第16話 「綺麗な人間」
2匹と3人は沼沢地を取り囲む木々、沼沢地の向こうに
夕方になりかけていた。ルルドとマークがレーベンと
どうしても日が出ているうちに
沼沢地を取り囲む木々、林というほどではない、を抜けるとすぐレッグハルトである。街の門は夜になると閉じてしまい、よっぽどのコネがなければ入れてもらえなくなる。盗賊よけの門でもあるので当然だが、今夜は野宿はしたくなかった。何より皆、へとへとであるし、盗賊に襲われればひとたまりもない。ルルドは
もう先頭は、
2匹とレーベン、マークそしてルルドの列順で、先へ進む。こうすればルルドも背後を気にしなくて済むし、2人の状況、たとえば顎があがったり、足がもつれているかどうか(要するに疲れていないかどうか)も後ろから判断できる。今のところそういったそぶりはなかった。
そうこうするうちにようやく沼沢地を取り囲む木々に差し掛かった。西からは夕日が差し込んで赤く木々を照らしている。
レッグハルトの街は沼沢地に近いため森に入るのに近道ではあるが、街の規模が小さく、なによりルルドにとって食事の質が低いことがこの街に対する評価を落としている。人間の流入が多くて、人間向きの食事にはありつけるのだが、天使向きではないのだ。旅の最中なら我慢もするが、旅に出る前には、少しでも栄養のあるものを食しておきたい。
いつも奇石収集に行く時は、この
ケルンハルトを通って森に入る理由は、旅人の往来が多いこと(人が多いと皆で固まって移動できるし、
だが、しかし今のルルドにとってレッグハルトは、自宅のベッドの次くらいに魅惑的は場所に映っていた。やっとという感じである。そう、やっと『地面が崩れない、臭い土地で地べたを這いずらない、
沼沢地からは、レッグハルトへ坂道が伸びている。確かに危険はあるのだが、この沼沢地は野生生物の宝庫である。鳥類はいうに及ばず、小魚などは、人間にとっても食料となりうる。猟師にとっては狩場である。その道を進んでいると、木こりに出会った。口の周りが髭で覆われた年配の男だったが、その目には殺意といってもいいものが浮かんでいた。ルルドをさげすんだ目。眉を上げて鼻の付け根にしわを寄せて、口からは歯が覗く。はあはあと口で呼吸して興奮気味だ。
明らかに縄張りに入ってきたことを怒っているような顔をしている。その持っている斧は凶器になりうるだろう。木こりの振りをしている山賊という可能性もある。先頭を行くルルドは、急に立ち止まった。ここに来るまでの研ぎ澄まされた勘が、目の前の男を危険と捉えていた。こちらはほぼ丸腰だ。ナイフしか無い。レーベンは短剣、マークは剣を持っているが斧に勝てるとは思えなかった。ルルドに倣って、後ろに続くマークとレーベンと2匹は急停止した。木こりは、複数の一行だったのかと大きく目を見開き驚きの表情をその顔に浮かべた。ルルド独りならどうなっていたことか。
道で対峙していたが、さすがに複数対1の不利を悟ったのか木こりは道を逸れて木々の合間に姿を消した。安堵のため息をつくのも束の間、油断ならないなとひとりごちてルルドは、先ほどと同じように先頭を行く。もう夕闇は近づいて来ている。
坂道が平坦な道に変わる、そこに門は見えた。レッグハルトの門だ。我々は無事に着いたのだ。
後ろの2人と顔を見合わせて、思わず顔がほころんだ。マークとレーベンの肩に手を置いて前後に揺する。3人とも深い息を吐いて気を緩ませていた。ルルドは親指を立てて行こうという風に導いた。
レッグハルトの門は、まだ夜ではないので開いており門番らしき者も立っていなかった。
番小屋に入って夜警備のための仮眠をしているのかもしれなかった。ただし、番小屋に繋いである馬がひどく機嫌が悪いのか暴れている。蹄の取り付け方が悪く、足が痛いのかもしれないななどと思いつつ、通りを進んでいった。
通りを挟んで様々な店が軒を並べている。料理屋もあれば、道具屋、武器屋、猟師から購入した鳥をさばいて売る肉屋などが開いていた。夕食の準備のために、食料を購入しにくる者もいる。レッグハルトでは宿屋は1つしかない。小さな街だし、ここから森に入っていく旅人も少ないし、街道沿いではない。宿屋が繁盛するには、条件が悪すぎた。
その1つしか無い宿屋(霧掛かる酒場亭 )は、門を入って5軒目に存在する。酒場と書かれているが、1階が酒場兼食堂、2階が宿屋という定番の宿であり、この霧の多い沼沢地にはふさわしい名前である。
扉を開けるとすでに
中に入り少し進むと、周りからおう吐の音がし始めた。こんな夕方からそんな調子で飲んでいるとは、ちっ、うらやましいと思いつつ、さらに進む。まわりのざわめきが一層高くなったような気がする。カウンターが宿屋のおやじの受付窓口を兼ねていることが普通なので、そこへ向かおうとして、いきなりテーブル席から立ちあがった男にワインを頭から掛けられた。テーブル席のほかの連中が木製のジョッキを掲げて大笑いする。ほかの席の男たちはへへへだの、くくくだの下品な忍び笑いを上げた。ルルドは立ち止まり、ワインをいきなりかけてきた男と正面向き合った。男は一言こう言った。「くせえんだよ。お前らは!」
「・・・・・」ルルドは自分の体臭はしない方だと自覚している。確かに旅の合間に風呂に入れないときはあるのだが、そういう場合は、濡れた布で体を拭くくらいはしているつもりだ。仲間である他の2人も旅の途中に体臭がすることがなかった。
言いがかりを!と思った矢先だった。まるでワイン祭りの時みたいに、ジョッキでワインをかけまくるワインかけ大会が開催されたのだ。それも我々(ルルド、マーク、レーベン)全員に対してである。全身ワインまみれになり、なぜかほか場所では殴り合いの喧嘩まで発生している。
そんな中、カウンターから宿屋のおやじでもある店の主人が、こちらにやってきて、「あんたら、沼沢地を通って来られたんで?すっごい匂いだね。こんな状態で店に入られたら困るよ。ワイン掛けられただけでよかったと思ってくれ。」と言うと、周りからどっと哄笑が沸き起こった。
後で聞いたのだが、沼沢地を通ってくる旅人は、たいていルルドたちのように
思えば店に入る前にこの匂いに顔をしかめた人がいたのだ。木こりはこの、
自分たちが沼沢地を通っているうちに、もうこの匂いに違和感を感じなくなり、嗅覚がマヒしてしまっていた。
そんなルルドたち一行を不憫に思ったのか宿屋のおやじは、飲料には適さないが、汚れを落とすにはいいだろうと裏にある馬用の貯め井戸を使うように勧めてくれた。宿屋のおやじの思いやりをありがたく思い、酒場のガラは悪いがワインを掛けるだけで勘弁してくれた男たちに感謝しながら、店の裏にいった。厩に近づくと、馬が暴れ始めた。番小屋の馬も暴れていたので、
雨水をためることで維持されている井戸が厩を入ってすぐのところにあり、厩に入る前に、背嚢コートを脱ぎ、天使用の
コートも
そうこうしているうちに宿屋のおかみさんと娘さんが、体形に合いそうな服を見繕ってくれて持ってきてくれた。変な品評会や匂い嗅ぎを見られなくてよかったとルルドは思った。
宿屋に再び入るとまき散らされたワインはきれいにふき取られて、元の酒場の雰囲気に戻っていた。先ほどワインを掛けてきた男に礼を言い、カウンターに向かい今晩の宿泊を申し入れた。いろいろな便宜を図ってくれたので、この際料金が法外でも構わないと思った。
掃除代、3人分の服代、宿泊費、食事代込みで、金貨15クローネだった。
1日金貨3クローネ(1人分)が目安だが、服の調達から洗い場まで提供を受けたのだ、安いものだった。それに屋根の下で眠れるという極めて普通だが、現状では最高の環境がルルドたちの心を癒すのだった。
酒が飲めるレーベンのみが晩酌をしてカウンターで3人一緒に食事を取り、宿屋のおやじに沼沢地を抜ける時の苦労話をして笑いを取った。2人揃って沼にはまり、胸まで埋まっていた姿が、今だから言えるがレーベンにとってツボにはまるくらいの絵だったらしい。『何やってんだこいつら?なんか泥風呂にでも入っているのか?こんなところで?』など、ルルドとマークにとってはシャレにならない状況をレーベンは思い出して笑い転げていた。酒が入ったこともあり、レーベンも気が抜けたのだろう。
街の近くで出会った殺気を含んだ目をした木こりのことをルルドは『街の近くの木こりに化けた山賊だろう。』と思っていたことを白状してマークも相槌を打っていた。ルルドが再現した殺気を含んだ目をした木こりの姿を宿屋のおやじは見て、よほど臭かったけど
ルルドとマークにとって『レーベンはヘルトシュバイツ家への報告をもうしないだろう』という確信に近いものがあった。ヘルトシュバイツの言う期限は、2日間であるが、もう3日間立ってしまっている。今更報告しても遅いであろう。それにレーベン以外の従者や騎馬はこのあたりで見かけていないとの宿屋のおやじからの情報もレーベンには内緒で入手した。
べろんべろんに酔ったレーベンに肩を貸して、2階への階段を上る。1部屋3人泊まれるので、何かあても助け合える。念のため、マークとルルドは、ベッドを1つ、部屋のドアのところまで移動させて、つっかえ棒よろしく扉が開きにくいようにした。そこにルルドは陣取り、侵入者を防ぐ。
この街まで来て襲撃はないと思うが、念には念を入れた。レーベンが夜トイレに行きたくなったらどうしようとかはこの際どうでもいいと思われた。ルルドは、ベッドにうつぶせに横たわり、各人の寝息を聞きながら、レーベンの将来を思いやった。飛天域で何か職を紹介してやろうとは考えていた。しかし、命令を勘違いするレベルのこの男に向く仕事とは?と思うと頭が痛くなる思いだった。そうこう考えているうちに疲れがどっと出ていつの間にか眠りについていた。
次の日の朝は、レーベンの「扉を開けろ~」という雄たけびとともに始まった。さすがに昨日痛飲しすぎて、トイレが我慢できなくなったらしい。二日酔いはしていないとのことで旅に支障はないようだった。
トイレから帰ってきたレーベンは、頭を抱えていた。二日酔いはしていないと先ほど言っていたのでよもや頭痛がするわけではないだろうし、トイレに間に合わなかったわけではあるまい。「どうした?」とルルドはこの街で発行させている版画を見ながら、軽い感じで聞いてみた。
「報告を忘れてた。」と頭を抱えて唸るようにしているレーベンを、マークとルルドは顔を見合わせて凝視した。「1日以上報告が遅れた。」そう付け加えたレーベンを再びマークとルルドは顔を見合わせて凝視した。「あの、レーベン?」とルルド。「まあ、百歩譲って、報告するとしてなんて報告をするつもりだい?2日のあの夜は、俺たちはドルトベアと一緒にいたよな?奴がバリバリゴリゴリ言わして喰ってる間、俺たちはだまーって伏せてたわけだ。で?何を書くつもりだっ。」
「『ご報告が遅れました。申し訳ございません。途中彼らを助けました。彼らは3日で森を抜けました。途中一緒に旅をしてました。ドルトベア観察ツアーに参加しました』とでも書くつもりか?」とルルドはまくし立てた。
マークが後を引き取って、こう言った。「『追伸
「くーーーーーー」とレーベンは頭を抱えつつ、そんなような鳥でもいるのか、鳴き声をまねしたのかと思えるほどの奇声を発した。
ルルドはさらに追い打ちを掛けようとしたが、このまじめな男、勘違い男、俺たちを助けてくれた男、一緒に旅した男を苦しめるのも嫌になってきた。「・・・・・・レーベン。ヘルトシュバイツのもとに戻りたいのかい。」そうルルドが言うと、さっと顔を上げてレーベンは言う。「僕は給金に釣られて従者になったんだ。ヘルトシュバイツ大公爵に対する忠誠心があるためじゃない。僕はそこまでいい家の出じゃない。」「そうか。じゃあ聞くけど、従者の仕事は、君に合っていたのかい?」とルルドは腰かけているベッドの柔らかい敷布に手をおいて身体をそらしながら聞いた。
「・・・・・」長い沈黙の後にレーベンは、「本当の従者ならもっとまじめだろうな。こんなへまはしない。」「違うと思う。君はまじめだよ。ただ、従者としては、優しすぎた。本当の従者なら、森で俺が地の底に落ちていくのを助けたりしない。冷めた目で落ちていくのを眺めてたろうよ。」とルルドは、優しい目をして言った。
「そんなんじゃない。そんなきれいごとじゃない。僕はただ、いい給金をくれる主人が、どっかの天使に慈悲を掛けたと勘違いして、僕も同じようにしないといけないとだけ思って助けたに過ぎない。」とレーベンは、ベッドに腰かけ、肘を膝において下を向いて床に向かってしゃべっていた。「じゃあ聞くが、沼地で俺とマークが2人して泥沼に落ちた時はどうだ。君は俺たちを見捨てることもできた。放っておけば『君が森で俺たちを助けた』と言いふらすような奴らは、泥の中で何千年後かに化石になって発見されるはずだった。なのに君はどうやったら助けられるかって叫んでたよな?正直に言うとレーベン。あの時俺は君に見捨てられると思って何も答えなかった。そのまま君が消えるだろうと思ったんだ。」とルルドは、レーベンの方を見ながら言った。マークが身じろぎするのをルルドは音で聴いた。レーベンは下を向いたまま、息を吸い込んだ。
「レーベン、俺は、君に報告させまいとして、君の命令違反や勘違いをあげつらい、そしてあの
レーベンはもう下を向いてはいなかった。ルルドたちの方を向いていた。まっすぐに目を向けていた。
ルルドは言った。「綺麗な人間なんていないのかもな。」「すくなくともこの3人の中には。」
マークは吹き出した。レーベンは目を瞑り、こくこくとうなずいた。
3人で1階に降りて、裏の厩に繋いでいる
結局、「報告するのが馬鹿らしくなった。」とレーベンは言い、報告書を入れる筒の中から、すでに書き上げてあった書を取り出した。ついでに帰還布も取り出した。「この布を嗅がせれば、従者長のところにすっ飛んでいく。」と言いつつ「布も処分しよう」と言った。
ルルドは、口を開けて指を差して言いにくそうにしていたが、レーベンの怪訝そうな顔に話をした。「えーと、あの沼沢地の匂いなんだが、あの匂いはきつすぎて、追跡される者は、あえてあの沼沢地に入り込んで猟犬の追跡を撒くんだそうだ。なんでも
ルルドは布を猟犬から離した。訓練時には帰還布を鼻頭に押し当てると一目散に従者長のところに走っていったものだが、今はピクリとも動かない。「やっぱり沼沢地の匂いに鼻が馬鹿になったのか?」とルルドに問いかけた。ルルドは破顔して帰還布をレーベンの鼻頭に押し当てた。「うぷっ」とレーベンは顔を背けた。ルルドは「二日酔いでなくてよかったな。」と言った。
「こいつは俺たちを泥の中から救い出してくれた。そして沼沢地の地べたで伏せてくれた。この報告書を入れる筒をぶら下げてな。泥はしみこんでないだろうが、匂いまでは防げない。こんなわけのわからん匂いを提示されてどこに帰れると思う?」そう言ってルルドは、
ルルドは「ところで俺たちは昨日この匂いをさせてたんだぜ。」と言った。
酒場で吐いた人たちに同情と謝罪をしたくなった。
遅めの朝食を取り、街の店に行き首府の山の神門まで上るための準備をした。簡易軽食も少量だが準備しておく。あとルルドは丸腰になっていたので、
装備その他の購入と装着が済んだので、宿屋に帰り、そのおやじに別れの挨拶をする時、ルルドは1クロマのダイヤを宿屋のおやじに渡した。1クロマのダイヤは宿代1か月分に相当する。
情報屋でもある宿屋のおやじに次のような依頼をしたのだ。
第1に『もし天使と人間の組み合わせの旅人に関する問い合わせがあれば、そんな組み合わせは見たことないと伝えてほしい。』
第2に『猟犬2匹と従者1人に関する問い合わせがあれば、猟犬2匹と従者1人など見たことないと伝えてほしい。』
結局、ヘルトシュバイツが『ゴートの森を抜けられずに天使たちは死んだのだ。』『従者もこの辺りまでたどり着けずに遭難した。』と思ってくれれば儲けものとの考えだった。ほかの街の情報屋にもルルドは似たような情報を流すつもりだ。
そして最後に宿屋のおやじにこう言った。昨日酒場で吐いた奴らやワイン掛け祭りの連中に
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