ヒーローがいるのに平和な街の裏 五

 この物語に始まりなんてものはない。

 この物語には過程と終演しかない。

 何があろうと僕は僕の目的の為に突き進み。

 何があろうと僕は僕の目的を果たすだけなのだから。

 そんな僕に関わってくれる登場人物は全く揃っていない。

 一人は僕と友好関係を持ってくれる元犯罪者。

 一人はこの街唯一の正義の妻。

 それでも足りない。足りる訳がない。

 思考錯誤の故に。

 思考錯誤が故に。

 僕が僕の目的を果たす為にはまだ足りない。

 だからこれから紹介しよう。

 この物語における過程の始まりはそれからだ。

 これから僕は動じない。

 何があろうとも。

 何が起ころうとも。

 何が降り懸かろうとも。

 何が襲いかかるとも知れないこの物語に、僕は動じない。

 例え抗えきれない真実に辿り着いたとしても。

 例え信じたくない真実に辿り着いたとしても。

 僕は動じない。

 僕は動じられない。

 僕は動じてはいけない。

 何故ならそれがこの物語における終演に繋がる過程であり。

 僕の目的の為ならば、目を逸らしてはいけない過程なのだから。

 さあ始めよう。

 これが過程の始まりだ。

 これが過程だ。

 これが終演だ。

 これが僕だ。

 これが僕の選ぶ道だ。

 これが僕の選んだ道だ。

 これが僕達だ。


 これが僕達なんだ。





「さあさ、早く準備しな」

 そう言ってヒーロー夫人は、ノートや財布諸々の用意がたんまりと入っているくせにそこまで膨らんでいない黒色の肩掛けバッグを僕に差し出した。ヒーロー夫人の横で笑う高梨君も「頑張って下さい」と僕の見送りで立っている。

 ヒーロー夫人が早朝なので不機嫌というのはいつもと変わらない。変わっているのは、僕が朝早く起きる理由だけだろう。

 この街に来てから結構な日にちが経った。家が台風に飛ばされ、お金が全く無い状況での徳永切裂探索は至難の技だと判断していたのだが、ヒーロー夫人や高梨君を含む地下の住人達のご厚意でどうにかここまで暮らしていくことが出来た。

 毎朝早く起きて二時間の射撃をした後、開店する酒場の手助けをする。最初は目隠しされて見ていた住人達の生活移動の風景も、酒場を手伝っている内に信頼を得られたのが理由なのかどうかはわからないが、見させてもらえた。他にも地下の住人の中で知り合いが出来たり、地下の酒場以外の風景も見せてもらったりと色々な進展があったのだが、それはまたどこかで話すとしよう。その機会もいずれ訪れる筈だし、納得するまでの実力を手に入れるまで徳永切裂の居場所はヒーロー夫人に欲しないことにした僕には、まだまだ街の地下で住む時間は残っている筈だから。

 何はともあれ、今の僕にとって重要なのはそんな些細な――言い方は悪いが、現在僕が直面している問題に比べたら些細なことになってしまうから仕方がない――事柄ではなく、昨日突然沸き起こった問題なのだ。

 昨日の夜、寝袋に入って寝ようとした僕と高梨君に、いきなりヒーロー夫人の電話の声が大きく聞こえてきた。カウンターの裏にある地上にも繋がる電話を使っての会話だったらしい。「何だって! あんた、そりゃ本当のことなのかい!」と酒場にはいない他の地下の人達にも聞こえるんじゃないかと一瞬思う程の大きな声を出し、「ああ……わかった、わかったよ。明日からなんだね? わかった。今から本人に伝えるから」と言う言葉で会話を締め括ったヒーロー夫人は、溜息を一回ついた後カウンターから出てくる。因みに「何だって!」から「本人に伝えるから」までの発言は同じ大きさだった。感情の起伏が激しくないヒーロー夫人らしいといえばヒーロー夫人らしいが、それにしたって一度大きくなった自分の声量を調整するくらいのことはして欲しかった。

「何かあったんでしょうか」

 心配そうに言う高梨君を横目に、ヒーロー夫人が頭を抱えてこちらにやって来るのが見える。今まで見たこともない程困惑しているのが目に見えた。もう一度大きな溜息をつくと、ヒーロー夫人は言った。

「今日の練習はやめにしようか。今すぐ外出の準備をしてくれ」

「え?」

 当然、僕は驚く。高梨君も同様に驚いた。

 僕がこの街に来てから今日まで、酒場の手伝いを休むことはあっても、この練習だけは欠かしたことがなかった。それが毎日の必要事項だったし、僕にしたって居ても立ってもいられない気持ちを抑える為に必要な行動だった。ヒーロー夫人がヒーローから送られる『徳永切裂がまだこの街から脱出していない』という情報と、『徳永切裂が移動した場所がまだ特定出来ていない(ヒーロー夫人が徳永切裂の居場所を知っていたというのは嘘ではなかったが、翌日ヒーローが確認してみると、その場所には誰もいなかったらしい)』という情報があると言っても、今でも動き出したい気持ちは変わらないのだ。

 だけど、何だって?

 練習をせずに外出の準備をしろだって?

「どういうことですか、ヒーロー夫人! 佐藤さんが地上に上がったら、真っ先に徳永切裂って人を捜しに行くに決まってるじゃないですか!」

 高梨君が早朝なのに叫ぶ。高梨君の意見を否定しきれない僕は、とりあえずの疑問を発することにした。

「さっきの電話の相手は誰で、どんなことを言われたんですか?」

 困った顔をしてその場を濁すかと勝手に僕は思っていたのだが、それ程隠す必要がなかったやり取りだったらしく、ヒーロー夫人は迷わずこう答えた。

「夫から、あんたを大学に通わせるよう言われたんだ」

 ……。

 …………は?

 思わず唖然となってしまう僕。横目で見ると高梨君も同じで、口を開けて呆けるくらいの反応しか出来ていなかった。

 ヒーロー夫人がもう一度、何度目かになるかわからない溜息をつく。綺麗な髪を右手でかき、「夫が言うにはさ、」と僕に説明仕出した。

「この街に入る時に、大学の入学届けを出したらしいんだよ」

「……誰がですか?」

 当然、僕は聞き直す。こんな厄介事を押し付けたどこかの誰かを問い詰めなければならない。大学なんて行く意味がない。僕は高校を中退している。あまり思い出したくない過去が、高校二年生の夏にあったからだ。その日からずっと休んだ僕は当然留年が確定し、それ以降も行かなかったため、自然と退学させられていた。学費を払っていないのだから、自分から退学したと言った方がいいかもしれないけれど。

 そして僕は復讐を心に決め、今ここにいる。

 そんな僕が、今更大学になんか行ったって意味がない。独学で何もかもこなしていたから教わることなんて何もないし、そもそも教わる気がさらさらない。

 だから、大学なんて行く気はない。

 しかし、入学届を出した誰かを知ろうとしたこの質問は、ヒーロー夫人の口から意外な返答を作りだすことになった。

「あんただよ、栄作」

「……は?」

 もう一度、僕は呆れた声を出した。高梨君も同様で、やはりほうけた顔をしている。ヒーロー夫人は信じられないというよりも、半ば諦めかけた表情をしていた。

「誰が何の為にあんたの名前であんたを大学に入れようとしたかはわからないけどね、とりあえずあんたは今日から、地上に行ってこの街唯一の大学に入ってもらわなけりゃならない訳なんだよ」

「……もし、大学に行かなかったら?」

 ヒーロー夫人も、僕にそんなことをしている暇がないことはわかっている筈だ。そうじゃなかったら、こうやって溜め息をつく訳がない。つまり、ヒーロー夫人が僕に大学へ行かそうとするにはちゃんとした理由がある。

 そして、ヒーロー夫人はこう言った。

「もし入学の手続きをして、『この日までには来て下さい』っていう通知を無視して大学に行かなかった場合、あんたは強制的に地上へと連れていかれるんだ」

「な……」

 ヒーロー夫人が言うこの言葉の真意を掴むのは容易だった。

「そうなんだ。夫にもうバレてんだよ――栄作、あんたが地下で暮らしてるってことは」

「そ……そんな! どういうことですか!」

 高梨君がヒーロー夫人の言葉に食ってかかった。先程まで事態を呑め切れていなかった高梨君だが、この言葉の意味は直ぐに理解出来たらしい。

 僕の居場所がヒーローというこの街唯一の正義にばれている――ということの意味を。

「ヒーロー夫人! 貴女は、佐藤さんがここに住んでることをヒーローにばらしたんですか! そうですよね? この街に来た初日から佐藤さんは一回しか地上に戻ってない――その一回だって十分かそこらだ! 台風で住めなくなった佐藤さんが、地下で暮らすなんてヒーローが予測出来る訳がない! ヒーロー夫人! 貴女は……佐藤さんを売ったんだ!」

 高梨君が激昂する。ヒーロー夫人に向かって。その姿は、今まで共に生活していて知らない姿だった。確か高梨君は、自分を救ってくれたヒーロー夫人を尊敬していなかったか? 当のヒーロー夫人も信じられないようなものを見る目をしている。どうやら、高梨君は相当怒っているらしい。自分が尊敬するヒーロー夫人でも構わず激をとばせるくらいに。

 しかし、待って欲しい。僕が言いたいことはそういうことではない。高梨君の意見もわからないでもないが、少なくともヒーロー夫人は僕の居場所をヒーローに言ったということはない。

「あんたがそんなに怒るとはねぇ」

 ヒーロー夫人は、驚きを通りこして感嘆の意を示していた。怒る高梨君を横目に、僕を一回見て艶やかに微笑む。この短期間で気に入られたようだね、と言われたような気がした。

「何言ってんですかヒーロー夫人! どういうことか、ちゃんと答えて下さい!」

「私は栄作がここで住んでいることなんて夫に言っちゃいないよ」

「じゃあ誰が――」

 言いかけた高梨君の発言を抑えるようにして、ヒーロー夫人はこう言った。

「通りすがりのおばさん達らしいよ。台風の翌日、栄作の行方を見ていたただのおばさんさ」

 そうだ。僕は台風の翌日の自分が住む予定の家が崩壊しているとわかったあの時、通りすがりのおばさんの話しを聞いて崩壊の意味を知った。半ば放心状態のまま地下への入口のトイレまで言ったのだが、明らかにあの時の僕はおかしな動きをしていた。今思えば、噂が好きそうなあのおばさん二人のことだ。トイレへと向かう変な若者を見て、好奇心がわきおこっのだろう。

「山田ことこっていうおばさんと川田まみっていうおばさん二人組みだったらしいんだけどね、トイレに入って一向に出ない栄作を不審に思ったらしい。地下への入り口は普通の住人は知らないことだからね。疑うのは当然って訳さ。そこに、地下への入口を知る夫が現れて、おばさん達が全て話してしまった……っていう次第さ」

 ヒーローは地下に入った僕のことを調べるまでもなくわかった筈だ。よしえさんは、僕がどこに住むのかをヒーローに教えたといっていた。それならば、崩壊した家の新しい入居者が僕だということも容易に思い出せたに違いない。

「夫はこうも言ったのさ。「どういう訳があるのかは知らないけど、普通なら地上に住む予定の栄作君が地下に住むのは僕としても余り了解出来る用件じゃないんだよ。それに、誰がやったかはわからないけど、こうやって地上にある大学に催促の話しも来てるんだ。これじゃあ流石の僕でも『地下に住む地上の住人』の栄作君を隠し切れない。だから、もし大学に行かない場合は、地上に強制送還されて、二度と地下には戻れなくなるからそのつもりでね」って。わかったかい?」

 ヒーロー夫人がヒーローとやらの声マネをしながら言う。声マネの上手さを判断しようにも、その本人の声を聞いたことがないからどうしようもなかった。ヒーロー夫人にしては結構太い声なので、頑張って似せたことだけはわかるけど。

 高梨君は、額に流れる汗をぬぐいながら、下を俯いた。

「……はい、わかりました。すいません、なんか……訳もわからず怒ってしまって」

「いいよそんなの。あんたが私に怒ったって、昔のあんたのことを考えたら何とも思わないさ」

「ちょ、ひ、ヒーロー夫人、昔の話しはしないって約束したじゃないですか」

 ちょっとちょっとと焦った様子で高梨君はヒーロー夫人に言う。ヒーロー夫人は笑って応対していた。昔の高梨君か……今でさえこんな格好をしているんだ……想像するのが怖いな……。

 そんなことを思っていると、「という訳だ」とヒーロー夫人が改めて話しを切り出した。


「一日だけでいい。地上に行って、大学に通ってくれないかい?」

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