第三部

第六話 スライダー


 1


 六月二十日。

 俺が野球部に戻って、既に三週間がたっている。この時期、テスト二週間前ということでクラスの優等生たちは勉強にいそしんでいるようだ。結構なことである。ちなみに俺はやってません。

 だいたい、日本人なんだから英語とか喋るのはなんというか理にかなっていないよね。むしろ日本語を世界共通語にすべきだと思うし、即刻国連に意見書を提出すべきだと思う。

 朝起きるとなんとも言えない倦怠感に体を支配されていたので、適当に自販機で買ったブラックコーヒーをすする。適当に、というのも、つめた~いのところにおいてある缶コーヒー類から特に商品名も見ずに買ったから。すげー苦い。俺ブラック飲めなかったわ。ちゃんと商品名は見よう。

 カフェインを体内に取り込むと眠気が覚めると聞いたのでやってみたけど、ダルいことには変わりはなかった。百円返せ。

 仕方がないので始業までの間は机に伏す。

「眠いー」

「ここ最近それしか言ってないわよ羽村くん」

「うわびっくりした」

 唐突に後ろから声がした。まどろんでるときに話しかけられることほどムカつくことはないと思う。

「どうした、なんかあったのか?」

「大変よ、一大事」

「本当にどうした?」

「昨日、夏の県大会の組み合わせが発表になったわ」

「おぅ、知ってるけど」

「あっ、知ってたのね。じゃあ私この先言わなくていいわね」

「すみません見栄張りました」

 発表昨日だって知らなかったです。でも野球部としてそれはどうよということで返したけどダメそうだったから。

「どうなった?」

「まずうちの学校の初戦はテスト最終日の次の日」

「最悪の日程だな」

「でもテスト中に試合があるところよりましだわ。十分な解放感とともに試合に打ち込めるし」

「それもそうだな」

「で、相手なんだけど、三回戦までは大丈夫そう」

「そうなのか」

「そう。春の結果から、第三シードを得たわ。予想だと進学校が初戦で、その次は県立校が二つになると思う」

 高校野球に限らず、どのスポーツでも多少はあると思うけど、この県大会にはシードが設定されていて、春の大会上位十六チームは二回戦から登場することになる。

 春の結果から、第一、第二、第三とランク分けされたシード権のうち、春ベスト十六に食い込んだうちの高校は第三シードを獲得したということは前々から知っていた。というのも、監督もシードに甘んじず、ひとつでも上に進もうとは練習で言っていたからだ。

「そうか」

「でも……四回戦が」

「シード校なのか?」

「シード校はシード校なんだけど……」

「いつもシード校じゃないところなのか?」

 たまに春の大会で奇跡が起こって、夏の大会でシードを獲得する弱小校が現れることがある。稀によくあるので気をつけたいところだ。

「いや、その逆」

「逆?」

「具体的に言えば、甲子園に出たとこ」

「優勝したとこやん」

 どうやら、最強打線で昨夏甲子園を制覇した高校が四回戦に現れるようだ。いまでこそその三年生たちはいないが、厳しいセレクションと練習をこなした高校野球の猛者が揃ったチーム。

 高校野球雑誌でも優勝候補筆頭とされている。春の甲子園こそ出場を逃したが、それでも神奈川最強という名をほしいままにしている。

 そんなチームが四回戦の相手……決勝含めて八回ほど試合することになる神奈川県大会。そのうちの四つ目で既に最強の相手と当たることになるとは。

 正直怖い。

 その心配が顔にも現れてしまっていたのだろう、五ノ神が俺の顔をのぞきこんでいる。

「あの……そこに勝たないと間違いなく甲子園には出られないわよ?」

「そういえばそうだね」

「そういえばって……」

 五ノ神が心底あきれたような表情になった。気づいてたよー。気づいてたってー。

「まあでも、俺がなんとかしてやるよ」

「まずとりあえずベンチに入るところからでしょ」

「そですねー」

「このままいくと余裕で応援団になるわよ?」

「すごいありそうで怖い」

「でもダンス部の人たちが横で踊ってくれるわよ」

「それはいいね」

「いい感じのミニスカートに、強調される胸……」

「それはいいね!」

「変態じゃない」

「変態じゃない」

「それ私が言ったわ」

「イントネーションが違うからね」

 日本語って難しい。

「まあそれはいいとして、羽村くん、本当にベンチには入れるの?」

「いやー…………正直なんとも言えないよね」

「その心は?」

「いや…………ほら、二週間いってなかったし?  あの部活、技能もそうだけど、その次に来るのは監督の選手に対する日常的な評価だからね…………」

「そう……」

 五ノ神は察して、何を思ったか窓の方を向く。窓際の席がよかった。授業つまんなくなったら雲見られるじゃん。超楽しそう。楽しくはないか。

 窓の外にはひとつも雲がない。梅雨前線は去った。もう梅雨は明けた。梅雨は好きじゃない。雨が降るとグラウンドは使えないので、六月の練習メニューはほとんど筋トレになってしまった。おかげでふくらはぎがバッキバキである。毎日筋肉痛だった。本当につらかった。

 でも、それはもう何日か前の話。

 今日は本当によく晴れた。

「でも、頑張れば監督さんも認めてくれるわ。きっと」

「そうかね」

 監督は堅物だからなー。そういう器の広さはないかなー。

「そうよ」

 俺の思考とは裏腹に、五ノ神はまっすぐに俺を見つめる。

「頑張って」

 いつも変化球で、言葉の羅列で人を落としていく五ノ神が、普段より直球の、それでいてストライクゾーンど真ん中を抜く言葉を使った。 

 それはでも、分かりやすく、そして、心を素直にとらえる。

「…………それなりにな」

 俺は、そのど真ん中の直球を、見事に見逃す。

 まだ、チャンスボールすらも打てない。


 さて、対戦相手が決まって――野球部じゃない部外者から聞いただけだけど――最初の練習日となった今日も、いつも通りのウォーミングアップから練習が始まる。トーナメント表が発表になったからといって、特に相手にあわせてサインを練習したりするのは本当に試合の直前とかで、今のところはまだ体力作り、基礎確認を中心に練習していく。

「おー、やってるねみんな」

「ん?」

「『ん?』じゃないよ一年君」

「…………さすがにそろそろ名前覚えてくださいよ牛浜先輩」

 おおよそ二ヶ月ぶりに牛浜先輩に会話を吹っ掛けられた。ひさびさすぎて中途半端な返ししかしてない。

 今日もこの先輩からはお姉さんオーラというか、そういうのを感じる。ポニーテールなのに。

「まあまあ、私は二年の担当だしね」

 牛浜先輩はいつもならここでどこかへいってしまうが、今日は勝手が違った。

「ところでさー、羽村くんって、あのマネージャーの子と付き合ってんの?」

 一打席目から死球を食らう。

「えっ、えっ、……いやー、そういうわけじゃ……」

「えっ、でも、あやかちゃんとデートしたって聞いたよ?」

「いやっ……あれデートなのかな……デート、かなあ…………あっ」

「うん?」

「いや、そもそもどこから聞いたんですかその情報」

「本人から」

「もう逃げられへんやん」

 牛浜先輩はさらに追及する。

「行ったのは事実なの?」

「行ったのは事実っすね……」

「まじでー⁉  ちょっと詳しく」

「思いっきり楽しんでますやん!」

 もうエセ関西弁が出る始末。

「楽しいよー。青春だねー」

「あなたも該当してると思うんですが」

「私? 私はいーのいーの。もう諦めたからそーゆーの。何て言うの、そーゆーの向いてないかなーって」

 酒入ったOLみたいなことを言い出した。あんた高二だろ。

「向いてないんですか?」

「あー、うん。前に彼氏はいたことにはいたんだけどね?」

「あ、そうなんですか」

「そうだよー、あのキャプテンなんだけどね」

「え、そうなんですか?」

「そうー。でもね、年上ダメだったみたい私」

「えー、なんでですか?」

「なんか、どうしても相手に甘えすぎちゃうところがあるなーって思ってね。年上だと、安心感ってどうしても出ちゃうからさ」

 今のあなたもそんな感じ。安心感が服を着て歩いてるようだわ。

「でも、先輩は残念だったと思いますよ」

「え、私?  私は別に……私からフったからいいんだけど」

「いや違います、キャプテンの方です」

「あー、そりゃまたなんで?」

「だって、こんなに献身的で、しっかりした、それでいて甘えてくれるかわいい彼女を失ったんですから」

「…………えっ」

「冗談です」

「…………えっ」

「それじゃ、練習に戻るんで」

「えっ、ちょっと羽村くん、それってどういう――」

「なんでもないですよー」

「……あっ、遊んだの? 私で遊んだの⁉ ちょ、こら、拝島さんといろいろしたって言い触らすぞ!」

「うんそれは困るわ」

 誤解って怖いからね。

「まあ私の話はおいといて、拝島さんとどこまでいったの?」

「どこまでって……」

「私はあの人と一試合したよ?」

「マジですか⁉」

「うっそぴょん」

「ボケが生々しいわ!」

 牛浜先輩と…………うらやましいわ……

「……あっ、ちょっと想像したでしょ」

「しっ、してませんよ」

「わかったわかった、そういうことにしてあげるわ」

「そうしてください」

 俺のメンツと名誉のために。

「練習頑張って」

「あ、はい」

 さらっと、そう言ってもらった。

 社交辞令とはいえ、「頑張って」という言葉をもらうと自然とやる気が出る。

 監督から招集がかかったのは、ちょうどその時だった。

 それは、今までのふわふわした、居場所のない学校生活を変える、最初で最後の転機。


「――夏の大会に向けて、紅白戦を行う」


「そろそろ夏の大会だし、さすがにメンバーをかためとこうと思う」

 雲ひとつない夕空に、既に一番星が輝く。

「構想としては、現Aチーム十八人に、三人くらいの入れ替わりがあるとは考えてる。学年による人数比は特に考えてない」

 監督はそこで一息おいて、手にしたコーヒーを飲む。あっ、あれ俺が間違って買ったブラックコーヒーだわ。

「試合は日曜。三年生全員と一、二年のAチームが日曜のAチーム、それ以外がBチームということにする。わかったか」

「「「はい」」」

「よし、解散」

「「「ありがとうございました」」」

 周りに合わせて声を出すと、シートノックに戻った。

 ここで結果を出さないと終わる。そんなことはわかっていた。

 キャプテンのノックを受ける。

 練習試合の緊張がキャプテンにもあるのか、そのノックは軽く、簡単に捕球できた。

 いやむしろ、自分の守備力が上がったのかもしれない。

 そう信じて、自らの送球を見送る。

 しっかりと一塁担当のやつが捕球したのを確認してまた列に戻る。その繰り返し。

 晴天のもと、打球音と砂ぼこりが交じる。

 これもひとつの青春。

 他人事のように、そう感じた。


「拝島」

「ん? なんだ羽村くんか」

「なんだその反応」

「羽村くんから話しかけることって少ないじゃん」

「気にしたことなかった」

「いつも私か亜美ちゃんから話しかけてるイメージあるよ?」

「知らないな」

 無意識に受け身になってるってことか。

「ていうか、亜美ちゃんって誰?」

「え、幼馴染みじゃないの?」

「は? 知らねぇよそんなやつ」

「え、じゃあ今までのはなんだったのさ」

「ちょっ、俺ついていけてない」

「五ノ神さんだよ五ノ神さん。五ノ神亜美ちゃん」

「え、あー、あいつ下の名前亜美っていうのか」

「知らなかったの?」

「物心ついたときからはずっと名字で呼んでるからな」

「そうなんだ」

「そう。だから何回か聞いたことには聞いたと思うんだけど、多分気にしないからスルーしたのかも」

「名前くらい覚えてあげたら?」

「……そうだなー、さすがにな」

「そうだよ」

 夏至まで残り二日。日はかなり延びて、遂に六時でも薄暗い程度にしか暗くなっていない。

 夕方になっても、地を這い出した元気なセミたちは合唱をやめない。うるさい。

「で、何?」

「あっ、牛浜先輩がさ、俺とお前がデートしたとか言ってたんだけど」

「うん」

「あの人に言った? あの日のこと」

「その前になんで私が言ったと思うの?」

「牛浜先輩が『あやかちゃんとデートしたって聞いたよ?』って言ってたから情報源聞いたらお前だったから」

「……あっ、私の下の名前は知ってるんだ……」

「ん? なんか言ったか?」

「なんでもない」

「で、本当にお前が語ったのかってことをね」

「私が言いました」

「マジかよ……めんどくさくなったじゃん」

「しょうがないじゃん、みゆ先輩がキャプテンとののろけ話を言うから、私もなんとなく対抗心で……」

「なんだよ……」

 まあ、わからなくもないけどね。

「全く……俺たちは全くそういうことはないんだから、変に誤解されることは言うなよなー」

「えっ…………あっ、うん、そうだよね…………」

「どうした、体調悪かったのか?」

「ううん、大丈夫…………」

 言葉ではそう言いながらも、全体的にテンション低めの拝島。大丈夫かよ。日頃の元気が一転、うつむき加減だ。疲れてんのかな。

「それよりさ、多分このままいくと甲子園出たとこと当たることになっちゃうね」

「あー、おう、そうだったな」

「私昨日知ってびっくりしちゃってさー、いくらなんでもくじ運悪すぎるんじゃないかと思ったよ」

「そうなんだな」

「羽村くんはどう思う? 第一シードは安定の四校だとして、県立高校でもうち以外に二校くらいシードとってたよ」

「そうだな」

「でも、初戦から甲子園に出場したことのある高校同士の対戦があったり、見逃せないよー」

「そうだな」

「羽村くんはどう思う?」

「そうだな」

「…………今日何曜日?」

「そうだな」

「適当に答えてるよね」

「そうだな」

「カップアイスといえば?」

「スーパー○ップ」

「なんでそこだけ『そう』って言わないの⁉」

 アイスは別腹だからです。

「羽村くん、もしかしてまだ見てないの?」

「……見たよ?」

「じゃあ開幕戦は?」

「ごめんなさい見てないです」

「なんで?」

「いやー…………どんな相手だろうと勝たないとね。強い相手が相手だとしても、そんなんでいちいち怯んでたら、甲子園なんか行けないからね」

 即席ででっち上げた言い訳はそれなりにうまく言えた気がする。拝島もこっちを感心の目で見ているし、結果オーライだ。

「…………その思考回路ほしいわ」

「どういうこと?」

「すぐそんな言い訳思い付くなんてすごいねってこと」

 まさか、見破られていたのか。さっきの目は感心と裏に皮肉を込めていたってことか。女って怖い。

「まあほんとに忘れてたんだけどさ」

「そうなんだ」

「そうなんだよ」

「まがりなりにも部員なんだから、それくらい見ようよ」

「『まがりなりにも』ねぇ…………」

 ここ最近はちゃんと部活出てるし、羽村=幽霊みたいな意識は周りから消えてきてる気がする。実際あんまり幽霊だったときほど周囲の視線は痛くない。その前がかなり敏感だったのかもしれないが、それでも体感するものはなくなってきた。……と勝手に思い込んでいる。

 でも、一度でも野球部を裏切ったもの、その代償は大きいのか。

 そんなことを考えながら歩いていたから、気がついたときには駅についていた。


 2


 日曜日。

 テスト前になると部活は禁止になるが、大会前とか特別な事情を抱えている部は、校長の許可を得れば細々と活動できる。

 無論野球部もテストが終わった直後に大会の初戦が待っているため、その例外ではない。

 だからこそ、この日曜日も練習しているわけで。

 時刻は八時半。グラウンドの時計は実は二分早いので、注意が必要だ。特に遅刻寸前の二分は貴重なので、ここで時計がずれてしまうと無駄に走る羽目になるから早く直してほしい。

 いつも通り、グラウンドの脇にあるスペースでピッチャー用のアップをする。依然二軍の吉祥寺はもうベンチ入りを諦めているのかいないのか、俺の専属キャッチャーになってしまっている。

 十球ほど投げたところで吉祥寺を座らせ、本格的なアップに入る。

 一、二年から選ばれし二軍にはピッチャーが俺の他に御嶽と二年の先輩がいる。実力的には御嶽が少し三人では抜けている気がするが、それでも拮抗していると言える。

 記録員の練習もかねてか、三年のマネージャーが相手ベンチに、牛浜先輩と拝島がこちらのベンチに配属されている。ここが前回とは違うか。

 拝島は初めての実戦でのマネージャー業務となるため、いろいろ牛浜先輩からレクチャーされている。

 周囲の環境を確認し終え、乾いた地面を踏みならし、セットポジション。

 そのまま吉祥寺のミットへボールを叩き込む。

 感触はいい。多分百三十キロはでた。

 別に速いわけでもないけと、甲子園に行っても遜色ない球速がでた気がする。

 相手の先発はキャプテンのはずだ。前回こそ怪我で登板を回避していたものの、 昨日はノックのバッターもしていた。今日は大丈夫だろう。

 キャプテンは左投げの本格派で、思い返せば部活見学のときに投げていたピッチャーもキャプテンだったかもしれない。

 吉祥寺が返球してくる。しっかりとした、安心できる返球。

 二ヶ月とはいえ、それなりに練習してきたのは吉祥寺も同じ。少しだが、彼も成長しているらしい。

 俺も…………負けられない。

 左手の中、砂で若干汚れた白球の縫い目にあわせて指を添える。

 昔から、俺の決め球はこれだって決まっている。

 どんなときも、俺を支えてくれた、そんなひとつの変化球。

 直球で相手をねじ伏せることは苦手だ。

 それでも、変化球なら。

 白球を三本の指で挟むように握って構える。

 中学の時も、今も、この球だけは俺を裏切らなかった。

 左足をあげ、モーションに入る。

 吉祥寺の構えるミットにも力が入る。いや、そう見えてるだけかもしれない。

 空気を右腕が一閃。

 そのボールは、打者の前で弧を描いて。

 乾いた破裂音とともに、「いいぞ!」と御嶽が叫ぶ。

 その言葉を受けて、ほっと一息。まるで自販機のコーンポタージュのキャッチフレーズみたいだが、それでいい。

 今度は、もう一つ変化球を試す。

 吉祥寺は俺が投じたその変化球をはじく。どうやら吉祥寺の予想しなかった変化だったようだ。

 緑の深くなった木々が風に揺れる。

「悪い、――まだ投げるか?」

 吉祥寺の問いに、俺は長考せずにすぐに返す。

「もうちょっと」

「あいよ」

 やはり、しっかりとした返球。胸のあたりで軽く受けると、その後は持ち球のすべてを軽く試して、しばらく投げた。


「両チームの先発を指定する」

 監督は七十人の部員の前で宣言する。

「Aは中野。稲城はやっぱり腰が痛いみたいだ。お前には稲城の代わりで急な登板だと思うが、頑張ってくれ。あいつのコンディションによれば、こういう機会は夏の大会でも多くなると思う。毎試合準備しておけ」

「はい」

 どうやら、キャプテンの怪我はまだ治っていなかったようだ。

 しかし、二年生のAチームに投手がいないからというのもあるが、キャプテンのバックアップとして登板するのはこの中野のようだ。

 どうやら中野、相当すごいピッチャーのようだ。

「続いてB。こっちの投手は三人全員出すけど、一応先発は谷保でいく」

 こちらは二年の先輩が先発に大抜擢だ。「全員出す」という監督の言が正しければ、俺も試合に出られるのだろう。

「控えメンバーも、ある程度は出していくつもりだから、いつでもいいように、体暖めとけ、以上」


 

 3


 先攻Bチームで試合は始まった。

 一年生でBチームのスタメンになったものはいない。しかし七十人の部員を一試合で二チームに分けるとなると、ベンチもカオスな状況になる。こっちで三十ちょいの人数がいるので、相手方も同じくらいの人数だろう。

 一方、神奈川県大会でベンチに入れる人数は二十人。それを七十人で争う。

 したがって、その競争率は半端ではない。

「相変わらずアンダースローのくせに球速速いな中野」

 隣で感心しているのは吉祥寺。彼の言う通り、アンダースロー投法のピッチャーとしては球速は速い部類に入りそうだ。見た感じ百三十キロくらい。プロでもあまり見ない速さだ。

「そうだな……でも最低限ベンチには入りたいな」

 先頭と二番の打者を連続で打ち取ると、涼しい顔で帽子を直す。

 Aチームの方も、一年生でスタメンなのは中野だけで、その中野も怪我のキャプテンに代わっての登板だ。

 そんな、先輩の視線を受けながらの登板。その緊張は計り知れない。俺だったら逃げてる。

「ストライク! バッターアウト!」

 監督のジャッジがここまで聞こえる。気合いが入るのは監督も同じようだ。

 ふと横を見ると、奥の方で拝島が熱心にスコアをとりつづけている。時に牛浜先輩が助言を入れながら、時にちょっと笑顔を見せながら。

 男くさい野球部の紅一点――といっても今は二人だが――である女子マネージャーの存在は、部員にとってとても心強い。

 攻守交代で谷保先輩がマウンドに上がる。百三十キロ後半のストレートが持ち味の速球型ピッチャーだ。

 守備についた残り八人の野手は全員二年生。学年が同じなので、チームワークはよさそうだ。

 初球。高めのストレートを、まず見送る。少し甘めに入ったボールだが、打者の狙っているコースではないのか、はたまた手が出なかったのか。

 続く二球目三球目はボールで、四球目の変化球を打ち上げた。センターフライ。

 どうやら谷保先輩、密かにシュートを覚えたらしい。打つ一瞬前にバットの芯を外す変化球だ。

 狙い通り、打たせてとれた、ということか。

 その後、ヒットを打たれる場面もあったが、初回は一安打無失点という好投で終えた。

 二回、Bチームは先頭が四球で出塁すると、すぐさま盗塁でノーアウト二塁とした。チャンスである。

 両チーム通じて初のチャンスに、互いのベンチのテンションも上昇ぎみだ。何をいってるかわからない掛け声まである。

 ここで、監督が牛浜先輩に何かを告げる。牛浜先輩はそれにうなずくと、こちらまで駆け寄ってきた。

「御嶽くん、四回から投げられるように肩温めといてだって」

「あ、はい」

 御嶽が次のリリーフになるようだ。返事をした御嶽がグローブを取ると、吉祥寺が立ち上がる。

「あ、じゃあ俺キャッチャーやるよ」

「頼む」

 御嶽がそういうと、二人は一塁横で軽いキャッチボールを始めた。

 四回から投げられるように。それは間接的に、谷保先輩が三回で降りることを意味する。速い継投だ。いや、継投とかではなく、もう谷保先輩は評価が終了したのか。

 どちらにしろ、監督は谷保先輩に一定の見切りをつけたようだ。

 査定は始まっている。

 結局このチャンスを生かせなかったBチームは、セカンドへの併殺打を打って攻撃を終了した。

 三回表、Aチームの攻撃。

 横で御嶽は力を入れたアップに変えている。それを見るに、自分の登板の終了が近いことに気づいているだろう谷保先輩は、先ほどより力を入れて投球している。 球速は目に見えて上がってるし、変化球のキレもいい。

 が、それが仇となって、力みが出てしまっている。現にひとつアウトをとってからは二者連続のフォアボールとなり苦しんでいる。

「やっぱり勝ち急いじゃうんだよね、谷保は」

「やっぱりって?」

 聞こえてくるのはマネージャー二人の会話。

「実は、彼もこの前の春までは一軍だったの」

「そうなんですか」

「そう。で、二回戦――負けた試合のとき、負け投手になったのは谷保なんだよ」

「じゃあ谷保先輩が打たれたんですか?」

「そうだね。今のキャプテンが無失点に抑えてたんだけど、七回でさすがに疲れちゃって、継投に入ったの。そのときキャプテンからマウンドを引き継いだのが谷保だったの」

 そう言いながらも、スコアをとりつづけている牛浜先輩。プロだ。

 てかどうでもいいけど牛浜先輩同級生は呼び捨てなのね。

「打線が振るわなかったせいで、一点しかリードがなくて、いなりん……キャプテンが『頼んだぞ』って言ったのが相当プレッシャーになったみたい。フォアボール連発にホームラン二本であっけなく逆転負け」

 何でもなかったかのように言う牛浜先輩だったが、決してバカにしてるわけではなかった。

 それより聞き捨てならないことが聞こえたんだけど。

「あの…………みゆ先輩はキャプテンのこと『いなりん』って呼んでたんですか?」

 それな。

「忘れて? ね、忘れて?」

「あ、はい、尽力します」

 牛浜先輩の顔が耳まで完全に赤くなった。かわいい。

 そうやってる間にも試合は進んでいた。現在ワンアウト一、三塁。Aチームの打席には四番が立っている。高校通算三十ホームラン、もうすぐ八十打点のプロ注目の先輩だ。

 ここに来ての四番登場に、いささか緊張を隠せない谷保先輩。

 初球、変化球が外角低めに外れる。ビビっているのがありありとわかる。

二球目はやや真ん中に入ったストレート。これはさすがの四番、見逃さずにフルスイング。

 しかし、球速は上がっている谷保先輩。わずかに振り遅れ、流し方向へのファールとなった。

 胸に手を当ててあからさまにほっとした表情をする谷保先輩。このピンチに、このパワーヒッター。怖いだろうなー。俺だったら逃げてる。

 三球、四球目は外れ、ワンスリー。バッター有利のカウントとなった。

 そして五球目。外角のストレートをバッターは弾き返した。右中間へ。三塁ランナーはおろか、一塁ランナーまで帰してしまう。二失点。

 谷保先輩の夏は、ここでほぼ終わってしまった。

 淡々と後続を抑えたものの、その目にはもはや闘争心はなかった。

 四回、御嶽にピッチャーが代わる。彼は速球型ではなくどちらかというと軟投派――変化球中心――のピッチャーだ。

 野球ゲームでもそうだが、ピッチャーは三球種あれば安心だとされている。御嶽もスライダー、カーブ、フォークと変化球を持っていて、なかでもフォークは一級品だ。

 そのフォークで先頭を三振に打ち取る御嶽。今日も調子がいい。

 前とは違い、御嶽の投球を肯定的に見ていられる。御嶽が三振を取れば、自分のことのように喜べる。

 どうしてこうなったんだろう。わからないが、それでいい。

「落ち着いて行けー」

 さっきまで横で御嶽のキャッチャーをしていた吉祥寺が声を出す。

 一人の同級生として。チームメイトとして、そして――同志として。

 気がついたら、自分も声をあげていた。

 二本のヒットを浴びるも、要所を締め、どうにか無失点で帰ってきた。

 打者が一巡した両チームだが、中野がいまだに代わらないため、こちらのチームの先輩はさすがに球筋を見切ってきていた。

 四回、ついにBチームに長打が生まれる。

 先頭のバッターが、中野の浮いてくるストレートを叩いてツーベースヒットを放ったのだ。

 これには両ベンチが反応を見せる。先制点を取れば安心感が生まれ、プレーも強気に出られる。

 それは直接、監督へのアピールのチャンスが増えるということで。

 続く打者は堅実に送りバントを試みる。初球は空振り。洗練された守備連携を見せるAチームは、ここでもダッシュを忘れずにしてくる。

 中野はバントの構えにも動じず、もう一度土を踏みならす。

 それが、エースの風格。

 中野は自らの左腕を地まで下ろすと、二球目を投じる。

 打者はそれを確実に地面に叩き落とす。

 一塁方向へわずかに転がった打球を、ダッシュしてきた一塁手が素早く捕球。その体勢のまま腰を低くして一塁へ送球。

 ワンアウト、三塁。

 絵に描いたようなチャンスに、打席に立つのは、その回からマウンドに上がった、八番でピッチャーの――


 ――御嶽。


 外野フライでもランナーは帰る。ゴロでも二遊間など深い位置に転がれば、帰ってこれないこともない、か。

 サインなし。外野フライを打て、ともない。スクイズをしろ、ともない。

 御嶽と中野、御嶽とランナー、そして御嶽自身に、それぞれの駆け引きが起こっている。

 御嶽の答えは――。

 初球、見事にコントロールされた外角低めへのスライダーだった。

 御嶽は見送る。

 おっつけたバッティングをすれば、外野の手前に落ちるヒットは打てたかもしれない。しかし、この状況。喉から手が出るほど欲しい先制点をとるのにはリスクが高いと判断したか。

 それとも、ただ目が追い付かなかったか。

 いずれにしろ、四回までで中野からは疲れはおろか、精神の乱れも感じられない。

 それどころか、逆に球威も上がってきたように思える。

 ロージンバッグを手に取り、二、三回ほど手の上で叩く。返ってきた白球を手に収め、しばらく眺める。

 同じ投手として、このピンチを抑えられるか否かという局面を感じてみる。

 十八メートル先の打者との、一秒ほどの真剣勝負。

 抑えるか、抑えられるか。

 打たれるか、否か。

 この一瞬が、この試合の命運を握るとしたら。

 その舞台に立てるとしたら。


 なんて楽しいことだろうか。


 夏の日差しを受ける二人の顔は、それぞれの帽子やヘルメットで見えない。

 それでも、たまに見える口元に見えるのは、白い歯。

 そのときに感じる。


 こいつら、野球が好きなんだなって。


 この状況を、一番楽しんでるの、あいつらなんだろうなって。


 羨ましいよ。

 できることならあの舞台に立ちたい。

 俺も立ちたかった。

 ちらっと三塁のランナーを確認する中野。

 でもそれは、かりそめのこと。

 すぐにバッターと向き直る。

 金属バットを握る手に力が入る。

 まだ昼の十時だっていうのに、夏の青空はこんなにも透き通って、太陽の光が遮るものなく降り注ぐ。


 そして、中野の二球目。

 初球のスライダーと違う、内角へのストレート。

 御嶽はそれをフルスイングした。

 自分の思い、力を最大限に込めて。

 中野の意地と、御嶽の意地が、激しい金属音と共にぶつかり合って――


 打球は見事に、右中間を突き破った。


 4


 この試合で両チーム続いて初めての得点をあげたのは、まさかのBチームの方だった。

 御嶽の会心の一撃は、三塁のランナーを悠々とホームへ帰した。元来足が速かった御嶽は、その足を生かして三塁まで到達。忘れてたけど、こいつ前はセンターやってたんだった。

 気がついたら、またワンアウト三塁になっていた。

 こうなれば押せ押せムードになってしまうのが高校野球。

 実力もだが、雰囲気や運が試合の展開を左右することが多い。

 したがってこのまま二、三点取って突き放していこう、という雰囲気はここに充満していたのだが。

 後続はピシャリと抑えられた。完膚なきまでに。二者連続三振。外野フライはおろか、バットにかすりもしなかった。それは先輩が下手とかそういうのより、むしろ中野がすごかった。やっぱりアンダースローのフォークは反則や。

 五回は特に見せ場なく、たまにシングルヒットが出たりして一塁には人がいることがあったが、両者ともに二塁は踏ませなかった。

 六回裏、Aチームの攻撃。

 ここで、監督が動く。

 Aチームの先頭バッターを二年生に代えた。ここまでが三年生の査定だったらしい。Aチーム総勢三十名強も、ベンチを目指すのは変わらない。Aチームにいたってベンチには入れない人が十人を越えるのだ。厳しいベンチ争いが起きている。

そして、監督の目はこちらにも向けられる。

「河辺、ライト入れ」

「はい」

 ついに一年生二人目がグラウンドに立った。先ほどチャンスで三振に終わった先輩と交代で。察した。

「それから……」

 監督は品定めするようにベンチに並んだ二十人を眺める。処刑でもされそうな勢い。怖いです。

「羽村」

「ひゃいっ!」

「どした?」

「あっ、いえ」

 いかん。処刑とか考えるから変な声出た。これはいけない。処刑かな? いやだから処刑とか考えるからいけないんだよ。

「八回からお前投げられるようにしておけ」

「はっ、はい」

 きたああーー‼


「やっとだな」

「おう。やっとだよ」

「八回から、二イニングだな」

「たぶんなー」

 なんて駄弁っている相手は、全く試合への出番がない吉祥寺。

 こいつは試合に出られないのに、裏からピッチャーのアップに付き合う献身的なやつだ。すごいと思う。

 最初は立たせておいて、軽く肩を暖める。数球、お互いにキャッチボールをするだけ。

「なあ羽村」

「おう」

「お前とあのAチームの斎藤って知り合いなんだろ?」

「お前に言ってたっけ」

「お前から聞いたけど」

「そうだっけ」

「そう」

 俺はフォームを意識しながら一球一球を投じる。的確に相手の胸元に投じることができると、おのずとテンションが上がる。

 一方の吉祥寺の返球は、前と同じく弱々しいが、それでも正確性は増していて、きちんと体の近くにはボールが来る。

 吉祥寺がボールを投げる。

「こんなこと訊くのもなんだけどさ、仲悪くなったの?」

「え?」

 それは予想外の質問だった。

「なんで?」

 とりあえず、質問を質問で返して様子を見る。

「あいつらは確かにF組にいるけどよ、別にあいつらと喋ってる他クラスのやつだっているよ? 俺だってあいつらは特別というか、俺らとは違うんだなーって目ではとりあえず見る。見るけども」

 吉祥寺のボールが膝元に来る。たまにコントロールが鈍くなるのやめて欲しい。

 吉祥寺は仕草だけ謝ると続ける。

「どうも、お前は違う気がするんだ」

「俺が?」

「そう。お前はなんつーか、あいつらとの関わりを避けている気がする。あえてなのか偶然なのかは知らないけど、どうも何かありそうでならない」

「……」

「実際どうなの?」

 返ってきたボールを胸元でしっかり捕球する。

 気がつけば七回表まで試合は進んでいた。

「どう、と言われても……」

 正直考えたことのなかった質問に、俺は考えあぐねる。

「避けてるのか?」

「そういうわけじゃないけど」

「じゃああれはなんだったんだよ」

「あれって?」

「『ベンチには入りたいな』」

「……」

「お前の試合序盤の発言。一見なんでもないような言葉だけど、お前がどこを目指してるかわかった」

 キャッチボールをやめないで、吉祥寺は続ける。

「お前は『ベンチ』に入ればいいんだろ?」

「そうなるな」

 甲子園に行く、というのは二種類ある。

 ひとつは甲子園に行って観戦、応援をすること。

 もうひとつはその土を踏みしめてグラウンドに立って、プレーすること。

「俺は甲子園に行きたいと思う」

 俺の投球を胸元で受けると、吉祥寺はそのボールをすぐ右手につかみ、送球のモーションに入った。

「でも、それ以前に、まずあっちに行きたい」

「あっちって?」

「Aチーム」

「Aチーム?」

「そう」

 吉祥寺は攻撃中のAチームの打者を見る。状況はツーアウト一塁。ピンチともチャンスとも言いがたい。ただ、一点ビハインドのAチーム、執念を見せたい。

「ベンチに入る。その目的は別に悪いと思わない。ていうか、目的を持たずに部活やるよりはマシだと思う」

 部活をやる、そのことには様々な目的があるはずだ。

 俺もさることながら、甲子園に行きたいとか、インターハイに出たいとか、大会に出たいという目的があるやつ。

 その部での交友関係に居場所を見いだしたやつ。

 そして、自らの技能を伸ばそうとするやつ。

 その他にも、部活をやる理由は様々だ。

「俺は、ベンチに食らいついて甲子園に出たいというよりも、Aチームにいたい」

「どうして? 甲子園に行きたい……出たいだろ?」

「そうだな……テレビの中だけのものだと思っていたあの舞台に立って、野球をしたいよな」

「じゃあどうして……Aチームに上がったって、あの三十人に入ったって、そこからベンチに入るか否かの戦いが待ってるんだぜ? 絶対にベンチに入れるとは限らないんだぜ?」

「それがいいんじゃねぇか」

「……え?」

 七回も裏になって、Bチームの攻撃に切り替わってしまっている。このタイミングで吉祥寺を座らせて、本格的に投球練習に入る。

 地面に置かれた滑り止め用のロージンバックを拾い上げ、適度に手に付着させる。

「俺、この野球部が強いことは知ってたんだよ」

 ミットを構えた吉祥寺が言う。

「強いところの野球部っていうのは、必然的に野球が上手いやつがいるんだと思って、な」

 先ほどまでの緩いキャッチボールではなく、本格的な投球練習とあって、足元の土の状態を気にする。

「そしたら、いたんだ。まずはお前だった」

 唐突に俺を褒めだした吉祥寺。媚びても何も出ねぇぞ。

「桜吹雪と共に、荻窪先輩にストレートを投げ込んだお前の姿を見て、肌で感じたんだ。『あ、こいつはすげぇやつなんだな』って」

 右腕の調子を確認するために、軽く腕を回す。悪くない。普段通り。

「そしたら、突然に現れた推薦組のやつらは、もっとすごかった。別にお前がすごくないって言ってるんじゃないけど、俺が『すげぇ』って思うやつが一日で何人も増えた」

 軸足の様子も確認。スパイクの裏についた泥を落とし、もう一度地を踏み直す。

「甲子園に行きたいのはもちろんだぜ。でも、それ以上に、すげぇやつと一緒に野球がしたい。ベンチに入るより、自分がすげぇと思えるやつと野球がしたかったんだ」

 身辺の準備が調ったので、いよいよ一球目を投げようと思う。

 さっきから吉祥寺がなにかを言っているようだが、それはあまり耳には入っていなかった。

 別に、Aチームという存在が嫌いというわけではない。

 でも、心のどこかで、やつらのことを認めたくなかったのかもしれない。

 ポッと現れて、サッと台頭する。そういうあいつらが。

 吉祥寺の言葉が聞こえなかったのは、俺がこれからの登板のことばかりに集中していたから。

 もしくは、聞かなかった、か。

 ある一点を除いて。

「吉祥寺」

 一声かけて、吉祥寺の注意を引く。

 投げるぞ、という合図、呼び掛け。

 ユニフォームが伸縮する音を聞きながら、足を下ろすポイントを探る。

 思いっきり前に踏み込み、上半身を捻る。

 その勢いをバネにしながら、十八メートル先のミットめがけて投げる。

 渾身のストレート。

 吉祥寺の話で、唯一引っ掛かった部分への反抗心を力に。

 そして、これからの登板に向けての勢いづけとして。


「俺はすごくねぇぇっっ‼」


 そう、叫んで。

 ここから近い、一塁手がこちらを振り向くくらいには周囲に聞こえていたらしい。

 それから、スパァンッ! という小気味いい音と共に吉祥寺が捕球する。

 Bチームの三番手の――実はこの高校のピッチャーでランク付けが一番下の――小さな信念を、吉祥寺が受ける。

 受けた吉祥寺は、少し笑みを浮かべる。

「大丈夫だ、今日の球威はいつにも増してる。安心して、お前の全てをぶつけてこい!」

「おう!」

 そこまで言ったところで、ちょうど攻守交代。

 久々のマウンドが、今、始まる。


 5


 マウンドというものは、言うなれば小高い丘のようなもので、グラウンドから少し盛り上がっている。

 そこに、右足から上る。ルーティンではないが、自然とそうなっている。

 グローブを開いたり閉じたりして、軽く感触を確かめる。中二で買い換えて以来、ずっと使い続けてきたグローブだ。愛着だけはある。

 キャッチャーは荻窪先輩。今日はスタメン出場だ。

「落ち着いて行けよー」

「はい」

 ホームから声をかける荻窪先輩に短く返すと、その代わりのようにボールが来る。

 硬球。その硬さは石に例えられることもある。文字通り硬球を金属バットで芯を捉えたときの快音は、一度聞いたらやみつきになる。

 バッターボックスの横八メートルくらいのところにはネクストバッターズサークルという、言わば待合室みたいなところがある。次の打者はそこで投手のクセや球筋を確認して打席に立つのだ。

 現に今、こうして投球練習している間も、次のバッターの先輩にじろじろ見られているし、タイミングをとるように素振りをされている。

 だが、そんなことを気にしたのも、一瞬。

 俺はすぐに自らの投球ということに集中する。

 ギリギリまで開かれたミットを凝視。その下には、荻窪先輩と以前に定めたサインが出されている。

 まずひとつ目の球種は、ストレート。

 基本俺はキャッチャーを信頼して、サインに首をふらない。よく自分のその日のコンディションで投げたい球を決めたいということで、キャッチャーの要求する球 種に首をふり続けるピッチャーもいるが、どうにもそれが納得いかない。

 キャッチャーというのは、信頼感の塊であるべきだと思う。

 それで、俺はほとんどの場合キャッチャーの指示通りに投げる。

 無論、今日もそのつもりだ。

 紅白戦とはいえ、実践形式での登板は久々になる。

 そのブランクが、逆に俺のテンションを上げる。

 そんなマウンドでの、初球。

 盛り上がった土から、ホームベースへの、ストレート。

 構えられたミットのわずかに左にずれたが、それも許容範囲内のはず。

 試合前から調子がいいと感じるのは久々だ。なんだか気分もいい。

 数球投げたところで、荻窪先輩からあのサインが出る。

 今日の試合を命運を左右しそうな、あの変化球。

 それを投げ終えたところで、試合が再開された。

 打者の入りと同時に、監督が声をかける。

「――プレイボール!」

「お願いします」

 打者はそう言って自らの打撃フォームを構える。

 打者が立つことでより分かりやすくなったストライクゾーンに狙いを絞り、荻窪先輩の構えを待つ。

 ミットが動いた。内角高め。初球から挑戦的な配球だが、俺は頷く。

 マウンド上、足を上げ、踏み込む。その動作の間、右腕を素早く振り抜いて――

「――ストライク!」

 監督のジャッジを聞き、一安心。実はわずかに右に逸れて、ストレートがギリギリのところに投じられてしまっていたのだ。まあでも、結果オーライだ。ていうかミスとはいえコース的にはかなりいいところに行っていたことになっている。なおよし。

「オッケーオッケー、ナイスボール!」

 荻窪先輩の声がここまで届いている。俺は軽く会釈して、返球を受けとる。吉祥寺とは違って鋭い弧を描いている。

 そのボールを胸の辺りで受けとると、軽く土をならしてまた向き直る。

 二球、三球と投じて、スイングなしでツーストライクワンボールとカウントをピッチャー有利に持っていく。

 そして、四球目。

 構えたミットは外角低め。腰を低く落として、右手でサインを出す。

 そのサインは――スライダーだった。

 荻窪先輩にも、決め球にはスライダーを使うことは伝えてある。

 ピッチャー有利のこのカウント、荻窪先輩はこの局面でスライダーを要求してくれるだろうかという不安もあったが、それはなくなった。

 荻窪先輩を、百パーセント信じて投げられる。

 前のボールはストレート。三球目から少し間をおいているので、バッターはどの球種が来るのだろうかと、思考を巡らせているものだろう。

 ようやく投球モーションに入る。ボールの縫い目を確認して、挟み込むように握る。

 再び構えられた位置を確認し、狙いを定める。

 四球目。

 打者はスイングの体勢に入った。真ん中よりの球に照準を合わせて。

 しかし、うまく指から離れたボールは、打者に届く寸前、大きく外へ。

 前のストレートとの球速差と、なによりその変化量に、打者のバットは力なく泳いだ。

 空を切ったバットの後ろ、荻窪先輩の構えるミットに白球が包まれて。

 監督が右腕を振り上げる

「ストライク、バッターアウト!」

 久々にもぎ取った、実戦での空振り三振だった。


 続くバッターも見逃し三振に取り、三人目のバッターはセカンドフライに打ち取った。

 上々と言えるだろう好投に、荻窪先輩がまず声をかける。

「ナイスピッチ、やるじゃん」

「はい、ありがとうございます」

「次、最終回も抑えろよ」

「は? 最終回?」

「何言ってんだお前、次は九回だろ」

「そうでしたっけ」

「そうだよ、スコアボード見ろ」

 言われて、俺は仮設のスコアボードを見る。ゼロが立ち並ぶなか、ひとつだけ光るBチームの一点。そのわずかなリードを保ったまま、試合は動いて、八回裏のBチームの攻撃と、九回を残すのみとなっている。

 三人の継投で繋いだBチームの投手陣は、いずれもAチーム打線を無失点に抑えている。

 だから、このまま――

 八回裏のBチームの攻撃は、つつがなく進んでいる。こうやって表現すればノーヒットのイニングもオブラートに包めるな。積極的に使っていこう。

 最後のバッターが無残に空振り三振に終わったのを確認して、ベンチから立ち上がる。

 同時に横においてあったグローブをつかむ。中学の時から愛用しているこのグローブは、俺と共に幾多の激戦を戦い抜いてきた。激戦なのかな。ちょっと誇張しましたね。

「よし、行くか」

 一人、自分をけしかける。

 ピッチャーは時として孤独だ。

 ゲームでも、選手は「投手」と「野手」というわけ方にでわけられている。それは、野球というスポーツの中で、注目されるのが「投手」と「打者」であることなどが理由なのかもしれない。

 試合中、打者含めて九人、試合ならベンチと観客あわせて数えるのがうんざりするくらいの人数の視線を受ける。それがピッチャーの至高かつ唯一の権利であり、義務だ。

 視線が集まれば、その視線が存在を明るみにして一人歩きし、結果、孤独が生まれてしまう。

 それが、投手というもの。

 仮設で、野ざらしのベンチからグラウンドに踏み出す。Bチームの、Bチームによる下克上。一―〇というスコアが示す、確かなAチームへの下克上。

 でも、その差はわずか。

 無失点で三つアウトを取れば、Bチームの勝ちが決まる。

 その大事な局面に、俺は一人、マウンドに上る。


 6


 九回の表。

 相手は一番からの好打順。二軍に敗北する手前に来ていることへの焦りからか、素振りが少し力んでいた。

 対して俺は、ひどく冷静だった。八回九回という、試合を決定づける場面で登板しているということが新鮮で、むしろ逆に心を落ち着かせているのだ。

 今までは先発ばっかりだったし、こういうのもたまにはいいよね。

 なんて気楽なピッチャーに対して、打席に入っても緊張のとれない打者は、さっきまでと打って変わってぎこちなく構える。おいおい大丈夫かよ、夏の大会でもこういう場面あると思うけど。

 とりあえず一球投げ込んでみようとおもい、荻窪先輩の構えるミットに照準を合わせる。

 球種はカーブ。左バッターの外へ逃げていくボールだ。

 浅く頷いて、セットポジションに入る。

 初球。

 ボールは緩く弧を描いて低めへ。外角に構えられたミットに向かって白球が吸い込まれていく。

 ひとつストライクを取った。

 監督のジャッジを聞き流し、二球目の用意に入る。今度はストレートをバッターの近くへ。初球が緩いボールだったので、緩急を使ってタイミングをずらそうとする作戦だろう。

 前に踏み込み、出せる全力でボールに力を加える。

 バッターの手に力が入る。どうやらストレートを狙っていたようだ。

 先輩の目が、帽子の下からでも分かるくらいに見開かれる。

 金属バットのグリップ部分に力が入る。一点ビハインドという状況を打破しようという、そしてあわよくばスタメンを獲得しようという、先輩の思いが乗った打球が宙に上がる。

 ただ、やはり、少し力みが入っていたか。

 高く上がった打球は内野すら越えられず、ショートフライ。

 これでワンアウト。

 試合終了まで、あとアウト二つ。

 次の打者は、途中から試合に出ている二年生。これが今日初打席だが、その脚力を生かしてセンターの守備範囲を這っている。

 つまり、ランナーにしてしまうと、その足はまさに天敵。

 絶対に抑えたい。

 初球はストレート。直球は積極的にスイングしていくスタイルのようで、このボールにも手を出してきた。打球は一塁へのファール。タイミングは合っていない。

 次の球もストレート。今度は逆にタイミングが早すぎた三塁へのファール。やはりタイミングが合っていない。

 一球変化球を見せて、最後にもう一度ストレート。

 終始タイミングを合わせられなかった先輩は、今度は当てることもできず、三振に終わった。

「ナイス! あと一人あと一人‼」

 嬉しそうに声をあげる荻窪先輩に、軽く会釈で返す。できればあまり意識せずに投げたかった。緊張するわ。

 と、冗談っぽく考えてみたものの、本当に緊張してしまったみたいで、続く三番には右中間への大飛球を浴びツーベースヒットを打たれ、四番は荻窪先輩の指示で敬遠。さらに次のバッターはセンター前へのヒットを許し、結果的にツーアウト満塁となってしまった。

 どこかで見たような、最終回でのピンチ。

 どうしても、弱い考えが脳裏をよぎってし

てしまう。

 ――また、ここで…………

「力抜いていこう! あと一人あと一人!」

 左手にはめたミットを右手で叩き、励ましてくる先輩。

 一人、マウンド上で次のバッターを待つ。間があるのは、監督が代打を告げているからだ。

 そして、打席に入った選手の顔を見て、驚愕。

 忘れもしない、貧弱な体型の、旧友かつライバルが、そこに立っていた。


「斎藤……」


 思わず呟いてしまう。恐らく誰にも聞こえていないだろう、静かな声。

 ランナーは二人。どちらともが帰ってくればAチームの逆転勝ちとなる。

 どうする? どうなる? 

 わからない。

 荻窪先輩のサインを待つ。内角のカーブ? 左打席の斎藤に対しては外から内にえぐり込む変化球だ。

 とりあえず投げてみる。

 手首のスナップを利かせて球速の抑えられたボールは、途中で内角に切り込むように変化する。

 斎藤は目だけでそれを追うと、そのまま見送った。

 監督の腕が上がる。ストライクだ。

 が、斎藤の判断は正しい。今のは非常に際どいコースで、審判によってはボールを取ることもあるところだ。そういうボールはどっちみち打ってもそんな飛ばないし、いいことはない。

「ナイスボール!」

 荻窪先輩の声が遠くから聞こえてくる。孤独にピンチを抑える方からしたら、そういう一言一言がありがたい。

 しかし、その後は二球続けてボール。いずれもわずかにずれた程度で、大きくすっぽ抜けたわけではない。斎藤は今まで一度もそのバットを振るっておらず、すべて見送っている。なにか考えでもあるのだろうか。

 四球目。こんどは前の三球と打って変わって高めへの直球。

 ――それが少し甘く入った。

 しまった、と俺が思うのと、甲高い打球音がするのが同じタイミングだった。

 刹那的に打球の方向を確認。三塁ベースすれすれへの鋭いファール。ひとまず安心。甘いボールに振り急いでしまったらしい。

 続く五球目。カーブを失投してしまい、ホーム手前でワンバウンド。三人のランナーはそれぞれ走り出す構えを見せたが、荻窪先輩の反応がよく、後ろにそらさずにボールを止めていたので、それぞれがそそくさと自分の塁へ戻る。

 斎藤は泰然としているつもりなのだろうが、このボールに手が出かかっていた。この局面、緊張しているのは何も俺だけではなく、斎藤も、ランナーも同じようだった。

 ツーアウト満塁、フルカウント。

 次の一球ですべてが決まる。そんなことはここにいる誰もがわかっていた。

 ここは急がずに、あえて一旦力を抜く。

 思い出す、中学の最後の夏。そしてこの前の紅白戦。

 いつだって、こういう場面は乗りきれなかった。

 見上げれば、雲ひとつない青空。こんなに晴れてたっけ、覚えてない。今日はずっと他人のミットばかり見ていたから、そんなことにも気づかなかったようだ。

 この際だし、周りを見て落ち着こうと思い、視線を移す。

 このグラウンドは、ホームのところに防球ネットが張ってあり、その後ろは各部の部室につながる通路みたいなものになっている。

 気づかなかったけど、そこにはたくさんのギャラリーがいた。練習を終えた他の部の人だ。

 彼らはこの局面をどう思っているのだろうか。

 ていうかよく見たら一年ばっかりだった。A組のやつらもちらほらいる。彼らが何部なのかはわからないが、顔は見知っている。

 そんなふうに、周りに気を配りはじめたら、後ろから声がしているのに気がついた。


 ――打たせていいぞー!

 ――大丈夫、あと一人抑えろー!



 あまりに自分の投球ばかり集中していたせいで気がつかなかった。いや、忘れていたのかもしれない。

 俺は――孤独じゃなかった。

 さんざん部内で諍いがあったからか、野球部のことを肯定できなくなっていたのかもしれない。

 もしかしたら、被害妄想だけが強くなっていたのかもしれない。

 突き刺さるものだと思っていた他人の視線が、今は温かく感じられる。

 ベンチからも声が聞こえる。今日の試合、試合に出られたのはごくわずか。半数以上はベンチを温めるだけとなっている。

 それでも、全員の思いは、驚くほどひとつになっていて。

 ベンチの隅には、今日一日、一球一球のスコアを丹念にとり続けていたマネージャー二人の姿。

 ――野球に関わりたい。

 その拝島の願いは、十分すぎるほどに叶えられていた。

 ボールをさわらなくても、バットを振らなくても、野球には関わることができる。

 拝島はそれを証明してみせた。

 だからこそ、俺も証明しなくてはならない。


 県立でも甲子園に行ける、って。


 そんで、もう十年くらい前のあの約束を果たしにいかなくちゃならない。


 五ノ神を甲子園に連れて行く、って。


 だからせめて、この試合に勝って、少なくともベンチには入らないと示しがつかない。

 ツーアウト満塁、フルカウント。一球が決めるこの試合の命運。

 帽子をもう一度かぶり直す。夏の日差しがもう真上の辺りから差し込んできて、その熱をいかんなく伝えてくる。端的に言えば暑い。

 額に浮かんだ汗を腕でふきながら、先輩のサインを見る。

 最後の一球。この緊張は何試合こなしても慣れない。

 先輩のサインは――

 それに頷いて、球の縫い目に合わせて指を置く。

 ピッチャーマウンドにはめ込まれた白いプレートに足をかける。

 軸足と左足を交差させ、その反動で左足を踏み込む。

 上半身をしならせ、持てる全力を白球に込める。

 リリースポイント――ボールを指から離すタイミング――で寸前、ボールに横回転をかける。

 それが、斎藤の手元に到達する。

 やや真ん中に入ったボールに、斎藤の表情も一瞬変わる。狙い済ました一撃を放つため、斎藤は俺のボールに照準を合わせる。

 まっすぐ入った俺のに。

 だがな、斎藤。

 お前は高校に入ってからの俺を知らないだろ?

 ストレートに見えるこのボール。

 その実は――

 ボールがホームに到達するところで、呼応するように斎藤はバットを振る。

 意地と意地のぶつかり合い。世にある漫画ならバットが折れたりするんだろうが、今日はそんなことはない。

 だって。

「えっ」

 斎藤が驚きの声をあげる。

 ストレートを捉えようと出したバットは、かすりもせずに泳ぐ。

 空を切ったバットの後ろ、荻窪先輩のミット――外角低め――に、白球は収まっていて。

 刹那、訪れた沈黙。乾いた空気にセミの大合唱がこだまする。

 それでも夏の日差しは全員に照らされていて。

 乾いた空気を切り裂いたのは、監督の声だった。

「ストライク、バッターアウト! ゲームセット‼」

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