Noir
城田川 夕子
ダークチェリー・デニッシュの娘
クロワッサンを2つ載せたところに、パン・ド・カンパーニュをもってきたら、もう他が載らなくなってしまったトレーに困っていたら、
「持ちましょう。」
と姿のよろしい男性が空のトレーをこちらに差し出し、代わりに私の抱えていたまるい大きなフランスパンに占領されたトレーを受け取った。
「あの‥‥」
「どうぞ、続きを。」
男性はたおやかに微笑み、気配を消すかのように私とは一定の距離を上手にとって、ついてきてくれる。
クロワッサンは全部で4個、ブリオッシュを2個、ダークチェリーのデニッシュ、ベーコン・エピ、板チョコを丸ごと包んだパン・オ・ショコラをそれぞれ1つずつ、くるみとレーズンが入ったローフも1本。そうだ。この店はカヌレもおいしいのだった。3つ。
会計をしてもらっている間、振り返り改めてお礼を言う。
「ありがとうございました。助かりました。」
「いつも美味しそうに召し上がっているので、ついついお節介を焼きたくなってしまったのですよ。気になさらないでください。」
「え‥‥いつもって。やだ、私どこかでお会いしましたか?」
「いえいえ‥‥散歩がてら通りかかるカフェの店先でお見かけしているだけです。ごめんなさい、驚かせてしまうような真似をして。」
「あの‥‥よろしかったらこれ、ほんのお礼です。召し上がりませんか?」
「いや、そういうつもりで‥‥」
「このお店にいらっしゃるのなら、これは食べないと損ですよ。パンは勿論、ここのカヌレは天下一品なんですから。」
お店の人の手前もあってか、男性はそれ以上は断らずに、私からカヌレの入った小さな袋を照れくさそうに受け取ってくれた。
「いえね‥‥実は大好物なんです。カヌレ。」
男性は嬉しそうに笑った。そのふんわりと漂うまるでパンの甘い香りのような表情に、私もついつい口元が緩んでしまう。
店先で、その男性とは別れた。
いつも行くカフェ、そこを散歩がてらに通りかかると言っていたけれど、どこのことだろうか。わりとジプシー的に色々な場所に出入りしているから、思い当たる立地が多すぎて。それにしても、大きな口を開けてパンを頬張る姿を目撃されていて、それが彼の脳裏に鮮明に焼き付いているのだとしたら、そっちは非常に問題のような気がする。店を出てから私は俄かに恥ずかしくなった。
それに今日買った、このパンの量。
いやだわ、ひとりで食べると思われたかしら。
いえ、ひとりで食べるんだけど。
ホームパーティーとか、どこかへお土産に持っていくとか、そういう風に思ってくれたらいいのに。うん。ひとりで食べちゃうんだけど。
あの店のダークチェリーのデニッシュは、カスタードクリームとチェリーの相性が絶妙で、至福の感動を与えてくれる。どうもここ最近、忙しすぎて心も体も毛羽だっている、そんな時の癒しを求めて、私はいつもあのお店のダークチェリーデニッシュを買う。
久しぶりに、また会いたいな、とほんのり思えるような人に出会った。どこの誰とも知らず、ただ私のパンの買い物を手伝ってくれた、姿よき紳士。カヌレの袋を嬉しそうに受け取ってくれた可愛らしい人。
私の行動範囲内にいる人らしいということはわかったけれど、偶然でも会えたりするのだろうか。そんな夢みたいなことを考えつつ、ダークチェリーデニッシュをぺろりと平らげた。
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