雪の下の春

@rennkonnhasamiage

第1話

 断片的な記憶が、断続的に繰り返される。

つるりとした床にバレーボールが跳ねる音、ネット脇に立った主審の手の動きと、ホイッスルの劈くような音。コートの四隅に立つ線審の旗がバっと動く。ざわざわとやたらに五月蠅い喧騒の中、ゲームセットを告げる主審の声がやけに耳につく。ネットの向こう側の選手たちが、嬉しそうに笑っているのが見えた。ただ、何をするでもなく、ベンチから立ち上がる。痛み止めが効いているのか、サポーターで固めた右足首は不思議なほど痛まなかった。

隣に座っていた監督兼、顧問の先生に肩を叩かれる。後輩の唇が動く。それがやけにスローモーションに見えて、ただぼんやりと見つめた。

 ぼろり。音に表記するときっとそんな感じに目から水が零れた。最初の一粒を皮切りに、それは次から次へと流れ出し、艶やかに光る木の色をした床にぼたりと落ちた。

あんなに、あんなに大好きだったのに、バレーボールが嫌いになった。そんな瞬間。

高校生最後の夏の大会からもう半年以上も経ったというのに、ふとした瞬間にそれは小林由宇子を悩ませた。

元々弱小だった上に、初戦の対戦相手は優勝最有力候補。百回当たれば、百回負ける。そんな分かり切った試合だった。由宇子本人はと言えば、試合十日前に右足首を捻挫。将来にも関わるのだから、大会は諦めてくださいなんて有難いお言葉を駆け込んだ病院の先生に頂いた。その後に探し回ったスポーツ医にサポーターと痛み止めをもらい、絶対に無理は止めて下さいなんて怖い顔をされた結果、コートに立てた時間は第三セットにほんの五分もなかった。

そうして三年間に亘った部活動は幕を閉じ、結局引退のお祝い会も病院に行くからと言って行かなかった。後から個別で貰った後輩からの色紙には目も通していない。元チームメイトにバレーボールの甲子園なんて呼ばれる春高へと駒を進めた男子バレー部の試合をみんなで見に行かないかと誘われたが、ちょっと予定があって、なんてありがちな嘘をついた。廊下ですれ違った部の後輩が、部活に顔を出さないかと何度かそう言ってきたが、それも適当な理由をつけて結局一度も顔を出さなかった。特に決まった用事があった訳でも、特別考えがあった訳でもない。ただ、あの空間に足を踏み入れることはどうしても戸惑われたし、何よりバレーボールも、バレーをしている人も視界の端にさえ入れたくなかった。それを人に言うのも憚られたし、周りも付き合いが悪いな程度で何も言ってこなかった。

 ただ一度だけ、部とは関係ない仲の良い友達二人がもうバレーはしないのかと聞いてきた事があった。その問いに、今は足が痛むからなんて笑って答えれば、さぞ納得のいっていないだろう顔で、ふーんと言われた。何かを言いたげにしていたが、二人はそれ以来その話題には触れなかったし、由宇子も勿論それには触れなかった。それを少し有難いと思ったのは、自分の情けなさだったのかもしれないと、今更思う。

何もしていなくても時間は流れ、季節は巡る。夏の浮足だった空気は、受験や就職活動に押され、落ち着きを取り戻す。うだるような暑さは消え、代わりに冷たさが肌を刺す季節になる。その頃にはそういった誘いはなくなっていた。もう誰に気を使う必要も、いらない小さな嘘を重ねる必要もない。授業外で体育館に近づく事もなかったし、あっと言う間に自由登校になり、学校そのもが疎遠になった。これで平穏が戻ると思っていたのだが、心が軽くなったような、余計に重くなったような、ぐちゃぐちゃに混ざり合った感情が喉の奥に詰まった様に未だに気持ちが悪い。

でも、それも今日で最後。喉の奥に残る苦いような気持ちも、元チームメイトも三年間過ごした体育館も、見慣れたポールとネット、緑とオレンジっぽい赤と白の丸いボールも。これでやっと楽になれるのだと、由宇子は誰もいない静かな教室でそう思った。

 時刻は卒業式を終え、クラスメートとの別れも終えた十四時。大体の生徒が帰宅してしまった学校は随分と静かになってしまった。カーテンの引かれていない大きな窓から教室内へと差し込む日差しは、穏やかで温かい。一年間過ごした教室はすっかり片付いており、自由登校前のゴチャゴチャした騒がしさはない。窓際の一番後ろにある元自分の席に座り、ペタリと机に覆いかぶさる。机に突っ伏したまま見上げた空は、卒業に相応しい雲一つない快晴だった。

 嬉しさに反して気持ちが晴れないのは、ここに沢山の思い出があるからなのか。

 「なんか、やり残したこととか、いっぱいありそう…」

 誰に言うわけでもなく、そう呟く。明日からはもうここに来ることはなく、やっと三年間の自分の影から逃れられるというのに、どうしてこんなにも憂鬱な気分にならなくてはいけないのか。意味もなく腹が立つ。突っ伏したまま一人むくれてみたところで何か言ってくれる人物たちは今は不在で、空しくなる。

 外から微かな喧騒が聞こえ、席を立ち窓に寄れば、一望できるグラウンドに練習着を着こんだ野球部員の姿が見えた。位置的にそんなに離れていないせいなのか、白球が金属バットに当たる独特な小気味良い音と、はっきりとは聞き取れない重なりあう掛け声が聞こえる。別にどうということはない何でもない光景だったが、今の由宇子にとってそれは何だか苦いものに映った。野球部に恨みはないが、思わず顔を顰めてしまう。去年も、その前の年も、彼らの様に部活に打ち込んでいた自分を思い出す。部活は休みだなんて言われたけれど、顧問の先生に毎度のことながら頼み込んで体育館の鍵を借りた。ちゃんと時間までに返しに来いだとか、綺麗に使えよなんて言う先生の言葉を右から左に聞き流し、はーいと大きく返事をして体育館に急いだ。それがごく自然に、由宇子にとっては当たり前のことだったのに、どうしてこうなってしまったのか。楽しそうにグランドを駆ける生徒の背中が、日差しのせいなのか酷く眩しかった。

 ふと、グランドの左端にある体育館が目に入り、思わず視線を逸らす。ぎゅっと瞳を閉じて思い出すなと自分に言い聞かすが、目を瞑ったのが逆効果だったのか、断片的な記憶が瞼の裏に投影される。何度も何度も夢にまで見るそれは、振り払っても振り払っても纏わりついて、由宇子の足を幾度となく引っ張るのだ。

 最後の夏の大会に初戦で負ける学校が一体いくつあると思っているのか。出場した学校の約半分は初戦敗退。勝てるのはほんの一握りのチームだけだ。そんな当たり前の現実に、いつまでも囚われていてはいけないとそう思うのに、思えば思うほど情景は色を増す。もう何か月も前の出来事だというのに、未だにバレーボールが見られないなんて、とんだ笑い話だ。ここに来なくなれば、もう本当に思い出すこともなくなるのだろうか。本当に楽になるんだろうか。そんなはずはないと本当は分かっているのに、未だにそれを認めることが出来ずにいる。何だかとっても泣き出したい気分になって思わず俯くと、ガラリと教室のドアが開いた。

 「ごめん、お待たせ!」

 明るい声と共に教室に、友人である一之瀬彩夏と鈴木美月が入って来る。ここで待っていろと言った張本人である彩夏は、がさりと手に持ったコンビニ袋を由宇子に向かって見せ、これで許せ!なんて笑う。後ろから、早く行こうって言ったんだよと、呆れ顔の美月。静かで物悲しかった教室が一気に明るくなり、由宇子の足を引くそれも少し薄くなる。

 「遅いよ!いくら教室は暖かいからって、一人でめっちゃ暇だったんだけど!」

 わざとむくれて言ってやれば、お詫びと言って棒アイスを差し出される。二か月づつ並んだカレンダーがページを変え、いくら三月になったからと言え、外は防寒具が手放せない寒さだ。何故アイスをチョイスしたのかと小一時間彩夏を問い詰めたかったが、ストーブの着いた温かい教室で食べる分には良いのかななんて思いなおす。

 「さー、高校生最後のガールズトークといきますか!」

 由宇子の前の席を陣取った彩夏は、ガサガサとコンビニ袋から袋菓子と三本のペットボトルを取り出し、満足げにそう言った。

 「式も終わったし、もう高校生じゃない気もするけど…」

 彩夏にそう突っ込んだ美月も満更ではないようで、由宇子の席の右隣に座る。窓際に立つ由宇子を不思議に思ったのか、彩夏がグランドをちらりと除く。

 「おー、野球部練習してんじゃん。やるねー」

 彩夏はそう言うとひゅーと軽く口笛を吹く。

 「私も去年はやってたなぁ。体育館の片付けの手伝いまでさせられてさぁ…」

 「今年はソフト部休みなの?」

 「ん。なんか、顧問のセンセが外せない用事があるらしくて、昨日顔出してきたんだけど、皆喜んでた。」

 美月の質問に彩夏が袋菓子を開けながら答える。由宇子はそれを横目に見て、やっぱりみんな部に顔出してるんだななんてぼんやり思う。何度も誘われたのに、結局一度も行かなかった。

誰も何も言ってはこなかったけど、感じ悪かったかななんて今更思っても仕方がないことを考える。

 「三年なんてあっと言う間だよね。入学式が昨日の事のように思い出せるもん。」

 美月がそう言えば、分かるーと彩夏の笑い声が教室に広がった。

 「ゆーこ?座らないの?」

 不思議そうに二人に見詰められ、由宇子は自分が立ったままだったことにようやく気が付いた。ちょっとぼーっとしてたと曖昧に笑い、席に着く。二人はさしてそれを気にする風でもなく、少しほっとする。別に三人で話すのは今日で最後って訳でもないけれど、せっかくの晴れの日に二人にまで鬱々とした気分をうつすのは忍びなかった。

 「今日で終わりなんだよね」

 「なんか実感わかないよねー。」

 時の流れが早いなんて小さな頃は想像もしなかった。でも、今になって先生や親の三年なんてあっと言う間という言葉を痛感する。

 三年間。日数に換算すると、千九十五日。そこから土日祝日、夏休みなんかの長期休暇を除くともっと短くなる。平均八十歳生きるらしい日本人にとって、それは本当に一瞬の出来事のように思える。

 「楽しかったねぇ…」

 由宇子がそうしみじみと言えば、同意するように二人が笑う。

 うんと伸びをして、黒板の上に掛けられた時計をちらりと確認した彩夏が、一瞬何かを考えるような素振りをし、悪戯っ子のような笑顔でまた口を開く。

 「ていうかさー、答辞を斎藤が読んだこと、未だに納得がいかないわー。」

 彩夏の言葉に、斎藤大輔の姿がぱっと由宇子の脳裏に浮かぶ。男子バレー部の不動のエース様で副主将。真っ直ぐ伸びた背筋と、凛と澄んだよく通る声。三年間グリーンのネットで仕切られた隣のコートからその背中をずっと見てきた。そんな言い方をすると女子には期待を孕んだキラキラした瞳で見られるかもしれないが、そう言った甘ずっぱい話では断じてない。

 斎藤大輔という人間は天才なんて呼ばれていて、入部した瞬間からレギュラーで、監督にはお前がエースだなんて言われていた。口数はあまり多くなくて、笑わない。取っ付きにくさは天下一品で、あまり良く思わない人も多かった。ただ、ネット越しのその男は、大きな体からは想像もつかないほどまるで羽が生えているのかと思うほど綺麗に飛ぶ。放たれるスパイクは重く、ブロックを物ともしない。フォームもとても綺麗で、初めてそれを目にした時、由宇子の口はぱっかんと開いたまましばらく閉じなかったくらいだ。それからというもの、小林由宇子の中の斎藤大輔は、バレーボールと=で繋がったのだ。由宇子の中で何時だってバレーボールは輝きを放っていた。そしてそれとイコールで繋がっている大輔もまたそうだった。目標であり、憧れである。男女の違いはあれど、自分もあんな風になりたいとそう思える存在だった。一年生の夏休みに練習が休みにも関わらず相棒である伊藤啓佑と自主練習をしていると聞きつけ、教えを乞うため突撃するくらいには尊敬もしていた。その無口で不愛想な天才は話してみると噂で聞く程そんなに悪い奴ではなく、見た目に見合わず熱血っぽい所があったり、勉強はできるのにバカだったり、壊滅的に空気が読めなかったり、意外と面白い人間だったのだ。人の事を下手くそだとバカにして笑う癖に、しつこく教えを乞えば丁寧に教えてくれる。由宇子の自主練習に何やかんや言いながら遅くまで付き合ったり、またその逆も然り。誰もいない体育館で大輔の為に永遠とトスを上げ続けた事もあった。ワンセットの啓佑も混ざって遅くまで練習しつぶしたり、テスト前に啓佑と由宇子でワークブック片手に大輔を拝み倒したり。二年生に上がり彩夏、美月がそこに加わり、さらに賑やかになった。そんな付き合いは、途切れることなく続いている。いや、正確に言えば続ていた、だ。その関係は由宇子が夏の大会前に捻挫した事でぷつりと途絶えた。別に特別喧嘩しただとか、そんな事があった訳ではない。ただあの日の影に追われるようになってしまった由宇子と、勝ち進む大輔には確かに溝が出来た。きっとそれは由宇子が掘ってしまった些細な溝だったのだろうけれど、勝利の報告を聞くたびに嬉しさと同じだけ溝は深くなって、由宇子がそれを飛び越えることは叶わなくなった。バレーボールと=で繋がった斎藤大輔という人間はそれはもうキラキラ輝いて、それが無性に嫌で仕方なかった。それを本人に告げたことはなかったが、同じクラスだというのにどんどんと疎遠になり、挨拶程度こそするが仲良く話すことは殆どしなくなった。これも、由宇子の中のどうしてこうなったのかという自身への問いに含まれている。

 「わかる。アイツ、バカだもんね」

 答辞を読み上げる相も変わらず伸びた背中を頭の片隅に追いやり、そう言えば彩夏は瞳を輝かせて、だよねーと笑った。

 「まぁ、否定はしないけど、斎藤君は少なくとも頭は良かったよ。二人と違ってね。テストの時はいつもお世話になってたでしょ?」

 にこにこと柔らかい笑顔を浮かべたまま、美月が毒を吐く。その言葉がぐっさりと刺さり、由宇子は頭を垂れる。刺さったのはどうやら彩夏も同じだったようで、みっちゃんのキチクーなどと泣きまねを始めた。

 「伊藤君もそうだったけど、二人とも運動は大得意なのにね。テスト週間になると顔真っ青にしてほんと面白かった!」

 笑顔の追撃に彩夏はノックアウトされたのか、机に突っ伏してしまう。文学少女な美月は三年間学年トップ5から足が出たことのないという、同じ人間とは思えない頭の持ち主だ。テスト週間におバカな由宇子と彩夏の面倒を見るのが美月の使命とかしていた。

 「私達はさー、もうあ、こいつバカだなって見れば分かるじゃん?伊藤は詐欺だよねー。見た感じ頭めっちゃ良さそうなのに」

 机に伏せたまま顔を上げた彩夏は口を尖らせていて、まるで小さな子供みたいだ。彩夏の発言に、美月が確かにとやけに神妙な面持ちで答えるものだから、思わず由宇子は吹き出した。体育館でもクラスでも、常に大輔とワンセット。エースを支える主将であり、有能なセッターである片割れの伊藤啓佑は確かに爽やかな笑顔が印象的な好青年で、黙っていればとても賢そうに見える男だった。何時だったか、大輔が本人を目の前に、お前は喋ると途端に残念になる。なんて言って、酷いと抗議を受けていた。

 「黙ってれば爽やか好青年なのになぁ…喋ると残念系男子だからね。何とか男子は流行りだけど、残念系男子は流行りませんわ」

 あんまりな言われようではあるが、そんな事ないよと言えない所がまた啓佑たる由縁である。勿論、良い意味で。

 突然ガラリと教室のドアが開いたかと思うと、廊下に今しがた話に上がった長身の男子が二名立っていた。制服姿の啓佑とは対照的に、大輔はジャージに身を包んでいる。二人とも鼻の頭が赤い。外は相当寒いようだ。

 「おいコラ!廊下まで筒抜けなんですけど!折角の晴れの日に悪口やめれ!」

 ズカズカと一直線に啓佑はこちらへと大股でやってきて、口を尖らせる。出たな、残念系男子。と彩夏が言えば、啓佑がばしりと彩夏の頭を叩く。いつも通りのやり取りに、由宇子は美月と顔を見合わせて笑った。ふと由宇子が顔を上げれば、啓佑の後ろに立つ大輔と目が合う。あの日から結局碌に話もしていない。何だかとてつもなく気まずくて、思わず目線を逸らす。大輔のキラキラで、自分の足元の影が余計に濃くなる気がして、少し怖い。

 「今まで何してたの?」

 「それは、俺のセリフなんですけどー」

 「俺たちは部活の後輩達と、色々」

 美月の問いに茶化すように返す啓佑に若干被るようにして大輔が答える。ひどくね?と啓佑が批難の声を上げるが、最早何時ものこと過ぎて誰も反応しない。さすが、残念系男子の名を欲しいがままにする男だ。

 「今日、体育館使う部活休みだって聞いたけど?」

 「休みだよ。でも、もー皆気合入ってからなー。部室で大騒ぎ。来年こそは優勝してみせます。先輩達よりも強い事、証明して見せます。って松川が!」

 何時もの爽やかスマイルを引っ込めてキリッとした顔を作った啓佑は、態々声音まで変えて一つ下の後輩の物まねをする。それが意外に似ており、由宇子は思わず声を出して笑う。彩夏と美月は松川という人物を知らないがそう言われている啓佑が容易に想像できたのか、特に彩夏が大爆笑していた。

 「コバはどーなの。部活、顔出した?」

 何時もの笑顔が帰宅した啓佑が由宇子に目を向けて問いかける。啓佑の視線と共に大輔の視線も由宇子に向かい、居心地が悪い。

 「あー、結局行けてないや…色々忙しくて」

 もごもごと歯切れ悪く答えれば、特別気にした風でもなく、ふーんと返される。深く追及されなかったことに少しほっとして、そんな自分が情けなくなる。

 「ていうか、なんで教室まで?部室棟からだったら、そのまま校門の方が近いのに」

 話題を逸らす意味もあったが素直に思ったままを口にすると、啓佑と彩夏は顔を見合わせてにんまりと笑う。それを困った様に見守る美月。

 「なに、みんなして…」

 由宇子が露骨に嫌な顔をしてみせると、前の席から伸びてきた彩夏の手に肩を叩かれた。

 「まぁまぁ。特に深い意味はないですよー。ただ、何となくね!もう会えなくなるわけじゃないけど、この教室で顔合わせることもないし、最後に残念系男子と無愛想エース様の顔を見るのもいかと思って」

 彩夏がお菓子を口に入れてからそう言えば、食いながら話すなと大輔からお叱りが飛ぶ。確かになんとなーく気まずくて距離が開いてしまってはいたが、大輔と啓佑の二人と仲が悪かった訳ではないし、朝挨拶を交わしただけでそれっきりっというのも今更ながら寂しい気もする。

 「そうだよね、もう卒業しちゃったんだもね」

 途端にしんみりして由宇子が呟くと、今度は右側から美月にぽんぽんと優しく肩を叩かれる。さっきまで相変わらず五月蠅い奴らだなと思っていたのに、卒業という言葉にはとんでもない魔力があるようだ。さっきまであんなに騒がしかった教室に別れを惜しむような沈黙が流れる。

「コバ、ちょっと練習付き合わねぇ?」

卒業生に凡そ似つかわしくないジャージ姿の大輔が、話の流れも空気もぶった切り、由宇子を真っ直ぐに見詰めやっぱり卒業生には似つかわしくない言葉を何の前触れもなく唐突に吐いた。思わず四人で顔を見合わせてしまう。

「はぁ?やだよ、寒いし。大体、体育館使えないんじゃないの?」

「もう片付け終わってるから良いって。どこも部活休みらしいけど、体育館はネット立ててそのままにしといて良いって言われた。後、ボールも好きに使えって。」

暗にどう見てもそいういう雰囲気じゃないでしょ感を醸し出してみたが、大輔がそんな空気を読めるはずもなく、事も無げにそう返された。言いたいことが態度で分かった他の三人は小さく体を揺らして笑うのを堪えている。

「ふーん。やっぱりエース様は待遇良いんだ。」

少し腹がたって嫌味たらたらに由宇子がそう言えば、大輔は一度視線を逸らしてからもう一度由宇子を見た。

「茶化すなよ。大学の練習始まるまでは特別待遇なんだよ。どうせ入学前から練習参加すっから数日だし、ちょっとやんないだけで体鈍りそうだし。」

真面目にそう返され、由宇子は心の中で舌打ちする。別に大輔が嫌いなわけではないし、彼の自主練習に付き合ったことは幾度となくあった。ただ、あの最後の大会が終わってからは違う。大輔も誘ってこなかったし、由宇子もバレーの話は一切しなかった。だから、分かってくれてると勝手に思っていたのに。

「イトーとすれば良いじゃん。」

「ざんねーん。伊藤君は、今日外せない予定があるんですよー、これが!」

大輔の隣で笑っている人物の名前を出すも、本人によりあえなく撃沈。啓佑の人の好さそうな顔を睨みつけ、心の中で今度会ったときは覚えてろよと毒づくが、へらりとした笑顔を返されただけだった。

「そういえば!」

五人も人がいる教室に沈黙が落ちる。無意識に眉間に皺が寄るのを何とか抑えようと由宇子が一人格闘していると、先程まで静かに事の顛末を見守っていた彩夏が手を打った。何かと思い彩夏の顔を見やれば、とびっきりの悪戯を思いついた子供の様な笑顔をしており、嫌な予感が全身を駆け巡る。その勘はどうやら間違ってはいなかったようで、その笑顔を見た美月は言葉に表すと、うわぁ…みたいな顔をしていた。ただ一人空気の読めない大輔は、突然どうしたんだよなんて呑気なセリフを吐く。五月蠅い黙れと言いたかったが、やめておく。

「ゆーこ、部室のロッカーそのままなんでしょ?三組の石巻さんがなんか嘆いてたよー。ついでに片してきたら?」

ニコニコ明るい笑顔で、頬杖を突きながら彩夏がそう言った。不思議そうな顔をする美月に石巻さんはバレー部の元部長さんだよと親切な解説を入れる。納得したらしい美月が由宇子の顔をじっと見つめる。

「お前、まだ片づけてないのか。迷惑な奴だな」

少し離れたところに立っていた大輔が、腕を組む。お前に言われたくないと心底思ったが、美月と彩夏の視線が刺さってそれどころではない。

「わ、わかった!部室のカギとって来るから、先行ってて」

突き刺さる視線は大輔と啓佑の分も追加され、耐えきれず由宇子は折れるしかなかった。確かにロッカーどうするんだと顧問の先生にも言われていたし、こんなこともなければきっと片づけには行かなかった。たいして使っていなかったロッカーはそんなに物も入っていないし、汚れてもいないがさすがにそのまま後輩に使わせるのは可哀想ではあるし、何よりその小さなカギは由宇子が持ったままだ。ただでさえ数が少ないに、開かずのロッカーを作るわけにもいくまい。諦めてそう言えば、大輔は満足したように少し笑っておーと間抜けな返事を返す。早く来いよとだけ告げ、さっさと教室を出ていってしまった。

「良かったじゃん。」

どういった良かったなのかは分からないけど、彩夏が嬉しそうに笑うものだから文句を言うことも出来ない。

「………あんま良くない」

出来るだけ小さく呟いた言葉は、難なく美月に拾われて、どうして?と首を傾げられてしまった。

「いや、別に…」

なんて答えればよいのかわからず、由宇子は言葉を濁す。そういえば、二人とバレーボールの話をするのはもう五か月ぶりぐらいだと思い出す。夏大以降、一度だけ彩夏にもうバレーはしないのかと聞かれた以来だ。それまでは二人に五月蠅いと怒られるくらいに話していたのに。

「足、まだいてーの?」

事の成り行きを見守っていた啓佑がこてんと首を傾げる。

「あー、うん。全然問題ないよ。」

「良かったね。最初に松葉杖で登校してきた時は、ほんとに吃驚したもん」

由宇子の歯切れの悪い答えに、美月が優しく笑ってくれる。捻挫した次の日、松葉杖をつきながら登校した由宇子に、彩夏も美月も目を見開き泣きそうな顔で駆け寄って来たことを思い出す。そいういえば、遠目にこちらを見ていた大輔は怒ったような悲しいような、困った顔をしていたなぁと記憶の断片が頭の片隅でちらちらと揺れる。啓佑は相変わらず騒がしかった。何か言われたはずだけれど、もう覚えていない。

「ねぇ、ゆーこ」

ぼーとそんな事を思い出していると、彩夏がどこか気まずい顔で由宇子を呼んだ。なに?と返せば、困った様に視線を泳がせる。

「どうしてさ、バレーの話もしなくなったの…?」

あんなに好きだったのにさ、そう続いた言葉に、由宇子は何も返せなかった。喉元まで出かかったこの纏わりつくような気持ちを、なんと説明すればよいのかも分からないし、それはあえて人に話すようなことでもないような気がした。

「まぁ、色々あるよね。」

黙ったまま何も言わない由宇子に、美月がそう明るく重い空気を裂くように言った。伏せた顔を上げれば、彩夏は困った様に笑って、ごめんと言う。それに由宇子は首を横に振って答える。

「あんまり待たせっと、大輔キレるぞ」

由宇子がもう一度顔を伏せると、啓佑がおどけた調子でそう言う。それに合わせるように彩夏に肩を叩かれた。顔を上げれば何時もの笑顔の彩夏がいて、由宇子は何か言いたかったが、言葉が出ない。ほらほら、急げと美月に鞄を渡され立ち上がれば、とんとんと背中を押される。ついたままのストーブを振り返れば、後はやっとくからと三人は笑った。

「じゃぁね!明後日楽しみにしてるから!」

「寝坊したら、置いてくぞー」

彩夏にうりうりと肘でつつかれ、由宇子も思わず笑う。

「しないよ!あとお願いね。気を付けて帰ってよ!」

三人に手を上げて扉に向かう。由宇子も気を付けてねと律儀に美月が告げる。扉を開けると同時に、彩夏がばいばーいと元気よく言った。扉越しに大きく手を振る彩夏と啓佑、それに倣って控えめに手を振る美月が対照的で、もう一度少しだけ手を上げて由宇子は笑った。

ストーブの頑張りが届かない廊下の空気はひどく冷たく、文字通り肌に刺さるようだ。ひーなんて一人で呟き、足早に職員室を目指す。先程の彩夏の顔を思い出し、悪いことをしてしまたなと少し後悔。あんなに五月蠅くバレーバレーと言っていた人間が突然何も言わなくなれば、もちろん不思議に思うはずだ。もし自分が逆の立場だったとしても、同じように思うだろう。それなのに今までその話題を出さなかったのは、二人が意図的にそれを避けていたからだ。そんな簡単なことも分からなかったなんてと、由宇子は少し自己嫌悪する。男子二人の事にしたってそうだ。別に露骨に避けていたつもりはないし、そんな事はなかったと思いたいが、由宇子の様子がおかしいという事ぐらい二人にも分かり切っていただろう。気分のいいことでもなかっただろうに、それを何も言わずに普通に接してくれていた。

「悪い事したなぁ…」

小さな呟きは冷たい空気に解ける。階段を一階まで下り、下駄箱を過ぎた所にある職員室に入る。お目当ての先生は由宇子が見つけるまでもなく、こちらに気付きのそのそと歩いて来た。

「斎藤の自主練に付き合うんだってな。ロッカー片せよ。」

顧問の先生はそれだけ告げると、部室のカギを由宇子に手渡しそそくさと退散してしまう。ありがとうございましたと少し大きめに口に出し、今度は寒い廊下を体育館脇の部室を目指して歩き出す。体育館と部室棟に行くには外に一旦出なければならず、靴を履き替え体を出来るだけ小さく丸め外に出る。ボロボロの上履きは適当に袋に入れてリュックに放り込んだ。

外はやぱり廊下とは比べ物にならないくらい寒かったが、まだかろうじてお昼と呼べる時間帯の為か日は温かかった。寒いけど、やぱり春が来るんだなぁなんて思うと今まで気にしたこともなかったのに、何故だか少し感傷的になってしまう。

いそいそと部室棟の二階、端から二番目に用意されたバレー部の部室に入る。今日はどこも部活が休みだと大輔が言っていたのは本当らしく在校生に会うことはなかった。それが少し有難く、ほっとする。別に部の後輩と仲が悪かった訳ではないが、今は誰とも会いたくない。自分のロッカーを開け、置きっぱなしの予備のバレーシューズと膝用サポーターを取り出す。シューズは確実に必要だろうが、サポーターはいるのだろうかと一人首を傾げる。大輔のようにしっかり着替えるのも癪に障るので、スカートの下に長ジャージを履くだけに留める。空っぽになったロッカーを見詰め、今から体育館に行くのかと溜め息が零れる。卒業式で体育館には入ったが、今から行く体育館とはまた別物なのだ。今から行くのは、ポールにネットが張られた体育館。さすがにアンテナは立ってないかな、なんてどうでも良いことを考える。いや、あのサイトーの事だ、しっかりばっちり完璧に用意しているかもしれない。やたらと自信に満ち溢れたドヤ顔の大輔を想像してしまい、由宇子は笑ってしまう。誰もいない部室にその声が響いた気がして、少し悲しくなる。ここでも色々なことがあったな、なんて感傷的な思考を振り切るように一度頭を振り、ロッカーを閉めて部室を出る。意を決して出てきたけれどやっぱり体育館に向かう足は錘がついたように重く、大した距離でもないのに少し時間がかかってしまった。

締め切られた体育館の扉を一つ深呼吸をして開ければ、バレーボールをリズミカルに打つ大輔と目があった。

「おせぇ」

大輔が何か言ったが、由宇子の耳には届かない。由宇子の目は、大輔の手と床を行ったり来たりしている、緑とオレンジっぽい赤と白いカラーリングのそれに釘付けになっていた。ただボールを見ただけで、ドキドキする。それは由宇子が今まで色々な人に告げた言葉だった。でも今は少し違う。胸がキュッとして、少し切ない気持ちになる。

「おい」

ぼんやりとボールを見詰めていると、大輔が少し大きな声を出した。由宇子はハッとしてごめんとだけ呟く。

「俺はもうアップしたから、一人でやれよ。さみーし、念入りにな」

大輔はそう言うと、由宇子の返事も聞かずにサーブの練習を始めてしまった。広い体育館にボールのインパクト音と床にぶつかる音が一杯に響く。由宇子がネットを見やれば、想像した通りご丁寧にアンテナまでしっかりとつけられていて、笑いが込み上げる。部に居た頃、毎日のようにやっていたアップのためのストレッチを念入りにする。冷えた体での運動は怪我の元なので冬はそれなりに時間をかけてやっていたなぁと思い出に浸る。

「終わったよ」

少し体が温まった所で大輔に声をかけると、打ち散らかした球を一緒に拾えと命令される。一人でやれよと言ってみたが、早くしろと睨まれたので由宇子も渋々ボールを拾いに行く。大輔は一籠全て打ち切った様で、結構な量だ。ちらりと少し離れた所でボールを拾う大輔を一瞥すればやはりと言うべきか、薄らと額に汗が滲んでいた。やっぱりこの男は由宇子の中でバレーボールと=で、キラキラしていて、喉の奥が詰まるように苦しい。

「対人しよーぜ」

ボールをしまい終えた籠を大輔が体育館脇に押し出す。籠は緩い音で動き、壁に当たって止まる。その様子を由宇子は目で追った。うんともすんとも言わない由宇子に対し、大輔も何も言わずただじっと由宇子の行動を待っている。突き刺さる視線に仕方なく大輔を見やれば、真っ直ぐな瞳とかち合う。ぶれることのない射るようなそれに、由宇子は最悪だと心の中で呟いた。なぜ、こんな所までのこのこ来てしまったのか。大輔が用事もなく人を呼び出す人間ではないことを由宇子はよく知っていたはずなのに。

「わかった、やれば良いんでしょ」

無言の圧力に耐えられなくなった由宇子は、まるで半ば叫ぶようにそう言って大輔から距離を置き向かい合った。部活で幾度となくやった所謂キャッチボールのようなそれ。大輔が持っていたボールをふわりと宙に投げ、額の前あたりに構えた手でトンッと飛ばす。山なりの球がやんわりとこちらに向かって飛んでくる。そのボールを見た瞬間、期待や喜び、悲しさや悔しさ色々な感情が沸き上がり、由宇子はちくしょうと小さく小さく言葉を零した。

由宇子が同じようにボールを返せば、また大輔も同じようにボールを寄こす。だたそれの繰り返し。一々綺麗なフォームに腹が立つ。ぶれないボールの軌道も、それをちゃんと返してしまう自分にも腹が立つ。

「なぁ、」

黙々と作業のようにそれを繰り返していると、大輔が小さく口を開いた。声のトーンはいつも通りだけど、珍しく言いよどむ。一度キュッと口を引き締めると、何かを確認するようにもう一度口を開く。視線はボールを追ったままで、目は合わない。

「なぁ、バレー辞めるのか?」

大輔の声は大きくはなかったけれど、ボールを弾く音しかしない静かな体育館に嫌に響いた気がした。

「辞める」

きっぱりとそう言って、ずきりと胸が痛んだ。大輔の眼はやっぱりボールを追っていて、ちらりともこちらを見ない。無言で帰ってくるボールに、要件はそれだけなのかと一安心。これ以上この話題は話したくない。

「なんで辞めんの」

ほっとしたのも束の間。大輔の追撃をくらい、危うくボールを取り落しそうになった。何とか体制を立て直しボールを返したが、眉間に皺が寄るのを止める術はない。考えるよりも先にはぁ?と口から言葉が飛び出す。出た声音は自分で思っていたよりもずっと不機嫌で、トゲトゲしていた。そのまま刺さってしまえばいいのになんて思ったが、大輔に効果はなかったようだ。

「はぁ?じゃなくてよ。」

「別に。私、就職組だし」

「就職したって続けられんだろ。」

「はぁ?そこまでして続けることもなくない?」

なんでお前にそんな事言われなきゃいけないんだ。心の中で悪態をついた所で大輔に伝わることはなく、声も顔もこれ以上ないぐらい不機嫌にしているというのに、気づいているのかいないのか全くもって伝わってないようだ。

「はぁ?って口癖なの?」

小馬鹿にしたように言う大輔に間髪入れずにうっさいとだけ返す。

「なんで辞めんだよ」

「サイトーには関係ないじゃん。別に中高とやったからって、続けなきゃいけないって訳じゃないでしょ」

頑なにこの話題を辞めようとしない大輔に、イライラが募っていく。もしすぐ隣に立っていたら、手が出てたかも知れないなと頭の片隅で由宇子は冷静にそう思った。

ふわりと緩く上がったボールに背中を反り、全体重かけて右手を叩きつける。ドッと良い音がして、放物線を描いていたボールが鋭く宙を駆ける。そのままぶつかってしまえと思ったが、由宇子の思考に反してボールは大輔に拾われた。まさにレシーブのお手本みたいに勢いは殺され、ふわっとボールが舞う。

「お前、すげーバレー好きだろ。納得いかない」

「いみ、わかんない」

「捻挫おして最後の大会出るなんてよっぽどだろ」

「だからなに」

「納得いかない」

「サイトーにはかんけいない」

ボールは二人の間を行ったりきたり。でも、言葉のキャッチボールは上手くいかない。早く、一秒でも早くこの会話を終わらせたいのに、大輔がそれを許さない。飛んでくる言葉を叩き落としても叩き落としても、次が飛んでくる。やっぱり来るべきじゃなかったんだと今更ながら由宇子は奥歯を噛む。

「めっちゃ泣いてただろ。悔しかったんじゃねーの」

「………だから、なに」

「なんで辞めんの」

「いい加減、しつこい」

「納得いかねーもん」

飛んできたボールを由宇子はしっかりとキャッチした。間違っても宙を浮いたりしないように、両手に力を入れる。ギリギリと力を込めるが、空気のしっかり入ったボールはびくともしない。まるで大輔の様だ。嫌なのに、辞めてほしいのに、こちらの都合なんて一切通用しない。

「なんで辞めるんだよ」

「サイトーがしつこくてウザいから」

本日三回目のセリフに投げつけるようにそう答えた。それしか言えないのかよと由宇子が小さく呟いたが、大輔には届かなかったようだ。

「そうじゃない。バレー」

困った様に一つ溜め息を落とし、大輔が後頭部をガシガシと掻いた。ふざけんな、ため息つきたいのはこっちだよ!といくら心の中で騒いだところで、一ミリも相手には伝わらない。自分がとんでもなく情けない顔をしているだろう事が手に取るように分かって、それでもどうすることも出来やしない。あの日、あの惨めに負けた日に、しっかりと二度と開かないように心の奥底にカギをかけた気持ちが引きずり出されるようで、吐きそうだ。

「なぁ、なんで辞めるんだよ」

四回目のその言葉は、まるで泣き出しそうに聞こえた。

「………うまくないから」

なんでアンタがそんな声出すのと問いたかったが、口を開けば喉の奥に張り付いて取れなかった苦い物がつるりと滑り出た。

「意味わかんねー」

小さな悪態は届かないくせに、絞り出すような小さな声は聞こえるらしい。本当に嫌な奴だ。もうこんなこと辞めて帰ろうと冷静な自分がそう言うのに、カギが外れたそれはドロドロと溢れ出して箍が外れたように止められない。

「アンタみたいに上手くないから!」

しっかりと掴んでいたボールを力任せに大輔に投げつける。難なくそれをキャッチされたことに余計に腹が立つ。

「アンタみたいに推薦来ないし、プロも目指してないからっ!」

「大学じゃなくても、プロじゃなくてもバレーは出来るだろ。」

「もう嫌になったの!」

癇癪を起した子供のように叫ぶ由宇子と対照的に、大輔の声はひどく落ち着いていて、それが悔しい。ピリピリと指先が痺れるように痛む。俯いた瞳には薄く水が幕を張って、視界がぼやける。無性に泣けてくるのが余計に悔しさを増長して、唇を噛み締める。

「なんで」

「なんでって…」

大会の日がフラッシュバックする。

つるりとした床にバレーボールが跳ねる音、ネット脇に立った主審の手の動きと、ホイッスルの劈くような音。コートの四隅に立つ線審の旗がバっと動く。ざわざわとやたらに五月蠅い会場で、ただひたすら立ち尽くす自分。優勝候補との一回戦。ストレート負け。でも誰も泣かなかった。負けて当たり前だって、みんな思ってた。由宇子は捻挫の為第三セットに本当に少しだけ出て、すぐにベンチに戻された。ベンチに座りながら、ただひたすらあそこに立ちたい、もっと出来るのにとコートを睨みつけていた。ゲームセットの声に、零れ落ちた涙が止まらなかった。嗚咽が漏れて、みっともなくて、それでも止まらなかった。

 「三年間頑張っても、これで終わりなんですね」

隣に座っていた後輩がそう言った。どういうつもりで、どういう気持ちで言ったのかは到底わからなかったけれど、その言葉は由宇子の心にぐっさりと突き刺さり、抜けなくなった。

眠いからって朝練をサボったこと、友達と気まずくなって適当な理由をつけて練習に行かなかったこと。どうしてもっと真剣にやらなかったのか。どうしてもっと落ちるボールを精一杯追わなかったのか。どうして大切な大会の前に、捻挫なんて馬鹿な事をしたのか。

どうして、どうして、

考えても考えても今更どうしようもない。三年間の結果は、一回戦敗退だ。これで終わりなんですねなんて、何の意味もなかったみたいな、

 「負けたの!私の三年間の結果は、一回戦負け!男子は凄いよね。優勝は出来なかったけど、全国ベスト8でしょ」

 涙が零れないように必死になりながら、由宇子は笑った。あの優勝候補の学校がどうなったかは知らない。どこかで負けたかもしれないし、最後まで勝ったかもしれない。ただ一つ確かなのは、由宇子よりも一つでも多くあのコートに立ったということだけだ。それは男子も同じで元々女子とは違いそこそこのチームだったが、今年はどんどん勝ち進んでその度に学校中が沸いた。バレーボールなんて視界の端にも止まらなかった人までも、男子勝ったんだってと大興奮。喜ばしい事なのに、全然嬉しくなかった。そんな風に思ってしまう自分が惨めで、嫌で、余計にどうしようもなくなってしまう。

「だからなに。俺は負けて悔しかったよ。優勝したかった。」

「私だって悔しかったよ!でも、口が裂けても優勝したかったなんて言えないでしょ。一回戦負けだよ」

「関係ないだろ、そんなの」

「あるよ。サイトーの三年間は、全国ベスト8。私の三年間は、」

三年間頑張っても、これで終わりなんですね

何度も何度も頭の片隅で声がする。あの子が言っているのか、自分自身が言っているのか。それさえももう分からなくて、あんなに好きだったバレーボールを見るのも嫌になった。緑、オレンジっぽい赤、白。見るだけであんなにも胸がドキドキして、わくわくしたのに。必死になって追ったボールも、練習試合に勝ってバカみたいにはしゃいだ事も、悔しくて泣いた事も、全部全部、意味なんてなかったんだ。

 「私の三年間は…わたしの、バレーは、いみなんてなかった」

せっかく必死に我慢した涙が、ぼたぼたと瞳から零れ落ちる。最高に格好悪くて、最低だ。

黙ってこちらをを見詰めていた大輔が、最初にしたようにボールをふわりと宙に投げ、額の前あたりに構えた手でトンッと飛ばす。ぼやけた視界越しに飛んできたボールを、由宇子はキャッチした。

「俺さ、一年の初めいきなりレギュラーになって、先輩にトス貰えなかった。」

俯いてそう言った大輔の表情は窺えない。元よりぼやけた視界では碌に見えやしないのだけれど。

「バレー始めたのは小学校低学年で、正直誰にも負けない位上手かったと思う。周りの奴になんでそんな事もできねーの?バカじゃね?って思ってた事もあったし。」

入部したての頃の斎藤大輔を由宇子はよく知らないが、真ん中に引かれたグリーンのネット越しの斎藤大輔は確かに、ツンとしていて皆の言う様にデカくて怖くて、なんかやな奴だった。そして、それ以上にとても上手かった。

「あんま真剣にやってなかったし、入ったばっかの奴がいきなりレギュラー取ったら面白くねーよな。新しい奴が入るってことは、勿論外れる奴が居る訳で、一緒に汗水たらして努力してきた奴の代わりに、だた何となくやってる奴が入ってくんだぜ?ありえねーよな」

大輔が笑ったのが空気で分かる。きっと、困った様な笑顔だということも、由宇子には分かった。

「そんな事も分かんないでさ、いや、分かってたのかもなー。」

零れる涙を腕で拭うと、やっぱり大輔は困った様に笑っていて、擦ると腫れるぞと言った。それから手招きしてボールを寄こせと言うので、床にワンバウンドさせる。ボールが床を打つ音が、酷く懐かしく聞こえる。

「監督が勝手に決めた事なのにトスくれない先輩も、上手くいってねーって分かってるのに俺を押す監督も、面と向かってお前ヤな奴だなとか言ってくる啓も全部ムカつくし、ボールこねぇならコートに立つ意味ないって思った。全部ムカついて、全部嫌で、辞めてやろうって思ってたんだよな。」

大輔は受け取ったボールを両手でクルクルと回しながら、それをじっと見詰めている。

「でさ、あーだりーって、何となく隣のコート見るだろ。そうしたらさ、コートのふちっこでさ、めっちゃ下手なのに一生懸命練習してるお前が居るわけ。どう見ても取れないだろってボールも一生懸命追っちゃってさ、ダサーって」

入部したての頃はただ楽しくて、何も考えずにボールを追っていた。取れないようなボールも一生懸命追いかけて、派手に転んだこともあった。女子はもちろん、ネット越しの男子達にも笑われて、心底恥ずかしい思いをした気がする。それを思い出したのか、可笑しそうに笑う大輔を睨む。

「正直、女バレはそんな勝ちたいって感じしなかったのにさ、一人温度差キツーみたいな」

「バカにしてんの」

あまりの言い草に腹が立って、由宇子は無意識に手を握りしめた。爪が掌に食い込んで痛い。確かに自分自身で意味なんてなかったと言ったけれど、バカにされるのは心外で腹が立つ。その瞬間、確かに由宇子は真剣にバレーボールをしていたのだから。

「まぁ、聞けって」

右手でボールをバウンドさせる大輔は、とても楽しそうな顔をしていた。リズミカルな音が体育館一杯に響いて、それ、サーブを打つ前に癖でよやったなぁなんてぼんやりと思う。

「でもさ、誰より楽しそうだった。好きなんだなぁって思った。みっともないし、ダサいし、バカみたいだけど、羨ましいなって思ったんだよ。」

ボールを両手で掴むと、大輔はじっと由宇子を見詰める。由宇子はどうすることも出来ず、ただその真っ直ぐで真剣な瞳を見つめ返す。

「バレーなんて嫌いじゃなかったけど、別に好きでもなくて。覚えてるか分かんねーけど、最初にお前がバレー教えてくれって来た時、何がそんなに楽しいのって聞いたことあっただろ。」

大輔の言葉に由宇子は記憶を掘り起こすが、よく思い出せない。そんな事も言われたような、なかったような。一人頭を捻る由宇子を気にした様子もなく、大輔は先を続ける。

「そしたらお前さ、バレーが好きだからって言ったんだよな。似たようなこと啓にも言われて、そんなもんかと他人事みたいに思ってたけど、お前も啓もすげー頑張ってんの分かって俺も少し真剣にやってみようって、元々当たりキツかったし投げずに頑張んのは正直しんどかったけど、やってくうちに先輩たちともまぁまぁになってバレーもずっと楽しくなった。お前らが言ってたのは、こういう意味だったのかなって」

大輔は入部当時から有名で、先輩との折り合いが悪かたっり問題を抱えていたのは噂でちらっと知っていた。その時は天才も大変なんだなぁなんて馬鹿な感想を抱いていたけれど、自主練を共にした大輔や啓佑はそんな事微塵も感じさせなかったから、ただの根も葉もない噂なのかもと思っていた。

「最後の大会、女バレは一回戦ストレート負け。やっぱり誰も泣かなくて、そん中でお前だけ恥ずかしいくらいわんわん泣いてさ。まぁ、他の奴が悪いってわけじゃないしどーって訳じゃないけど、それにお前の三年間が全部詰まってる様な気がした。あ、これは啓も同じ事言ってたからな。」

「いみわかんない」

真っ直ぐな視線に耐えきれず俯けば、使い古したバレーシューズが見える。買った時はもっとビシッとしていたはずなのに、今は随分草臥れている。

「辛かったり苦しかったり、何度も何度も辞めようと思ったことも、全部嫌になって投げ出したことも。お前らとした自主練も、勝ちも負けも。それが全部今の俺に繋がってるなら、意味とか難しいことは分かんねーけど、それが答えなんじゃないかと思う。少なくとも俺は、お前のバレー好きだよ。」

まるで、後頭部を鈍器で殴られたかのような衝撃だった。意味なんてなかったと押し込めた色々な事がぶわっと溢れ出す。真夏の熱気の籠った体育館でぶっ倒れるまで練習した事、真冬の凍えるような冷たさの中、汗を垂れ流してボールを追ったこと。笑ったこと、怒ったこと、悔しくて涙が止まらなかったこと。三年間が走馬灯のように頭を駆け巡る。

「まぁ、お前全然下手くそだけどな」

「うっさい!まだ伸びしろがあんの!」

バカにしたように付け足された言葉に、由宇子は思わず顔を上げてそう怒鳴った。大輔が酷く驚いた顔をしていたけれど、それ以上に由宇子自身が驚いていた。それに気づいたのか、大輔はぶはっと盛大に吹き出した。思考がついていかずぽかんとしている由宇子を横目に、ひとしきりお腹を抱えて笑った後、またムカつく程綺麗なフォームでボールを寄こす。由宇子も同じように自分の出来る限り丁寧なフォームでそれを返す。

オーバーハンドパスは、額の前で両手で三角を作るように構える。ボールを弾くけど、無駄な力は入れない。アンダーハンドパスは両手を組んで、手首付近でボールを拾う。腕は板のようにして、ボールを受け止めるように。力任せに腕は振らない。組んだ指は親指を突き指しないように気を付けて。三年間、毎日のように呪文のように唱えて練習した。バレーの教本も買って、ルールも勉強した。分からないところは面倒くさいと悪態をつく大輔をひっ捕まえて分かるまで教えてもらった。毎日毎日飽きもせず繰り返して、少しできるようになれば、叫びだしたくなるほど嬉しくて。楽しくて、好きで、好きで、ただそれだけで。

バレーで生きていくなんて、そんな事絶対に無理だけど。優勝したかった、なんてやっぱり口が裂けても言えないけれど。

 「私、バレーが好き。」

壁にぶち当たって、挫けて遠ざけて、嫌いになったなんて言ってみたところで、沸き上がる気持ちは変わらなくて。頭の隅であの言葉を壊れたラジオのように繰り返していた弱い自分はいつの間にかいなくなっていた。

「知ってる」

「わ、たし!わたし、バレー、辞めたくないよっ」

せっかく止まっていた涙が一気に由宇子の瞳から溢れ出した。

 辛くて、苦しくて、悲しくて悔しくて。もう辞めてしまいたくて、でも続けていたくて。苦しくて苦しくて、それでも、どうしてもやっぱり好きで。まだ、まだ緑とオレンジっぽい赤と白のボールを、追いかけていたい。涙がぼたぼたと溢れ出てくる。

「これからも、好きなだけすればいいだろ」

ぶっきらぼうに告げられた言葉はボールのようにキラキラとしていて、由宇子が涙でくしゃくしゃな顔を上げると、ふんわりと宙を飛んできたボールが、ぼこりと頭に直撃した。

「い、だい…」

由宇子はボールが当たった場所を手で押さえながら、グズグズと鼻を鳴らす。静かな大輔を不思議に思い見やれば、お腹を抱えて必死に笑いを堪えていた。いや、堪えようと努力はしているようだが、堪え切れておらず、肩が震えている。

「サイトーのあほ!」

転がっているボールをサッと拾い上げ、ドッジボールの要領で力いっぱい投げつければ、俯いていた大輔に見事ヒット。今度は大輔が間抜けな声を上げた。それを指さして笑ってやれば、ギロリと睨まれる。由宇子がしたようにサッとボールを拾い上げた大輔に、ぎゃーと可愛くない声を上げて逃げ回る。空気のしかっり入ったバレーボールは、バスケットボールとまではいかなくても中々の威力だ。取り敢えず、全力疾走。

高校生という三年間はあっと言う間に過ぎ去り、終わってしまった。もう二度と戻ってこないし、明日からは教室で彩夏や美月と笑いあうこともなければ、この図体のデカい男とこの体育館に立つことはもない。啓佑と大輔をからかって遊ぶことも、テストがヤバいと彩夏と嘆くことも。授業中くだらない話をして先生に怒られたり、勝手に美月のノートに落書きして散々文句を言われたり、忘れた教科書を仕方ないなぁと見せてもらったり。

朝のピンと張りつめた冷たい体育館でネットを張ることも、毎日毎日バレーボール漬けの日々を送ることもない。それでも由宇子の人生は続いていくし、明後日には彩夏と美月と三人で卒業祝いの旅行に行く。四月からは、仕事が始まる。もう、この学校に通うことはないのだ。目を瞑って甦るあの光景を、今すぐに忘れることは出来ないし、きっともっと歳を重ねても思い出すのだろう。ただ、そこに今までの様な苦さはきっとない。ただそうであって欲しい。

 あぁ、社会人バレーのチーム、探さなきゃなぁ。と、由宇子は酸素の足りない頭で思った。

「サイトー!」

立ち止まり、肩で息をしながら体育館一杯に響く声で大輔を呼んだ。

「イトーと、彩夏とみっちゃん呼んでさ、また、バレーしよう!」

ぐるりと勢いよく振り返り、投げつけるようにそう言えば、右腕にぽこりとボールが当たった。

「当たり前だろ、ばーか」

悪戯が成功した小さな子供のように大輔が笑うから、由宇子もそれにつられて同じように笑った。

三月一日。暦の上では春ですが、まだまだ寒い。それでも確かに気づいていなかっただけで、ちいさなちいさな春はそこにあったのだ。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雪の下の春 @rennkonnhasamiage

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る