第17話 「帰還」
1日くらい前から何か泥のような匂いがしている気がアシュレーはしていた。
ここエルトゲートと呼ばれる地区は、南の海からの風に乗って沼沢地の匂いが
鼻が利くアシュレーにとっては、拷問にも等しい時がある。
アシュレーの鼻が利くことと堕天使が奇石収集時に奇石の位置を探し当てる嗅覚は別物である。
奇石収集時に奇石の位置を探し当てる嗅覚は、鼻を使うのではなく、直感のような感覚である。
奇石収集者が、奇石の匂いがするという言葉を使うが、そういう場合は、奇石がこちらにある直感がするという意味を持っている。たまに鼻で匂うかのような仕草をしてしまう場合もあり、ほんとに別物なのか人間から言わせれば疑わしいところである。
そう今回の匂いはなぜか徐々にこちらに近づいてくる不思議な感じがするのだ。なぜにおいの元が移動するのだろう?とアシュレーは思い、ありえないことだが、沼沢地がそのまま山登りでも始めたのかとさえ考えた。ゆえに、沼沢地の匂いが
ご近所さんもアシュレーの鼻が利くことをよく知っているので、時期ではないが、窓を閉め、窓の周りに捨ててもいい布を詰めて、匂い対策をするのだった。
だが、しかしことは夜中に起こった。
匂いのせいで浅い眠りであったので、アシュレーはちりちりと外の鐘が鳴らされる音に目を覚ました。実際、匂いのせいで吐き気を催して、くらくらしてさえいたのだが、外の鐘が鳴らされる音の特徴が、兄のルルドの鳴らし方にそっくりだったのだ。まさかこんな夜中に帰宅?と思わないではないのだが、虫の知らせのような気さえした。もしやルルドに何かあったのではないか?ギルドからの火急の知らせなのではないか?と思ったのである。『
一瞬、外の匂いがどんなものか考えて、ぞっとしたが、またふたたびルルドの鳴らし方にそっくりな鐘の音が聞こえたため、意を決して鍵を開けて、ドアノブをがちゃと回して内扉を開いたのであった。
扉を開けると、口角を上げて微笑んでいるルルドが立っていた。やっと帰れたという顔だった。
アシュレーは、兄の無事を心から喜ぶ顔を一瞬見せた。
玄関口は2重扉になっており、内扉と外扉(網戸)は2ファーストリング(2メートル)離れている。その外扉(網戸)の鐘の所にルルドと見知らぬ男2人が立っている。
そして、強烈な匂いを伴っている。
鼻が利くアシュレーにとっては、その匂いは明らかに沼沢地の匂いであり、泥と何か野獣の匂いが入り混じったものであった。
アシュレーの顔は、ルルドと名を呼びそうになっていたため口が開いていたが、その口が開いた状態のまま、頬がひくひくぴくぴくと動くのをルルドは気付いた。他の見知らぬ2人に警戒しているのかと『こいつらは、旅で出会った・・・』と言おうとして、アシュレーの意外な行動に気をくじかされた。
アシュレーは、そのまま内扉をパタンと閉じて、がちゃと鍵を閉めたのである。
ルルドは、『こいつらは・・・』と2人を紹介しようとして立てていた親指をそのままに、外扉(網戸)の前で固まっていた。口をぽかんと開けている無様なルルドを両側から2人が眺めやり、
『ほんとにここが自分の家なのか?』と半信半疑な顔をしてルルドを横目で凝視した。
ルルドはもう一度外扉(網戸)の鐘をちりんちりんと鳴らして、「おーい」と声を出した。
何が起こったのかさっぱりだが、とりあえず家の中に入れてもらわなければ話にならない。
家族のみならず両脇に立つ2人にまで不審者扱いされてはたまらない。
旅には家の鍵を持っていかない。旅先で失くしたら大変だからだ。
アシュレーはすぐさまキッチンへ駈け込んで、胃から駆け上がりかけた酸っぱいなにかを洗い場
で吐かずにおけるように胸元を抑え込んだ。胸に手を当てて小刻みに震えている。
母ソルトが部屋から起きだしてきており深夜の訪問者が知り合いなはずはまずないとの推測から、
洗い場で苦しんでいるアシュレーの背中をさすってやりながら、ソルトは「大丈夫?」と尋ねる。
アシュレーは、首をぶるんぶるんと振り、涙がぽたぽた飛ばした。
「臭いの。」一言アシュレーは何とか声を出して呟き、ついに崩壊した。臭かったことを思い出したのだろう。もはやせき止めるものは何もなかった。
ソルトは娘の背中をさらにさすってやりながら、『臭い?』と首を傾げた。確かにこの子の鼻の良さは有名で、沼沢地の匂いが
「あんなの」と崩壊中のアシュレーがやはり何とか声を出して「ルルドじゃない。」と呟き、「ルルドはもっといい匂いだもの。」と言下に外にいるルルドの存在を否定している。
ソルトは変わり果てたルルドが帰って来たのかと一瞬ぞっとしたが、たとえどんなに変わり果てようとルルドのそばにいようとするだろうアシュレーが、ここまでひどい状態なのだ。
ソルトは憮然とした。どんな匂いを付けて帰って来たのだわが息子は。
アシュレーを2階の部屋に連れて行き、ベッドに横たわらせてから扉をがっちり閉めて
1階の自室(寝室)に駆け込みソルトは、
ルルドの両脇にいる2人は、生まれてからこのかたこのような出迎えを受けたことは一度もなく、『
かなりいい匂いの香水ではあるのだが3人は頭がくらくらしてきた。絶え間なく掛け続けられる香水に、息を吸うのも難しくなりつつあった。今は、息を吸うのと香水を吸うのは、同義であった。
ソルトの香水、夫であるボールドから生誕日に購入してもらったものだが、背に腹は代えられず、空になるまで3人に掛けた。
ソルトは香水を掛けている最中に、『匂わないこと』に気付いてはいたが、アシュレーの嗅覚は疑いようもないので、息子も含めて3人を憐みの表情で眺めながら作業を続けた。
憐みの眼で眺め、外扉(網戸)を挟みながら、息子のルルドと向き合うソルトの姿は、
ルルドも、もうどうしようもないと言った感じで、両脇の2人に、口角を上げて笑いかけるしかなかった。
ソルトは、香水が空になったのを潮に、外扉(網戸)の鍵をがちゃと開けて3人を招き入れて、「どこ通ってきたの!」と言わずもがなのことを聞いてきたので、ルルドは言い出しにくいように言葉に詰まりながら、「沼沢地。仕方なかったんだ。
服は
「とにかくお風呂に入ってもらうわ。扉をあけっぱなしにしとくから、順番に入ってちょうだい。きちんと洗うこと。足の裏から!頭の先まで!すべて!あまさず!丁寧に!ごしごしと!」と1つの単語ごとに念を押しながらソルトは、指を何度も振って
さらに追い打ちを掛けるように「アシュレーに嗅いでもらって拒否されたら、外で野宿してもらいますからそのつもりで洗うんですよ!」と宣言して風呂場にお湯を張りに行った。
いつもなら旅から帰って熱い風呂に入れることを喜ぶのだが、この嗅覚テストに
両脇の2人はルルドから「悪いな。」と謝られて「しょうがないよ。」という返事をしたが、まさか
そうこうするうちに、奇石の一種である
背嚢コートだけは勘弁してもらいたい。高いんだ。
2~3回ほど風呂に入りなおすことにはなったが、何とかアシュレーによる嗅覚テストに
昼光石はお日様の光を1日当てておくと、1ヶ月は光り続けてくれる奇石であり、いわば照明石である。昔は蝋燭を使っていたのだが、この奇石が発見されたおかげで出費を抑えることができるようになった。黒布を被せておくとかなり長持してくれる。1つだけ欠点があり、収集時には当然埋まっているために、埋まる前まで(昼光石として生成される前?)の光を蓄光しているらしく掘り出した途端、輝き始めるのである。まるで闇にいきなりお日様が現れたような輝きのために眼をやられてしばらく動けないという収集事故がある。収集時は朝か昼あるいは夕方までが望ましく、夜の収集作業はやめておいた方がいいという教訓をもたらしている。匂いは光りだすまでは単なるごろ石であるという厄介さがある。武器としても使えるもので、夜盗賊に襲われた時に放りだして目くらましに使うというやり方があるが、結構な値段がするわりに割れやすく、あまり家から持ち出したくない奇石である。代執行官(警察官僚)が盗賊の住処を制圧する時に使用することもあり、まあみんなの税から出費されているので、痛いといえば痛い。
やっと人心地着いて、2人の連れを母と妹に紹介した。アシュレーはまだ青白い顔をしていたが、何とか、2人へ夕飯の残りを温めて出してくれた。ソルトは、風呂上がりの身体が冷えないように2人にワインを勧めてくれた。マークは
沼沢地を抜けてきた時の状況を説明すると、アシュレーとソルトは口をぽかんと開けてしまった。
石鹸もなにも使用せずに、
ソルトは、ルルドの
マークとレーベンは、ちょっと酒が入っていたが、目の前に座って話を聞いているアシュレーの片翼がないことに話を及ばせるほどの勇気は持ち合わせていなかった。
マークは、片翼がないアシュレーをかえって美しいと思い、レーベンは片翼がないアシュレーを彫刻家が完璧に作成した像をわざと壊して魅力を引き出したのかとさえ思った。
2人はアシュレーと目が合うたびにどぎまぎしていた。
今日は
一旦1階に降りて、キッチンにいて食器のかたずけをしているアシュレーとソルトに礼を言い、ダイニングテーブルの椅子に座った。ルルドがふうと大きなため息を吐きと、アシュレーは、「ため息をすると神の威光が逃げるよ」と言い、後ろからルルドの首に手を回して、頬をルルドの髪の毛に押し付けた。ルルドの髪の匂いを嗅いで、『もう大丈夫』とほっと安心した。いつもの匂いが帰ってきた。
堕天使のルルドにとって神の威光もあったものではないが、
「これはため息じゃない。深く息を吐いただけだ。」と首に回されたアシュレーの腕を手で触れて、ぽんぽんと2回ほど優しく叩いた。「うん」と一言アシュレーはうなづくのだった。
規則正しい妹の呼吸を背に感じながら、『帰ってこれたな。』と思った。
何回死んでいたか分からないほどだった。
目を瞑り、もう一度深く息を吐いた。アシュレーの体温が今はありがたかった。
生きている実感がする。
ルルドは昼過ぎまで眠っていた。沼沢地近くのレッグハルトで休息はできていたはずだが、やはり追いかけられる心配がないというだけで人は安心できるものだ。
暖かい日の光が窓から差し込み、ベッドの足側から徐々に真ん中まで差し込んでくる。そのまま夜まで眠ってしまいそうになるベッドの配置である。ここちよさがたまらない。
ルルドが2人よりも先に目を覚まして、1階に降りる。ソルトは出かけているらしく、アシュレーは庭の2人用チェアに座って、弓矢の矢作りに勤しんでいた。
ルルドを見るとにこと笑って、「朝なのか昼なのか分からないけどおはよう。」と言った。
ルルドは、ただ「うん」と返事して、庭に出てアシュレーの隣に座る。
ため息交じりに「今回は奇石が
アシュレーはルルドの肩に頭を傾けて乗せて、また今度でいいよとぽそと呟いた。無事でいてくれればそれでと続けた。
だが次の瞬間、「
小さく細く加工したゴロ石(特に価値が無い石)とを煮立ててコーティングさせる。
そうすると頑丈で貫通力のある矢の先になる。人間相手の戦闘では彼らの鎧を射抜かないといけないので、固ければ固い方がよい。
まあ、弓矢が得手なアシュレーにとってはほしいものの1~2を争うものだろう。
だんだん増えていくなとルルドは思ったが、アシュレーの頭を撫でて、「今度な」と言った。
『奇石が
あのユーリー・ヴラド・ヘルトシュバイツと名乗っていた貴族の腕輪にあったのは、確かに奇石である。盗賊たちと命のやり取りをしている時も何かが近づいてくる気配、堕天使の自分からすれば奇石の匂いが移動してくるという感じがしたのだ。そうして奴の腕輪には石がはめ込まれていた。銀色の台座のような物の上にはめ込まれた奇石であった。腕輪に取り付けて目立つだけの大きさ。ルルドにとっては、今まで見たこと、触れたことのない大きさであった。人間は普通、宝玉などの宝石を好んでいるが、奇石を好む人間は初めてだった。今のルルドにとって『ユーリー・ヴラド』の名は記憶にとどめておくべき人物の名となっていた。
そうこうするうちにマークもレーベンも起きだしてきたので、食事をすることにした。母ソルトは街まで出かけているらしく、昼食の用意は、すでにできており温めるだけですんだ。
4人で食事をしていると会話の途中で、マークがこう切り出した。「僕は、その、神前街の鍛冶屋で
レーベンもマークの発言に食いつき、「僕もだ。天使のことはさっぱりだ。お貴族の従者として3か月やってきたけど天使の習性なんて聞いたことない。」レーベンが教わったのは、『奴らの匂いを
「習性と言われてもな。俺たちは俺たちだし。」と隣にすわっているアシュレーと顔を合わせながら、どう説明すればいいのか正直戸惑っていた。人間って何?と聞かれるようなものだろう。回答としては、『うん、創意工夫する生き物だね(そうでない人間もいるが)』とか『他の動物を狩るね(たまに絶滅寸前までに)』とか一面だけを捉えた回答が出てくるような感じであろう。
ルルド達も回答に困ってしまい。『何を聞きたいのか』という質問形式にした。いろいろとマークとレーベンの質問が続き、果たしてこんなので納得できるのかという回答をアシュレーとともに導き出していた。
マークが「天使は綺麗だ。自分を助けてくれた天使への憧憬はいまだある。ルルドと旅をしてきたけどね。」と茶化して言う。ルルドは『おいおい』という感じに首を振る。怒っている顔ではない。
マークは言う。「ルルドみたいな天使もいる。清濁併せ持ってる天使。掴めそうでつかめない。」
一拍置いて「僕を助けてくれた天使は、天空に飛んでいくみたいに僕の前から姿を消した。」1階のダイニングの窓の外を眺めながら、そうつぶやくように言った。
ルルドは、眉をひそめていた。横にいるアシュレーの顔も同じように眉をひそめて首を傾げている。『天空に飛んでいくみたいに僕の前から姿を消した。』とのマークの発言にいぶかしんでいるのは、アシュレーと会話しなくてもわかる。旅の途中で聞いた時には比喩かともおもったが、何とか訂正しておかないと。このまま、神前街に連れていくとおそらく哀れな奴扱いをされるのではないかと2人とも憐みの眼でマークを見た。そして、アシュレーの耳元でこうささやいた。マークたちに聞かれてはならない。
『なあ、アシュレー。俺はこいつらと一緒にここまで来たけど今まで一度も天使がどんなものなのか
話したことないんだ。
そうごにょごにょとアシュレーにささやきかけて、俺みたいな皮肉屋から言われるよりは、
アシュレーは、ちょうど一昔前、2人で留守番をした当時、食事は自分が作ると宣言した時と同じような心構え、握りこぶしを握り、胸を張って『むんっ』と私にまかせてという心構えを身体で露にしてから意を決したようにマークの眼をじっと見つめてこう言った。
「天使は飛べません。飛べませんがそれが何か?」
続けて小声で俯きながらこうささやいた。「不都合ありますでしょうか?」と。
マークたちの様子を見ながら段々と小さくなっていく声に、『すまない、アシュレー。俺が言うべきだった。』と申し訳なさと後悔の念を感じて、ルルドはあさっての方向を見やる。
マークたちは、天使が飛べないという真実に、口をぽかと開けているしかなかった。
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