた。問いかけにはぁ、と返せば、細身の眼鏡のブリッジをくいっと押し上げ、品定めするような目で見られる。


「君があの、バレー部の次の部長だと聞いたのだけれど?」


 厭味ったらしくそう言われ、どうやらそうみたいですねと相槌を打てば、それが気に入らなかったようで、眼鏡越しの瞳がすっと細められた。昨日の部活終わりに部室に呼ばれ、今日で三年生が引退する旨と、明日からはお前が部長だなんて唐突にそして端的に伝えられた相馬にしてみれば、そんな目で見られたところで他に答えようもなかった。


「ほら、これ」


 唐突に数枚の紙束を差し出され、反射的にそれを受け取る。視線を紙束に移せば、退部届とデカデカと書かれた紙が何枚も重なっていた。


「三年生が引退して、他の部員も大半が退部。君たちバレー部は何をしているんだい?監督をしていた笹原先生が体を悪くして早めに隠居されたからと言って、はめを外して良い事にはならないんだよ?この前のインターハイ予選、引率に言った先生に聞いたけれど、酷かったらしいね。」


 ネチネチと続くお小言を右から左に流して退部届を捲っていた手が、最後の一言でピタリと止まる。三日前の出来事が脳裏を過る。呆然とコートの淵に立ち尽くす期待のエース、斎藤大輔と、そんな人間まるでいなかったかのようにコート内を動く先輩達。何時もなら自分が与えられるポジションには違う人が立っていて、その訳の分からない胃がムカムカするような光景をただひたすら見せられた。今思い出しても腹が立つ光景に思わず顔を顰めると、それを目の前の男はどう取ったのか、教師に対してなんて態度だ!と咎められた。


「兎に角、うちの学校は、文武両道が基本方針です。そんなだらけた部を存続させるのは、どうかと私は思います。」


「は、?ちょっと待ってください!色々と誤解です。確かに問題も在りますけど―」


 受け入れがたい教頭の言葉に声を上げれば、途中でスッと手を上げられ遮られる。


「井杜君、君は素行も成績も悪くない。先生方からの評判も悪くない。それは望月君と、原君も同じです。ただね、問題を起こした部の顧問を買って出てくれる先生は少ないんですよ。それに、さっきの退部届の枚数は数えましたか?」


 やれやれというように肩を落とす教頭は気に入らないが、言われたまま退部届の束に視線を戻し、捲る。名前と顔を一致させながら一枚一枚捲っていくと、恐ろしい事に気付いてしまった。おいおい、嘘だろ、嘘だと言ってくれと心の中で誰ともなしに懇願する。


「私はバレーボールに明るくはありませんが、確か六人でする競技でしたよねぇ?元々の人数から三年生と自主退部の生徒を引くと、五人しか残らないと思いますが、違いますか?」


 回りくどい言い回しに、ひたすらイライラが募る。


「五人では公式戦には出られませんし、部員が足りていないなら、部として認める訳にはいきませんねぇ」


 くい。また教頭が眼鏡のブリッジを押し上げる。どうやら、生徒から授けられたベストオブ嫌味なクソ教師という称号は伊達ではないようだ。


「………何とかしてみせます」


 相馬がそう言えば、教頭は嫌味に笑って、そうですかとだけ言った。


「話は以上です。一週間以内にどうにかしてくださいね。あ、顧問の先生も込みで、ですよ」


 横目でこちらを見ている瞳が、できっこないと言っている。目は口程に物を言うと説いた先人は偉大だ。自然と力が入る右手で退部届の束がぐしゃぐしゃにならないように気を付けて、教頭に向かって深々と一礼する。そのまま顔を見ずにツカツカと廊下へと続く扉へと歩き、失礼しましたとだけ言い職員室から脱出する。イライラを通り越して、腹の底から沸々と感情が沸き上がる。暴れまわりたいぐらいだ。そんな事はしないけれど。


「うわぁ、凄い顔してんなぁ」


 そのまま体育館に向かおうと体の向きを変えれば、見慣れた練習着を着た望月裕文もちづきひろふみが立っていた。


「くんなって言っただろ。」


「まぁ、そうなんだけどさ…。井杜は呼び出されてるし、体育館には斎藤と伊藤しか来ないからさ、何かあったかなと思って」


 相馬よりも高い所にある裕文の顔が、様子を窺うように覗き込んでくる。裕文は人の機敏に大変敏い奴なので、今更誤魔化しは効かない。視線を右手の紙束に移せば、裕文の視線もそれに移る。


「うわぁ…大体予想はしてたけど、現実は厳しいなぁ」


「部員と顧問、一週間で揃えないと廃部だとよ。」


 退部届をパラパラと捲っている裕文にそう告げれば、大きく目が見開かれる。え、とかでも、とか口にする裕文に、そうなんだと言い切れば、しゅんと首を垂れる。


「どっちにしろ、季節外れのインフルエンザから原が復活したところで、部員五人の監督なしじゃぁ公式戦には出られないからな。」


「当て、あるのか?」


 不安そうに相馬を覗き込むその顔を一瞥してやれば、そんな物が存在しない事が伝わったのか、裕文が肩を落とす。大きな体の男が廊下の真ん中でしょぼくれているのは、他人から見ればさぞ滑稽だろう。


「兎に角、体育館行くぞ。今、一年コンビだけなんだろ。これ以上問題起こされたら堪ったもんじゃない」


 退部届の束を引ったくり、足を進める。新入部員の斎藤大輔と伊東啓佑は、それぞれ違った意味で部の問題児だ。足を踏み入れた後のやり取りを思うだけで、頭を抱えたくなる。


「あいつら、困ったもんだからなぁ。伊東は五月蠅いし、斎藤はアレだしなぁ」


 困ったと溜め息をつく割には、隣を並んで歩く裕文の顔は明るい。何かと面倒見の良いこの男の眼には、騒がしい後輩も可愛く映るのかもしれない。


「井杜、望月、」


 裕文と話しながら歩いていると、後ろからよく知った声で名前を呼ばれた。振り返れば予想通り、部の先輩であった松川善志まつかわよしゆきが通学カバンを肩にかけ立っていた。何時も優しい柔らかい笑顔が浮かんでいたその顔は、今は少し困った様な暗い笑顔。


「松川さん、お疲れ様です。」


「お疲れ様です。今から、帰りですか?」


 相馬が頭を下げると、裕文も同じように頭を下てからそう聞いた。善志は一度目を伏せ、弱い笑顔を浮かべ、おーとだけ返事を返す。視線を宙に彷徨わせ、何度か口をもごもごと動かし、意を決したように口を開く。


「あの、さ。部の方は、大丈夫そうか?俺達いきなり抜けっちゃったし、退部者も出たって林から聞いて、」


 上げられていた視線が降下していくのと同時に、言葉も尻すぼみに小さくなり、終いには俯いて黙ってしまう。三日前の大会まで日増しにピリピリと鋭くなる空気の中で、最後まで優しい笑顔を絶やさなかった善志に、まさか部員が足りないので廃部になるかも知れませんなどとは口が裂けても言えるわけがなく、相馬も裕文も口ごもるほかなかった。


「えっと、退部者もいますけど、斎藤も伊東も来てますよ」


 嫌な沈黙に耐えきれなかったのか、裕文が困った笑顔でそう言えば、善志は勢いよく顔を上げた。先程まで暗かった表情が、少しだけ色を取り戻しているように見える。


「望月、お前先体育館行っといて。どうせ好き勝手やってるだろう、あのバカ二人組何とかしといてくれ。」


 善志を横目に裕文にそう言えば、少しの沈黙の後、笑顔で分かったと了承の意を伝えられる。ぺこりと一礼だけして歩いていく背中を見送りながら、どうしたものかと思案する。聞きたい事も、言ってやりたい不満も五万とある。善志は上級生の中でもかなり話しやすい人で、思い遣りのある頼りになる先輩だった。失礼にならないようにしたいとは思うのだが、事が事なだけに中々難しい。なんと切り出せば良いのやら、もう一度訪れた沈黙に相馬は首の後ろを掻いた。


「斎藤の事、ありがとな」


 相馬の雰囲気を感じ取ったのか、穏やかな声で善志が沈黙を裂いた。一瞬何のことかと思ったが、あの日のベンチから見た大輔の顔を思い出し、合点がいく。


「いや、俺じゃないです。伊東が何か話したんだと思います、たぶん。アイツ、選手控室までダッシュして来ましたから」


 あの日、相馬の隣を歩いていた裕文は泣くのをぐっと堪えるような酷い顔をしていた。しかし、選手控室まで全力疾走してきたであろう後輩も、負けず劣らず相当酷い顔をしていた。きっと、自分では分からなかっただけで相馬もかなりの物だったのだろうと思う。啓佑と話した後は、彼に言った通り観客席で放心していた他の部員をまとめて、帰路に着いた。なのであの後啓佑がどうしたのか、大輔と善志がどうしたのかは知らない。ただ、休み明けの昨日、重い空気を背負った三年とは対照的に、大輔はしっかりとした瞳をしていたので何も聞かないことにしたのだ。


「そっか。良かったよ、一安心って感じ」


 善志がふっと笑う。それは彼の言葉通り、ほっとしたような笑顔だった。


 部活動が始まっている時間という事もあり、職員室前の廊下だというのに人通りはない。グランドも体育館も遠いからなのか、部活動に勤しむ生徒達の声も聞こえず、ひどく静かだった。


「春高まで残るって、そう聞いてたんですけど」


 静かな廊下に相馬の声がやけに大きく響く。なるべく角が立たないようにしたつもりだったのに、うまく抑揚が付かず責めるような言い方になってしまった。


「そう、だな。最初はそのつもりだったんだけどさ、なんて言うか…怖くなったんだ」


 予想していなかった言葉に思わず伏せられた顔を凝視する。その視線に気づいたのか、何変な顔してんのと笑われてしまう。


「怖くなったんだ。斎藤の才能も、それに揺らぐ自分も、それを認める事も。俺は三年で、レギュラーだけどアイツよりも綺麗に飛べる気がしない。アイツが怖いよ。」


 善志の言葉に、天才斎藤大輔の姿が脳裏に映る。望月には及ばないが、十分な身長。大きな体からは想像出来ないほどのフットワーク。ムカつくくらいに整ったフォーム。正確なスパイクコースの打ち分け。ブロックを物ともしない、パワー。見た物を取り込む、スポンジのような吸収力。幾らでも上げられるその才能は、凄いなんて凡庸な言葉では表しきれない。それは、日夜せっせと自分達が積み上げて来たものを軽々と飛び越えて行く。確かに怖いと称するに値するものなのかも知れない。


「何より、それにグラついて、倒れていく自分達が怖い。もう引退しようって言ったのは、俺なんだよ」


 善志は相も変わらず笑っていた。それは何時ものように柔らかいく頼りになる物でも、困った様な優しいそれとも違う。泣き出す寸前の子供のような笑顔だった。


「ごめんな」


 言葉の出ない相馬に、善志はそう言って背を向ける。ゆっくり、一歩づつまるで確かめるように足を動かす。少しづつ、少しづつ、距離が広がる。ついこの間まで、すぐ近くでボールを交わしていた背中が、遠い。ギュッと掌が白くなるほどの力で自身の手を握りしめる。言いたいことがあれやこれやと浮かんでは、意味をなさずに融けて消える。そんな事をしている間にも、距離はどんどん開いて、善志の背中があっと言う間に小さくなる。


「でも、斎藤独りじゃ、勝てません!」


 遠くなった背中に、投げつけるように叫んだ。ちょうど廊下から階段を下ろうとしていた善志が、一瞬こちらを見たような気がした。遠いので定かではない。そのまま動きを止めることはせず、善志は見えなくなってしまった。体の中を色々な感情がせめぎ合い、駆け巡る。吐き出す二酸化炭素と一緒に出ていけば良いのにと思ったが、沸き上がるものは融けて消える事はなく、グルグルと体内を循環する。裕文を先に行かせておいて心底良かったと思う。きっと今、自分は心底情けない顔をしているだろうと、相馬は自嘲気味に笑った。


 いつまでも廊下の真ん中で棒立ちしている訳にもいかず、相馬は全てを振り払うように頭を振った。先程の声を聞きつけ、嫌味な教頭が職員室から顔を出さないとも限らないのだ。誰もいなくなってしまった廊下に後ろ髪を引かれながらも、善志が歩いて行った側に背を向けて歩き出す。

 去年の今頃は、まさかこんな事になるなんて予想もしていなかった。中学から始めたバレーボールは高校でも続けたいと思うくらいは好きで、それでも部の強さで学校を選ぶほどではなかった。学力面と、通学距離なんかでたまたま選んだ仁多花に入学して、そのままバレー部に入部。前情報と言えば、特に強くも弱くもない、その程度だった。その年の新入部員は相馬を入れてたったの五人。平均身長は、百七十ちょっとくらい。普通に生活する分には低いとは言えないが、長身犇めくバレーボール界では決して高いとは言えない数字だ。相馬自身も、百七十三と胸を張って長身だと言える身長ではない。もう少し伸びたらなと思う事はあれど、それに不満を持ったこともなかった。ただ、不作年として張られたレッテルは確かに心のどこか隅っこに引っかかって、たまにちらりと顔を覗かせる。その頃から部の雰囲気は和気藹々からほど遠く、五人が三人に減る頃には、先輩達からのギスギスと刺さる空気をさらりと流すのにも慣れていた。いくらギスギスしていると言っても、長く時間を共にすればお互いの事も何となくは分かってくるし、無用な争いを避けるためにもある程度の妥協をお互いがするようになる。そうやって尖っていた空気がようやっと丸みを帯びて来た頃に、新たな厄介ごとは転がり込んできた。

 天才、斎藤大輔。天才なんて言葉は割とよく使われるけれど、春休みの初日、文字通りご隠居一歩手前の監督に連れられてやって来た斎藤大輔という少年はその言葉をそのまま表したような選手だった。まだ少し肌寒い体育館に中学のジャージを着こんだその少年は、なんだか浮いていて、監督の挨拶をという呼びかけに、「斎藤大輔です。中学でははウイングスパイカーをやっていました。よろしくお願いします」とだけにこりともせずに言った。先輩達はその挨拶を生意気だと詰ったが、何の装飾も施されていない簡潔なそれは相馬の眼に少し好ましく映った。練習を共にしても相馬のその感想は特に変わることはかったが、何でもすんなりと熟してしまうのはやっぱり気持ちの良いものではなかった。何より、相馬よりも十センチと少しだけ高いその背丈がチクチクと引っかかる。それについて何か言われるなんて事は全くないのだけれど、それでも隣に立たれるのが少し嫌だった。礼を欠く事はないが不愛想で、何でも出来ることが当たり前みたいなところは生意気でもあって、別に特別冷たくしていた訳ではないけれど、特に親切にしていた訳でもなかった。そんなどっちつかずの曖昧な態度も大輔は特に気にする訳でもなく、ただ淡々と毎日を過ごしていた。先輩達からの冷たい視線も、距離のある態度も、まるでそれが当たり前の様なその背中は、例える言葉が見つからない。結局相馬も大輔も、先輩達も、お互いに歩み寄る事をせず、自分たちで掘った穴に嵌っている。今更その穴が思っていたよりもずっと深かった事に驚いているなんて、滑稽な話だ。

 階段を下り、昇降口で上履きを運動靴に履き替える。男子バレー部に充てられている第二体育館は小さめで、敷地の外れにある。校内から第一体育館の前を回り込むようにすれば上履きのまま行けないこともないが、こうした方がかなり近道だ。下駄箱に上履きをしまい、ぱたりと小さなドアを閉めた所で、先程の善志がこの昇降口とは反対側に歩いて行った事を思い出した。相馬が今降りて来た階段とちょうど反対側にある階段は廊下で繋がっているので、昇降口にたどり着けない訳ではないけれど、完全な遠回りになる。いくら善志が少しふんわりとした人間だからと言って、二年以上過ごしている校舎で道を間違えるとは思えない。下駄箱の前で一人首を傾げてみたが、答えは分かる訳もないので辞めた。いつまでも下駄箱で過ごすわけにもいかず、少ない部員が待つ第二体育館を目指す。


 外に出ると、じんわりと重い空気が纏わりついてくる。六月も終わりに差し掛かった時期。室内も決して過ごしやすいとは言えないが、それでも外よりはまだマシな気がした。少し離れたグラウンドから微かな掛け声が響いてくる。ふと、教室で隣の席の男子が野球部の主将になったと話していたことを思い出す。先日の席替えで隣になったばかりの申し訳ないが名前もうろ覚えなその人は、照れくさそうに目を細めて野球部の部長になったと話していた。「部を引っ張っていくのはまだ不安だけど、先輩もいてくれるし頑張ってみようと思って!」と言った彼に、相馬はそうかと頑張れよ以外の言葉を返せなかった。何故自分が選ばれたのかよく分からない。きっとそういった纏め役は、裕文の様な人物にこそしっくり来ると思うのに。なんて嬉しそうに窓の外を見やった彼を見詰めたまま相馬はそう思った。

 練習着を着て連なって走る野球部を横目にグランドを横切り、部室棟二階の一番端にあるバレー部の部室に入る。男子バレー部の部室は、マネージャー無しの男所帯な割に、結構きれいだと思う。他の部室を見たことがないので何とも言えないが、話を聞く限り凄まじいようだ。自身のロッカーまでたどり着くと手早く練習着に着替える。どうせすぐに脱いでしまうとは思ったが、一応上のジャージを羽織る。荷物をロッカーに突っ込み、退部届の束も気にせず乱雑に放り込んだ。バサバサと音が鳴ったが無視して扉を閉じる。壁にかけられた時計を見れば、職員室を出てからもう十五分以上経っている。出しっぱなしのサポータとバレーシューズを引っ掴み、バタバタと体育館へ急ぐ。今の相馬に、部を引っ張れるか不安などと言っている余裕はない。兎に角責務を全うし、一週間以内に顧問も部員も見つけなければ二年で部を引退することになるのだ。勢いよく階段を下り、部室棟の裏手にある第二体育館の分厚い扉を開く。扉の開く音に、体育館中に響いていたボールの弾む音が止む。


「センパイ、お疲れ様っす!」


 ボールを持ったまま、問題児二号こと伊東啓佑がバタバタと駆け寄って来る。それにのそのそと付いて来た問題児一号斎藤大輔は啓佑よりもずっと落ち着いた声で同じ意味の言葉を丁寧に放った。


「おー、お疲れ。望月は?」


「空気が籠って暑いんで、ギャラリーの窓開けに行ってます」


 いるはずの姿がないので聞いてみれば、申し訳程度につけられているギャラリーという名称の細い通路を指さして大輔が答える。見上げれば、確かに窓が開けられていた。


「先輩にやらせずに、お前らが行けよ」


 運動部は縦社会で、何事も年功序列な事が多い。雑務は概ねが一年生の仕事だ。別にそれに固執している訳ではない。雑務を分担するのは効率が良いし、嫌いではない。ただ、手が空いている時は別である。それは目上の人への気遣いの一環だと相馬は考えている。ギロリと睨めば、大輔は居心地悪そうに視線を逸らし、啓佑はわたわたと慌てる。


「ちょ、誤解です!俺たち行くって言ったんですけど、やる事増えると面倒だから自分で行くって言われちゃって…」


 慌てていたかと思うと啓佑はそう言って肩を落とした。相変わらずコロコロと目まぐるしい奴である。


「でも、聞いてください、相馬センパイ!俺は大輔と違って、ギャラリーの窓開けくらいは出来ます!出来る男なんですよ!」


 勢いよく顔を上げてまくしたてる啓佑に、その頭を後ろからスパンと叩く大輔。二人は何すんだよ!、俺だって窓を開けるくらい普通に出来る、なんて相馬そっちのけで実にくだらないやり取りを始める。


「ありゃ、行かせても行かせなくても、面倒な事になっちゃったな」


 ぎゃいぎゃいと五月蠅い二人を諦めて見ていると、作業を終えて戻って来たであろう裕文が困った様にそう言った。お疲れ様の意味を込めて右手を軽く上げると、裕文も笑って同じようにそれを返す。


「松川さん、どうだった?」


 未だに騒いでいる二人に聞こえないように声を落として聞かれる。遠ざかる背中が脳裏を過ったが、何と言えばよいのか分からず、ただ首を横に振る。質問の答えには全くなっていないが、裕文はそうかと言ってそれは以上突っ込んでこようとはしなかった。裕文を見れば、困った様な顔で微笑まれる。どうしたと問われたが、別にとだけ返して未だ五月蠅い問題児コンビを見る。元気がなくて静かなよりは良いが、何事にも限度がある。


「静かにしねーと、ぶっ飛ばすぞ」


 決して大きくはないが、はっきりと相馬がそう言えば、ぴたりと話し声が止む。バッと二人同時に相馬へと向き直り、居住まいを正した。それを見て、思わず溜め息が零れる。やればできるのに、如何せんこの二人は最初からそうしようとはしないのだ。相馬の思っていることが分かったのか、隣に立った裕文がくすりと笑う。


「あの、三年は昨日で引退なんですよね。他の部員はどうしたんですか?」


 先程の職員室での出来事をどう纏めて切り出そうかと考えていると、控えめに大輔がそう言った。啓佑も疑問に思っていたのか、大輔の隣でうんうんと頷く。


「みんな退部した。部員は俺達だけだ」


 何と答えようかと一瞬迷ったが、結局結論は同じなので事実をそのまま口にした。その言葉を聞き大輔と啓佑は、はてと首を傾げる。数秒の後意味を理解したのか、二人の顔からザっと血の気が引いた。大輔はともかく、啓佑はもっと騒ぎ立てるかと思っていたので、マジマジとその顔を見てしまう。


「――つまちゃんも、ですか?」


「は?誰?」


 あまりにも情けない顔で啓佑が言う物だから、一瞬反応が遅れてしまった。啓佑は慣れた人間をやたらと下の名前で呼びたがる。記憶にある限り部員のフルネームを思い出してみるが、そんな名前の人間はいなかったはずだ。


「あ、えっと、原誉次はらようじって人がいたと思うんですけど…ここんとこ全然姿が見えなくて…」


 考えるような間の後によく知った名前が出てきて、相馬と裕文は顔を見合わせた。


「原なら、今インフルエンザで登校停止中だよ」


 裕文の言葉を聞き、ほっとした表情を浮かべたのも束の間、啓佑は怪訝そうに眉を寄せた。


「今の時期にインフルですか?」


「いや、それは俺等も思ったけどよ。何、知り合いなの?つか、つまちゃんて何だよ」


「つまちゃんとは、小学生の時に通ってたクラブチームが同じだったんです。あ、ついでに中学もっす。んで、つまちゃんはクラブチームの時からのあだ名で、原誉次と爪楊枝って似てますよね。それでつまちゃんなんです」


 啓佑の説明に小学生かよと返せば、小学生の時のあだ名なんですってば!とむくれて返された。


「原って分かるか?二年でリベロやってる奴な。一応スタメンなんだけど、インフルエンザにかかったみたいで…たぶん、明日から復帰してくると思う。」


 相馬と啓佑のやり取りを見て笑っていた裕文が、大輔に向き直り説明をする。大輔は一瞬考えるような顔をしてから思い当る人物がいたのか、俯きがちに軽く頷いた。


「まぁ、原が復活したところで、規定人数には足りねーから廃部だけどな。顧問もいねーし」


「笹原先生はもう来ないんですか?」


「ん?あー、元々インハイ予選終わったらご隠居するって話だったからな。学校自体には来年度までいるって話だったみたいけど、体壊して入院中なんだろ?もう戻っては来ねーんじゃね?」


 顔を伏せた大輔の質問に答えてやれば、そうですかとだけ返事が返って来る。

 先日の大会も本来ならば、笹原が監督として指揮をとっていたはずだったのだ。もしあの場に彼がいたならば、少なくともあそこまで酷い試合にはなってなかっただろう。


「新顧問はきっと、引率に来てた先生になるはずだったんだろうね…」


 裕文の言葉に沈黙が落ちる。「問題を起こした部の顧問を買って出てくれる先生は少ないんですよ。」教頭の言葉が思い出されて、うんざりした気分になる。


「俺、兎に角手あたり次第、色々声かけてみます!」


 劈くような大声が体育館一杯に広がる。啓佑は胸の前で両方の拳を握って、やる気満々だ。


「お前が声かけると、みんな逃げんじゃね?」


「もー、なんでそう言う事言うんですか!」


 相馬の言葉に啓佑がぴーぴーと反論をする。ぷりぷりとワザとらしく怒って見せる姿は、百八十センチ越えの男がすると正直気持ちが悪い。啓佑を無視して横目で静かな大輔に視線を移せば、俯いて手にしているボールをじっと見詰めていた。普段から表情豊かな方ではないが、今日は一段と暗い。裕文もそう思ったのか、心配そうに大輔の顔を覗き込んだ。


「斎藤、大丈夫か?何か、何時もと様子が違うけど…」


 裕文の言葉に、大輔は唇を噛んだ。まるで何かを我慢するようなその仕草に、心の底がチリっと痛む。否、痛むとは適切な表現ではないかも知れない。それは痛みと言うよりは、苛立ちに似ている。


「いや、何でもないです。ただ、」


 何時もの無表情で顔を上げた大輔がそう言って、言葉を切った。言おうか言うまいか。そんな感じに視線を動かす大輔。裕文は変わらず心配そうに顔を覗き込み、ただ続く言葉を待っている。いつの間にか静かになっていた啓佑も何とも言えない表情で大輔を見ている。


「一週間猶予も貰ったし、まぁ、何とかなんだろ。」  


 不安に掴まれそうな空気を裂くように、出来るだけ軽く相馬は口にした。


「そう、だよね。辞めた奴に俺も声かけてみるし!」


 相馬の言葉に一拍置いて、裕文が笑顔で啓佑と大輔の肩を優しく叩いた。二人は裕文の顔を見詰め、それから顔を見合わせる。それから何事もなかったような顔をして見せた。


「部員よりも顧問の先生を探す方が大変なんじゃないすか?大会の時、小川先生真っ青な顔してましたもん」


「誰だって突然あんな事になったら真っ青な顔にもなるよなぁ…」


「俺だったら、絶対引き受けません。」


 やたらときっぱり言い切る大輔の肩を一度どつく。しかしながら、三人の言葉はもっともで、啓佑が述べるようにあの日、ギャラリーで途方に暮れていた数少ない部員と共に帰路についた小川先生は今にも息絶えそうな顔をしていた。誠心誠意頭を下げた所で了承してくれる事はないだろう。


「まぁ、小川先生は無理だろ」


「ですよねー」


「他に顧問になってくれそうな先生っているかな?」


 四人で顔を突き合わせ、頭を捻る。


「浅沼先生は?」


「浅沼は野球部の顧問だろ」


「話くらいは聞いてくれそうだけど、さすがに顧問の兼任は出来ないと思うよ。それに例え可能だったとしても、野球部とは無理だと思う…」


「まぁ、そうっすよねー。」


「それに、贅沢だってのは分かってるけど、出来れば経験者が良いよね。只でさえ人数も少なくてやらなきゃいけない事が山積みだから、練習の組み立てとかしてもらえると嬉しいし、技術指導だってあるし…」


 裕文の意見を踏まえて改めて考えているのか、啓佑は難しい顔をして一人唸り始めた。口を開けばよく喋りうるさい男だが、口を閉じていてもうるさいのは如何なものなのか。


「そういえば、」


 沈黙の落ちた体育館に、思い出したような大輔の声が波紋のように広がる。


「新任の雨宮って人が居るじゃないですか、あの人、たぶん経験者ですよ」


 三人に見詰められて、無言の催促に大輔が言葉を続ける。


「五、六年前に有名だった選手で、ユースにも誘われる位だったとか何とか聞いた気がします。」


「へー。良く知ってんな」


「通ってたクラブの監督が高校バレーが好きだとかで、よく話を聞かされてたんだよ。」


 大輔の言葉に、啓佑が興味が薄そうにへーと相槌を打つ。


「ユースに誘われる位だったのに、なんで学校の先生に?」


「知らない。故障とかじゃないのか」


 流れる二人の会話眺める。

そこでふと気付く。心なしか、いつもよりも啓佑からの会話の距離感が近い気がする。それに、いつもはあしらうか無視の多い大輔が、ちゃんと言葉を返している。ちゃんと会話がなりたっていのは驚きだ。


「まぁ、何にせよ、知識がある人に遣って貰えるなら有り難いよね。自分達で色々するって言っても限界があるしさ」


 そんな二人を見て顔を綻ばせている裕文の言葉に、相馬も頷いた。

 強豪校のように優れた設備があるわけでも、実績があってそれに伴ったバックアップがあるわけでもない。どちらかと言えば嫌われ者で、部員はたったの5人ぽっち。試合にすら出られない状態で、おまけに指導者どころか、顧問もいない状態だ。それでも、やるからには勝ちたいのだ。それに一歩でも近づく為に、今ある限られた条件の中で一番良い状態へと導きたい。


「取り敢えず声掛けてみっか。新任の方が柵も少ないだろうし、案外いけたりするかもな」


 少し考えてからそう言えば、何時の間にか相馬の言葉を待っていたらしい三人がうんうんと頷いた。どうなるかは分からないが、方針の決まった顧問の問題はひとまず脇に追いやっても良いだろう。

 残る問題は、部員の確保だ。

プランAは、新規勧誘。

しかし、新しい学期が始まって約二ヶ月。夏休みも控えたこの時期に、まだ部活を迷っていますという生徒はほぼ零だ。意欲がある者はさっさと入部を済ましてしまうし、それ以外は部活動が強制で無いことをコレ幸いと帰宅部になる者が多い。そこから実績の無い、問題を起こした部に入部してくれるだろう人物を探すのは顧問程ではなくとも、容易いことではない。

プランBは、退部した部員達の再勧誘。

しかしながらこれも問題が多い。元々、仁多花高校バレーボール部の部員の割合の大半は引退を控えた三年生が占めていた。勿論、言うまでもないが三年生は引退なので再入部は不可能である。そして相馬達二年の代の入部者は五人で、残ったのは三人だった。彼らに声を掛けるのは些か今更過ぎる気がする。最後残るは、希望に満ち溢れた新入生諸君だが、あんな事があった後で声を掛けられたからと再入部する様なら、目の前に立っているこの二人のように退部はしなかったのではないだろうか。


「あとは、部員かぁ」


 相馬と同じ様な考えに至ったのか、裕文が天井を仰ぎ見て、困ったように呟く。


「部員ですか?それなら、俺に心当たりがあります!」


 裕文の言葉に反応した啓佑がはいっと手を挙げ、元気いっぱいにそう言った。兎に角声がでかい。うるさい。


「俺のクラスに、バレー経験者がいるんです。なんでか今はやってないみたいですけど、声掛けてみます」


「経験者かぁ!なら良いかもな」


「セッターだったんで俺と被っちゃいますけど、一度話してみたいと思ってたんですよねー」


「ん?話したことないの?」


「そーっす。佐倉なんとかつー奴。知ってるだろ?」


 裕文の問いに答えた後、大輔に向き直り啓佑が問い掛ける。大輔は一瞬驚いたように目を見開いて、すぐに目を伏せた。その視線は床の溝を数えているかのようにじっと落とされたままだ。唇はきゅっと引き結ばれて、何ともいえない表情をしている。


「斎藤の知り合い?」


「はい、中学が同じでした。進学先が同じだったなんて知らなかった」


 のぞき込んでくる裕文の視線から逃げるように大輔は目を逸らす。普段、表情筋が欠席がちな彼にしては珍しい顔と反応だ。裕文が様子を窺いながら聞くか聞かざるかを、躊躇うように視線をさまよわせている。

 大輔の様子は明らかにいつも違う。普段は真っ直ぐに人の目を見る癖に、逃げるように逸らしたり、目を伏せたり。必要なことをはっきりと、それ以外は極端に反応が薄いのに、口数が多いかと思えば、言い淀んだりとこの二ヶ月に一度も出会ったことのない斎藤大輔がそこにいた。

 相馬自身も裕文の様にそれが気にかかったが、なんとなく、これ以上突っ込まない方が良いと思った。新しい一面に、勿論戸惑いはある。しかし、大輔と過ごした時間は日付にすれば約三ヶ月、厳密に言えばもっともっと少ない。お互いを知るには時間が短すぎるし、知ろうという努力も足りなかった。

それでも相馬にだって、分かったことはある。斎藤大輔という人間は嘘は言わない。たぶん、嘘をつかないのではなくて、つけないのだろう。それから、嫌なことは顔に出る。正直、もう少し隠す努力をしても良いと思える程度には気持ちが見える。デカくて愛想がなく、可愛げが無いと言われる割には、存外素直で分かりやすい奴なのだ。

だから、きっと何かあれば言ってくるだろう。そう、相馬は結論付けだ。


「まぁ、一年の事はお前ら二人に任せるわ。俺と望月で顧問探しと、二年にも声掛けてみる 。洋司も帰ってくることだし、こき使ってやる」


 相馬がそう言えば、はいっと二人分の返事が返ってくる。裕文はと言えば、今はまだここにいないチームメートの帰還後を思ってか、困ったように笑っていた。


「取り敢えず、人数少ねーし、今日はどうすっかな。お前らどこまでやったの?」


「ストレッチとダッシュは少しやったよ。」


 裕文の答えに少しだけ考える。やりたい事も、やらなければならない事も山積みだ。人数の兼ね合いもあるし、何を優先するのかで迷ってしまう。今まで練習メニューなんて他人に任せっきりで、自分で考えようと思ったこともなかったなとぼんやりと思う。今までは主将であった善志が練習を取り仕切っていた。声掛けから練習の説明に到まで、顧問の笹原と共に部の舵をとっていた。相馬はただそれに従うだけ。意見を述べることもあったが、それは本当に稀なことであり、号令に従って前ならえをしていただけに過ぎなかった。

これからは、助けてくれる先輩も顧問も居ないけれど、自分がその号令を掛けていかなければいない立場になってしまったのだ。この部を続けていくと言うことは、少なくともこの一週間はそう言う事なのだ。

気付きたくなかった事実に目を閉じたくなる。隣の席のなんとかくんの主将になったと述べた時の照れくさそうな笑顔が脳裏を掠める。俺にそれを言うのかと、あの瞬間でかかった言葉が再びせり上がる。

 どちらが言い出したのかは知らないが、問題児二人は練習メニューが決まるまでは一対一でレシーブ、トス、スパイクを回す対人パスをする事にしたらしい。静かだった体育館にバレーボールの跳ねる音が響く。

自分がしっかりしなければと、奥歯を噛む。自分が、それが本位であるにしろないにしろ、主将という立場を任されたのだから。

 不意に、ぽんっと右肩を優しく叩かれる。そちらを向けば、きゅっと眉尻の下がった、それでも不格好な笑顔の裕文がいた。言葉を発しようとして開かれた口は、結局何も紡ぐことはなく静かに閉じられた。不安そうに揺れる濃褐色の瞳だけは、ただ真っ直ぐに相馬を捉えている。そう言えば、去年の半ば、同学年の部員が五人から三人になった時も同じ目をしていた。

 望月裕文という男は、声を上げて皆をひっぱり前に出て行く訳でもなく、割合控え目なタイプで、割れた意見を取り纏めたり誰かの補佐をする事が多かった。強く己の意見を推すことはせず、大体はなるだけ波風の立たない位置を選んで立つような、そんな奴だ。

それなのに、不安で瞳を揺らしながらそれでも、真っ直ぐ相馬を見据える。それはこの地球上のどんな言葉よりも、鮮明な意思表示だ。


「やりてー事は山ほどあるけど、まずは基礎練強化だな。部員が減って、バテても交代出来る奴はいねーし、スタミナ強化は重要な課題だよな」


「確かに。フルセット連戦とかになっても、控えが居ないからどうしようもないよね…部員の勧誘は続けるとしても、それまでいる人数だけで回せるようにしないとね」


 唇に手を当ててうんうんと考え出した裕文を横目に、ひたすら対人パスをしている問題児二人に目をやる。ボールを追う瞳はキラキラとしていて、まるで子供の様だ。


「そう言えば、松川さんが自分用に組んでた練習メニューあったの覚えてる?」


「あー、そういやそんなのあったな」


「部室の教本がさしてある棚にファイリングして置いてたけど、まだあるのかな…」


 裕文の言葉に、相馬も記憶を探る。

部室の奥に普段仕舞われている折り畳みの机を広げて、善志は部誌を書いたり、普段の練習とは別にメニューを作ったりしていた。実費で教本を買ってきては本棚にさして、部員達に貸し出ししたりもしていた。利用者が自分の他に居たかどうかは、相馬の知るところではなかったが。


「結局教本も置いたままだし、まだあんじゃねぇかな。ちょっと見てくるわ。あのアホ共頼む」


 本棚の隅にさされていた黒いファイルを思い浮かべ、一人でうんと納得する。余り気にして見てはいなかったが、確かまだあったはずだ。

未だに対人パスに夢中になっている二人をちょいっと指で指せば、裕文は任せてと笑った。

 裕文の笑顔に見送られ、相馬は少し前に歩いた道を引き返す。体育館の分厚い扉を抜け、外に出る。回り込むように部室棟の正面側へ行き、脇にある所々塗装が剥がれ、赤茶けた階段を登る。一番奥の扉にたどり着けばハーフパンツのポケットに突っ込んだままの鍵を取り出し、鍵を開けた。特に急いでいる訳でもないが、きっちりと靴を揃えて脱ぐのが面倒で適当に脱ぎ散らかしてしまった。普段はそんな事絶対にしないのだが(寧ろ、脱ぎ散らかす啓佑を咎める側である。)、目当ての物が見付かればすぐに出るのだからまぁ良いかなんて自分に言い訳をしてみる。ソックス越しに感じる床はひんやりと冷たくて、心地が良かった。

 部室奥の壁際に置かれた小さめの本棚に真っ直ぐ近付いて目当ての物を探す。とは言え、黒い背表紙はそれ一つなのですぐに見つかった。

 本棚から引き抜き、中身をパラパラと確認する。見知った綺麗な字で細かく書き込まれたそれはとても参考になりそうだ。

 ファイルを見ていると、唐突にがらりと扉が開いた。大方部員の誰かだろう気にしなかったが、いつまで経っても入室して来る気配どころか、扉が閉まる気配もない。不審に思いそちらを見やれば、大輔が上がり框の前に何をするでもなくこちらを見て立っていた。


「なに?なんかあったか?」


「え?………あ、飲み物、忘れたんで…」


 相馬の問いかけに大輔は再起動したようで、のそのそと靴を脱ぎ部室に入ってきた。自身のロッカーまでたどり着くと、口の開けられたまま放り込まれているエナメルバックをガサガサと漁り始める。大輔が忘れ物など珍しい事もあるものだと思ったところで、体育館の入り口脇に三本のペットボトルが並んでいたのを思い出した。体育館から部室までの距離は大したこと無いものだが、水分補給がすぐに可能なように、飲み物を各自一本づつは体育館まで持参するのが通例となっていた。持ち込む数に特別規定はないが、休憩時間になれば部室にも戻ることが出来る事もあり、複数本持ってくる人はいなかった。それは、裕文や啓佑も例外ではない。


「入り口んとこに三本ならんでたけど、アレお前のもあんじゃねーの?」


「え?」


 声をかけてやれば、酷く驚いた顔で振り返られた。え?はこっちの台詞である。


「あ、いや、そうでした。」


 数秒の沈黙の後、すくっと立ち上がって大輔がそう言った。

元々おかしな奴ではあるが、今日はそれが三割増だ。


「おい」


 パタリとロッカーを閉じると、いそいそと出て行こうとする大輔を呼び止める。振り返った大輔の顔は、いつも通り無表情だ。


「、なんかあったか?」


 大丈夫かと問いそうになって、慌てて質問を取り替えた。大丈夫かと問うてしまえば、きっと大輔は大丈夫だとしか返さない気がした。

 対峙した大輔は、履きかけの靴を足で遊びながら、視線をさまよわせる。それからまた、ちらりと相馬を見た。


「………、先輩こそ、俺に言いたいことがあるんじゃないですか」


 質問というより、それは断定的な響き。大輔は、まるで死刑宣告を待つ、囚人のような顔をしていた。予想の斜め上をいく返答に、頭がついていかず、思わず固まってしまう。大輔の言葉が何を指しているのか全く検討がつかず、首を捻る。様子がおかしかったことを除けば、普段とそんなに変わりがなかったように思うし、特別言いたいことはないのだけれど。そこまで思ってから、手に持っているファイルの事を思い出した。


「そういや、これから六日間の練習メニューは俺が作るからな」


「分かりました」


 ファイルを掲げてそう言えば、大輔は少しだけ怪訝な顔をした。どうやら、大輔の思う言いたいこととは違ったらしい。しかし、それはすぐになりを潜め、素直に頷いた。


「お前は今まで別メニューが多かったけど、それは全部廃止な。明日からは俺達と同じメニューをこなしてもらうけど、文句言うなよ」


「………?井杜先輩の決めた事に文句なんてありませんよ」


 よくある青春ものなんかでこんな台詞が出てきた日には、今までの苦労が走馬灯のように過ぎ行き、築き上げた信頼関係にぐっと胸を熱くする所だが、如何せん大輔と相馬には感動で胸が詰まるようなストーリーはない。今度は相馬が怪訝な顔をする番だったが、当の本人は相馬の言葉に心底不思議そうな顔をしている。

 三月の下旬に笹原に連れられた大輔に出会ってからの記憶が足早に脳裏で再生される。

鳴り物入りで入部した大輔は、良い意味でも悪い意味でも兎に角特別扱いが酷かった。一人では出来ない練習以外は別メニューが基本で、もっと出来るとか、ここを伸ばせるなんて言われて、他の部員の倍の練習をさせられていた事もあった。今思えば、特筆すべき事のない部の顧問を任された退職前の教師にとっては、錦を飾る良い機会だったのかも知れない。笹原や大輔本人がそれをどう思っていたのかは不明だが、三年を筆頭とした他の部員達からは非難轟々だったのは言うまでもない。ただ、皆が大輔の様になりたいと思っていたかと言えばそうではなく、立場が逆転したところで不平不満は鳴り止むことはなかっただろうけれど。

 そんな感じで特別枠に収まっていた大輔だが、いくら無表情で積極的に口を開かないと言っても人間である以上、嫌な事や辛い事の一つや二つあったはずだ。しかしながら、弱音どころか文句すらも大輔の口から出るのを聞いたことはない。多感な時期の高校生男児が文句の一つも口にしないなど、最早異常な気さえしてくる。


「お前、さ」


「はい」


「例えば、伊東の上げるトスが打ちにくいとか、俺のレシーブが甘いとか思わねーの?」


 別に自分が下手くそだと卑下する訳ではない。個人競技でない以上、どうしても自分以外が招いた失点を全くの零にする事は出来ない。文句も不満も出て当たり前で、それがあるからこそ、強くなっていけるのではないかと相馬は思う。ぴったりと息のあったプレーを支えているのは、叩き上げた信頼だ。

 出会ってから約三ヶ月。一年以上一緒にいる裕文や耀司との関係には勿論及ばないとしても、信頼のS位は出来ても良い頃だとは思うが、その絆が在るかと問われれば首を傾げる他ない。


「何ですか、唐突に」


 質問の意味を図りかねたのか、眉根を寄せる大輔に良いからと先を促す。


「思ったこと無いです。例えそれがどんなトスであっても、それを打って点を穫れないのは俺の問題で、セッターには関係無いことです。それはレシーブも同じです。誰かが上げたボールをフォロー仕切れないのは、俺に技量がないからです。」


 なんの迷いも躊躇いもなく真っ直ぐに言い切った大輔を見て、相馬はああ、そうかと唐突に理解した。

 まだ少し肌寒い春休み初日。笹原に連れられてきた頭一つも二つも抜きん出た天才。他校の部がどの様に秀でた選手を生かす練習をしているのかは知らないが、よく知りもしない環境に突如連れてこられた大輔は、アップと序盤の練習を他の部員と共にこなした後、一人別メニューに移った。それは何もその日だけの事ではなく、その次の日も次の日も、今までずっとそうだった。一人で出来ないメニュー以外は、グリーンネットで仕切られたもう一面のコートで一人きりという構図が完璧に出来上がっていたのだ。ただ黙々とメニューを消化する毎日は酷く味気ない物だったろう。

ふとした瞬間に、他の部員たちが声を掛け合って走り回るコートをネット越しに見ていることがあった。一度や二度じゃないそれを、その時は癖か何かだと思っていたが、そうではなかったのではないだろうか。相馬達の立つ、大輔からは少し離れたもう一面のコート。それを見つめる大輔の表情はいつもと変わらず無表情だったけれど、その瞳の奥まではさすがに見えなかった。


「アイツは独りでバレーボールをしているんだよ」


誰だったかが大輔を見て、そう言った。才気溢れる天才を揶揄するようなそんな台詞、別に珍しい事じゃなかったけれど、大輔は文字通り独りきりであのコートに立ってきたのか。繋げる競技、なんて言われるバレーボールを、たった独りで。

 黙ったまま何も言わない相馬に、大輔が不思議そうに首を傾げる。啓佑がするようなオーバーなリアクションではなく、本当に何も分かっていないまるで小さな子供のような顔。


「デカい図体して、子供みてーな顔しやがって」


 歩を進めて距離を詰め、未だに不思議そうな顔をしている大輔の、自分よりも高い位置にある右肩をぐーで殴る。痛いと抗議の声を上げた大輔は、別段嫌そうな顔をしていなかった。


「井杜先輩達は、俺を責めたりしないんですね」


 不安とか、悲しさや諦め。それから肩透かしをくらったみたいな。そう言った感情を一つの鍋に入れて、かき混ぜたような顔をした大輔が相馬を見下ろしている。そこでようやっと、相馬は大輔の言う言いたい事が何なのかを理解した。


「誰かに何か言われたのかよ」


「まぁ、それなりには」


 問えば、何でもない事のように返された。まるで責められて然るべきとでも言いたげな物言いが勘に障る。誰が、何をどう言ったかなど、知らない。こんな事になってしまって、誰かを責めたくなる気持ちは分からなくないし、大輔が分かりやすい標的だという事も分からなくは無い。それでも、それを大輔にぶつけるのはただの八つ当たり以外の何物でもないし、誰か独りだけを悪者にして責任を押し付けるなど安直もここに極まれりだ。それ以上に何よりも腹立たしいのは、それを大輔が至極当然の事のように受け止めてしまっていることだ。

そもそも、物事がそんな単純明快ならば、上手くいかないと悩むことなんてないのではないだろうか。もし本当に大輔だけに責任があったのならば、どれだけ楽だったのか。責めて、詰れば済むならば、いくらでもそうしたのに。誰が悪いとか、誰が間違っていたとか、そんな簡単に明確に出来ない。だから余計に厄介なのだ。


「本当に、全部お前だけのせいなら良かったのにな」


 言葉の意味が分からないのか、大輔は首を傾げている。

三年は引退、他の部員は退部。残ったのはそんな事実だけで、一人一人が何を思っていたかなんてわかりゃしない。どうする事も出来なかった。今になって思えば、もっと出来る事があったようにも思うけれど、今更、後の祭りだ。

それでも、続けると決めた。それだけは確かだ。そして、そう決めたのは相馬だけではなかったはずだ。


「誰に何言われたのか知らない。どうせろくでもない事だろうよ。お前がどう思ってんのかもよく分かんねーけど、そうやって自分だけの責任にして考えるのを止めるのは良くないと思うぞ。俺達とお前は、チームな訳だ。分かるか?」


 相変わらず言葉が飲み込めないままの大輔に言葉を続ける。


「俺がいて、望月や原や、伊藤がいて、お前がいる。レシーブがあって、トスが上がる。トスが上がるから、お前がスパイクを打つ訳だろ。つまり、一蓮托生なわけ」

「いちれんたくしょう、ですか」

「そう、お前の負けは俺達の負け。俺達の勝ちは、お前の勝ち、だ。俺達はチームなんだ。お前はもっと欲張りになっても良いんだよ」


 一人じゃ出来ない競技なのに、自分一人で完結しているなんて可笑しな話だ。

大輔は相馬の言葉をなぞるようにチームとだけ呟いて、黙ってしまった。言いたかったことがどれ位伝わったのかは不明だが、今はその意味を考えようとしているだけでも十分だ。

相馬よりも十センチ以上高い身長。他を圧倒する才能。嫉妬も羨望も一心に受けるのは、自分よりも一つ年下なだけの同じ子供だった。


「伊藤と一緒に部員集めしろよ。こっちは顧問捕まえんので手一杯だかんな」


 靴を履きながらそう言って、すれ違いざまに大輔の肩を軽くファイルで叩く。今頃体育館では帰りが遅いと二人がそわそわしている頃だろう。外へ出て、まだ読み込み中の大輔と向かい合う。改めて鍵を握りなおすと、紛失防止の為に付けられたであろう鈴が柔らかな音をたてた。


「先輩、俺、」

「初心者でも、経験者でも文句言わねーけど、面倒くさい奴連れて来たらぶっ飛ばす」


 何か言いかけたのを遮ってそう言ってやれば、一瞬考えるように大輔は目を伏せる。それからもう一度相馬を見据えた大輔の瞳は強い光を湛えていた。


「厄介事、持って来るかも知れませんよ」

「あー?まぁ、何かあったらケツ持ってやっけど、取り敢えずぶん殴る」

「井杜先輩は、そればっかりですね」


 呆れたように溜め息を一つついて、大輔が本当に少しだけ笑った。たぶん、俗に言う笑顔とは遥か遠く離れた、口元を少し上げただけのそれ。

それでも確かに、それは笑顔だった。

 


 


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