第二部
第五話 ストレート
1
散々な成績となった中間テストを受け取り、耳をふさぎたくなるほどの大量の補習通知を聞き流し、できるのは机に突っ伏して現実逃避でしかなくなったこの頃である。もうテストなんてやんなくてもいいんじゃないだろうか。どうやったってできないなら、やらなくたって同じだ。
平均点を超えた科目は一つもなく、ここから先は陰鬱な補習が毎日続くのだろう。もうこれは補習じゃない。捕囚だ。
最初の補習は明日なので、今日はすぐに帰れると思い、帰りのホームルームが終わるや否やドアに直行する。ここ最近はおんなじことを繰り返している気がするが、一分一秒でも早く帰りたいのには変わりない。
と、いつも通りに教室を抜けようとしたところで、檜原先生に呼び止められる。掃除当番だったらしい。早く帰りたいときに限ってこういうことがある。
仕方なく教室に引き返して与えられた仕事をこなし、机をきれいにそろえて並べたタイミングで、先生からついに帰宅の許可が下りる。
「掃除好きの男はモテるよー? 私だったらそのスペックだけで結婚できちゃう」
「そ、そですね」
絡みずらいネタを生徒に振りかける、ある意味で鬼教師・檜原に生返事をすると、こんなに実のない相槌でも返事をもらったということが彼女の中ではどうやら重要なようで、テンションが上がって踊り始めている。先生の中高生時代が気になるところである。いじめられてたの?
変にスイッチの入った檜原先生を放置して、今度こそ家に帰る。
一瞬見える隣の野球場。一様に体の大きな選手が白球を追いかけている。今日もAチームは練習のようだ。その中で、トスバッティングを行う貧相な奴と目が合う。俺は瞬時にそいつを視認すると、顔を逆に向け露骨に目をそらす。
フェンスの向こう、かなり遠くで練習を行っているその影は、逆光も相まって、とても神々しく見えた。
家に帰ってしばらくすると、親からの仕送りだろう、野菜の入った段ボール箱が届いた。側面の紙にはきれいな文字で住所と名前が書いてあった。
開いて中身を確認すると、天候不順でやけに大きくなってしまった白菜が二つ、五キロの米、そして手紙が添えられていた。母親から。
そういえばこっちに越してきてから一回もあってやれていない。両親とは大災害でも起きない限り家族とは連絡を取らなかったので、その感覚が今現在も続いていて、両親からのメールはほとんど既読スルー状態。
だから、ダイレクトに、こんな長文で両親からの言葉を受けるのは久々のことだった。
学校生活はどうだ? 彼女はできたか? などのおせっかい極まりない言葉の下に、野球部はまだやっているのか? と。
ごめんな母さん、もう続けられなかった。俺の代わりはどこにでもあるってよ。
親ですら俺のことを「野球少年」だと見ている。じゃあ俺からそのタグを切って捨てたら? 野球をなくしたら何が残る?
自問自答を繰り返す。ここ最近はずっとこれでもちきりの俺の脳内をもう一回見通す。帰ってから開けるのをすっかり忘れたカーテンが外から入ってくる日光を遮っている薄暗い部屋の中、手紙を握る手に力が入って。
気が付いたら、一方通行の母親の愛情はぐちゃぐちゃに丸められていた。
補習続きの日常を乗り越えるのは簡単ではなかった。誰かが決めた一秒という単位をもうちょっと短くしてくれていたら体感時間は短かったかもしれないのに。なんて不毛なことを考えながら、生徒のために開かれるはずの補習を完全に横流しにする。
やりたくないことはやりたくないし、それを強制されたらやるしかないけど、効率は下がる。効率とか言ってる場合じゃないけど。
円との壮絶な戦いを終え、肉体的にも精神的にもすごく疲弊した体を無理やり動かす。
もはや階段下るのも体力の無駄遣いのように感じてきた。いや移動は無駄遣いではないね。移動するのが動物の三番目くらいの使命だと思う。
下駄箱を開けると、一枚の紙が入っていた。告白とかされちゃう勢いだった。そろえた靴の上に適当に置かれていた。この場合の適当は「妥当」とかそういう方の意味。
つまり、下駄箱の靴の上に手紙ってだけで、この恋愛経験ゼロの男子高校生に、それなりの妄想をさせるには十分だった。必要十分条件ってね。今やったばっかり。
さて、ここで周囲を確認する。周りに人がいたら恥ずかしいし、これではどうしてもラブレターをもらってうじうじしているただの優柔不断野郎にしか見えない。
誰もいなかったので、その場で開いて文章を確認する。
『帰り、屋上に来てください』
誰が書いたかはわからないが、とりあえず呼び出しを食らったようだ。屋上まで五階分階段を上がりなおさないといけない。面倒だし疲れるが、これが俺史上初の告白だったらそんなものは吹き飛ぶだろう。はい。すごくたのしみです。
いろいろな期待を胸に、軽くなった足で階段を駆け上がる。
屋上にでると、夕方の海風を受ける一人の長髪の生徒の姿が見えた。
「あの……さ」
そいつはだいぶ端のほうで立っていた。誰だかいまだにわからないが、補習で待たせてしまったのは事実だ。気温も高いし、屋外で立っているのは楽ではなかったはずだ。
「待たせたのかもしれないけど……俺の下駄箱に手紙入れたの……お前?」
「そうよ」
あれ?
聞こえてきた声が知った声だったな……気のせいか?
「そう……用件は?」
「そうね、まずはこっちに来てくれるかしら。二十メートルくらい離れたところで会話するってのもなんだし」
そいつは離れたところからこちらを振り返らずにそういうと、髪をかき上げた。
「妙に子供じみたことするな、五ノ神」
「最終手段だったのよ」
完全に相手は五ノ神だった。
「告白なら受け取らねぇから」
「何を勘違いをしているの?」
「勘違いて、この文体にこの状況、完全に告白の流れじゃ」
「高校生のくせに屋上で告白だなんて、ませたものね」
「雰囲気醸し出しすぎだろ……」
「こんなんでそこまで深読みしてくれるんなら、それを検証できただけでも収穫だわ」
俺をハツカネズミかなんかにとらえ違えているような気がする発言をすると、ついにこちらを振り返った。
「この間はありがとう」
「おう。よく両親が了解したよな」
「だって羽村くんだし」
「俺だからなんだっていうんだ」
「羽村くんだから、よ」
ここまで言ったあと、俺に背を向けてフェンスに寄り掛かった五ノ神は、東京湾を一望できる方角に顔を向ける。すでに日は傾き、西側――五ノ神の背後――に移動している。
「そうね、どこから話そうかしら」
「長い話か?」
「少なくともあなたを待ってた時間よりは短いはずだわ」
「それは悪かったって」
捕囚でした。
「まぁいいわ、勉強ができないのは昔からよね」
「何勝手に人の過去を妄想してんだ」
昔はもうちょっとできたはずだ。知的好奇心とやらがまだ存在してた頃の話。何年前だよ。
「羽村くん、野球から離れているみたいだけど、どうしたの?」
「お前には関係ねぇよ」
「関係あるわ」
「なんだよ、どこがだよ」
「それは………………」
五ノ神はそこで言葉に詰まる。おせっかいな奴の定番だ。「お前には関係ない」系統の発言を聞くと、自分が相手から疎外されたような感覚になって、とりあえず「関係ある」と言い張る。そうすることで相手の中での自分の一定の存在感を保ち続けることはできるのだが、それで根本的な解決を求めると、大して働かない。
そうやって何も知らないのに、自分のことで奔走させてしまうのが、とても申し訳ないと感じる。
だから、「関係ない」という言葉は、相手への最低限の配慮なのだ。
「……なぁ、理由が出てこないならもういいから」
俺は本心からそういった。迷惑をかけたくないから。
「ついにこれを伝える時が来たけど…………」
「ん? なにをだ?」
夕暮れになって、風は止んできた。この時間帯、陸と海の気温差がなくなると、気圧の変化がなくなって風が吹かなくなるタイミングがある。それが凪という状態だ。
その状態に近づいてきて、無風の時間が多くなる。
さっきまで風が吹くたびになびく髪を気にしていた様子の五の髪だったが、最近は特にそういう仕草は見せない。
その髪につけられたうさぎのピン止めを、にわかに外す。
「これ、知ってる?」
「知らねぇよそんなの」
女子のファッションは理解できないのが男子側の見解だ。ピンとかゴムとか、髪の毛に使うものの多くは名前があるらしいが、まったくわからない。
「これは小学校の時にもらったの。私は四年生で転校することになったから、その時にある人からもらったものなのよ」
「思い出が詰まってるのな」
「そうね、前いた小学校のほうが楽しかったわ」
「転校先でうまくやれなかったのか?」
「そういうわけではなかったのだけど…………新しい環境というか、元々形成されたコミュニティに飛び込んでいくのが、ちょっと苦手だったみたい」
「そうか」
確かに、小学生のころから新しい環境に飛び込んでいく勇気を持っている奴は珍しい。いや、俺が気さくなほうではなく内気なタイプだったからそう思うのかもしれないが、五ノ神もその部類だったのだろう。
「まぁ、今でもその性格はなおってないみたいだな」
「それ、どういう意味?」
「初日にあれだけのことをしたり、あれだけのことをしたのに今度はとげとげしい当たり方をするくらいには他人との付き合い方がわからないみたいだな」
「…………そうかもしれないわね」
「しれないじゃなくてそうだっつーの」
外の部活が最後のストレッチに入りだしている。つまり時間的にはもうそろそろ下校時間だ。
「…………ねぇ、一応聞くけど、私のことは全く覚えてないの?」
「だから、覚えてるわけないじゃんっての。何回か言ってきたよね」
「そう…………じゃあ、あの約束も覚えてないのね…………」
「約束?」
「ごめん、もういいわ。私の人違いだったのかもしれない。いえ、そうだわ。今まで迷惑かけてきてごめんなさい」
「え、え?」
思わず聞き返す。
約束? 約束って? おかしい、覚えていない、覚えていないけども、この胸に残る引っかかるものはなんだ?
わからない。今までピンチを抑えられなかったことがない俺は、このピンチも脱却できないのか?
戸惑う俺の横をすっと通り抜け、おいてあったカバンを取って五ノ神は歩く。
「時間だし、帰るわ。羽村くんも、早く帰ったほうがいいわ。時間的に、そろそろ先生がカギ閉めちゃうわよ」
こちらを振り返らずにそういうと、五ノ神は屋上から降りた。
下校のチャイムが響く屋上で、一人立ち尽くす。桜並木に突風が吹き、葉まで落としていく。
2
その日、夢を見た。それは懐かしい夢で、小学生の頃の夢だった。夢というのは不思議なもので、その日一番印象に残ったものが出てくることが多いらしい。
時期は秋。枯葉の上でキャッチボールをするのは、俺と、一個上の先輩だった。俺の所属するチームには先輩が五人ほどいたが、野球は九人で行うものなので、残りの四人は下級生から選ばれていた。
そのため、自然に先輩後輩の間が近くなり、仲良くなったのだ。
中でも特に仲良くなったのが、その先輩だった。
名前が思い出せない。
「ちょっと、どこ投げてんだよー!」
「お前、それが先輩に向けていう言葉かー!」
「そんな肩の弱い先輩はいねーよ!」
「なんだとー⁉」
小学生の俺アグレッシブすぎるだろ。先輩にため口どころか挑発じゃねぇか。
「女みたいな名前だからだろ」
「お前またそれかよ」
「だってそうとしか考えられないし」
「俺が十年くらい前にタイムスリップして、親に名前をかっこよさそうなのにしてもらえばいいってのか!?」
「そうじゃね?」
小学生の想像力はすごいな。外部からの刺激が猫型ロボットしかなかったからか。そんなことねぇよ。
「そうかよ」
返球しながらその先輩は返答する。
そのとき、対角線側のホームベースのあたりに、一列に並ぶみんなの姿があった。
「おーい、瑞穂ー」
「おう、もうそろそろ練習始めるのかー?」
その一帯の誰かがその先輩――瑞穂といった――を呼んだ。
思い出した。瑞穂先輩だ。名前が女の子っぽくて、よく女みたいな名前だっていじってた記憶がある。
「ほら、じゃあいくぞ」
「ん」
左手にグローブをはめたまま走り出した俺と先輩の後ろから、「がんばってー」と応援する声が聞こえる。誰かのお母さんだろうか――
3
翌朝、今日は土曜日で学校は休みである。私立の人とかは土曜も学校に行って授業を受けるらしい。よそはよそ、うちはうちである。
昨夜の夢を覚えているうちに、瑞穂先輩というのが誰だか気になったので、写真をあさることにした。
カウンターの上に置かれた写真を眺める。地区の六チームでリーグ戦が行われる町内会の少年野球チームに参加し、そのリーグ戦で優勝した時が四年生だった。その後は周りのチームが強くなってきて、優勝できなかったから、所属四年間――三年生から六年生まで――で優勝はその一度きりだ。
その優勝決定戦で勝った後に撮った集合写真。ここには全員の顔が写っている。
端から探していくと、瑞穂先輩は果たして見つかった。
俺の横で笑顔で立っている瑞穂先輩は、その温和な表情で、いつも場を和ませていた。
なんだか懐かしくなって全員分の顔と情報を思い出しながら眺めていると、一人気になる人を見つけた。
長髪の子が一人、一番右に立っていたのだ。
これ、誰だっけな……と記憶の隅をたたく。この写真一枚では思い出せそうになかったので、別の写真も見ていく。
二枚目の写真は、俺とほかの四年生が肩を組んで、優勝の賞状を持っている写真だった。このころからスタメンこそ取れなかったもののベンチに入り、試合にもちょこちょこ出ていたメンバーたちだ。
懐かしさにふけりながらも遠目から眺めてみると、その後ろに例の子が写っていた。
三枚目、四枚目には映っていなかった。そして五枚目、今度は四年生全員の集合写真だ。全員といえども八人だが――
いた。例の子である。長髪である所や顔だちを見るに女の子らしい。
そうだ、思いだした。一人女の子がいた。
この町内会では、男女差別撤廃ということで、町内会のスポーツには女子の参戦も許されていたが、どのチームにも女の子はいなかった。が、わがチームには同学年に一人、女の子がいた。
裏面を見ると、何やら書き込んである。
そうだ、この子が引っ越すから、寄せ書きみたいのを書いたんだ。その時、この子に送るほうじゃなくて自分のほうに書いちゃって、結局二枚分同じことを書いたんだ。
表に返して、もう一度、その子の顔を見る。
ユニフォームは男の子と同様汚れていて、肩を組む男たちとは一歩離れた右端に映っていた。眼の上にある髪留めが映える。
……髪留め?
土曜日という安心感が、俺の頭をいつも以上に冷静にさせていた。いつもは使い物にならない頭が、この時ばかりは素早く回転した。一つの結論にたどり着くのに時間はかからなかった。
「もしもし? ……ああ、そうだけど、あのさ――」
4
昼下がり、俺は多摩川の河川敷にいた。横では小学生たちが元気に白球を追っている。
暑い。まだ五月も半ばだというのに、この暑さは何なんだ。帰りたい。
いや、誘ったのは俺なんだから、その俺が帰りたいというのはどうだということだが。
突然の呼び出しに、彼女は答えてくれるだろうか。先ほどの電話では、いけたら行くという趣旨だった。これは拝島にも使われた手法だ。流行ってんの?
サイクリングロードの併設されている多摩川の河川敷は、老若男女でいっぱいだ。バーべキューをする人もいるし、自転車に乗ってる人、ランニングをする人、それぞれだ。まて、バーベキューなのかBBQなのか、この問題はそろそろ解決したい。BBQだとバーベキューより想像力がわく気がする。しないか。
行きかう車のエンジン音が絶えず耳に入ってくる。不快ではない。むしろBGM代わりになる。どんな脳内変換をしているんだろうか俺の頭。
しばらくは少年野球を眺めることにする。今も昔も変わらないのは、小学生の男の子の中での野球へのあこがれだろう。主観だけど。
一人の子が大飛球を放った。外野の頭を超えたその打球を追って外野手が走る。すぐにとって送球するも、そこは小学生のすばしっこさ。左中間深々と破っていった打球は打者をランニングホームランにするには十分だった。
ふと横を向くと、涼しげな格好をした少女がひとり、こちらへ向かってくる。
今日の本題だ。
「私の家どこにあるか知ってる?」
「湘南のほうだろ」
「そう。で? ここは?」
「東京都大田区」
「そうよね、いったいこんなところまで何をさせに来たの?」
出会ってすぐに文句にばっかりのたまう五ノ神は、いつもどおりの口調だ。
「お前の言ったことをずっと考えてたみたいでさ」
「私が言ったこと?」
「そう、で、今日写真を見あさったの。したらこいつ」
俺は集合写真の中の女の子を一人指さし、五ノ神に向ける。
「これ、お前だろ」
「…………」
木々の揺れる音が耳に入ってくる。五ノ神の髪を揺らすその風が、五ノ神のそれをよく見せてきた。
「少年野球チームに一人入ってきた女の子。俺とは二年間しか過ごしてなかったから記憶もあいまいで、全然思いだせなかったけど、今思い出したよ」
俺はポケットに入っていた二枚目の写真を取り出す。
「このピン」
「…………」
「これはお前が、コーチから脱退するときに渡されたものだろ? あのとき、瑞穂先輩が教えてくれたんだ。コーチが五ノ神になんか渡してたって。ずるいなーと思ったの。小学生だし」
金属音が響く。
「思い出のものって言ってたよな」
俺は五ノ神の前の発言を思い出す。
「それって、俺とかみんなと野球をやってた二年間のことだろ?」
「…………そうね、思い出してくれたのね」
「あぁ、思い出したよ」
「そう。それを伝えに私を呼んだの?」
「そう。お前にも、野球をやってた頃の楽しみを思い出してもらおうと思って」
「…………ねぇ、羽村くん。思い出す、といえば、あのことは覚えてる?」
「そうだね、何となく思い出したよ」
「約束をしたの。私がチームを抜けるときに」
「ああ、そうだったな」
五ノ神は川のほうを眺める。どうやら試合が終わったらしい。
俺は、ここ最近のふらふらしていた自分への喝と、新たな決意とを胸に、その約束をもう一度、五ノ神に伝える。
それは、四年生の集合写真の裏に書いてあったものだ。
補習の常連になってくると、解法の暗記は得意になる。数を当てはめるくらいなら簡単だからな。
だから、ここでも、答えを当てはめに行く。
「お前を、甲子園に連れていくんだもんな」
ざわざわ…………
川の流れが耳に聞こえてくる。多摩川は関東でも特に都会を流れているので、以前は氾濫とかふつうにあったらしい。近くに住んでいた人は頻繁に起きるその洪水に頭を悩ませていたようだが、それらも堤防の建設によって抑えられている。
今では週末は憩いの場と化していて、人々でにぎわっている。
が、そんな情景、周りの引き起こす「ざわざわ」って感じではなかった。
それは、目前の五ノ神から発せられているものだ。
「それだけ?」
「ああ、うん、それだけ」
「それだけのために私の休日を奪ったの?」
「まぁ、そうなるね」
「そうなるねって……」
薄着の五ノ神はそれでも暑さをかわし切れていないようだ。頻繁に右手で仰いでいる。暑さをかわすってなかなかいい得て妙だな。
「せっかく今日はゆっくりしようと思ったのに……」
「悪かったよ、でもこれだけは面と向かって言わなきゃいけないなと思って」
「それは別にいいのだけど……」
五ノ神は何かが引っかかったような浮かない顔をしている。
「まだ、根本的に解決してないわよね」
「え?」
「野球部。あなたは野球部に戻るの?」
「…………」
五ノ神はひとつ、小さな矢を放った。それは、俺の心という不可視の像に突き刺さる。
「どうなの?」
「それは……」
甲子園に行く、ということは、直接的に野球部に戻るということだ。野球部に所属していないと甲子園はおろか県大会にすら出られない。
野球は九人でやるんだ。一人じゃない。
ただ、同時に一人×九での九人とも、また違う。チームというのは、そういうものだ。
「まだ、迷ってるの?」
「…………」
「迷ってるのに、宣言だけしたの?」
「……まぁ、そうなっちゃいますね」
「そう」
五ノ神は五月の日差しを一身に受けながら、そのひとことを漏らすと、
「じゃあ、やっぱり約束は果たせないんじゃない……」
と、うつむいて呟いた。
「…………それは…………」
思うように言葉が出ない。
野球はやりたい。この下で野球をやっている小学生に交じって一緒に野球したいし、小さいころから夏の風物詩としてなじみがある高校野球というものにかかわりたい。
でも、それができないのは、なぜだ?
5
日曜日が過ぎるのは一瞬だった。なんせ朝起きたのが昼過ぎだったし。昨日はクエストの配信日でした、まる。
そのあとも宿題がわからず放置するまでの二時間(時間かけすぎだろ)と、一通りゲームをする三時間が終わると、海産物が擬人化したアニメが始まっていた。ものは言いようである。
そのあとも、適当にテレビを見ていると、高校生活史上最も怠惰な週末が終わった。テストも終わったし、開放感があふれ出てきそうなのだ。ろくに勉強してないのに。
そうしてふわふわした状態で夜を過ごすと、気が付いたら月曜日になっていたので、学校に行くことにする。
ああは言ったものの、一度逃げた部活に戻るタイミングをうまくつかめず、今日は様子見ということで、まだ部活にはいかない。
まだ、周囲の視線とか、御嶽とか、不安要素が大きいと感じる一方で、五ノ神との約束を果たすために部活にいかなければいけないという二律背反に悩まされているのかもしれない。
学校に到着すると、その隣には五ノ神がすでに来ていた。ホームルームまではあと十五分くらいある。珍しく早く学校に来たのだ。たまにこういうことするとテンション上がる。
五ノ神は俺より遠いところから通学しているはずなのに、この時間にもうすでに登校しているようだ。真面目なことはいいことだ。
後ろから声をかけられる。日野だ。いつぶりの登場であろうかこの日野。五月の頭以来だろう。
日野は高校生活のスタートダッシュを見事に成功させ、成績は中の上、交友関係も順調に広げている。よくやっている。新学期スタートダッシュって何とかゼミにありそうだな。
「おい野球少年」
「そんな名前で呼んだことないだろ」
「そうだっけ?」
日野は俺が野球部に所属していることは知っていたが、明白に「野球少年」羽村を意識して俺の名を呼んだことはない。
彼は俺を最初から「一高校生」として見てくれていたのだと思っていたが、交友関係を広げていくうちに、肩書とともに仲間をタグ付けするようになったらしい。
「最近お前すぐ帰っちまうけどよ、なんかあったのか?」
「別に、お前が気にするようなことじゃねぇ」
「ん、そうか、わかった」
日野は案外すっと俺の言葉を受け入れると、後ろのほうの集団と話し始めた。友達増えすぎだろ。
昼休み。
トイレにでも行こうかと思って席を立ち、廊下をだらだらと歩いていると、途中でC組の横を通り過ぎた。開けられたドアの隙間から教室の様子が一瞬見える。と、拝島の机のまわりに女子高生が周りに集まっていた。珍しいな、と思った。休み時間のあいつと言ったら机に突っ伏してるかぼけーっとしているしかない。
あいつにも話し相手ができたのか、と察し、一人でトイレに向かおうとすると、異変を感じた。
「だから、そういうのじゃないって!」
突然教室からあげられた絶叫に、C組が静寂に包まれる。完全にやらかしてしまっているようだ。
めんどくさいことは嫌いなので、音をたてないようにそっと逃げようと思ったのだが、ここではなぜか立ち止まって中を見いってしまった。
もう聴きなれてしまった声が聞こえていたからか。
もうわかっていたその声の主は、突如として教室から飛び出してきた。
「あっ」
「あっ」
お互いにお互いを認識した。飛び出してきてしまった背徳感からか、教室に戻りにくくなってしまっているそいつに助け舟を出すというわけでもないが、とりあえず放っておけなかった。
「場所を変えるか」
「うん」
それだけうなずいて、拝島は後ろにくっついてきた。
6
「で? 何があった?」
とりあえず逃げてきたのは屋上。以前五ノ神に呼ばれて行ったときの場所だ。
初夏の――といってももう六月前だが――日差しは屋外の人を平等に照らしている。俺だけでも照らさず日陰にしてください。暑いです。
「……ちょっと、ね」
「ちょっと?」
「うん……」
拝島はうつむいてしまっている。感情的になった拝島を見るのは初めてかもしれない。
「迷惑かけちゃったね、ごめんね」
「教室からあんだけ叫んで出てきたところ見て放っとくわけいかないだろ」
ましてやそれが知り合いとか、その前に目が合っちゃってるし、逃げるわけにもいかなかった。トイレ行けてないし。
拝島は両手をぐっと握りしめている。相当怒っているようだ。こんなに怒りをあらわにした拝島は見たことがない。いつもの笑顔も、今日は完全に消え失せてしまっている。
「――――やっぱり女の子に生まれたから…………」
「え?」
「女の子だから、関わっちゃいけなかったんだよね」
拝島はそうやって自己完結を繰り返す。ぶつぶつと、延々と。
「何の話なんだよ?」
「羽村くんは、どうして野球部にいるの?」
海側から風が吹く。その風は俺と拝島の間をすり抜けて、さらに先へ進んでいった。拝島のスカートがひらひらしている。見えちゃうよ? 少しは気にしようね?
「どうしてって…………」
それは、ここ最近ずっと考えていたものだった。俺は、野球が好きなのか、野球「部」が好きなのか、それともどちらもか、それとも――――
「さっきの話だけど」
屋上に入るドアのすぐ横、少し日陰になっているところで拝島は口を開く。いいなー日陰。俺のところはめっちゃ日が当たってんのに。暑いよ。
「私は何人かに囲まれてたの。最近しゃべるようになった人たちだったんだけど」
日陰の中の拝島は、当時の状況を語りだしたようだ。てか俺も日陰行きたい。
「私が野球部のマネージャーになったっていうのを、どっかから知ったみたいでね、その話になったんだけど」
拝島は当時の様子を思い出して悔しくなったのか、一度空を仰ぎ見る。つられて上を見たところ、雲は二、三個しかなくて、理科で習う天気の指標で言えば快晴に当たるものだった。だから暑いんだよ。
「その中の一人がね、野球部のマネージャーになるなんて、男狙いだとか、あることないこと言ってきて、そんで……」
「いや、いわなくていい」
拝島は野球部に飛び込んだことを批判されてしまったようだ。それも男狙いだとか、多少話を盛られて。
「はじめは我慢してたの。でも、さすがにどうしても堪えきれなくなっちゃって」
――せっかく友達になれたと思ったのになー。
そう拝島は小声でつぶやいた。
「女子校育ち」の拝島は、周りと話の距離感がよくわからない、と言っていたが、それがこうして形になってしまうと、どうにもならなくなってしまったらしい。
「でさ、ここにきてなんだけど」
「おう」
拝島は地面を見つめてしまったまま、顔を上げられない。
「私って、なんでマネージャーにしたんだっけ、って思うようになっちゃったの」
屋上にきてそれなりに時間がたったはずだ。けど、いまだに校庭にはたくさんの生徒が散らばっているところを見ると、それほど時間はたっていないのかもしれない。
「なんで……」
「男狙いとか、そういう目で見られるんだなー、って思うと、どうも私がただの変態みたいに思えてきちゃって」
横から風が吹く。どうも風を吹くとスカートを押さえるという習慣がないらしい拝島は、また下半身が無防備になっている。見えちゃうから。髪の毛調える前に下、下。
「私、なんでマネージャーしてるんだろーなー……」
「拝島……」
考えれば考えるほど思考が暗黒路線に向かってしまっている拝島。憂鬱なときあるあるってやつだ。
憂鬱なときは、一人で考えるより、みんなで不安を分け合ったほうがいいってものだ。だから、俺がそのみんなになってやることにする。
元気のない拝島は、見てて気分がよくない。
「この前東京ドームに行っただろ?」
「う、うん」
突然過去の話をしだした俺に戸惑っているのか、拝島は足元にあった視線を俺の顔に向ける。正面から見られると頭がくらくらしそうなほどかわいい。
俺の目を見ている拝島の視線を、何とか目から外そうとして、思い出すふりをしてちょっと遠くを見つめる。いつまでも建設の終わらない高速道路のバイパス線が見える。いつまで工事やってるんだよ。横浜駅か。
「あのとき、お前がなんて言ったか忘れたのか?」
それは、五月のはじめに言われたことだ。
「なんか言ったっけ」
「言ったよ」
「全然覚えてない」
「でも俺は覚えてるぜ、くっきりと」
俺はそこで一呼吸置く。トイレ行きたい……かれこれ十分ちょいこうしてるよ……
「……何を?」
「お前が野球部のマネージャーになった理由だよ」
それは、ゴールデンウィークに東京ドームへいったときのことだ。あの時、行きの電車内で確かに拝島は俺に語った。
拝島の、野球部に所属する理由。
それは、拝島のひとつの自問自答のようなもので。
グラウンドに散らばった集団から喚声が聞こえる。光よりワンテンポ出遅れて聴こえる音を聴くのは、少し不思議に感じる。その瞬間に同じタイミングで発せられた光と音は、距離を重ねるごとに別々に目と耳に到達する。
「男じゃなくても野球に関わりたい。だからお前はマネージャーになったんだろ?」
野球に関わりたい。その欲求を満たすためには、少なくとも学校と言う社会では野球「部」に関わるしかない。その関わる、というのが、野球部でプレーをするか、マネージャーになるか、その違いがあったとしても、それは野球に関わるという意味では変わらない。
「……そんなこと、言ったっけ」
拝島は、一連の自らの発言を肯定しない。
それは、まるで自分自身を否定するようで。
だから、少なくとも俺は、拝島を認めることにする。
「言ったよ。忘れもしない」
「なんで?」
「なんでって?」
「なんで、私がそう言ったことを忘れもしないの?」
拝島は心底不思議なようだ。俺が拝島の言を『忘れもしない』という表現をしたということに。
昼休みは終わらない。すごく長い時間を過ごしている気もするが、どうやらあと十分くらいあるらしい。
日は頂点を越えて西に傾き始める。角度が変わって、ようやく俺の立ち位置にも日陰になる。この屋上に来てずっとこの時を待っていた。日陰って思った以上にありがたい。
は拝島の問いに答える。
「こんだけ部活というものに意志を持ってやってるやつがいるってことに驚いたんだよ。部活ってさ、これしかできないからとか、友達がやってるからとか、放課後暇だからとか、そういう、なんというか、曖昧なというか、薄い理由でやるやつが多いんだよ」
やっぱり、部活っていうのは「青春の代名詞」なんだと思う。アニメとかマンガで部活ものが多いのは、部活というものを通じて「青春」を語るのに適してるからなんだろう。
一方で、同時に部活とは「やらなくてもいいもの」でもある。部活への加入を義務付けられているところは別として、うちの学校では部活の参加の可否は自由だ。種類もたくさんあるし、かならずしも加入しなくていいのだ。
だからこそ、そのなかで選んだものには特別なものがあるのだが。
何やら語りだした俺に対して聞くことしかできなくなってしまったのか、拝島は俯いてしまっている。
「だから、単純にすごいって思ったんだ。どうしてたかが学校の部活ひとつでこんなに意志を持てるんだってことがさ」
グラウンドから声が届かなくなってきた。昼休み終了の五分前の予鈴はまだ鳴ってないはずだが、もうその時間に近づいてるということか。なんだよ、昼休みという俺の学校生活一番の楽しみが……あとトイレいきたい。
「意志なら……」
下を向いたままの拝島がついに口を開く。
海からの温い風が吹き抜ける。
「意志なら……羽村くんだってあるでしょ?」
それは、拝島のぼろぼろの精神から出された弱音で。
「羽村くんはなんで、野球部にいるの?」
それは、もう何度めになるだろうという質問だった。無論、拝島から問われたことはなくても、別の人……幼なじみから聞いたもので。
「俺は……」
拝島の視線は俺の目に向けられている。俺は今度こそ拝島の視線を両の目でしっかりと受ける。見合うこと数秒、恥ずかしくなったのか、拝島は頬を赤らめて視線をちょっとずらす。かわいい。
「……約束をしたんだ」
「――約束?」
「ああ」
それは、つい最近思い出したばっかりのもので。
「ある人を、甲子園につれてかなくちゃいけなくて」
「――っ!」
拝島はそらした視線を再びこちらに戻す。
「そっか…………そうなんだ――――…………」
小声で何かを呟いていたようだが、それは俺には聞こえなかった。
日差しのせいか紅潮して見える顔をこちらに向けながらそう呟くと、拝島は最後に訊いた。
それは、拝島自身が求めていた、ひとつの解で。
それは、いつも笑顔を絶やさない拝島の、笑顔の裏に秘められた、解けない方程式の解で。
それでも、その解は拝島自身が見つけるべきもので。
だから俺は、その解を導く展開式を示す。
あとは代入するだけ。
「俺は……野球が好きだからさ」
ほんとは、ここでチャイムがなればシチュエーション的には最高だったのだが、そうは問屋がおろさず、そのセリフのあと五秒後ぐらいにチャイムはなった。もうちょっとためとけばいいタイミングだったのかもしれない。
それは置いといて、こんな、後から思いだしたらこっぱずかしくなるようなセリフを受けた拝島はというと、
「そっか、そうなんだね」
と、そのセリフを呑み込んだらしい。やっべぇ、ちょっと恥ずかしくなってきた。ダメだ拝島、呑み込むな、ペッてしろ。
まぁ、過去は変えられないので、そんなセリフを残したことも、そもそもここで拝島を説得というかなんというか、そういうことをしているという過去も黒い歴史としておいておこう。青春なんて恥の塊だ。
「私は、野球…………好き、だよ?」
その声は、元の拝島の明るさを取り戻していた。
さっきまでのネガティブな発言の時とは違い、少しは顔もやわらかくなっている。
そう、それでこそ本当の拝島だ。暗く、弱音を吐いて、つらそうな表情をしている拝島はもう見たくない。
「拝島」
俺は拝島に向き合って言う。
それは、部員とマネージャーの、よくある、テンプレートな目標宣言で。
それでも、俺と拝島の間の、大事な決意表明で。
力なく下ろされた拝島の手をつかみ、胸の高さまで持ち上げる。
少しあった雲も、完全に晴れ、今や日陰は建物の角度によるものしかなくなっている。暑い。
「絶対、甲子園行こうな」
遠くにセミの鳴き始める声が聞こえて。
そこでふと我に返る。
「やっべ、時間が」
現在、十三時十八分。始業まで残り二分と迫っている。
五限は歴史だ。歴史といえば先生が怖いことで知られている。遅刻なんてしようものなら……わかってます。
「走れ、拝島!」
「え、あ、うん」
さっきの拝島の左手をつかんだまま、階段を駆け下りる。幸いにして階段を一フロア下にいくだけで教室にはたどり着く。だからそんなに焦る意味はなかったのだが、とりあえず、体裁で。時間があるからと歩いて行って遅刻したら恥ずかしいし。しかも拝島とともに遅刻してきたとなれば……そういうのが好きな人たちにたちまち噂されるだろう。うわー超めんどくせぇ。
案の定、全力で走ったので時間的には間に合った。とりあえず教室に入って授業の準備をしようとしたところで、C組に向かう拝島に呼びとめられる。
「甲子園、行こうね」
それは、拝島からの最後の意志確認だった。
「おう、がんばろうな」
俺は応じて意志を伝える。
もうすっかり笑顔になった拝島が背を向けると、俺は自分の作業に戻った。
午後の授業爆睡したおかげで、体は軽い。どうしたものか、今日は歴史の先生に寝ていることを指摘されなかった。やっぱシャーペン持ったまま寝るのいいわ。明らかに勉強してる雰囲気出てるし。
7
放課後。
俺はとうとうこの場所に戻ってきた。
野球「部」という空間に。
たぶん、逃げてきたと思っていたんだろう。
野球部という空間と、野球部から逃げてしまった自分から。
それが原因でなのかは知らないが、ここ最近は中途半端にしか時間を過ごせていない気がする。
ここに来る前、五ノ神に出会った。出会った、といっても同じクラスなので嫌でも鉢合わせしてしまうのだが、そういうんじゃなく、俺は文芸部に向かう五ノ神に廊下であった。
「今日から野球部に戻るの?」
「ああ、そのつもりだけど」
「そう」
通学鞄を肩にかけ、校則に反することのない制服の着こなし方をしながら、五ノ神は続ける。
「羽村くんから約束を思い出してくれるとは思ってなかったわ」
「それな。俺もほんとに忘れてたんだけどさ」
「偶然、なのね」
「そう。偶然。俺が写真を見なかったら、ここまで思い出してなかったと思う」
それは、限りなく本心に近い言葉だった。事実であり、真実。
「五ノ神に何度も言われても気づかなくて……完全に、な。あの時はごめんな、あんまり気づいてやれなくて」
「別に謝ってほしい訳じゃないわ」
「あ、ごめん、勝手に謝っちまった」
「そういってまた謝ってることに気づかないのね……」
そういって俺から見て右につけられたピンの位置を調節する五ノ神。ところで女の子が口にゴムをくわえてから髪を結ぶしぐさが超かわいいと思うのは俺だけだろうか。
「あ、そろそろ行かないと間に合わないわ。じゃ、これで」
「ん、じゃあ。頑張ってね」
「おう」
五ノ神の激励を受け、階段を下り、今に至る。
A組とB組の下駄箱は隣り合っていて、時折間違いそうになる。
「ん?」
そこに、ひとつのボールが落ちていた。
隅のほうに、小さく名前が書いてある。
――御嶽。
これから戦う相手になるだろう人のボールを拾うのはなかなか縁がありそうだが、ひとまずは御嶽の下駄箱に突っ込んでおく。
御嶽がB組だということは知っているが、出席番号を知らないので、それっぽいところに入れる。間違ってたら誰かが気がついて渡すでしょ。
野球部の部室に行くには階段を上らなくてはならない。
その階段を、カンカンという音をたてながら上る。
五ノ神と喋っていたせいで、他のやつらがここに来る時間とはわずかにずれた。
そのせいで、まだ誰とも会っていない。
開けっぱなしの部室のドアを通り抜け、二、三歩歩けば、部員全員が俺の顔を認識するには十分だった。
俺が来たという異常性に、高一の部員が振り向く。
この三週間ほどのブランクの元凶――自分でそう決めてしまっていただけだが――である御嶽は、こちらを一瞬振り返っただけで、あとは自分のことに戻ってしまった。
俺は、高一の部員の前に立つと、用意していたセリフを言う。
「みんな、聞いてくれ」
もう先輩はみな着替え終わってしまっている。早くグラウンド整備にいかなければならないことは確かなんだが、もう俺は逃げない。逃げたくない。
だからこそ、ここで伝えておかなければならない。
AチームとかBチームとか、そういう差があるのは仕方ない。
高校にもなれば、経験者、非経験者の差は如実になり、目に見えない、抽象的な差はプレーによって可視化される。
でも、それはスタメンと控えという、確実に生まれてしまう差であって、AチームとBチーム、まとめてひとつのチームだ。
高校野球部という、チームだから。
「勝手に部活来なくなっちゃって悪い。練習試合に暴投したのが思いの外精神的にきちゃって」
部員は動きを止めてこちらを見ているものもいれば、全く聞いていないものもいる。
が、そんなことはどうでもいい。
俺はただひとつ伝えたいことを伝えに来ただけだ。
「でも、そういうことも乗り越えて、みんなでひとつのチームとして、ひとつの高校野球部として、やっぱり俺らもここを目指したい」
すでに着替え終わった御嶽は、俺の言葉を待っているのか、携帯をいじりだすと、つぶやいた。
――何主人公気取ってんだよ。
その言葉が示すように、御嶽は心底鬱陶しそうにしていた。
独りでに部活をサボりだし、独りでに戻ってきて勝手に喋っている俺は、確かに主人公を気取っているかも知れない。
だけど、一度きりの人生、一度きりの青春、折角野球につぎ込むんだ。目指すところは一緒だろ?
公立だから、私立だから、推薦だから、一般入試だから。そんな差は関係ない。
高校球児なら、誰しもが一度は夢見るところがある。
もちろん俺はそこに出たいし、連れていってやりたい人がいる。
それは、一緒に少年野球時代を過ごした、五ノ神であり。
それは、今俺たちをサポートしてくれている、拝島であり。
ここで、最近何度も口に出してきた言葉を繰り返す。
「俺らも――甲子園に行こうぜ」
俺的には感動のセリフを口に出す。万事オッケー。BGMは感動的なピアノ演奏。
御嶽は、そこで鼻で笑う。
「何が甲子園だっつの」
「あ?」
御嶽はそこで手にしていた携帯の電源を落とすと、おもむろに立ち上がった。ただならぬ空気が充満して、逃げるようにグラウンドに降りてしまうやつもいるほどだ。一人、何かに驚いたようにあからさまにビビって退場したやつがいる。そんなに恐ろしいか。
御嶽はこちらを向かず、未だに部室の中に残る部員の方を向いて続ける。
それはさながら、全員の総意を語るような態度で。
「夢語る前に現実見ろ。ここをどこだと思ってる。神奈川県だぞ? 名将と呼ばれる 監督がごろごろいて、大会の参加チーム数もぶっちぎりで全国最多。そんな中で、内野しかとれないグラウンドで、一日一時間ちょっとの練習だけで甲子園に行くだ? 笑わせんな」
御嶽はそこまで言うと息をひとつ吐いた。
ちょっと顔を出さないうちに相当の卑屈キャラになってしまったようだ。どうしてこうなった。
「大体こんな公立校に入った時点でそんなこと諦めたんじゃねぇのかよ。本気で甲子園行きたいならもっと確率高いとこあんだろうが」
御嶽は一度落とした電源をなんと思ったかもう一度入れ直して、また落としてみたいな意味のわからないことを繰り返しながら続ける。
「そもそもなあ、こういうことあんまり言いたくないんだけど、お前も俺も、
御嶽は電源のオン、オフの繰り返しをやめ、いつのまにかカバンから帽子をつかんで出していた。
その帽子は、強く握りつぶされている。
「俺だって甲子園に行きたいという夢はある時はあったぜ。画面の中、それも関東じゃない、兵庫なんて遠いところで野球をやってる高校生を見れば、誰だって憧れるさ」
御嶽はうつむいたまま視線を動かさない。
「でもな、いつか気づくんだよ。俺がどれくらいの力量で、高校は自分に妥当なところにしか行けないってこと。私立高校のやつには到底かなわないこと。神奈川で甲子園出場権が与えられるのは一校で、それを二百校くらいで争うということの熾烈さ。お前もそうだろ? 県立高校に入ったってことはよ、私立にいけなかった負け組なんだろ?」
そこまで一気に捲し立てると、御嶽は落とした視線を前に上げる。
それは、前を向いたというより、開き直りで。
たぶん、これが御嶽の本音。心の声。
御嶽も、一人の野球少年だ。全国の野球少年が一度は夢見る晴れ舞台。
それが、甲子園。
でも、その舞台への切符は、全員に平等にあるようでない。
あらかじめある程度の確率の違いが生まれてしまう。
それは監督の力量だったり、集まる選手の力量だったり、世間的な知名度だったり。
そして最大の壁は、ここが神奈川県であるということ。
神奈川県は言わずと知れた激戦区で、名門校の数も多い。
だからこそ、そのなかで県立校が甲子園に行くということは難しいのだ。
確かに一理ある。
でも。
それが甲子園に行けない――行こうとしない理由にはならない。
なってはならない。
でも、返せない。
御嶽の言葉は、重くのしかかる。
神奈川という土地、県立校という学校の二つのハンデを持ったまま、甲子園に行けるのだろうか。
多分、今まで一番逃げてきた問いだ。
このことを考えれば考えるほど、考えが悪い方向にいってしまう。
だから、返せない。御嶽のその問いに。
どうしよう。ここまでかっこつけて喋ってきたせいで、逃げられなくなっちまった。ヤバい、恥ずかしい。あーもう、これあとになって思い出して死にたくなるやつだよこれ。
あー、論破されちゃう。言葉につまった俺を見て、少しにやっとした御嶽は、そのまま立ち去ろうとした。
他のメンバーもぞろぞろとそれに続く。事実上の俺の負けになってしまったようだ。
時刻は十五時三十五分。遅刻ではないが、先輩より遅くなってしまったことには、ある程度のお咎めがあるだろう。
どうにも、振りきれなかった。中途半端とでも言おうか、そんな感じ。
それは、俺の人生そのものを表しているようで。
勝ちきれない、逃げ切れない。それでいて変に負けず嫌いなところがあるから、どうにも引き下がれなくて、泥沼化してしまう。
中学のあの日からずっとそう。
ずっと、あの暴投を引きずっていて。
それで今も、またピンチを抑えられそうにない。
諦めて俺も外に出ようとしたところで、外の階段からつかつかと音がしてきた。
まだ用具を出そうとしていたためにこの部屋にいた御嶽とその一味が、一斉に音のする方を振りかえる。
そして、人影は扉に映りこむ。
身支度を済ませた俺もそちらに視線を向けると。
そこにいたのは、野球部という概念を悠々とぶち破る存在だった。
「まったく、大事な復帰初日だと聞いて心配して見ていれば、この有り様なのね」
と、その辺の空気を切り裂くように冷ややかなセリフが部室を駆け巡る。
その存在を認識した御嶽は、訳がわかっていないようだ。
それもそのはずである。なぜならそいつはつい最近まで幼馴染みという枠にとらわれて友達を作ってこなかったやつなのだから。
そんなやつが、こんな、男臭いところに飛び込んできて、一体どういうつもりなのだろうか。
「一体どういうつもりなのだろうかみたいな顔をしているわね羽村くん」
「エスパーかよ」
そいつはいきなり読心術を使って俺の脳内を読み取ってきた。こわい。世界は女子高生をエスパーにできてしまうようだ。
「で、何の用だよ、五ノ神」
「さっきも言ったでしょ、復帰初日だから心配して見てたって」
「ここグラウンドの端なんだけど」
ここから文芸部の部室までは二百メートルくらいある。しかもさっきはドアは開いていたとはいえ引っ込んだスペースで大口を叩いていたはずだ。見えるはずがないし、声も届くはずがない。自分で大口って認めちゃったなついに。やっぱりこいつ。
「エスパーかよ」
「安心して、人間よ」
「じゃあなんで見てたなんて言えるんだよ」
「そうね、私は視力がいいから」
「どっかの部族みたいな視力してんの?」
単純に目がいいから見えるとは限らない角度なんだが。
「ごめんなさい、視力は嘘だわ。正しくは体当たりといったところかしら」
「なになになんなの、叫んだりとかしたの?」
「羽村くん、それは二時五十分のほうだわ。それはエスパーじゃない。確かに風貌は似ているかもしれないけど、別人だわ」
「なんで解説を受けてるんでしょうか」
ほら、いまいち状況の呑み込めてない御嶽がポカンとしてるよ?
そこで五ノ神も自分の左にある人影に気づいたようで、一瞬はっとしたような表情になる。そしてお互いに会釈。やっぱ知り合いじゃねぇのかよ。
「あの……どなたか知らないけど、そろそろ時間だから、どいてもらえますかね」
丁寧語使うとは相当御嶽も人見知りのようだ。それともただ単に五ノ神を恐ろしい存在として見ているのか。多分後者だな。ご愁傷さま。
「そろそろ本題に入ろうと思うわ」
五ノ神はそう切り出すと、横のボールの入ったかごからひとつボールを取り出す。
「サインボールっていうのは、憧れの選手のサインが書かれたボールのことよね」
「何を当たり前のことを」
「いちいち口答えしなくていいわ羽村くん」
「口答えって目上のものにするものなんだけど」
五ノ神は自分を俺より高貴な存在だととらえているらしい。ふざけんな。三権分立はどうした。……これは違うな。
「御嶽さん、といったかしら」
「名前もよく知らない状態できたのかよ」
「そうね、会ったことないし。そうよね」
「あ、はい」
「やっぱり会ったことないんじゃねぇか!」
どうにもそんな気がしてたよ。御嶽はずっと訳がわかってないみたいだし、五ノ神も実は御嶽を直視したのは今がはじめてで、最初に現れてから目を会わせたのは実は俺だけだったりする。
あと御嶽は「さん」付けで呼ぶのな。なんか山みたいなんだけど。
「どうやらあなた、『甲子園になんて行けやしない! あーんお母さん助けてー‼』と喚いていたようじゃない」
「ほとんど捏造だよ!」
ス○夫みてぇじゃねぇか。
「あら、まあ後半はそうだとして、前半は間違ってないわよね」
「ああまあそうだけど」
「ならいちいち口答えしなくていいわ。耳が悪くなるから」
「そんなにうるさくしてないよ?」
「あなたの存在自体が私の耳を潰していくわ」
「俺は歩くスピーカーかなにかなのか⁉」
「全然面白くないわ。自重しなさい」
「はい」
思わず気圧されてしまった。面と向かってつまらないと言われると萎えるな……気を付けよう。
「御嶽さん」
五ノ神は俺と漫才をするのをやめて、矛先を御嶽に向ける。やっぱ御嶽さんって山みたいだな。
「あなた、どうして甲子園に行けないと思うのかしら」
五ノ神がまず問うのは、先ほどの御嶽の論の詳細。
この質問から入るということは、少なくとも五ノ神は「御嶽が甲子園を諦めている」構図を理解しているようだ。だからエスパーかっての。
御嶽は突っ立ったままだが少し足を揺らして、苛立ちを露にしている。なぜかといえばとっくに集合時間を過ぎているからである。今五分過ぎたあたり。しかし抜け出そうにも抜け出せなかったのか、中途半端に部屋残っていたらいつのまにか時間が過ぎていたと。そんなところだろう。とんだとばっちりである。
「だから、ここがなんて高校だか知ってますよね」
「そうね、少なくとも私立ではないわ」
「えぇ、そうです。だから――」
「それが?」
「え?」
さっきの言葉を繰り返そうとした御嶽の腰を、五ノ神は一言の疑問でへし折る。
自分のテンポが崩れた御嶽は、それでもなんとか自分の論の道筋を見つけたようで、壁に寄りかかった状態で話を始める。
「さっきあいつにも言ったけど、公立じゃ甲子園は無理。ここは神奈川なんだから。そこ自覚して、あるところで折り合いをつけて、じゃあ準々決勝まで行ければいいかとか、楽しもうとか、そういう軽い目標でやるしかないの」
「それは……そうね」
五ノ神は御嶽の説を受けとる。揚げ足をとるような反論はせずに、ただ淡々とそれを受け取って、
「で、それが?」
と、また短い言葉でそれをさらっと投げ返す。
豪速球言葉のキャッチボール。よいこのみんなは真似しないでね。
「それが何って訊いてるの」
泰然としたままの五ノ神から発せられたのは直球の返球だった。
ロージンバッグから漏れた粉で白くなった床を踏んでいる御嶽は、さっきから壁に寄りかかっているので、後には引けない。それは物理的にも、精神的にも。
「だから、県立には無理だって」
御嶽はそれでもなんとかレシーブをする。しかしそれは先ほどと全く同じ答え。
五ノ神はそのレシーブを容赦なくスパイクして叩き込む。
「何が、無理なのかしら」
「あ?」
五ノ神は一旦髪をふわっとかきあげる。
「どうにも勘違いをしているようね」
「……勘違い?」
「ええそうよ。あなたはここが『公立校だから』甲子園に行けないと言っているようね」
「そうだけど、それが?」
「甲子園、それは全高校球児の夢の舞台。その舞台にたつことができるのは、それぞれの高校で白球を追いかける高校生のみ。そうよね?」
「まあそうだけど」
「その権利は、全高校球児に与えられてて、それはあなたも例外じゃないはずよ」
「そうだけど」
「じゃあなんでまるで公立校が甲子園を目指さない、いや、目指しちゃいけないと思うのかしら?」
五ノ神の問いは、客観的だった。
それは、多くの高校野球ファンが口にするもの。
公立高校が勝ち進めば、それは話題になるし、なんといってもその下克上という構図がファンを熱くさせる。
でも、それはファン目線の話。
当事者からしたら、それは違う。
「『順当』なんだよ」
御嶽は五ノ神の問いに答える。
「あいつら……私立の連中が、学校の勉強をそこそこに、夜遅くまで練習して、それで県内でもブランド化されて、シードをとって、それで県立に勝つのは世では『順当』って言うんだ。それは裏を返せば、俺らが負けることが順当ってことなんだよ」
それは、限りなくネガティブな、そして、限りなく現実的なもので。
御嶽は、私立に勝つことを諦めているのではない。
県立が弱いものだと決めつけている世の中を諦めていた。
いつのまにか御嶽の回りにいた数人は消えている。さすがに時間がヤバいと思ったのか。
三人きりとなった部室に静寂が訪れる。
「じゃ、さすがに行くから」
御嶽はそういって去ろうとする。
その背中は、遠目からは小さく見えた。
「待って」
五ノ神は言葉だけでその背中を引き留める。
そして手に持っていた硬球をかごに戻し、かわりにカバンからもう一個のボールを取り出した。
それは、硬球よりも硬い、サインボール。
「これ、私の下駄箱に入ってたわ」
五ノ神はそれを御嶽の前につき出す。
御嶽は驚いてそのボールを五ノ神から奪い取る。なんかそれは見られたらいけないものを見られたときみたいな速さだった。
「なんで、これを……?」
「あなた、B組の人間ね?」
「そうだけど」
御嶽は懐疑的な表情を見せる。なんで五ノ神がそんなことを知ってるのだろうか。友達いないんじゃねえのかよ。
「A組とB組の下駄箱は隣接してて、どうやら私のところとあなたのところが隣同士みたいで」
「そうなの?」
すごい偶然だな。一生ぶんの運を使いきったろ。んなことねぇか。
「で、これが落ちてたのかしら、どっかの誰かさんが、このボールを適当に拾って適当に戻したのが私の下駄箱だったようね」
「どんな偶然だよ」
間違って御嶽のボールが五ノ神に行くってどんなアホがそんなことしたんだよ――
「あっ」
そこで気づく。
「どうしたのかしら、羽村くん?」
「いや……それちょっと心当たりが……」
「心当たり? ……もしかして、これを私のところに間違っていれたの、あなたなの?」
「ああー……うん、多分」
待って、さっき見たボールってこれだったの? 御嶽って書いてあったやつ、サインボールだったの? よく見てなかったからわからないが、これはもしかしなくても犯人は俺だということに……
「……ごめんなさい!」
「……何を謝っているのかしら」
「いや、だって……すごい怒られそうだから」
現に今鋭く睨まれてるし。こわい。
「これがサインボールだって気づいてたの?」
「いや、気づいてなかったです」
「だからどうして丁寧語になっているのかしら?」
「その前に自分の目つきをどうにかしよう?」
刺すような視線とはまさにこれ。
そんなで見られながらいつも通りに応対できるやつがいるとすれば、そいつは化けもんだ。
そんなことは置いておいて、このボールがサインボールだって気づいたかといえば、気づいてなかった。
サインボールというのは、サイン用に作られているボールのことで、本当の試合に使うボールより大きくて硬い。下ネタみたいだけど本当の話。
だから、持った瞬間にわかるっちゃわかるのだが、なにせあの時はここに来るってだけで異常なテンションだった――緊張してた――ので、そんなこと気にもしなかった。
「気づかなかったの? こんな、普通のより大きくて硬いのに?」
「誤解されるからやめて‼」
「?」
五ノ神は心から意味がわかんなかったようだが、世の中わからないことだらけで、それを無意識のうちに口走っちゃってることがある。それが一番怖い。そういう言葉を覚え始めた子供みたいな。やめようね?
「とにかく、俺は気づかなかったの」
「そう。まあ気づいたとか気づかなかったとかは別にどうでもいいのだけれど」
「今までの会話の時間返せよ!」
絶賛遅刻中なんですけど。
「そうね、羽村くんはナイスアシストということで、話を進めるのだけど」
五ノ神は俺のツッコミを受け流し、続きを語る。
「羽村くんはこのボールがサインボールだってことすら気づいてないようだから、このボールに書かれていることに気づくはずがないわよね」
「書かれていること?」
名前くらいしか見なかったけど。もしかして、裏になんか書いてあったのか?
疑問符を頭に並べる俺をよそに、五ノ神はその「書かれていること」が書かれた面を眺める。
そして、それを今度は御嶽の顔の前に向ける。
「さっきまでずいぶんと現実主義な、夢のないことを語っていたようだけど、こんなものを持っているならどうしてそういうことを語るのかしら?」
「…………」
壁に寄りかかったまま五ノ神の言葉を受け続けるだけの御嶽。目の前につき出されたそれは、言葉に詰まるような何か大事なものなのだろうか。
「な、なあ五ノ神、それ、なんて書いてあるんだ?」
俺がなんか阻害されてるような気がして癪だったのもあって、一番訊きたかったことを訊ねる。
ていうか、それわからないと俺がついていけない。
「そうね、御嶽さんの口からいってもらいましょうか」
「…………いや、あんたが言っていい」
「自分の夢なんでしょ? 自分で言えばいいじゃない」
「さすがにあんだけ豪語しといてそれは言えない」
「あ、そう。じゃあ羽村くんが読むと良いわ」
すげぇ気になる会話が決着したようだ。いつのまにか御嶽の丁寧語が抜けている。
五ノ神はそのボールを俺に見せる。さっきまで御嶽につき出していたのと同じ格好で俺に見せる。
そこには、拙い字でこう書いてあった。
――甲子園で会おうな
「え?」
それは、誰かとかわされた、拙い約束のようで。
うつむいた御嶽が口をあける
「……小学校のとき、俺にはあまり友達がいなかった。あまりっつーか、もうゼロみたいな感じ。いたとしても知り合いレベルにとどまってた」
どうやら御嶽は回想に入ったようだ。崖の上白状シリーズのようなもの。
「そんなとき、一人の男が俺と仲良くなったんだ。そいつは、俺と同じで野球やってて、チームでも一緒にプレーするようになったんだけど」
御嶽はそこで言葉を区切る。ため息をひとつ吐いて、意を決したようにもう一度話し出す。
「夏の暑い日だった。いまでも忘れない。練習中に……たしかベースランニングかなんかだったんだけど、練習中に、あいつが突然倒れて」
一瞬だった。と御嶽は言う。
「救急車が呼ばれて、みんな訳もわからずとりあえず大騒ぎして、俺も一緒に叫んだ。そいつが救急車の中に入るのを、俺はただ見ることしかできなくて、それが悔しくて」
いつのまにか声には嗚咽が混じっていた。
さっきまでの高圧的な態度とは打って変わって、弱音を吐き続ける御嶽。
「……あとから聞いた話なんだけど、あいつは脳梗塞だった。生まれつき脳の血管が細かったらしくて、いつそうなってもおかしくないって言われてたらしいんだけど……」
御嶽は目を潤ませながら、天井を見上げる。
「すぐには死ぬってことじゃなかったから、入院することになったあいつに一度会いにいったんだ。そこで、あいつはもうほとんど動かせなくなった左手をかばいながら、この文字を書いたんだよ」
――甲子園で会おうな
「それは、もう多分一緒にはプレーできないって、子供ながらに悟った感じの言葉だった。わざわざ『会おうな』って書いてあるから、もう一緒に、同じグラウンドには立てないんだってことを薄々察していたのかもしれない」
甲子園で『会おうな』。それは、甲子園に『行こうな』とは、また違う約束。
「それをもらった二日後に、あいつは…………」
もう、止めどなく流れる涙をおさえきれなくなってしまった御嶽は、両腕でそれをぬぐう。
それでも、あとからあとからあふれでてくるのを、止められはしなかった。
「だから、もう甲子園であいつには会えない。満身創痍で夢を抱いたはずのあいつにはもう会えない……」
そこまで言って、御嶽は崩れ落ちた。
親友を亡くした御嶽の、親友と交わしたひとつの約束。
それが実ることは、もうない。
それが、御嶽が甲子園を目指さない、真の理由。
約束を果たせなかったことを、悔しがっているのか。
あるいは、それから逃げているのか。
部室の床に這いつくばっている御嶽は、最後の疑問を叫喚する。
「……なんで……なんでこんな約束したんだよ…………!」
それは、亡き友への、最後の疑問。
果たされることのない、その約束を交わした理由。
重くなってしまった空気を、最初にぶち破ったのは五ノ神だった。
「人は自分の死期を察することができるらしいわ」
今まで黙って御嶽の話を聞いていた五ノ神が、ついに口を開く。
「彼は、あなただからこそその約束をしたんだと思うわ」
「…………それは、どういう…………?」
五ノ神は地面に伏す御嶽の肩に手をおく。
連続した金属音。もう外ではノックまで始まっているようだ。時間で言うと三十分は経過した模様。大遅刻だ。
「あなたの唯一無二の親友……それは、相手も同じこと。彼は、あなただからこそ、そのボールを渡した」
「…………どうして、俺に…………?」
「もう、理解が悪いわね……」
五ノ神は一瞬めんどくさく感じたようだったが、すぐにそんな表情を引っ込める。
そして、おもむろに。
「あなたが、野球を好きだったから」
「…………っ」
御嶽は落とした視線を五ノ神に向ける。
「俺が……野球が好きだったから……」
野球が好き。というセリフを頭で反芻する。
一人の高校球児として。一人の野球少年として。野球というスポーツを愛すること。
その気持ちは、他のどの選手とも変わらない。
そして、それは、亡くなった彼の親友も同じで。
「だから」
髪を再びかきあげ、そう言った五ノ神は手にしたサインボールを御嶽に返し、立ち上がる。
外からは生徒の威勢のいい掛け声が飛んでくる。
それはさながら、俺たちを招いているようで。
そんな音が三人の間を駆け抜ける。
「だから――甲子園を目指さないなんて言わないで」
いつも泰然としている五ノ神も、今回ばかりはすこし脆くなってしまったようだ。
それゆえ、これは説得というより、むしろ泣き落としのようで。
それでも、それは、今の御嶽には十分すぎる効果があったようだ。
立ち上がった御嶽は返されたサインボールを眺めたあと、強く握りしめる。
その右手には、並々ならぬ決意が溢れていた。
御嶽はそのボールを胸元に持っていくと、上を向いて叫ぶ。
まるで、天にいる親友に誓うように。
「待ってろよ……絶対甲子園いってやるからな‼」
それは、高校野球に、また一人の雄が爆誕した瞬間だった。
8
「ところで」
御嶽の泣き落とし寸劇が終了したところで、俺はとりあえず、この数分溜め込んでいた質問をする。
「何時だと思ってる?」
「え?」
俺のこの発言で、自らの世界から現実に引き戻された御嶽は、表情を泣き顔から一気に蒼白にする。
「えっ、ちょ待てよ」
見るからにあわてている御嶽。
ちょ待てよというセリフは某検事のかっちょいいセリフなのだが、この状況下ではあまり効力を発揮できていない。ていうか待てない。
部室に時計は二つあるが、どちらも止まってしまっている。直せよなあれ。
「今何時?」
こらえきれずに御嶽が訊ねる。
「そうねだいたいね」
「今何時?」
「まだはやい」
「勝手に○ンドバッド持ち出さないで⁉」
悠然としすぎだろ。俺らは普通にピンチだっつーの。
「それはよくわからないツッコミだわ」
「どういうことだよ」
「それはつまり、『勝手にシン○バッド』を持ち出さないで、ということなのか、『勝手に、シンド○ッド』を持ち出さないでということなのかということよ」
「あのー、今ね、そんなこと議論する暇はないのよ」
理由なしに遅刻するとすんげー怒られるのよ。天地がひっくり返ったかのような、ね。そんなことねぇな。
「実のところ、十六時半ちょい前ってとこね」
「手遅れじゃねーか!」
「羽村、もうコントなんてしてる場合じゃないから。行くぞ」
「お、おう」
小一時間前に言い合いをした相手は、今では面と向かって俺に話しかけてくれている。
こうなったのも、この場になぜかいらっしゃった五ノ神のおかげなのかもしれない。だとしたら崇めておこう。五ノ神神さまだ。五ノ神神ってすげぇ高貴っぽいな。
しかしこんなことを考えている間も時間は進んでいるわけで。
仕方ないので御嶽に付いてグラウンドに走ることにする。
一時間の遅刻なんて初めてだ。どれだけ怒られるかもわからない。未知数。
俺に至っては勝手にサボっていたまである。
御嶽とならんで走ることがとても不思議なように思える。
新緑の木の下を駆け抜けると、いつもの通りメンバーが、いつも通り野球をしていた。
そんな世界が、やっぱり心地よくて。
ちらほらセミが鳴き始めている。
それは、夏の始まりを告げていて。
群青色の夏空は、二つの影を拒まない。
いつも通り、監督が檄を飛ばしているグラウンドに、どちらからともなく飛び込んで。
そして怒られた。グラウンド二十周だそうです。
御嶽と共にグラウンドを二十周走り終えた頃には、練習も終わりを迎えてしまった。えー何それ。俺も野球したかった。
「お疲れ」
解散になって、それぞれ部室をあとにしていくなか、部室の外で声をかけてきたのはマネージャーの拝島だった。
今日一日はバカみたいに走らされたため、完全にあいつらと別メニューになってしまったから、拝島と部活で会うのはこれが最初だった。
「なんかやけに遅刻してきたね」
「まあな。いろいろあってさ」
「その『いろいろ』っていうのが、さっきまで御嶽くんと走ってた原因?」
「ああまあそう」
「曖昧な返事だね」
「そうか?」
「そうだよ。なんか隠してる?」
鋭いな。
「別に隠してるわけじゃないんだけど」
「そう?」
「そうそう。ていうか何飲んでんの?」
「ん? これはレモンティーだけど。見りゃわかるでしょ普通」
「おう、そういえばそうだな」
「え、言語回路がぶっ壊れてない?」
「ほっとけ」
「ほっとけないっての」
拝島は手にしたレモンティーをわずかに口にする。そんなちびちび飲むなら五百ミリリットルじゃなくて小さいのにすりゃよかっただろとかそういう細かいことはおいておこう。
「話題をそらそうとしていますな?」
「何でわかった」
「だから言語回路がおかしいって」
「よくわからんな」
「ねぇ、疲れてる? 休む?」
「もう何週間も休んだわ」
「あっ、そっか」
拝島は素で忘れていたらしい。
それだけ、野球部にいる羽村という存在が違和感なくあるということなんだろう。多分、そういうことだ。
「御嶽くんと、仲直りしたの?」
「さあな」
「『さあな』って……御嶽くんが原因で幽霊になっちゃったんじゃないの?」
「ああ…………知ってたんだ」
「知ってるよ。だって私、マネージャーだから」
「そうかよ」
初日に、選手一人一人のマネジメントまで要求されていた拝島は、与えられた仕事をこなしているようだ。普通に。
「頑張ってるな、お前」
「サボり魔に言われたくないですー」
「うるせぇ」
拝島は一度口を尖らせたが、すぐにいつもの笑顔に戻って、
「頑張ってるのは、羽村くんじゃん」
と。
手にしていたレモンティーはすでに飲み干され、空いたボトルは所在なさげに地面に置かれている。
「私、実はなんでも知ってたりするよ?」
「は?」
「だから、サボりだす前、羽村くんと御嶽くんの間にだいぶ確執があったってのは知ってるってこと」
「確執は言い過ぎだろ」
遺産相続とかじゃあるまいし。
「でも、何があったかは訊かないよ。酷かもしれないからね」
「……別にいいよ」
野球部のマネージャーという立場の拝島は、今の部員の状況を知っているべきだと思う。
俺はとりあえず、御嶽の一言を聞いてしまったこと、それによって幽霊を決め込んでしまったことを話した。包み隠さず、分け隔てなく。
そして、ひととおり語り終えたところで、ついにさっきの……五ノ神が現れる前まで話は進んだ。
一瞬、言葉に詰まる。
五ノ神が入って来たと言う事実を、どう説明すべきか。話し方によって毒にも薬にもなる気がして怖い。
「どうかした?」
不自然に黙ってしまった俺を気遣ってか、拝島は俺の顔をのぞき込むようにしている。
それが、まだ見ぬ俺の内面――真実――を抜かれているようで。
自らの体は像としてしか捉えられない。というのはよく言われることだ。自分が自分の体で見られるのは一部で、背中や顔などは鏡を通さなければ絶対的に見られない。
鏡を通して捉える自分の姿は自分の像。
つまり、事実であり、真実ではない。
だから、自分は自分を本当には知らない。
そのぶん、自分は他人を見るとき、「客観的」というフィルターを通して、他人の全体を見ることができる。
拝島は、そのフィルターを通して俺を見ている。俺の全体を、真実を見ている。
そんな気がする。
だから、包み隠さず話さなければならないわけで。
ていうか、今自分は見られないとか悟ってるけど、結局は五ノ神が来たことを説明すんのがめんどいってだけなんだよね。あしからず。
「実はさ、さっき五ノ神が来て」
「え、あの人が? なんで?」
「俺が知りたい」
「羽村くんが呼んだとかではなく?」
「なんで俺がわざわざあいつを呼ぶんだよ」
「自信なかったとか?」
「自信なかったら尚更呼ばんわ」
なよなよしたとこ見られたくない。一生あいつの酒の肴になりそう。それは頑として避けたい。
この部室は敷地内でもかなりへんぴな、校内でも存在を知らない人がいたりするいわば秘境のようなところにある。
そのせいで、校門まで歩くのに細い道を歩くことになる。
必然的に二人の距離は近づいて。
「御嶽くんとは仲直りしたの?」
「そうだなー、その部類には入れたと思う」
「何その遠回しな言い方」
ふふっ、と微笑を漏らす拝島。
人二人がギリギリならんで歩ける程度の幅しかない道なので、どうにも相手の息づかいとかが聞こえてきて妙なテンションになっている。焦るな俺。
「グラウンドを並走する二人を見てたら、相当仲良くなったんだなーって。ほら、羽村くんって一匹狼なとこあるでしょ?」
「よく見てるな」
「マネージャーですから」
皐月の空はまだ明るい。冬から日が延びている。
「でも、なんで五ノ神さん来たんだろうね」
「さあな、俺も知りたいよそれ」
「知りたい?」
唐突に別の声が聞こえて、そちらを向く。
そこにいたのは、今日さんざんお世話になった方だった。
「五ノ神……さん」
先に声を発したのは拝島。そういえば五ノ神と拝島が面と向かって会話するのはこれがはじめてな気がする。
いや待て、確か一回だけ顔を合わせたことはあるな。ただあの時は二人で会話したということはなかったような。記憶力チェックじゃねぇか。
「五ノ神、部活あったの?」
「今日文芸部は活動日よ」
「それじゃなんでこっちきたの?」
「暇潰しよ」
エキサイティングな暇潰しだな。
「あの……何があったかよく知らないんですけど……」
怪訝そうに拝島が訊く。
「ごめんなさい。いつも通り彼と漫才を始めるところだったわ」
「自覚あったのね」
俺は面白くないけどな。
「えっと…………五ノ神さんと羽村くんってそんな仲良かったっけ」
「そうよ。もうそれはそれは、さながら夫婦漫才のよう」
「いつ夫婦になったの⁉」
絶対に嫌だよ?
「夫婦……漫才……」
「ん、どうした?」
突然顔を紅潮させてこちらを見る拝島。五ノ神と俺の間に視線を泳がす。
「そういう…………あぁー…………」
「え? え?」
なにを自己完結しているの? 内容によっちゃ審議っすよ?
「あのー、拝島さん、何か勘違いをしているようだけれど、私たち、全然そんなんではないわ。夫婦ってのはひとつのジョークよ。五ノ神式ジョーク」
「でも、息もぴったしだし……ほんとにそういうのないんですか?」
「そういうのって?」
「いや、つ……付き合ってるとか……」
「「ない」」
「お、おぉう……」
何かに気圧されたように拝島はうめくと、
「仲は良いんですね……」
とつぶやいた。仲の良さってわからない。
「と、とりあえず歩かない?」
もうすぐ下校時刻だし。敷地内で出会ってから動かずにとどまっていたままっていうのもなんだし。
二人は素直に歩き出す。五ノ神は俺の左、拝島は俺の右。
…………そこそこの美女を両サイドにはべらせてるようで、テンションが上がらないと言えば嘘になる。
「今日、なんで部室来てたんですか?」
早速、拝島が一番の疑問を口にする。ほんとそれ。
問われた五ノ神は、特に悪びれもせず、淡々と答える。
「羽村くんが心配だったからよ」
「何が?」
三人で横並びになって歩く。
「…………羽村くんって、ピンチに弱いでしょ?」
「そうですね」
「即答かよ」
拝島は間髪入れずにうなずいた。彼女も認めるピンチへの弱さだったらしい。地味にショック。
「だから、今度もまたダメだったら…………さすがに今度こそ戻れなくなっちゃうかと思って」
「五ノ神……」
「だから、羽村くんのカバンにちょっとした細工をして監視しておいたの」
「細工⁉」
初耳学ー。
「え、ちょっちょっ、何したのさ」
「ちょっと…………それは言えないわ」
「え? なして?」
「ちょっと、ローにタッチするかもしれないから」
「ルー○柴か!」
「何、どうしたのよ藪からスティックに大声だして」
「だからル○大柴か!」
連投してくるとは思わなかった。
「な、何を入れたんですか?」
若干怯えた感じの拝島が問う。
「盗聴器よ」
「盗聴器⁉」
え、ほんとに法に触れるじゃん。なにそれ怖い。
「それで会話を聴いていたら、なんということでしょう、対ピンチFの羽村くんが本当にピンチに弱かったではありませんか」
「ムカつく言い方だな」
リフォーム番組かよ。
「それで、駆けつけたってわけ」
「五ノ神…………」
こいつ以外といいやつだったんだな……盗聴してまで俺を助けようとしてくれ…………いやいや危ない。五ノ神の口車にのせられていい感じにまとめられそうになってしまった。詐欺師ってこんな感じなのかな。
「五ノ神さん…………」
拝島もひどく驚いたようで、ただそう呟くしかできなかったようだ。
と思っていたけど。
どうやら拝島は驚いてなかったようだ。
その目線は、むしろ懐疑的で。
そして、こんな言葉を放った。
「――嘘ですよね」
「え?」
どゆこと? 嘘? 嘘って?
「私、知ってます」
拝島は歩道の車道から遠い方を歩いていたが、不意に立ち止まると、話し出す。
それは、俺の知らない、拝島が知っている、五ノ神についての、事実であり、真実。
「五ノ神さんが羽村くんの三メートルくらい後ろを歩いていたこと。五ノ神さんが部室のドアから中をうかがっていたこと。五ノ神さんが部室の中の会話を立ち聞きしていたこと。五ノ神さんが頃合いを計りきって部室に入ったこと」
「……」
「五ノ神さん……あなたは、別に盗聴とかしてるわけでも、そのあと駆けつけてきたわけでもない……最初からもう部室の前に張り込んでた…………そうですよね?」
拝島の発言は、五ノ神が俺を純粋に心配して、純粋に助けようとして、部室に来たということ。
それはつまり、五ノ神が俺に、ちょっとかっこつけたということ。
「そうなのか?」
俺が五ノ神にできることはせいぜい事実確認くらい。
それでも、そこから得られる答えは、事実だけではない。
五ノ神の、真実。
そして、その答えは。
「そうね…………だいたいね」
「ここに来てまた勝手にシンドバッ○かよ」
「違うわ、大体あってるってこと」
渾身のツッコミは空振りに終わったが、出塁はできたらしい。
夕闇のなか、自動販売機の光だけが、人工的な明かりで周囲を青白くしている。
「どうして、そんな嘘を?」
「…………恥ずかしくて」
「え?」
「…………ほんとに羽村くんがただ心配だからなんて、なんか恥ずかしくて」
謎のタイミングで五ノ神の自供が始まった。
「昔っからピンチには弱くて、いつも私はハラハラして見てるだけしかできなくて。野球でも、それ以外も、いっつもピンチになると弱かった羽村くんを、今なら見てるだけじゃなくて、本当に助けられると思って――」
普段交通量の多いこの道も、いまばかりは完全に空いていて、そういうノイズは耳に入ってこない。
「でも、いざとなると、どうしていいかわからなくて。それで、人数が減ったところで突入したのがさっきの出来事」
語られたのは、五ノ神の内面。意外と、予想外に脆い、その内面。
ダイヤモンドのような堅さだった五ノ神の存在が、俺の中で一気に叩き割れて、あるあたりまえのことに気づく。
五ノ神も、一人の人間だ、って。
心のある、一人の人間だ、って。
だから俺は、こう返すことにする。
それは、今度は俺の、素直な気持ち。
「――恥ずかしく、ねぇよ」
「えっ?」
「全然恥ずかしがることねぇよ。確かに俺は御嶽に論破されるかと思ったし、実際もう負けてたよ。俺も県立じゃ無理だって思っちゃったよ。でも」
横にいる拝島をちらっと横目で見る。また俺と五ノ神で話し出したことに何か思うことがあるかもしれないと思ってのチラ見だった。
そして五ノ神に向き直る。
「どうしても甲子園につれていきたい人がいるんでね」
それは、紛れもない本心。
だからこそ、五ノ神に響いてくれると信じて。
「お前が入ってきたとき、それを再認識したよ」
「…………そう」
「適当にうなずいてるのか?」
「そんなわけない」
道路に並走する電車の走行音をBGMがわりに、そこまで言うと五ノ神は歩き出した。
つられて、俺と拝島がくっついて歩く。並び方はさっきと一緒。
「羽村くんところでさ」
「ん?」
さっきまで五ノ神に詰問していた拝島が久々に喋った。忘れてないです。
「羽村くんの言ってる『甲子園につれていきたい人』って誰なの?」
「それはもちろん――」
ん? 拝島の前で五ノ神って答えていいのだろうか? いや別にこの程度のこと気にするやつではないとは思うけど、一応、ね。めんどくさいこと嫌いだし、さっきも俺たちが付き合ってるみたいなこと言ってたから気にしてるのかね。
とか考えているから。
「それはもちろん私のことよ」
「え、私じゃないの?」
目の前の戦争に気づかなかった。
「私よ。幼馴染みだって言ってるでしょ。小学校のとき約束したのよ」
「いや、私ですよ」
「あなただって言う根拠は?」
あ、それ俺も知りたい。
「私、屋上で言われましたし」
「え?」
「私が教室で色々あったとき屋上で羽村くんに言われましたよ。二人きりで。『甲子園につれといかなきゃいけない人がいる』って」
「羽村くん、屋上で二人きりって?」
「いや、その……」
「五ノ神さん、私大丈夫です。ちょっと怖いかなとも思ったけど、優しくしてくれましたし」
「拝島?」
「ああゆうの初めてだったんで、緊張しちゃったけど、なんとか」
「拝島」
「そう…………屋上で二人きりで…………そんなことを…………」
「誤解がひどいよね!」
「でも私だって、羽村くんが間違って大きくて硬いもの私のところに入れるからイったのよ?」
「サインボー持って部室に行っただけだろ⁉」
「てか羽村くん、私のこと『野球部のマネージャー』としてしか見てないよね」
突然の話題転換。
「そ、そんなことないよ? 同級生としてとか、友達、とか?」
「――女の子としては?」
「へ?」
「私のこと、女の子としてはどう思う?」
「え、いやー、そのー……」
「どう思うのっ?」
「え、だから……」
「えいっ」
「のうわっ⁉」
いきなり拝島が俺の右腕に飛び込んで、そのまま腕に抱きつく格好となった。
「どう?」
「どうって……」
女性特有のやわらかい感触が右腕に押し付けられていますね。ほんとデカいな。
「女の子として、どう?」
もう女の子としてしか見れないっつの。谷間見えてるし。
「拝島さん、なんだか知らないけどふしだらな行動を見せつけないでくれるかしら」
「そ、そうだよ拝島」
「拝島さんだけずるいわ、私も」
「五ノ神さん!?」
五ノ神も、俺の左腕に飛び込んできた。女性特有のものは特には感じない。うーん、三点。
「どう?」
いま右腕に全神経集中させてるんだ黙れ。
「羽村くん」
「どうした拝島」
「私…………今日パンツは白だよ?」
「ぐっ!」
あぶねぇガチで妄想するところだった……拝島のスカートの中とかこうなるとものすごい気になる。
「羽村くん」
「なんだよ貧乳」
「今日私、ブラジャーは白よ」
「つける意味がないよね?」
ものすごく要らねぇよそのカミングアウト。要らなすぎて率直な感想が出たわ。
「羽村くん」
今度は拝島。
「今日はブラジャーつけてません」
「ふぐっ!」
えっ、ノーブラなのこいつ。今日ノーブラなの?
てことはこの右腕に押さえつけられてるものとは、布三枚くらいくらいしか隔てられてないってことなの?
マジかー、生きててよかったー。
「まあ、嘘なんだけどね」
「嘘かよ!」
ちょっと期待した俺を殴ってくれ。
「羽村くん」
「なんだ絶壁」
「今日私ノーブラなの」
「そうか」
「まあ、嘘なんだけどね」
「そうか」
「私のときだけ反応が目立って薄いのはなぜかしらね」
「自分の胸に手を当てて考えろ」
どこにあるかわかんねぇけどな。
「で、甲子園につれていきたい人って結局誰?」
「おぉう、戻すのね話」
できれば戻さないでほしかったね。
「そうだな……甲子園本当に行けたら分かるんじゃね?」
「何それ」
拝島は口を尖らせてそういったが、また前を向いて歩き出した。
「絶対、連れてってね」
「おぅ、任せとけ」
って、どういうわけかかっこつけたセリフを吐いて、改札を抜けた。
ホームに上がると、すぐに南北方面の電車が共に入る。
それは、それなりのスピードで突っ込んできて、周囲の空気を押し流す。
それは、無防備にも携帯をいじっていた拝島に吹きつけて。
ノーブラではなかったようですが、白っていうのは嘘じゃなかったみたいです。
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