コッペパンで昼食を

 パン・ド・カンパーニュをスライスしたのにバターを滑らせて、生ハムをのせただけの究極にシンプルなトーストが大好きだ。野菜は別で摂ればいい。ダイス状にカットしたトマトときゅうりとモッツァレラにバジルとオレガノをふってオリーブオイルとワインビネガーをたらしただけの究極にシンプルなサラダと一緒に。

 朝食だって至福の時。

 いつもなら、コーヒーを立て続けに2杯は飲むけれど、今日はお取り寄せで届いたちょっと特別なオレンジジュースがあるから、それをグラスで頂く。


 嗚呼。幸せ。


 美味しすぎて、カンパーニュは一気に半分になった。


 よせばいいのに昨夜は戯れに、おやつとしてパン・オ・ショコラをいい時間になってから食べてしまった。食欲が底なしだなぁ。自重。



 それにしても、昨日の紳士。

 なんて上品な佇まいだったのだろう。それこそ、あぁいうちょっと小洒落たブーランジェリーにひっそりと来店するのが非常によく似合う。カヌレが好物だと言っていた。他にはどんなパンを食べるのかしら。上品ななりに、パリジャンあたりを豪快にかじってくれたら、そのギャップにやられてしまいそうだ。

 そんな妄想を掻きたてながら身支度をし、今日も仕事。お昼に行こうとしている店は、もう決めてある。



 外回りを言い渡されて、そう遠くはないけれど下町の商店街を抜けたところにある住宅街の道筋を歩く羽目になった。

 行こうとしていた店はまるっきり反対方向。これは、今日は諦めて別で昼食を調達するしかないか。

 に、しても。

 店らしい店がない。

 飲食店が、ない。当たり前か。ここは住宅街だからな。とりあえず商店街に戻ってみるか。何か食べるものくらいは売っているだろう。



 と、朝通った時はまだシャッターが降りたままだった店が開いているのに気づいた。


「コッペパンのお店」


と古い看板が出ている。


 コッペパン!?


 見れば、古いショーケースの中に昔懐かしい、コッペパンがピラミッドのように積み上げられていて、そこかしこに中に挟めるフィリングメニュー‥‥いや、そんなおしゃれな表現でなくていいんだけど‥‥とにかく、好きなものを挟んで食べられるというお品書きが書いてあって、昭和スタイルのサンドイッチ屋さんといった具合らしかった。 

 イチゴジャム、小倉、ポテトサラダ、チョコレートクリーム、ピーナッツバター、黄粉まぶしなんてのもあるのか。定番の焼きそばに‥‥え?お隣と連携?? 隣は‥‥肉屋か!! 美味しそうなコロッケにメンチカツがこの時間次々に並び始めている。すごい。これはすごい。ハンバーグや肉団子も頼めば挟んでくれるそうな。


 ごくりと唾を飲み込んで、どれにしようかとお品書きを見上げた。

 と、そこへ、別の人の注文が入った。


「ひとつはそのままで。ひとつは蜂蜜マーガリンを。」


「はいありがとう、いつものやつだね。160円。」


そのまま!そういう楽しみ方もあるのか!! そのまま! そそられる!!

 店主らしい老婆は慣れた手つきでパンを真ん中から割いて、たっぷりとマーガリンを塗った後に蜂蜜もたっぷりたらしたのを紙の袋に包み、別の袋にがさりと何も挟まないものを突っ込んで、お客に渡した。

 何気なくそのお客のことを一瞥した。


「あ‥‥」


「おや‥‥奇遇ですね。」


昨日会った、あの紳士だった。こんなところにも出没するとは意外である。


「よくいらっしゃるんですか?」


「えぇ。実は常連なんです。」


そう言うと、紳士は照れくさそうに笑った。


「私は初めてで。どれもおいしそうだから迷ってしまって。」


「そうですか。ここのお母さん仕込みの小倉あんはとても美味しいんですよ。マーガリンと併せるのもお勧めです。お隣の肉屋のコロッケも揚げたてを挟んでくれますから、そちらもなかなかです。」


「じゃあ、それにします! すみません、小倉とマーガリンのをひとつ、あとコロッケのをひとつ。私にもそのままのをもうひとつ下さいな。」


「はいはい、どうもありがとう。260円。」


「本当にパンが好きなんですね。」


「えぇ。大好きです!」


「今日はどちらかで召し上がるんですか?」


「あてはないんですが、駅にでも戻ってそこで食べます。まだこの後、仕事もあるので。」


「そうでしたか。よかったらこの近くにいい公園があるのですよ。ご一緒しませんか?」


「いいんですか?」


「是非に。」


 あつあつのコロッケサンドと、小倉マーガリンのサンド、プレーンなままのコッペパンの入った袋を提げて、私は紳士の後についていった。商店街から一筋入ったところに丁度頃合の閑静な公園がひっそりと姿を現わす。小さなベンチが木陰にあって、確かにここは静かにランチを嗜むのに具合がいい。


「かけて待っていて下さい。」


紳士はそういうと、ふっと姿を消した。程無く戻ってきたのだけど、手にはまた非常に懐かしいアイテムが握られていた。


「どちらがよろしいですか?」


「うわぁ‥‥瓶だなんて懐かしい! 給食の時以来ですよ。」


「コッペパンの時は、いつもこれを買うんです。」


「こっちにします。白い牛乳。あのぉ‥‥お代は‥‥」


「カヌレをごちそうになりました。あと3本はおごって差し上げられますよ。」


紳士はにっこり笑って、もう片方のコーヒー牛乳の栓を開けた。


「それでは、偶然の再会に‥‥」


「乾杯。」


懐かしい瓶と瓶がカチンと合わさる音が静かな公園に響いて、孤独なはずだったランチが和やかにスタートした。



 口の中にものを入れたまま話すものじゃない、はしたない。


 幼い頃はそう丁寧に諭してくれる大人が周囲にいたおかげで、大きく道を踏み外さずにここまで来られたけれど、それでも美味しいものを頬張った時は、気が急いて逸早く誰かにこの想いを伝えたくなってしまうのが、私の変わらない困った部分であった。


「んふっ、こえ、おいひいでふえ!!!」


熱々のコロッケを挟んだ方を頬張って、私はあまりの衝撃に思わず飲み込む前にそう叫んでいた。隣の紳士はくすくす笑いながら、ゆったりと肯いている。その「ゆったり」にはたと気づかされ、私は大人になっても治らない自分の癖のことを心底恨んだ。母親はこういう時に恥ずかしい思いをしないようにと、口を酸っぱくしていてくれたのだなぁ、この年齢になってようやくその真髄を理解する私は、大概だと思う。

 牛乳を口に含んで、ようやくまともに話せるだけの口内環境を取り戻し、私は赤面したまま取りあえず謝った。


「ご‥‥ごめんなさい! あんまりに美味しくて、つい‥‥私、いつもこんな調子で。ごめんなさい。みっともなかったですよね。」


「いやいや、美味しそうに頬張っている姿は魅力的ですよ。それにあそこのコッペパンはそうやって食べるのが一番うまいんです。」


と、紳士も、柄にもなく大きな口を開けて、蜂蜜マーガリンを頬張った。と、パンから溢れ出た蜂蜜が地面にぽたりと雫となって垂れた。


「おっとっと‥‥私まで年甲斐もなく。失敬失敬。」


指の股のところに垂れて流れてきた蜂蜜を直接口を寄せて舐め取って、照れくさそうに笑う紳士。それを眺めていたら、気取って齧るのが莫迦莫迦しくなる。私は意を決して、コロッケサンドに無言の決闘を挑んだ。


 揚げたてのコロッケに、これは多分自家製なんだろうか、独特の甘みと酸味が程よいハーモニーを奏でるウスターソースが絡み、緻密で繊細な糸のような千切りキャベツ、歯ごたえのアクセントにレタスも少し混ぜてある野菜がまた爽やかだ。野菜もコロッケも、ソースもパンも、全部が口の中にまんべんなく広がるように食べたい。


「いやぁ、私もコロッケサンドを頼んでおけばよかったな。」


紳士が私が食べる様を眺めながら、しみじみとそんなことを言うので、さすがに決闘も水入りを余儀なくされた。だけどすぐには口の中のものが全部なくならないので、視線だけで「え?なんで?どうして?」と疑問符を飛ばしておく。すると、その表情を的確にうけて、紳士はきちんと答えてくれた。


「あなたがあんまりにも美味しそうに頬張っているから、ただ羨ましくなったんです。」


はにかむように、しかしながら素直な気持ちを正直に話す紳士は、まるで少年、いや、子供のような無邪気さがあって、私はうっかりと


「一口いかがですか?」


とパンを差し出していた。さすがに紳士はそれを恐縮し、ごまかすように自分の蜂蜜マーガリンを再び頬張り始めた。


「パン、お好きなんですね。」


私がそういうと紳士は答えた。


「私の主人が好きなので、影響されたんですよ。」


「え?ご主人? そういうお仕事をされているのですか?」


「え‥‥えぇ、まぁ。そんなところです。」


彼の口から出た言葉があまりにもイメージにピッタリすぎて、執事かしら、運転手かしらと妄想ばかりが掻き立てられる。


「今はもう、退いた身です。昔の話ですよ。」


「そうだったんですか。」



小倉マーガリンはおやつにとっておこう、と、私は何も挟まっていないプレーンなやつをガサガサと取り出した。飾り気もなければ雑じり気もない。安っぽいのにほんのりと優しくて甘い味がする。空腹の方は落ち着いたので、ゆっくりと少しずつかじる。そういえばこの牛乳も、コンビニで買うのと違って味がしっかりしている。


「牛乳はやっぱり瓶だと思うのですよ。」


「ですよね!」


紳士が云うのを受けて間髪を入れずに相槌を打つ。このコッペパンのために生まれてきたような牛乳。この牛乳のためにそこに存在するコッペパン。長く連れ添う夫婦のようだと、そんなことを思った。



午後の分の仕事は煩わしかったが、しっかりとエネルギーは充填できた。これで夕方まで頑張れる。


「とっても素敵なランチでした。牛乳、ごちそうさまです。ありがとうございました。」


「こちらこそ。楽しい時間をありがとう。」


「また、どこかでお会いできるといいですね。」


「期待したいですね。まだまだ美味しいパン屋さんを知ってますからご案内したいんですよ。」


そんなことを云いつつも、今日の偶然は今日限りのような気がしていた。ただ、あのコッペパンはリピートの価値ありだ。プライベートでまた近いうちに必ず攻める。



 二度とないであろう偶然に期待して。


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Noir 城田川 夕子 @croissant_noir

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