第14話 「深淵」
しばらく放心状態の2人だったが、お互いにまだ動けることを確認して、ルルドは体力の回復のため、そこにとどまり、マークは、逃走のために投げ捨ててきた荷物、背嚢コート、そして
ルルドは拾い集めてきてもらったコートの背嚢をまさぐり、乾燥させてあるエンバの葉を口に入れて水筒に入っているワインをぐっとあおった。あおった勢いで口の端から流れ落ちたワインが血のようだとマークはぶるっと震えた。
まさか助けを呼んだつもりが、さらに厄介な者を呼び寄せてしまっていたとは思いもよらなかった。
その旨を何度ルルドに言おうとしたのだが、そのたびに話は後だと言わんばかりで取り付く島もない。
雨泥で汚れて冷えたコートを無いよりはましなので羽織り、ルルドの傷の手当てをした。人間たちの幅広の剣を細い
夜のうちに行動しなければいけない。そうルルドは確信していた。そしてその旨をマークにも告げた。
ルルドは、手当を受けた後、背嚢コートを着込んで、ふと気付いた。「親父さんの形見の
マークは今まで忘れていたかのようにはっとして、ルルドの顔を見て、目を逸らした。
ルルドは「この森は隆起と沈降が激しい土地だ。後ろを振り向くと急に景色が変わっているくらいだ。探しに行くなら今しかない。どうする?」と聞いた。何日か後にとか何か月あとになどは考えられないだろう。
マークは下を向き、目を閉じて首を振ってこう言った。「僕たちの命には代えられない。時間が無い。父も分かってくれるはずさ。」
2日で森を抜けなければ、狩られる。その恐怖が、2人を急がせた。マークを決意させた。森の中央を突っ切れる獣道を行く。夜に襲ってくる
獣道では、幸運にも黒狼に遭遇せずに進むことができた。
気づいたら森の中に朝日の光が、霧を引き裂いているように差し込んできていた。
体力的に余力はまだあるが、傷の手当ても必要なのと朝食も摂っておきたかったので、2人は小休止することにした。
「傷の具合はどう?」とマークはルルドのために食事を用意しながら聞いた。
腕の包帯を変えながら「腫れは引き始めている。エンバの汁入りのワインが効いてきたんだろう。」とルルドは、心配ないという風に口角を上げた。
「エンバの汁を塗ればもっと早く治るよ。やってあげようか?」とマークはにやにやしながら言った。「おいおいおいおい、冗談じゃない。あんなもん塗られるより、腕を
妹のアシュレーがその時のルルドの悲鳴にビックリして気絶したという逸話がある。
塗られた本人も気絶したが、幼い妹まで気絶したのだから、傷にしみるのは言うまでもない。
エンバの汁は、エンバの葉のしぼり汁だが、どの地方でも同じ大きさの葉がなるので、大きさに関する単位基準として使われることがある。また、汁は、消毒薬兼傷薬ともなり、一家の庭には必ず植える。
傷に塗布すると、大の大人でも泣き叫ぶレベルのしみ具合である。なので、水で薄めて傷口に塗布するのが、親心というものだが、ルルドの親は、お仕置きのために使用したのではないかとたまに思うことがある。汁をその場で絞って(薄めもせずに)塗りつけていたからだ。
「あれは気絶させるために使うんじゃないのか?すくなくともうちではそうだった。」とルルドは武勇伝のように言った。
「ゴルトベルグの街じゃ、大人たちが賭け事のために使ってたよ。わざわざ手に傷を作ってエンバの葉っぱを握りつぶすんだ。汁が容器いっぱいになるまで絞って耐えられたら勝ち。」とマークは大人たちの馬鹿さ加減を面白おかしく語りだした。
「我慢大会のために使われてるとは、知らなかった。」とルルドは半ばあきれた。
小休止をすることにより人心地ついた。だが、なごんでいる暇はない。2日のうちに森を抜けないと天使狩りに確実にあってしまう。あのユーリー・ヴラド・ヘルトシュバイツは必ずやってくる。そんな確信がルルドとマークにはあった。こうやって小休止している姿もどこかから見られているのではないかと食事中も2人で周りをきょろきょろと見回すのだった。ヘルトシュバイツの見張りがつけて来ないとも限らない。マークは野営地で見た従者と
もし
ヘルトシュバイツの名前は、2人の間では会話に出ていない。2人の認識では、会話に出すと、背後にいるのではないかというくらいの恐怖の対象となってしまっている。
マークにとっては不思議なことにルルドと一緒にいれば何とかなるのではないかという気持ちになっている。
マークは、あの祭壇の上で、ルルドが名乗りを上げたのを若干誇らしく思っている。月明かりに照らされた白い翼、その場に良く通る声で、響き渡る『ルルド・クーリッジ』の名。マークにとっては自分を庇いつつ対峙したその姿に、理想の天使像を見ているのだった。子供の頃、助けてくれた理想の天使。
食事が終わり、食器の片づけが済んで、ルルドはマークに今後の予定を話して聞かせた。何しろ命がかかっている。途中でへたばられるよりは、事前に腹をくくってもらうほうがいいという判断だった。夕方までこのまま走破して、夜まで眠り、夜にまた獣道を走破する。そう告げたとき、マークに否やはなかった。ヘルトシュバイツは天使狩りだから、人間であるマークだけよそへ逃げることもできる旨を伝えてはいるが、「もう運命共同体だから」とか「このままはぐれても
再び獣道に入りしゃがんだり、匍匐したり、前にある枝をかき分けつつ進む。街道を行きたいのはやまやまだが、
昼に休憩しなかったためか、2人してへとへとになっていた。日が傾いて、森に赤い夕陽が差し込んできている。マークが遅れ始め、それにペースを合わせたのが最後、2人で獣道を外れた小高い丘にへたばってしまった。
なるべくヘルトシュバイツの軍隊から離れたい思いからの強行軍であったが、2人ともに満身創痍であった上に、朝から休みなく進んできたので、体が休息を要求するのも無理からぬことだった。
気が付くと、森の木々の隙間から、月が見える時間になっていた。
まるで昨日の夜のことが、なかったかのような月を眺めて、丘の上の草をかき分けて吹いていく風を頬に感じていた。マークの寝息も近くに感じる。自分が生き、人が生きている証拠を感じられる。
何時間眠っていたのか分からないが、あと1日あれば、何とかなるのではないかという気もしてきていた。
ごごごごという音を聞いたのは、その時だった。
一瞬、昼飯抜きの腹いせに自分の腹が抗議し始めたかと思ったのだが、不思議と腹は減っていなかった。マークの奴がいびきでも
マークはまだ寝ているようだった。規則的な寝息を立てているので、下半身を
『うん、(足が)ある。』とひとりごちたその時、マークの吹き出した笑い声が聞こえてきた。
「この野郎、起きてたんなら少しは身じろぎくらいしろっ。お前の下半身が喰われてないか確認してやったんだぞ。」心配して損したので、いつも以上に悪態をついてやった。
マークは腹を抱えて笑い転げている。「ごめん、ごめん。ごそごそ動き出すんでなんかそっちのほうの趣味でもあるのかと心配で心配で。」
「そこまで飢えてない!」などとやりあっていると、また、ごおおおおと音が聞こた。
先ほどまでのやり取りが月夜の闇に消え入るかと思うほど、異音がしたのち、唐突に音が止む。
「・・・・・・まてよ。マーク!ゆっくり立ち上がれるか?ゆっくりとだ。」そうルルドは言って先に立ち上がり、全身の神経を集中させて何かを感じ取ろうとしていた。ルルドのそんな声には訳があることをこの旅で何回か経験しているので、マークはそっと立ち上がりかけた。
マークの腕を掴み、立ち上がりやすくしてやったルルドだったが、いきなり左に体が揺れるのを感じて、マークがふざけて腕を引っ張ったのかと疑った。だが、そうでははなかった。
左に揺らいだかと思うと、今度は右に揺らぎだした。音は、ギシギシとしなる感じであり、丘の周りの木々もバサバサと枝をゆすり始めていた。マークはまだ完全に立ってはいないが、そんなことはお構いなしにルルドはマークの腕を引っ張って、丘を駆け下りだした。マークは引きずられるような
隆起と沈降が激しい土地
丘を駆け下りかけたルルドの足が、地面にめり込むのを感じた。ちょうど、家の階段の一番上で、あるものと勘違いしてさらにもう一段足を挙げておろした時のような違和感を感じた。そこにあるべきものがない感覚。やばいと感じたときには、マークを掴んでいた手を放していた。闇。月夜の闇とはまた違った闇を見たような気がしていた。地の底に吸い込まれるような感覚。
そこには何か得体のしれない怪物がぽかと口を開けて、彼を餌として迎え入れる準備をしているような、あるいは、酒に酔い潰れて月の無い夜にふと目が覚め、そこにあるか無きかの泥炭のような黒色に瞳を染められているのではないか、瞳を刳り抜かれているのではないかと思えるほどの深淵を見たのだ。
はっと息をのんだ一瞬の間で、自分が宙に浮いているのを感じた。
次の瞬間、手首をがっしりとした手でつかまれていた。ぷらぷらと自分の足が漂う。マークの顔が上に見える。マークが居たところは崩れ落ちずに済んだのだろう。地べたに倒れこんではいるが、ルルドの左手首を手を伸ばして掴んでいる。
「マーク、手を離せ。この森は浮き沈みの激しい土地だ。お前が居るところが、丈夫とは限らない。いつ沈み込んでくるか分からん。早めに離れろ。そして、神前街に行け。東に進めばいずれ道に出る。」そうルルドは告げた。天使の重さは、見かけよりも軽い。だが、足場がどうなるかわからない今の状況では、この場を早めに離れることが先決であろう。
「嫌だ。」とマークは首を振って言った。
「もう嫌だ。自分ひとりだけ逃げるのは!自分だけ安全なところにいるのは!なんで僕ばかりに逃げろっていうんだ。ずるいよ。ひとり残されたら、つらいよ。一緒に死んだほうが、ましだ。」子供の頃からそうだった。親が殺されて自分ひとり生き残り、そして昨夜は自分ひとりだけ逃げて、逃がされて。
マークから零れ落ちた涙がルルドの頬に落ちて流れていった。
ルルドはため息を吐いた。
「マーク。手を放しなさい。」ルルドは優しく言った。マークとは100歳差があるにも関わらず、なぜか弟のような気がしていた。昔の自分が思い出された。
若い自分も綺麗な
長く生きた分だけマークにも同じように長く生きてほしい。
マークは決して手を放そうとはしなかった。鍛冶屋では、鍛造のために左手で熱く熱した鉄を治具を使い挟み込んでいたのだ。握力だって弱くない。耐えてみせる。いまルルドが落ち込んでるところだって1時間もすれば元に戻るかもしれないじゃないか。隆起するかもしれないじゃないか。そんなマークの願いではあったが、先ほどと同じようなごごごごという音は、小さく断続的に鳴り響いている。まだ
ルルドは微笑んでいた。月の光にそう見えた。子供の頑固さを諫めるような微笑だった。しょうがないやつだな。そんなような言葉を言いそうな笑顔だった。開いている右手で、左腰にある
ルルドは自らの左腕を切り落とすつもりなのだった。
綺麗な
引き抜かれた剣は刃こぼれがひどかった。昨夜の天使狩りとの闘いで、まるでのこぎりのようにギザギザしている。
前後に引けばまだ使える。腕の1本もそのうち落とせるだろう。そうルルドが意を決した時だった。マークの背後に人影が現れた。そしてそれに付属しているような小さな生き物。
マークの隣に同じように倒れこみ、両腕をルルドの方に伸ばして、引き上げようとしている。
ごごごごとマークが倒れこんでいたところが、沈み込んでいくのを2
また寝そべっている。だが、今度は2匹と3人になった。3人で荒い息を吐きながら、中点の月を眺めていた。「生きてるな。」誰ともなくそう呟いた。
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