EX1


    果てまで広がる夜の草原に、二人の男が佇んでいる。一人は草原に腰を下ろし、もう一人は背後からその様子を見守っている。


    一人は黒髪の青年、体型にガッチリとした逞しさは感じられないが、ヒョロヒョロとした頼りなさも感じられない。美しく綺麗に鍛え上げられた肉体がそこには存在している。


    青年は天に数多輝く星の海の中で一際目立つ月に目を向けている。


    彼の者は勇者、異界より呼ばれ世界を救う事のできなかった者。


     もう一人は老人、生やす口髭や髪は白く柔らかさを感じられる。腰が曲がってはいるが、弱々しいわけではない。幾つもの年を重ねることによって、肉体には硬く太い芯が一本生えている。


    老人は草原に座る青年を、懺悔の念が篭った目で見る。己が犯した罪を悔いる。


    老人は大魔導師マーリン・ディウォード、勇者をこの世に呼んだ張本人であり、勇者にとってはこの世界での親のような存在だ。


「お主は……儂を恨んでおるか?」


     マーリンが勇者に問いかけた。マーリンにとって、それは勇者を召喚してから聞く事を拒んでいたことであった。自分のせいで、一人の人間に悲しい思いをもう一度させてしまったのだから。


「……恨んでないよ」


    勇者は両腕に体重を預けて、天を見上げながら答えた。


    その答えに偽りはない。


「俺はあんたに感謝する事はあっても、恨む理由はないさ」


    勇者は優しい笑みを浮かべた。けれどその笑みは背後にいるマーリンには見えない。


「だって、何もできなかった俺が、こうして走れるようになったんだ。凄いことじゃないか」


    勇者は自分の右足を上下させる。


「前の世界で、俺は学校にもいけなかった、友達は一人もいなくて、話す相手と言えば弟くらいだ。同い年の子と話したことなんて一度もなかった。いつも家に居て、見える景色は変わらない。偶に外に出たかと思えば、行く先はいつも決まって病院」


    勇者は目を瞑りながら、瞼の裏に以前の世界で過ごしてきた光景を映し出した。


    ソレは決まりに決まった一日をただ無心に過ごすようなモノであった。ベッドの上に寝転がり、調子の良い日は朝から弟が帰ってくる夕方まで、自分で勉強したり、雑学を身につける為に本を読んだ。


    いつか、自分の中に存在する正体も原因も不明な病魔から開放され、学校に行った時に誰かと仲良くなる為に。


    けれど、ソレは叶わぬ夢だと、とうに知っていた。


    夕方になれば弟が帰ってきて、今日何が起きたのか話してくれる。ソレが勇者の知っている、テレビのドラマで見るモノとは違う、現実の青春だった。


    弟が彼女を連れてきた時には、両親よりも先に勇者に合わせた。勇者は弟の彼女が、人柄の良さそうな人なので安心して涙を流した。


    夜になれば、味付けの薄い健康的な病院食のようなモノを悲しく食べていた。目の前で家族が食べているモノを何度も食べたいと渇望していたが、自分には無理だと悟っていた。


     だから、料理の本を何度も見て、その過程を何度も真似た。食材の質もよくわからないのに料理した気になって、味を知らないのに美味しいモノだと錯覚していた。


「けれど、この世界に来てからは違う。自由に運動できるようになった。数は少ないけど、語り合える親友もできた…………それに、恋だってした」


     勇者は草原から立ち上がると、ズボンの尻についていた草を手で払い落とした。


    右手を天高く伸ばし、夜空に光る月をつかもうとする。


「前の世界だったら考えもしなかった。俺に心の底から愛せる女性ができるなんて、諦めていた」


    握りしめた右手を優しく自分の胸に寄せる。


「愛を知った、恋をした。彼女と寄り添えるのならば何も厭わなかった。そして結ばれて、子供まで授かった」


     勇者は振り返り、明るい、透き通った笑顔をマーリンに見せた。


    マーリンはその笑顔を直視できずに、目線を逸らした。


「凄いよな、この俺がパパだぜ、パパ。これから俺は子供を……未来を育てるんだ。俺たち夫婦は種族も生まれた世界も違う。けど俺たちは真実の愛を育むことができた。魔人、俺たちの子供アークがその証明だ」


「ーーーー」


    マーリンは弱々しい声で勇者の名前を呼んだ。


「そんなに悲しい顔をしないでくれ、俺まで悲しくなっちまう。失ったモノがある。世界では俺を罵る奴もいる。けれど、そんなことよりも俺は、大切なモノを得られた事が嬉しいんだ」


    勇者は振り返らない、ソレは失ったモノから目を背ける行為と同義ではない。未来に向けて、歩くのだ。


    マーリンの心の中に少しの救いが生まれた。勇者がこの世に呼ばれてからの成長を見守ってきた時から、心優しい青年に過酷な境遇を与えてしまった事を悔やんでいた。けれど、それも今晴れた。


「そう言えば……」


    勇者は背後に広がる草原に振り返った。


「俺が歩けるようになった時、最初にこの草原を駆けたっけ。地平線の果てまで続くこの草原を制覇できると思ってた…………けれど、違った。すぐに体力が無くなって、地面に仰向けになって、空を見上げた。美しかった」


「…………」


「今なら、この草原どころか世界中を駆け回れるのかもしれない。けれど、俺にそんな資格はない」


    悲しい声音だった。


「……俺は一つだけ後悔している」


    今までの勇者の明るさは何処かに消え去り、その場に残ったのは吹いてしまえば消えてしまいそうな脆弱な、只の人。


「俺は何も救えなかった」


     勇者の頬を流れる雫は、マーリンが見た唯一の勇者の涙だった。


    

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