後日談 佐藤栄作 上

 何が間違っていて、何が正しいのか。何が正義で、何が悪なのか。何がやってはいいことで、何がやってはいけないことなのか。

 昔も今も、僕はそれらが全くわからない。

 では今、目的を終えた自分自身にといてみることにしよう。

 復讐は、やってはいけないことなのか?

「駄目とは言わないけれど、やっぱりやってて気持ちのいいもんじゃないよね」

 僕は、口にも出してすらいない空虚なこの疑問に対する返事を、誰かの口から聞いた。

 そこに至るには、まず時を三十分前に戻すしかないと思う。だから、僕はあえてあの日のことを思い出す。

「……やったね、栄作。これで、あんたの復讐は終わったんだよ」

 そう言ってくれるヒーロー夫人の目は明らかにやつれていた。しかしこれは朝起きて目を開けるのが辛いからとかいう下らない理由からじゃないのは、僕の目から見ても――徳永切裂の死体を仮設トイレのすぐ側にある公園の地面に埋めて黙祷している地下の皆さんから見ても明白だった。

 僕は、きっと居ても立ってもいられなかったんだと思う。ヒーロー夫人の悲しみは、他でもない僕が生み出したものだ。

 僕が生み出したものなのに。

 僕は、いけしゃあしゃあとこんな言葉を口にしていた。

「……すいません、ヒーロー夫人」

「……今何て言った……今あんたは何て言ったんだい!」

 瞬間、ヒーロー夫人は僕の服の襟元を片手で持ち上げ、僕を鋭い目で見た。息が苦しい。地下の皆さんが見兼ねてヒーロー夫人の近くに寄ろうとしたけど、その一本目で全員止まった。

 そして、全員、僕を鋭い目で見た。

「あんたが! 自分で自分の過去にけりをつけるためにとっ君を殺したんだ! 自分の都合の為に、とっ君を殺したんだ! 確かに、とっ君は昔、あんたの大切な人を含めていっぱい人を殺したよ! 私はそれをとっ君の口から聞いた! とっ君は、沈んだ顔で言ってたんだよ! 栄作! あんたはあんたの大切な人の復讐の為にとっ君を殺した! だけどね! とっ君を大切な人だと思っている人も居るんだ! 復讐ってのはね! 誰かがどこかで止めない限り、絶対に終わらないものなんだ!」

 ヒーロー夫人はそこまで言うと、「ハァ、ハァ、いいかい栄作」と荒いだ息を整えながら僕を地面に降ろし、僕の両肩に両手を乗せてこう言った。

「とっ君のことを、絶対に忘れないでくれよ。あんたを殺し、あんたが殺した徳永切裂という一人の人間の名前と顔を、絶対に忘れないでおいてくれ」

 ヒーロー夫人の頬に、涙が一筋流れる。そして、ゆっくりと泣き始め、最終的に周りの人に抱き抱えられながら、声を押し殺して泣いていた。周りの人も今まで留めていたのだろう。だけど、ヒーロー夫人の決壊によって、やがて泣き始める。

 僕は、泣かなかった。

 泣ける訳がなかった。

 そしてゆっくりとその場を離れる為に歩き始めた。誰にもさよならを告げずに、ヒーロー夫人を含めた地下の皆さんに届くか届かないかの声で、「すいませんでした」ともう一度謝った。今度はつられてじゃなくて自分の意志でだったけど、そんな些細な心の入れ具合なんてものが、今この状況に何の価値もないことはわかっていた。荷物は最初からそんなに持っていなかったので、このまま僕はこの街から出ることが出来る。とにかく歩き、歩いた。周りが台風でも通過したかのようにねこそぎ崩されている。徳永切裂の軌跡が、ここにもあった。

「佐藤さん!」

 すると、前から黒いリムジンが近づいてきた。窓から顔を出しているのは高梨君だ。どういう訳かはわからないけど、リムジンを運転して僕の右横側に止める。

「佐藤さん、徳永切裂の奴に復讐出来たんですね! 良かった……良かったです!」

 高梨君はさっきまで近くに居た地下の皆さんとは違い、僕の徳永切裂への復讐が完了して本当に喜んでいるようだった。

「……高梨君は、徳永切裂が死んでよかったんですか?」

「何言ってるんですか、佐藤さん。こんなに街を壊した徳永切裂が死んでも俺は何も感じませんよ」

「そう、ですか」

 どうやら高梨君は徳永切裂に対して何の思い入れもないらしい。何か特別な事情が、地下の酒場にもあったんだろう。まあ、今からこの街を出る――僕には何の関係もない話だけど。

「今までお世話になりました。すいません、迷惑ばかりかけて」

「あれ? もしかして佐藤さん、もうこの街から出ちゃうんですか? 水臭いですね。もっと地下に居てくださいよ」

「……そこまで迷惑をかける訳にはいかないんで」

 ヒーロー夫人が居る場所に――地下の皆さんが居る場所に、もう近付けそうもない。とにかく僕は、一刻も早くこの街から出たかった。そんな僕の気持ちを少しだけでも察してくれたのか、高梨君は「そうですか……残念です。あ、門まで送っていきましょうか?」と僕に申し出てくれたけど、僕はそれを断って、自分の足でこの街を歩きたかった。

 高梨君がリムジンの窓から顔を出して手を振りながら去っていく姿を見送ると、僕はもう一度歩き出す。中心部の建物があった場所まで行き、そこからまた少し歩くと、僕が徳永切裂を殺した場所があった。血も何も残っていないけれど、僕が確かに徳永切裂を殺した場所。

 正直、僕は何も感じなかった。復讐心と達成感と、罪悪感と謝辞の気持ちが混じり合っていたからとかいう綺麗事をはくつもりは全くない。

 僕は、徳永切裂が死んだところで、何の感情も動かなかったんだ。

 何の躊躇いもなしにその場から離れ、この街の出入り口に立つ。一度振り返り、ヒーロー夫人の泣く姿をもう一度頭の中に浮かんだ。


 復讐は、やってはいけないことなのか?


「駄目とは言わないけれど、やっぱりやってて気持ちのいいもんじゃないよね」

 その声の主を、僕は間違いなく覚えていた。この街の中で、僕にとって一番インパクトがあったこの人の声を、忘れる訳がない。

「アハハ。久しぶり、栄作」

 叶さんが、音も起てずにジャージ姿で僕の目の前に居た。

 僕が復讐する原因となった、亜希子に似過ぎている叶さんが。

「見送ってくれるんですか、叶さん」

 僕が色んな感情をさらけ出して泣き出しそうになるのを堪えながら言ったこの言葉を聞くと、叶さんは「やっぱりね」と僕に言って、続けて無表情でこう発言した。

「やっぱり栄作は、凄いんだけど凄くないよ」

「……え?」

 その台詞に。

 僕は、嫌という程思い入れがあった。いや、そんなことがある筈ない。僕は、亜希子が死んだのをちゃんと確認した。だから、こうして亜希子が僕に向かって喋りかけてくれる訳がないんだ。

 だけど。

 ここで僕は、皮肉にも徳永切裂という男のことを思い出してしまう。

 死んでいたのに、徳永切裂はああやって建物を壊しまくっていた。

 なら、死んだ亜希子とこうして話しをするのも、一つの可能性を汲めば不可能になくなる。

 叶さんは。

 ――亜希子は。

 フワリと宙に少しだけ浮かびながら、僕にこう言った。


「久しぶり、栄作」

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