第15話 「2匹と3人」

 『まずい、はなはだ、まずい。』ちょっと癖のある赤毛のレーベン・ポワティエがそう思ったのは、命令をはき違えて天使を助けてしまった後だ。

この頭を抱えているレーベン・ポワティエの出自ははっきりとはしない。いや、ある貴族に仕える騎士の子供である。とはいえ、噂はある。その貴族の12番目の子供ではないかとか、言われたことがある。

『そんな噂知るか。そんな噂で。』というのがレーベンの怒りであった。近づいては消え、消えては湧いてくるそんな噂を信じた奴らが、疎ましく思えて近づいてきては冷めた目で値踏みして肩透かしを食らわすのが、レーベンの癖になってしまった。

 とはいえそんな怒りを抱いた状態で食っていけるかというとそうでもないので、レーベンは生きるための職を探し始めた。騎士の子供なのだけれども、幅広の剣の扱いが特にうまいわけでもなく、文字の読み書きも普通で、特に秀でたところもないレーベンにとって、騎士の子供であるというステータスとコネが唯一の希望であった。

 しかしながら、コネは無かった。父親である騎士は、特に手柄を立てたこともなく、おべんちゃらを使えるほどの口達者でもない無口な男だったので、まず騎士の子弟が通常約束されているような貴族のもとでの栄達は、絶望的であった。何とか貴族様にお目通りがかなっても、その後は、、貴族様の取り巻きからの音沙汰は何一つ有りはしなかった。握りつぶされたか、あるいは、他の者を良きに計らうための肥やしにされたか、父親が仕える貴族様を当てにするのをやめにした。父親が引退でもすれば、その後釜に滑り込むことも可能かもしれないが、まだまだ引退しそうにもなかった。

 レーベン・ポワティエは焦り始めていた。周りがどんどん仕官していくので、正直、どこでもいいから雇われたいと思っていった。そう、騎士が無理なら従者でもいい。だんだん希望が低くなってくるのだが、そう考えると人間、慣れるもので『別に従者でもいいんじゃないか?足も速いし、呼ばれたら、はいはいと二つ返事で参上すればいい。まるで貴族様にとっては犬並みではあるが、宮仕えの上流である騎士よりは、下流の従者として気長にやれれば。』と思ったのだった。戦争こぜりあいが始まれば、いち早く駆けつけて主君のそばに侍る騎士よりは、騎士の横を這いずりまわって、『(馬に)乗りますか、はい。(馬から)降りますか、はい。』と騎乗のお供として侍ればいいだけではないか。それで給金をもらって生活できるなら楽なものとも思ったのであった。

まあ、騎士などは戦争でいち早く死ぬか、身代金目当てに捕まって、牢屋で臭い飯を食べて貴族が金を出すか、家族が金を集めてくるまで飢えをしのぐしかない。

 うちにある騎士の鎧などは、もう汗で裏側が錆て、表も湿気で錆ているが何とか表だけでも立派に見えるようにと、銀漆ニーグ・イース-ルという銀色をした漆(イース-ルの汁)を塗りこめてしのいでいる。職人が裏と表の境界線を間違って塗ってしまったために、父親がその漆にかぶれて腹がぼこぼこぶつぶつになっているのを思い出しては吹き出す始末である。そんな鎧を着てあっちに参戦、こっちに参戦などできるものかとレーベンは思い直したのである。

 そんなこんなで従者としての職を探し始めて見つけたのが、ホルトシュバイツァー(天使の呼び名だと、北の国)のヘルトシュバイツ大公爵の従者の職であった。レーベンが貴族に付けするときは、大抵皮肉を含んでいる。自分らで何か手柄を立てたわけでもなく、親からの地位の相続、財産の相続を受けたのという意味合いが強い。しかしそんな心の中をさらけ出す必要はなく、給金がいいので、飛びついた。食えればいい。生きていければいい。そんな思いだった。そしてレーベンの言う貴族に付けるには、今という意味が1つ加わったのであった。まあ首にならないように励むさ。レーベンのいうには皮肉なニュアンスが込められている。嫌な意味のほうのだった。

ヘルトシュバイツ家に雇われて、3か月前、狩りのための従者(獲物を追い立てる役目も兼ねているが)として正式に採用されて、給金もほかの2倍はもらえるとのことだった。コネもなかったが、試験では自慢の足でぶっちぎった。実力で勝ち取った職だったのだ。

 そんなレーベンだが、ヘルトシュバイツ家の従者長から、『奴らを追跡して、2日のうちに森を抜けるかどうか見極めて、報告せよ』と命じられて2匹の猟犬ファウンドを与えられ追跡開始した。

 事前情報として、『ヘルトシュバイツ大公爵様が、天使を狩らずに救命された。』と聞かされていた。そのため『大公爵様が助けたのだから、死なせるわけにはいかない。』と思ってしまったのだ。

命令に『森を抜けられるように助けろ』ともなんとも言われていないのだ。要するによけいなことをしたのだ。

 この勘違い男、レーベン・ポワティエにとって、昨夜の狩りが初めての従者としての参加であった。そして、田舎者っぽく、泥まみれ、顔は鼻水、涎でぐちゃぐちゃ、全身擦り傷まみれの前を歩く男の世話をしたのだ。言うに事欠いて、ヘルトシュバイツ家をどこの貴族だ?とか聞いてきた田舎者の世話を。

 前を歩く天使ルルドが、こちらを振り返った。それと同時に田舎者マークが振り向く。2人して深いため息をこちらに吐き出してきた。

マークが手を広げて、「なあ、もう諦めろよ。僕たちを助けたのはもう過ぎたことだし、ぐちぐち悩んでもしょうがないだろう。恩人にこんなこと言うのは気が引けるけど、もう命令違反よけいなことをしたも同然なんだ。帰って『天使たちを助けてしまいました。どうしましょう?』ってお伺いでも立てるつもりかい?殺されるよ?」

道中、従者レーベンの勘違いは、『ヘルトシュバイツは天使狩りが趣味だ。そして、次に会った時には、俺を狩りの対象にすると言っている。そのヘルトシュバイツ家の従者がなぜ助けてくれた?』というルルドの質問によりはっきりした。

助けてはいけなかったのだ。大公爵様は慈悲を掛けたわけではなかったのだ。単に獲物として面白くなくて、放逐したのだ。まるで釣った魚がまだ小さいからという理由で、魚を放流するようなものだったのだ。

 「マーク、今は何も言うな。彼だって自分の将来に暗雲が垂れ込めてきていることぐらい承知しているさ。何しろヘルトシュバイツだ。従者のひとりやふたり叩き切ってゴミのように捨てるブラックファングのえさにするくらいのことはする。」とルルドは従者レーベルの不安に拍車をかけた。自分の命を助けてくれた恩人に対してあんまりな言だが、自分たちのことを報告させてはならない。今は人数が多ければ多いほうがいい。人数が多ければ歩く速度あゆみは遅くなるが、黒狼ブラックファングなどの襲撃が格段に減る。心の中では『俺たちを助けてくれた礼ぐらいはするさ。』と神に誓っている。

 この勘違い男に助けてもらった後、土地の不安定な場所を抜けてしばらく走ってから、マークとひそかに謀ったはなしあった。「こいつに報告をさせてはいけない。できる限り命令違反をあげつらい、恐怖させて、報告させないようにしなければならない。2日のうちに森を抜けることができなければ、ヘルトシュバイツやつは、目障りな者を消しにくる。」とルルドはマークにささやいた。「でも、命の恩人だよ。その恩人の勘違いに付け入るなんてできないよ。」とマーク。

「わかってる。だ。」とルルドは自分を指差してそう強調した。「とりあえず飛天域に入ればなんとでもしてやれる。第一、もし報告に帰ったとしてあれほどの勘違いをするような男がヘルトシュバイツの下で長生きできると思うか?それに人数は多いほうがこの先かなり楽になる。」

「それに」とルルドは続けた。「猟犬ファウンドもいる。あれファウンドの鼻は、獣たちを嗅ぎ分ける。」マークは『もしかしたら猟犬の方が役に立つんじゃないか』と口に出しては言わなかった。『命の恩人に対してあんまりな評価だな』と思い、自分にルルドの皮肉癖が感染したうつったのではないかといぶかった。

 2人とのやり取りで相当へこまされたレーベン・ポワティエだったが、帰るに帰れない状態なのは理解できていた。さりとてこのままこの2人についていくのも忸怩じくじたる思いだった。この2人の後ろに3人目としてついていくことが、後ろから見ると裏切りに映るのではないかと。勘違いであれば「馬鹿者」だが、同行していたら「裏切者」ではないかとの懸念も持っている。

それに『この猟犬、何懐いてるんだ』と吃驚びっくりするくらい前を行く2人の後をつけたがるのだ。マークが野営地に逃げ込んできた後、手当てをして汚れた布などをこの2匹に嗅がせて追跡をしたのだが、『匂いをかがせていない天使ルルドにまで懐いているのはどういうことだよ。』と猟犬を預かる従者として少し嫉妬していた。何しろ3か月間一緒に飯を食い、世話をしていたこの自分よりも、昨日今日一緒にいるルルドとマークに懐いて尻尾を振っているのだ。

このままついていくのもあれだが、帰るのもなんである。なんとかならないか。『(ヘルトシュバイツ大公爵様の)獲物を無下むげに見殺しにしたくなかった』くらいの言い訳はできるかもな、などと自分の勘違いをいいほうに解釈して何とかあの給金のよい職を持続できないかと思いめぐらせていた。

そうこうするうちに昨夜から朝まで歩いてきた獣道を抜けて少々見晴らしのいいところに出た。

沼沢地しょうたくちだ。」そう言うルルドの声が聞こえた。ところどころに水が張っているのが見える。

鳥の群れがあちこちを飛んでおり、雲の合間から差し込む日の光が、湖沼を照らしていた。

湖沼に空が映り、鏡が張ってあるかのように見えた。

マークはこの辺りまで来るのは初めてだった。話には聞いていたが、ツンっと鼻につくにおいが風に流されて匂ってきた。

「見えてきた。」とルルドは笑みを浮かべてマークの肩を掴んできた。

「ああ、やっと来れた。」マークはそう言って沼沢地の向こうにそびえ立つ首府の山しゅふのやまを見やった。

神と天使の領域、頂上は雲で覆われており、麓から中腹にかけて山道が伸びている。中腹付近には、神門が合計4つ存在していて、それより下を『外区がいく』と呼び、その上を『飛天域』と呼ぶ。飛天域には『神前街』が存在している。

「あの山道は、石で敷き詰められていてのぼるのに苦労しない。」とルルドは指差しながらそう言った。わが家の自慢話でもするかのようだった。

 そこにレーベンが割って入った。「なあ、ちょっといいか。森ってどこまでを指して言うんだ?」とレーベンはルルドに聞いた。命令された時に、厳密に聞いたわけではないので、森という定義に沼沢地が入るのか分からなかった。

「・・・・・・」ルルドはちょっとの間を取ってからこう答えた。「あのあたり、山のふもと沼沢地との境界線あたりだけど、木が見えないか?で、木が沼沢地をぐるりと囲っているよな。つまり、そうゆうことだ。」ルルドは身振りで示して、渋面を作ってみせた。舌打ちせんばかりだった。

。残念ながら。

レーベンは目をつむり、深い息をして沼沢地の匂いとともに深く空気を吸い込んだ。ちょっと匂いが鼻についたので、顔を顰めた。

今が昼頃でありこの沼沢地を抜けるまでには、夜になるだろう。そんなような距離に見える。

夜には報告のために犬をはなさなければならない。2匹のうち1匹の筒の中に報告書を入れてヘルトシュバイツ家の従者長から渡された帰還布(大抵、従者長の匂いが付いた布)を嗅がせなければいけない。布の匂いを嗅がされた猟犬は、訓練されているので一目散に従者長のところに駆け込むという寸法だ。

報告にはなんと書こうか?もしこの2人が何らかの形で捕らえられ、『従者に命を救われた』などと言うようなものなら、自分の首は胴とつながっているだろうか?

レーベンはどんよりとしてしまった。自分の処刑執行書が用意されているような気分だった。

 「ツンっと鼻につくにおいは,沼沢地に入っていくほどきつくなってくる。先に進んで昼飯を食べるよりは、ここらで摂ろう。」そうルルドは提案して昼食の準備をした。時間と材料さえあれば、満足のいく食事を作れるのにとため息を吐いた。

旅先だから仕方ないのだが、相変わらずの簡易軽食であり、乾パンと乾燥ハム、乾燥ピクルスだった。ワインは底をつき、水を飲んでいる。レーベンも似たり寄ったりの食事をした。猟犬たちにも食事を与えるが、時々ルルドとマークの近くに行っては尻尾を振り、乾燥ハムをねだるのだった。ルルドは口にハムをくわえて猟犬の鼻づらに近寄り、「くれるのか?」という感じで首をかしげながら、ぱくっと喰いつきにかかるのを楽しんでさえいた。まるで小鳥に餌を与えるような感じだった。

『お前らは誰の猟犬なんだ、!』やはり嫉妬に似た感情を抱いて、ルルドたちの様子を見ていた。

 こちらの嫉妬に気付いたのか気付いていないのかルルドからこの猟犬とどれぐらいの付き合いなのかを聞かれて、苦虫をかみ砕いたような顔をして「3か月だ。」と端的に答えた。

「そうか。」と何か考えるような素振りをして短く答えたルルドは、再び乾燥ハムを猟犬ファウンドに愛想よく与えていた。もっと喰えという感じだった。

あまりにも何枚も与えるので、『もう自分の領域が目と鼻の先なので、大盤振る舞いしている。自分の生まれ故郷である山を眺めたので安心したのか。』とレーベンは思った。

「なぜ従者になったんだ?親もそうだったのか?」とルルドに問われて、レーベンは正直に給金に釣られたことを白状した。普通の給金の2倍払われる職などあまりないのだ。マークは自分の給金と比較して高額であるのを羨んだ。

 腹ごなしも終わり、各自の準備が終わったので、出発した。沼沢地はじめじめしてはいるが、道が無いわけではない。湖沼を避けて進めば、半日で沼沢地の向こうにそびえ立つ首府の山しゅふのやまの麓にある街に着けるはずだった。2匹と3人は、ルルド、マーク、猟犬ファウンドとレーベンの順番に進んでいった。入り込むにしたがってツンっと鼻につくにおいがだんだん強くなっていく。レーベンは、犬の嗅覚にとってこの匂いは我慢できるものなのだろうかと訝しんだ。

 「この鼻につく匂いはなんだい?」とマークは尋ねた。「まあ、鳥のフンの匂いだな。あとドルトベアのフンの匂い」とルルドが答える。「ドルト?」と少々声を上げてマークは尋ねる。「熊かい?」ルルドは怪訝な顔で「ああ、熊だ。いたら変か?」と聞き返した。「街のあたりではあまり出ないんで。宿屋の壁にもこーーーんなに大きな剥製が飾ってあったりするだろう?剥製で見るだけで、森とかで生きてるやつはあまり見ないな。」とマークは剥製の大きさを手振りで示したが実際に生きている熊を見たことがない。ルルドはなじみの宿屋でも同じように壁掛け剥製があるのを見たことがあるので頷いた。「確かにこの辺にいるドルトベアもそれぐらいの大きさはあるな。何しろこの辺は獲物も多い。人間の手も入りにくい。狩り尽くされてはいないな。」

「それに、この辺のドルトベアは森の中のとは違って賢い。鳥のフンの匂いを全身に付けて、鳥が近付いてくるような振りをする。決して熊の匂いはさせてない。」とルルドは、俺たちも同じ匂いをつければ鳥の振りができるかもなと軽口を叩いた。マークも続けて「鳥の匂いをわざわざつけなくてもこの沼沢地に入っていけば自然に匂いが付くね、きっと。このまま街に入ったら宿屋に泊めてもらえないかもしれない。」とありえそうなことを言った。

 時折、進む方向からバサバサという羽音とともに複数のシグダマリが飛び立っていく。ギャギャという特徴のある鳴き声を上げて右に左に灰色の羽根を抜き散らかしていく。

湖沼に居る小魚などを主食にしている鳥なので、こちらには何の害もない。なかなかの美味で照り焼きにすると、手羽からじゅわっと肉汁がしみだしてくる。味を思い出してルルドは生唾を飲み込んだ。今、家で何かを食べている想像をするのは、まだ早いのだが、沼沢地の向こうにそびえ立つ首府の山しゅふのやまを見ると、どうしてもわが家での団らんを思い出してしまう。

 妹のアシュレーや、ルルドの母が作る料理は絶品である。まあ、アシュレーが調理する速度はかなり遅く、昼食を食べた後、すぐに夕食の準備をしなければ間に合わないくらいの調理速度である。

 ルルドの母が1週間ほど留守にしたときに、アシュレーが自信を持って(胸を張って)料理担当に立候補したのだが、3日目にしてギブアップしている。徐々に徐々に食事時間がズレていき、しまいには夕食が夜中になってしまうに至って、ルルドが恐る恐る『たまには外食もいいんじゃないか?』と提案したのだった。そのまま続けていたら、どうなっていたことか。

 子供の頃はさらにやばい状況を経験したことがある。1日1食(夕食のみ)というダイエット中?のような調理速度を1週間続けてしまい、母親が帰宅した時には、少々やせ細った兄妹が出迎えるという悲劇が発生している。子供のルルドにとって、一生懸命に食事の準備をするアシュレーの姿を見守るのが義務であったので、見守り続けた結果がそれである。

そんなわが家での団らんがすぐにそこにあることが、ルルドの油断につながったといっても過言ではないだろう。そう、このメンバーで沼沢地を走破するのは、これが初めてなのであることをきちんと認識していなかったのである。

 レーベンは、鼻につくこの沼沢地の匂いにまだ慣れてなく、初めて来た地なのできょろきょろしていた。雲の切れ目から差し込む日の光が当たり、なにかしきりにキラキラ光るので、そちらのほうに気を取られる。まさかとは思いつつも、そちらのほうに足が向いてしまっていた。この沼沢地の湖沼あるいは小さな水たまりが光っているわけではない。水たまりであれば、全体的に光るはず。何か落ちている。そう思えるだけの輝きだった。何度か列から外れては、呼び戻され、外れては、呼び戻されするうちに、ルルドからの戻れという声が聞こえなくなった。猟犬が怪訝にレーベンを仰ぎ見るが、そんなこともお構いなしに輝いている地面の方へ進んでいく。しまいには足がぬかるみに取られそうになりつつも、あとちょっとのところで、何が輝いているのか判明するのだ。

 「伏せろ!レーベン!」という叫び声を背後から聞いて、輝きの方、地べたに向けていた視線を背後に向けようとして自分の目の前に黒い影が差すのを感じた。日の光を遮り、ひやりとした影を持ったそのものにレーベンの体は、持ち上げられようとしていた。沼沢地を覆う鼻につく匂いの元凶のような羽毛、体をがっしり捉えているかぎ爪が自分レーベンの肩に喰いこむのを感じた。

『そんなもの投げてどうすんだ。』とこの場に師匠であるオーラスが居合わせたら、こっぴどく叱られるところだが、ほかに方法もなかった。ルルドは腰の鞘から抜き放ったレイピアの柄を中指と人差し指の間に挟んで、思いっきりよく投げつけた。投げつけた剣は、クカラスという名の怪鳥めがけて飛んでいき怪鳥の左翼にザグっと突き刺さった。グゥワッグゥワッグゥワッという鳴き声を上げながらレーベンを突き放すかのように弾き飛ばして、空中に舞い上がって行った。ルルドの剣を突き刺したまま。

牽制程度になって追い払えればいいと、咄嗟に投げたのだが、自分の剣がまさか深々と突き刺さるとは思っておらず、ルルドはクカラスが獲物をとらえそこねて、空へ舞い上がって行ったのを唖然として見送った。

 弾き飛ばされたレーベンは、背中からどうっと叩きつけられた。猟犬は、レーベンに綱を持たれていたが、空中に持ち上げられた拍子に綱は放されたらしく無事だった。

 背中から落とされて息が肺からすべて吐き出されたのか、胸を上下させてヒューヒューと音を鳴らして息をしているレーベンの方へルルドはマークとともに走って近づいていった。彼はぬかるみに足を取られつつ、泥々になったレーベンを助け起こしてケガのないことを確認して自分のダメさ加減を痛感した。沼沢地で営巣しているクカラスという名の怪鳥が居ることの警告を怠ってしまった。

 奴らクカラスは繁殖期にこの営巣地に集まり、卵を産み温めて雛の孵化までさせる。その後一定の大きさまで雛を育てる。効率よく餌の供給をするために、狩りをするのだが、その時に罠を張る。光り物を地面に置いて、上空を旋回し、光り物に近づく動物を狩るのだ。光り物は主に宝玉であり、人間にとって一番のざいとみなされている。クカラスは人間をも狩りの対象にする。

クカラス自身も光り物が好きで、コレクションするが、その一部を罠の一部として使用するのだ。

クカラスの営巣地には一昔前、人間の王国軍が入り、婚礼の席でクカラスに攫われた姫を捜索したことがある。宝玉で着飾ったお姫様の残骸(宝玉と服)は、営巣地のくぼみで、発見されている。

 沼沢地にも、低木が生えている個所がある。レーベンを半ば引きずるように近くにある低木へ連れていく。怪我が無いことを先ほど確認しているが、レーベンは目に涙を浮かべて歯の根が合わない状態だった。マークは2匹の手綱を掴んで彼らに追いついてきた。

先ほどの怪鳥クカラスは致命傷とはいかずにそのまま飛び去ってしまっていた。ルルドはほぼ丸腰になっていた。その辺にルルドのレイピアを振り払って落としてくれていればいいが、刺さった時の音から判断して深々と刺さっているだろう。回収は絶望的だった。

ルルドは、マン・ゴーシュという左手用の防護剣を持ってはいるのだが、扱いがうまくないので、である。子供の頃の練習時に、気付くと左足が血まみれになっていたことがあり、自分には向かないと思い、刃が無いものを作ったのだった。単に防御をするためだけのものになってしまっていた。

 マークも低木に身を隠し、2匹の猟犬も伏せの態勢を取っている。周りのちょっとした音にも耳をぴくぴくと反応させている。

 回復のために、背嚢から水筒を取り出して与えると、レーベンはごきゅごきゅという音を出して水を飲んだ。「すまない。」と一言発して、また肩を揺らして忍び泣きを始めた。この場で号泣するわけにはいかないことを自覚しているのだろう。何に反応して先ほどの怪鳥クカラスの仲間が集まってくるかわかったものではない。ルルドは、「俺のミスだ。注意を怠った。警告を怠った。」とすばやくそう言って深くため息を吐いた。

 空を見上げた。曇り空だが、ところどころ日の光が差し込んでくる雲の隙間はある。

しかし、今は怪鳥クカラスが旋回していることを確認したいだけであり、できる限りわかりやすい色合いの空色であって欲しかった。黒と白の濃淡グラデーションがありすぎて、灰色の羽根をしている奴らクカラスの姿は、ていのいいカモフラージュであまり視認できそうにない。

 「マーク、お前にはさっきの奴クカラスが見えるか?」ダメ元でそう聞いてみた。「いや、僕にも見えないよ。」とマークは目をぎょろぎょろさせて上空を仰ぎ見た。

2匹の猟犬は先ほどよりもさらにべたと顔まで伏せて上目遣いをしていた。一緒に上空でも見てくれているのかと、こんな時でなければ微笑ましくも思うのだが。耳だけはピンと立てて音のするのであろう方向に向けている。人間や天使には聞こえない音でも察知しているのだろう。

 レーベンが精神的に回復したかどうかはともかくとして、先ほどよりもましになっていることをチラッと見て取った。引きずるほどの状態だった脚が動いてくれることを祈りつつ、「レーベン歩けるか?」と尋ねた。走れるかとは聞なかった。聞なかった。コクコクと肯定のうなずきをしてくれたのを救いに思いながら、周りと上空に目をやりつつ、各自の装備を確認した。

ルルドは背嚢コートの背嚢内に入れていたナイフのみ(防護剣はこの際なんの役にも立たない。)。レーベンは短剣、マークはナイフを持っている。飛んでくる怪鳥クカラスに対して役に立つかわからないレベルの装備である。先ほどの投擲はまぐれ当たりだろう。せめて複合弓ふくごうきゅうがあればと弓使いで名人級のアシュレーの顔が浮かんだが、頭を振って考えを振り払った。郷愁を抱くよりも今はこの危機を乗り切らなければならない。

 「怪鳥クカラスは、テリトリーを持っている。1つのテリトリーにつがいで卵を産み、孵化させて育てる。テリトリー内で狩りもする。1匹が巣を守っているときは、もう1匹が狩りに出ている。さっきの1匹は俺たちを狩りにきた。そして今どこにいるのかわからない。上空なのか、どこか地上の木の枝に留まっているか。」そうルルドは、いまの置かれている状況を自分で整理するためにも小声に出して説明する。「テリトリー内の罠にかかった餌をクカラスは全力で狩りに来る。俺たちはこのテリトリーから脱出して沼沢地を抜けたい。」2人の目を交互に見つめながら、この場からの脱出のイメージを固めていった。

 「案が3つある。1つは、クカラスはテリトリー内に別の羽根付きとりが入ってくるとテリトリーを守るために攻撃する。その習性を利用する案。2つは、クカラスは宝玉好き、光り物好きであるという点を利用する案。」と3案目を説明しようとすると、マークが割って入った。「別の羽根付きとりって言ったって、僕らに鳥を呼ぶ方法があるのかい。別のテリトリーからわざわざ僕らのために来るような鳥はいないと思うね。おびき寄せるのかい。」とマークが言うとレーベンも同意のうなずきをした。ルルドは「鳥とみなされるのは、羽根があればいい。ちょうどここにある。」そう言って自分の背嚢コートを少しまくって、白い羽根を見せた。「俺が囮になる。」

 マークとレーベンは、ポカンと口を開けて、次の瞬間同時に「だめだ!」と大声で言った。2人して大声を上げたことにお互い目を剥きつつ、続けて小声で「ここを抜けるのに君が居なくてどうする。だれがルートを知っている?絶対にダメだ。」そう2人から捲し立てられた。ルルドは2人が大声を出したので、眼をきょろきょろして周りを見回した。2匹の猟犬ファウンドの耳がぴくぴくしている。「成算が無いわけじゃない。俺の師匠は、やってのけたことがある。奴らクカラスの攻撃パターンや飛翔パターンだって慣れてみれば避けられるかもしれないじゃないか。」そう小声でルルドが主張する。

「待ってくれ、いつもいつも君に囮になられたりする僕の身にもなってくれ。」とマーク。「囮になったり、自分の腕を切り落そうとしたり。君は確かに100歳超えてるかもしれないけど、僕は君の子供じゃない。子供扱いしないでくれ。」この際、年齢は関係ないだろうがと思いつつ、ルルドはこのルートに入る前にルートの危険性を説明しなかった責任を取りたがっていることを悟られたくはなかった。『狩られたくないから近道のルートを取ろうとした』というのもまた事実だからである。

 マークはため息を吐きながら言った。「この旅はそもそも僕があの山の神前街に行って鍛冶屋である叔父(マークの父母の弟)に会うための旅だ。君は僕の案内役に過ぎない。森の中で天使狩りに会ったのも、僕が黒狼に怯えて飛び出して天使狩りの連中に見つかったためだ。逃がしてもらったのに僕がヘルトシュバイツのところに駆け込んで本物の天使狩りを呼び寄せてしまった。」

マークは涙目に成っていた。「もうたくさんだ。これ以上君に迷惑を掛けたくない。」はっと息を吐いてマークは遠くを見やって脱力した。ルルドも別の遠くを見る。

 茂みの真ん中に横たわって2人の責任の擦り付け合いならぬ、責任の負い合いを聞きながら、レーベンはそう言えば3つ目の案は何なのだろうと思った。気まずい沈黙が流れる中、2人とは違い近くを見ていた。自分の、いや今ではルルドやマークの方に懐いている2匹の猟犬。相変わらず、べたっと地に伏せている。マークのそばで並んでいる2匹は、耳をぴくぴくと動かしている。同じ方向に。

徐々に向きを移動させながら。

3か月間一度も狩りに連れていかれず、従者兼勢子せこ(狩りの時の獲物を追い立てる役)をみっちり教え込まれていた。『猟犬を信用しろ。お前たちよりよほど周りが。』そう教え込まれた。

 レーベンの呼吸が早くなった。『そうだ。こいつらには聴こえているんだ。』レーベンはこの2人と同行して初めて積極的に口をきいた。「3番目の案が何か気になるけど、僕の意見も聞いてもらえるかい。」2人して遠くを見ていたルルドとマークは同時にレーベンに顔を向けて、コクコクとうなずいた。

 「僕は、3か月という短い期間だったけど、猟犬で狩りをする方法を教えられた。それで今こいつらのファウンドの耳の動きを見ていたんだ。2匹とも同じ方向に動いてる。同じ方向にいる何かに反応している。。」ルルドとマークは猟犬の耳に注目した。できる限り自分たちで物音を出さずに注目する。ぴくぴくと動く耳。それはなにかその方向に存在しているものを指示しているようだった。

ルルドはマークに1匹をこちらによこすように言い、手綱を受け取った。猟犬はしぶしぶという感じでルルドの近くに移動して、先ほどと同じように伏せの態勢になった。

 さっきの乾燥ハムの借りを返してくれという冗談を飛ばそうかと思ったが、やめておいた。

場所を移動させられたので、慣れるまでに少々時間が掛かったが、確かに2匹は同じ方向の音に反応しているようだった。3人は互いの顔を見合わせた。ルルドがにやりと笑いながらこう言った。

「3番目の案なんだが・・・・・」

 3人は夜になるまで周囲を警戒して(猟犬の耳に注目しつつ)、交代交代に休憩を取り体力を回復させた。夜に動くという3番目の案を採用して細部を各自の意見で補強して夜を待った。怪鳥クカラスは昼行性だ。ゆえに、夜は巣に戻っている。確かに夜に巣に入ろうものなら、たとえよく見えなくても気配を察知して奴らは攻撃をしてくる。その事実はルルドの師匠であるオーラスからの情報だった。

オーラスも昔、沼沢地に入り込んで怪鳥クカラスに襲われたことがあった。その時の武勇伝は幼いルルドにとって忘れられないものだった。

 夜、3人は行動を開始した。3か月という短い期間での狩りの専門家ではあるのだが、この2匹の猟犬の一応の主人であるレーベンに手綱を渡した。レーベンは、2匹を自分の支配下に入れるために、胸のあたりに引き寄せて頭を撫でてやった。

横並びになって左右を警戒しつつ2匹と3人の影がそろりそろりと音をさせずに動く。

 月明かりがあるのがありがたかった。2匹の猟犬の耳の動きを見るためには、少々暗い月明かりだったが、暗闇よりはましであった。まるでネズミのようではあったのだが、こそこそと低木から移動して、移動してはしゃがみ、耳の確認、移動してはしゃがみ、耳の確認をして進んでいく。2匹の猟犬の耳の向きが同じになるのを確認しつつ、その方向を避けつつ這いずるように進んでいく。とにかくこのテリトリー(昼間に罠にはまって光り物に近づき襲われるに至ったテリトリー)から出ることが先決である。他のテリトリーに入ることができればとりあえず罠を避け2匹の猟犬の耳を頼りに行動する。

2匹の猟犬は、『狩りではないのか?』というような不思議な目つきでたまに3人を眺める。

 唐突にバサバサと夜行性の鳥が羽音を打ち鳴らして飛び去っていく。2匹の猟犬がそれらに反応しているのではないことを確認するために時間を掛けて立ち止まる。生唾を飲み込む音さえ遠慮がちにしながらの移動が永遠に続くような気さえした。

 また再びバサバサバサバサと鳥が翼をジタバタさせているような音が、先ほどとは違い徐々に小さくなっていく。そしてヅスヅスヅスと何かを踏みしめているような音。

『なんの音だ?』と3人は思いはしたが、暗闇で音による判断はできなかった。 

 行動開始前の段取りでは、集中力の持続できない場合もあるので、休憩を入れることを申し合わせてあった。誰かが言い出さなければ、決して休憩を取らないような雰囲気になっていたので、ルルドは、真ん中を歩くレーベンの右肘を軽くつかみ、2回くいくいと引っ張った。レーベンがうなずいたので、2人は歩くのをやめて、マークが気付くように仕向けた。マークも限界に達していたのか、すぐにそれと認識して歩みを止めた。

 2匹と3人は、しゃがみこんで人心地ついた。沼沢地の夜である。霧が出てきてちょうどいい具合に2匹と3人を隠蔽してくれている。霧の湿気で昼間の鼻をつく匂いも薄らいでいるようにも思えたが、案外この匂いに慣れてしまっているのかもしれないなと思った。

霧がかすかに動き始めていることに気付いた。沼沢地の向こうにそびえ立つ首府の山しゅふのやまは月明かりの中でも見えないが、そこからの吹きおろしが始まったのだと思った。

『そんな時間か。』とルルドは思った。夏は涼しいのだが、冬は寒い。冬は特にびゅびゅと吹くので飛天域の者たちは早めに家に帰って暖かい暖炉に火を入れて、火炎石で熱した風呂で身体を温める。

天使にとって風呂は羽根の油脂を分泌させてつやを出させるために必要なものである。旅に出ている天使にとって、宿屋で借りられる風呂は格別なものである。また郷愁にかられてしまいルルドは首を振って振り払った。気は抜けない。抜いてはいけない。

 霧がすうと晴れてきた。

月明かりも相まって前方が開けてきた。『・・・・・・・・・・岩か?』

目の前に大きな影がある。他の2人も気付いたらしく3人と2匹は自然に動きが止まった。

3人は息をするのも忘れた。唾をのむ音も立てないようにした。

2匹も3人の心を読んだかのようにじっとしてくれている。素直にありがとうと言いたいくらいだ。

ルルドはレーベンを横目で見て、マークもレーベンを横目で見て、レーベンは左右に目線を送った。

3人で目で語り合った。『なんだろうな、これ?』『沼沢地に岩?』

そうこうするうちに前方の岩は「バリバリ、ミチミチ」という音を発し始めてた。

ルルドは再びレーベンを横目で見て、マークもレーベンを再び横目で見て、レーベンは左右に目線を再び送った。

岩の上部が動いている。「ボリボリ、ゴリゴリ」動くたびに音が鳴った。

岩ではないな。そう納得したが、このまま動いていいのか判断しかねた。

黒狼の扱いなら少々心得ている。獣道で出会っても『逃げるな、後ずさりするな、目を逸らすな。剣を抜くな。』なのだが、目の前の岩これにはその方法でいけるのだろうか?ここで物音を立てると、振り向かれる。決めた。ここまで近づけたのだから、気付いていないはず。

ルルドは再びレーベンを横目で見て、右手を2~3回ほど上下させて、『ここで腹這いになろう』ということを伝えた。レーベンは同じようにしてマークに伝えて、3人ほぼ同時に腹這いになることにした。ゆっくりゆっくりとした動作でねちゃと湿った地面に腹這いになり、猟犬も同じように伏せをする。

岩は「ビチビチ、ジチャ」という音、もうわかってしまったのだが、咀嚼音を出して食事中なのだ。

岩ならぬドルトベアがおそらくは怪鳥クカラスを餌食にしているのだ。昼過ぎにマークに言った言葉が去来した。『この辺のドルトベアは森の中のとは違って賢い。鳥のフンの匂いを全身に付けて、鳥が近付いてくるような振りをする。決して熊の匂いはさせてない。』

猟犬に怪鳥クカラスと同じ匂いのするドルトベアの違いを嗅ぎ分けさせるのは、酷であろう。

 さっき聞こえたヅスヅスヅスと何かを踏みしめているような音が、この大きな背中を見せているドルトベアの地面を踏みしめる音であると気づくべきだった。進行方向に移動する音だと気づくべきだった。

さっき聞こえた翼をジタバタさせているような音は、(怪鳥クカラスの)断末魔の足掻きだったと気づくべきだった。徐々に死へと向かって行ったのだ。

 猟犬でも騙されるのにそれは無理だろうと言ってもいいのだが、食べられてからでは遅かろう。目の前で怪鳥クカラスを咀嚼するドルトベアが鳥類を食べ飽きて、ほかの種類のデザートを欲しくなりませんようにと神に祈りつつ、保存食にされませんようにとも祈りつつ、

ただただこの時間が早く過ぎてほしいと3人は思っていた。

 だんだん東の空が白み始めてきた。沼沢地の向こうにそびえ立つ首府の山しゅふのやまが、だんだんと輪郭をあらわにして影絵のように浮かび上がりつつあった。

霧も足元を残して、晴れ始めていた。

 2匹と3人は、ドルトベアの食事が終りかけているのに気づいていたが、さりとて地べたに這いつくばる以外なすすべもなく、ただただ霧が腹這い状態の自分たちをかろうじて隠してくれていることを幸運に思うのだった。

 ドルトベアが、ふいに倒れたように思った。岩が転がるかのように低い体勢になったように思われた。そしてのしのしと左手の方に四つん這いで歩き出した。

今まで地面にどんと座り込んで怪鳥クカラスを食べていたため泥がこびりついていた尻を振りながら、ルルドたちの20ファーストリング(20メートル)ほど離れたところに、移動した。

四つん這いの状態でその砂がこんもりと盛り上がっている場所に入り、『ぱきぱき』という音を立て始めた。顔を上げてしばらく周りに敵がいないことを確認して、また顔を下げて『ぱきぱき』という音を上げている。顔を上げて周りを確認した時に口のあたりが黄色と透明な液で濡れていた。

怪鳥クカラスの卵を喰ってるんだ。』とルルドたちが理解した時に、すでに何個かの卵を喰い終わり、ドルトベアは『ごふごふ』とゲップに似た音を出してご満悦のようだった。

足元の霧は晴れていない。腹這いになっているルルドたちをうまく隠してくれている。ドルトベアはもう満腹状態。逃走のための好条件になりつつあるのを感じながらも、走るもの、動くものをドルトベアは逃がさないだろうと懸念していた。満腹状態でも動くものを追いかけて遊びたいかもしれないじゃないか。腹ごなしに運動でもしたいかもしれないじゃないか。

ルルドは、もうしばらく様子を見て、ドルトベアが穴倉や住処に帰ってくれる時を待つことにした。

ドルトベアの目に見える範囲で動きたくないのも理由の1つだった。

 沼沢地の向こうにそびえ立つ首府の山しゅふのやまが、朝日の光に照らされてはっきりと姿を見せた。沼沢地も起きだしており、シグダマリも朝の獲物(たいてい沼にいる小魚)を得ようと動き始めていた。あちこちで『ギャギャ』という鳴き声が聞こえ始めている。

 唐突に『バサバサ』という羽音が何度か聞こえてきた。ドルトベアが直立して前足を右へ左へ動かしている。振り回しているといってもいい。何が起こったのか唐突すぎてルルドたちがポカンとして眺めている最中にも、上空から白く高速に落下してくるものが何個かあった。『グゥワッグゥワッグゥワッ』と鳴きながら複数の怪鳥クカラスに襲われてドルトベアは身をよじり前足を振り自分への攻撃を防ごうとしている。怪鳥の鋭いかぎ爪で引っ掻かれまくって出血しはじめている。同族同士で縄張り争いはするが、1つの営巣地内で1つの巣が襲われていることを探知した場合、怪鳥クカラスは容赦しない。ドルトベアの最大の過ちは食い意地を張って卵を食べ散らかしてしまったことであろう。その卵の中身の匂いが怪鳥クカラスの営巣地防御本能に拍車をかけたのだ。

 ルルドたちは、ドルトベアが怪鳥から集団で攻撃を受けている隙に営巣地を抜けるため、駆け出していた。声も出し合わず、だれからともなく立ち上がり走り始める。猟犬ファウンドは『やっとか』というようなそぶりでレーベンのそばを走る。

 ルルド、マーク、2匹、レーベンの順に、走りに走った。ドルトベアの食事を眺めながらではあるが、精神こころはともかくとして、体力的には十分な休息をとれたので、2匹と3人の動きは軽やかにみえた。湖沼を避けて、ここぞとばかりに走り続ける。なによりドルトベアの追跡はないだろうと想像できるし、光り物を見に行くような気も起きないので、沼沢地の半ばを過ぎても3人と2匹の速度は落ちなかった。休憩をしようと言う者も無く、とにかくこの沼沢地を抜けたい一心で走り続ける。朝の獲物を狩ろうとする鳥たちは、この怪鳥クカラスのフン臭い一行を、形がかわった怪鳥クカラスとみなして容易に近づこうとはしなかった。怪鳥の営巣地を這いずり回ったため十分に服に染みついているのを本人たちは匂いに慣れてしまって気づいていなかったのだが。

 レーベンは従者ではあるが、3か月の間、猟犬を使った勢子せこの訓練を受けていた。貴族たちが猟に出かけるときに獲物を貴族たちが狩りやすいように追い立てる役目であり、

戦時には騎馬の横や後ろを走ったり、伝令役、犬を使った脱走者の追跡なども実施する。

今回仰せつかったのは、ルルドたち2人を追跡する任務であったが、何の因果か今こうして2人と同行している。そのため、同じ走るとしても、できれば彼らの後ろを走りたいという意図もある。誰かが遠くからこの一行を眺めていたとしても、『追跡をしている』という体裁をとっておきたかったのである。決して彼らと比べて体力が劣っているわけではない。理由があるのだ。

 そんなレーベンの思惑を知ってか知らずか、ルルドは後ろを走るマークとレーベンを置いてきぼりにしていないことを確認するためにたびたび振り返るのだった。2人の疲労度も図って休憩のタイミングも考えているのであろう。

 何度目かの後ろの確認のために、ルルドは走りながら後ろを向いて、2人を確認していると急に視線が沈み込むのを感じた。何か起伏のあるところを滑り落ちていった感じだった。後ろを確認していたので、前に傾斜があるのに気づかなかったのだ。

すぐ後ろのマークが止まれずに同じように滑り落ちてくる。ルルドの斜め後ろの地面に胸の高さまでめり込む。もちろん自分自身もずぼという音とともにめり込んでいる。

めり込んだ身体、と言っても胸から下はもうすでに地面の中であり確認のしようがないのであるが、自分の腕が沈み込む身体を実質支えっていることに違和感を覚えた。普通地面についているのは、足のはずだが、腕が地面についている。しかも身体を動かすとずぶずぶと沈み込んでいくのだ。

「おいマーク。大丈夫か?」自分の心配をしろと言われそうだが、2人で何とか這い上がれるかもしれないので、聞いてみた。後ろを確認しつつ、滑り降りたので、上半身のみが後ろを向いて下半身は別の方向を向いている。とりあえず目に見える部分は大丈夫そうだが、沈んでいる部分がどうなっているか気になった。「いや、大丈夫じゃないね。」とマークは少々苦しそうに言った。「君よりも深くめり込んでるよ。」

 2人が落ちたのは泥井戸と呼ばれる。元々湖沼で水が張っていたが、表面の水が地面にしみこんでいき、徐々に沈降して窪地状の落とし穴になる。泥々なのでずぶずぶと沈み込んでいく。

 レーベンは2人が急に視界から消えたことに驚き、猟犬が急停止するのにも驚いた。2人が消えたところあたりで地面が縊れていて、窪地になっているのが分かった。すり鉢状と言ってもいい。3ファーストリング(3メートル)ほど下には、2人がお揃いで胸のあたりまで沈み込んでいるのが見えた。こんな時でなければ大笑いしている景色だ。猟犬が右往左往する。何とかしなければ。あとちょっとで沼沢地を抜けることができる。沼沢地を囲む木々が見える。そう思いはしたが、別の思いもふと湧いてきた。

『このまま、この2人を放って帰れば、2人は沼沢地で死にましたと報告できる。』

『報告の遅れは、2人が死んだことを確認するために時間を要した』とでも言えばいい。

そういう思いはあったが、実際の行動は違っていた。

「2人とも大丈夫か?」と声を掛けていた。彼らが胸まで突き刺さっているのは確認できたが、足をくじいていないか確認しておきたかった。這い上がってくるにも引っ張り上げるにも彼ら自身の力が必要だ。

 ルルドとマークの「大丈夫だが、だんだん沈んでいく」という情けない声を聞きながら、何か引き上げるための道具が無いか背嚢コートをまさぐってみた。怪鳥クカラスに持ち上げられ叩きつけられ、這いずり回ったために泥まみれのコートについている背嚢を開けて、何かひも状のものを探したが、従者に渡される標準装備のなかにひもは含まれていない。いっそ短剣でコートを切り裂いてひも状にしてルルドたちに投げるかとも考えたが、防刃性を誇るこのコートを短剣で切り裂く時間があるのか?その間に沼に沈んでいくルルドとマークの断末魔の声を聞けとでも?

あれこれレーベンが考えている隙に、マークは沼に口のあたりまで沈みかけており、ルルドはそんなマークを励ますために声を掛けている。

 「ひもがなーいっ。どうやって引きあがればいい?どうすればいい?」とルルドとマークに叫んで助言を求めた。都合よくひもが出てくるわけはないとルルドは腹をくくっていた。天使であるルルドは翼が出っ張っているために沈みは緩慢である。それに比べて、マークの沈みの速さときたら。そんなマークは「このまま2人で沈んだら何千年かのちに発見ほりおこされて『人間と天使の化石』とでも言われて陳列されるのかな。どうせなら2人で握手でもしとこうか。仲が良かったんだなくらいは思ってくれるかも。」などと恐怖を克服するために冗談口を叩いている。泥が口に入りそうなくらい沈んでいるくせに。

「そうだな。危ない異種族間の男たちの心中と思われるよりは、お友達扱いされた方がいいかもな。」心中とお友達の違いが化石になって判別できるのかどうかはさておき、ルルドはこう返した。

レーベンの叫び声は聞こえていたのだが、助かる方法が見つからない。確かに自分の背嚢コートにもひもは入れていない。登山に行くわけではないし、山登りといっても自分の家がある首府の山は、登山をするような山ではない。森で必要ならアチュートつるというひも状の植物を木から引っぺがせばいいだけだ。だが、ここは、沼沢地だ。そんなものは生えていない。

今度生まれ変わったら背嚢コートにはひもを入れておこうなどと考える始末。

 レーベンは冗談口を叩いている2人に対して『焦っている自分が情けない』と思えてきていたし、自分たちの命が消えそうな状況にもかかわらず2人して冗談を言い合っていることに、軽い、いやかなりの嫉妬をした。うらやましい。猟犬たちまで沼の淵でうろうろしているじゃないか、まるでレーベンの焦りを体で表現しているみたいだった。右往左往という感じで猟犬ファウンドが動くので、レーベンの腕はその動きに追随して右に左に振れる。

綱がプラプラしている。そう2匹の綱が。が。

 ルルドとマークは何度目かの冗談口のやり取りで、別れを惜しんでいる自分たちを感じていた。

いろいろ口論もしてお互いを助け合いもした旅だった。

 「マーク、短い間だったが、まあ悪くない旅だった。神前街まで案内できなくてすまなかったな。

レイピアを大手を振って作れたかもしれないのに」とルルドは自分よりも沈み込みの早いマークに最後の別れを言った。「僕の方こそ、ここまで連れて来てくれてありがとう。いろいろ巻き添えにしてすまない。初めての旅が君と一緒でよかったよ。」とマークは、鍛冶屋の兄弟子以上に『兄』と思えるルルドに対して手を差し出した。沈みかけだがまだ手は地面から出ている。

ルルドとマークはがっしり手を組んでお互いの体温を感じた。首から下はもう冷たい沼の中に潜りこんでしまっておりかなり体温が下がっている。足の感覚はなく、ぴくとも動かない。そんな2人の状況だが、手だけは温かかった。

 唐突に猟犬が2人のそばに落ちてきた。とびかかってきたといってもいい。体重の軽い猟犬は、2人の顔を嘗め回してまるで『死ぬな』と言っているようだった。

猟犬の足はズブリと沼に沈んでいるが、胴体は沈まずに尻尾を盛んに動かしている。

ルルドは、胴体に取り付けられているハーネスから綱が伸びているのを見て取った。「マーク、離すなよ。」と言ってルルドはマークの手と自分の手にハーネスから伸びる綱を握りこませた。

「レーベン!引いてくれ!」と叫ぶと同時に、綱がピンと張られるのを感じる。

徐々に徐々にではあるが、ずずずと体が滑り浮き上がって、沼の淵の方に引きずられる。

猟犬も沈む足をずぶりずぶりと踏みしめて進む。マークは綱を握る手を決して離さずに「いいぞ、もっとだ。」とレーベンに激励を送っている。泥まみれの2人と1匹が沼から引きずりあげられたのは、日が中天を過ぎるころであった。

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