第18話:動乱③
多島修三、帝都北東区生まれ、年齢75歳。
人生の大半、半世紀以上の歳月を医学に捧げ、第一線を退いても、後進の指導を熱心に行う、高潔なる人格者。
そんな彼が犯した、一生に一度の過ち。
それが今日、北東区を地獄に変えた元凶、そのものであった。
その日、彼はかつてない程のプレッシャーに圧し潰されようとしていた。
現役を引退した彼のもとへ運び込まれた救急患者。
それは、彼が生涯で最も愛し、人生を共に歩んできた女性、妻だった。
交通事故に遭った妻は、瀕死の状態で、彼のいる犀聖会北東総合病院に搬送されてきた。
医師が親近者の治療、それも瀕死の重傷患者の手術を執刀する事は、冷静な判断という観点から見ても非常に難しい。
しかし、瀕死の妻の命を、他人の手に委ねる事が、彼にはできなかった。
十数年ぶりに、メスを握る決意をし、手術室に向かう。
しかし、そこで妻と対峙した彼は、愕然となった。
もうどうしても、手の施しようがない。
外傷も、内臓の損傷もひどく、全く手が付けられない。
それは、長年医療に携わってきた彼には、痛いほどよく分かる惨状だった。
妻のバイタルは、見る間に低下していく。
全てを諦め、メスを置こうとした時、彼の背後の闇から、怪しい気配が現れる。
「汝……その者、助けたいのかえ?」
冷たい、凍り付くような女の声が、彼の脳内に響く。
「我は、この地にて吾子を育てたいと思っておる……協力するなら、その者の命、助けようぞ」
その気配の声が、彼の良心を揺さぶる。
「いま一度聞く、汝、その者を助けたくはないのかえ?」
もはや、彼に抗う術はなかった。
闇の気配に従う事を、心の中で誓う。
すると、闇の気配が自分の中に侵入して来た。
その後の事を、彼は明確に覚えている。
それは、まさに奇跡だった。
身体を乗っ取られた彼が、妻の患部に触ると、そこが見る間に治癒していく。
折れた骨が繋がり、破裂した内臓が元通り修復されていく。
わずか数十分の間に妻の身体は完全に元通りになり、バイタルも安定した。
神だ、今まで医療に身を捧げて来た自分のために、神が救いの手を差し伸べて下さった。
彼は思った。
だが彼のその考えは、大きく間違っていた。
「約束は果たした。さて、少々腹が減ったのう……ちょうど良い、この場におる全員、喰らわせてもらうぞ……」
闇の声が呟く。
次の瞬間、手術室にいた、彼と彼の妻以外の、スタッフ全員が身体を破裂させ、倒れていく。
そして、その血肉は、ただの一滴も残さずに、闇の気配に吸い込まれていった。
後に残るのは、乾涸びた遺骸のみ。
今まで気配だけだったそれが、彼の前に姿を現す。
口元に微かな血の跡を残す、漆黒の着物を纏った、妙齢の女性。
「汝も含め、この場にいる全員、我が施しを奇跡とは捉えぬであろう? 我は騒動を好まぬ……ならば目撃者全て、屍に変えるのみ……」
女性が、冷たい口調で語る。
すると、彼女の声を合図にしたように、倒れた遺骸がむっくりと起きだし、よろよろと歩き始める。
「汝、約束は守れよ?」
女性が笑う。
多島は、その笑みに凍り付くような殺気を感じた。
それから今日に至るまで、多島修三は、彼女の為の餌を用意する、給仕の役目を担ってきた。
彼女が餌とする、死期の近い人間を病院内から選び出し、ICUに隔離する。
ICUでは、彼女が屍に変えた医師が揃っており、患者を、秘密裏に餌食とすることが出来た。
死にゆく患者には、少しだけ早い死の運命。回復が見込める患者には、屍として家族と共に生きる運命が、彼女によって仕組まれていく。
そうやって、今まで何百という命を、貢いできたことか……。
闇の地獄と化した病院にあって、ただ一人安全な、自分という存在。
その事実が、彼の価値観を歪めていた。
やがて、彼女の言う通り、吾子が生まれた。
人間の精気だけを喰らう母とは違い、その血肉までもを貪欲に喰らい尽くす、若き魔物。
その名は、酷月の黒依。
黒依が闇の晩餐に加わる頃には、彼の精神は完全に汚染され、かつての高潔さを失い、己が保身の為ならば、他人の命の重さなど、何とも思わなくなっていた。
ただ、一日を終えて自宅に帰り、出迎える妻の笑顔を見て、残酷な一日の全てを忘れる……そんな毎日が続いていた。
二人の気配が消えた後、多島はICUに急いだ。
ICUは、地下2階にある。
エレベータに乗り込み、三重の衛星扉を開いてICUに到達すると、そこでは既に、御前と黒依が患者を値踏みしていた。
「遅いぞ、多島」
「はい、申し訳ありません」
「今宵のICUは、寂しい限りじゃのう……ちゃんと餌は、選んでおるのかえ?」
黒依が、患者の少なさに不満を漏らす。
「そ、それはもう……ただ、最近、病院のスッタフも殆ど屍化しているため、手術の成功率が低く、術中に死なせてしまうケースも多くありまして……」
額の冷や汗を拭いながら、必死に弁明する。
「うつけが、そのような命こそ、我に差し出すべきであろうが」
御前が吐き捨てるように言った。
すると、黒依がICUの一角に寝かせられた、一人の少年に目を付ける。
「おお、ここに良い餌がおるではないか!」
「その子は、近隣の学校施設で重傷を負いまして、収容されたものにございます」
「実に活きが良い、重傷ながら、生きる意志に満ち溢れておる、上等の精気じゃ……」
御前が、満足げに笑った。
「母上様! 血肉は、血肉は黒依に、下さいませ!」
黒依が甘えるように懇願する。
御前は冷たくも優しい笑みを浮かべた。
「我が子よ。お前は強靭な体躯を築かねばならぬ身、存分に食すが良いぞ」
「はい、 母上様」
食事を楽しむかのように、笑いあう魔物の親子。
御前が、少年の額に手を当てる。
「可哀想に、痛かろう、苦しかろうて……すぐ楽にしてやるぞ……」
御前の手を通して、少年の精気が吸われていく。
それまで微かに呼吸していた少年の息が止まり、肌から血の気が引いてゆく。
「お前の身体は、酷月の黒依が喰ろうてやる、我が血肉となりて、永遠に生きるが良いぞ」
黒依は、そう言って少年の喉笛に喰らいついた。
鮮血が飛び散り、肉を裂き、骨を砕く音がICUに響く。
その光景を、多島は精気の失せた眼で、ただ見つめる事しかできなった。
どう足掻こうとも、この魔物たちから逃れることは出来ない。
多島自身も、愛する妻も、屍同様、御前から分け与えられた精気で、老いの運命から逃れている現実がある。
終わることのない一生を、永遠に捧げて生きなければならない。
その地獄から解き放たれる可能性があるとしたら、それは第三者に滅ぼされる事だけ。
修錬丹師。
淡い期待がない訳ではない。
だが、例え修錬丹師が乗り込んできても、この二人を倒すことは不可能だろう。
あの時、甘い誘惑に身を委ねてから、自分の生きる世界は地獄しかないのだと、多島はただ、自分に言い聞かせていた。
「何をしておる、病棟を回るぞ」
御前に呼ばれ、多島は我に返る。
「頼みます、どうか、全員だけは……」
多島が、虚しく懇願する。
「くどいぞ、多島。母上様のお考えに口を出すでない」
黒依は、その姿に嫌悪と侮蔑の眼差しを突き刺す。
「修錬丹師を血祭りにあげるのだ、いくらお前とて、それなりの備えはせねばならぬぞ? 我が子よ」
「はい、母上様……仰せのままに」
三人は、血まみれになったICUを出て、一般病棟を目指し、廊下の向こうへと消えていった。
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