第四話 チェンジアップ 

 1


 五月五日、こどもの日。明日が日曜日なのでまだ精神的にはゆとりがあるが、三日目となり終わりも見えてきたゴールデンウィークの川崎駅に俺はいた。Uターンラッシュが始まった話は聞かないが、さすがは大都会。ひとたび電車が到着すれば、たちまちものすごい人だかりが改札口を呑み込み、カオスな状況を作り出している。黒山の人だかりとはまさにこのことじゃないだろうか。

 まあ、俺が休日返上してまでここにいるのは、なにもこの人込みを見に来たわけじゃない。むしろ嫌いだし。行列のできるラーメン屋とかなんだよ。牛丼でいいわ。

 川崎駅の唯一といってもいい待ち合わせスポットであるこの時計台。無駄にデカいフォルムをしているが、逆にそれが目印となって、この駅での待ち合わせはここを使う人が多い。ハチ公みたいなものだ。だから休日は図らずもうっとうしいくらいの人が集まる。

 ポケットに突っ込んであった携帯を無造作に取り出す。約束の時間まではまだ二十分くらいある。てかなんで俺携帯で確認したんだろ。ここ時計台だろ。

 家から歩いてこられる俺と違い、拝島は十分ほど電車に乗ってくる。五分に一度くらいの間隔で到着する電車の到着時刻を改札の奥の電光掲示板で確認する。ただ単に十二時集合としか言ってないし、遅刻してくるタイプなのか、そうでないのかもわからない。なんせこの前会ったばっかだし。

 電車の到着に合わせ、改札からまたしても大群が現れる。どっかの電車が到着したようだ。酔いそう。

 あと十分ぐらいあるし、暇つぶしに携帯を手に取ったところで、

「ごっめーん、まった?」

と、テンプレートな挨拶を聞いた。後ろにリア充がいるようだ。

「ちょっと無視しないでよ」

 どうやら無視されているらしい。かわいそうに。

「え、ちょ、うそ? マジでやってんの? 自分から誘っといて?」

 あーあー、修羅場ってる。彼氏さん何してるか知らないけどご愁傷さま。

「ちょっと、羽村くん!」

「あ?」

 振り向くと、そこには私服の拝島が立っていた。

 そうか、一連の会話は俺に向けられたものだったのか。衝撃。今知った。

「いや、全然待ってないよ。今来たとこ」

「もう遅いよ‼」

 なんだと、目には目を、歯には歯を、テンプレートにはテンプレートを、だろ。これ復讐とかそういう系統のやつじゃなかったっけ。怖すぎるだろ。

「んじゃー行くか」

「ねぇ、しかとしたのどこまでが素なの? え? ネタなの?」

 もちろん素である。声かけられるとか俺史上初。

「四百円くらいしかかかんないけど、金入ってるよな?」

「……入ってるけど」

「それはよかった」

 延々と改札を抜けてくる人込みをかき分けるようにして進みながら、駅に入る。後ろに拝島がついてきてるのを確認してホームに降りる。洋服とか興味ないからよくわからないが、ノースリーブに薄いカーディガンを羽織り、白は黒ニーハイにミニスカートという拝島は、普段の制服姿の拝島とはまた一つ違った風貌で、普通にかわいい。特にノースリーブのあたりがグッド。本気出した太陽に感謝。ここはひとつ二礼二拍手一礼。太陽パイセンマジ神。

 ちょうどいいタイミングでホームに滑り込んだ電車に二人で乗り込む。

「お誘い……ありがとね。私、野球ってお父さんが見てるから嫌いじゃないんだけど、ルールとかいまいちわかんなくて」

「いや……こっちこそ急な誘いに乗ってくれてありがたいよ。親父が急に出張入ったから」

「お父さんと見に行く予定だったの?」

「まぁ、な。ほら、反対を押し切ってきたってわけじゃないけど、高校生のくせに一人暮らしするっていうのを強引に許してもらったからさ、共通の趣味って言ったら野球くらいしかないし」

「そうなんだ……」

「まぁ、それでも頻繁にメールはくれるし、はっきし嫌われたわけではないんだろうなとは思ってるけど。勝手に」

「メールといえばさ、私、羽村くんの連絡先しらないんだけど」

「あ、そうそれ」

「今日よく会えたよねー、適当に合わせた感じの約束だったのに」

「な」

 はい、これ。と差し出されたのが拝島のLINEのQRコードだったので、俺も起動して取得する。

 メールを送ったところ普通に既読がついたので、拝島のであってるんだろう。

 俺自身初の女子とLINEである。宴じゃ宴じゃ!

 そのあとは先生の愚痴やら数学わかんないやら他愛もない話をして、互いに話すネタもなくなった後は窓の外を眺めながら適当に時間をつぶした。


 2


 東京駅に着くと、一番線を目指して歩く。中央線で御茶ノ水駅へ行った後、総武線に乗り換えて最寄り駅の水道橋へ向かう。乗り換えの間、拝島は迷った様子もなくただ後ろをついてきた。俺の存在感があったのだろうか。こういうのを自意識過剰という。

 ここまでくると、巨人ファンの姿は多い。

 十二球団でも有数のファン数を誇る球団なので、休日ともなれば五万人もの定員が満席になることがしばしばある。もはや一つの都市。

「すごい人だね」

「だろ? 呑み込まれるなよ」

 駅とかの雑多な人込みは嫌いだが、同志の集まりであるこの人込みは別に嫌いではない。波に流されないよう、拝島の手をつかむ。

 拝島は戸惑ったような表情を浮かべたが、ちゃんとついてきている。

「一塁側の…………ここだ」

「すごい、こんなに人が集まるんだ」

 顔をきょろきょろさせながら拝島が感嘆する。

「そうだろ? あんな上のほうに席を作った人がすごいと思うくらいびっしりシートがあって、それが埋まっちゃうんだから、野球ってスポーツまだまだ捨てたもんじゃないぜ」

「野球のことだと饒舌だね」

「いいだろ別に」

 試合まで残り十分。マウンドでは恒例の小学生の始球式が行われている。

「小学生でも、野球選手とキャッチボールできたらうれしいだろうね」

「そうだなー。あいつらにとっては夢だからな」

「夢、か……。トイレ行っていい?」

「ん、えーっと、出て左」

「うん、さっきめっちゃ人ならんでたから大体わかった」

「そうか」

 オーロラビジョンに百キロの表示。今日のピッチャー役の子は相当すごい子なんだろう。素質しかない。

 試合開始まで残り二分くらいとなって、拝島が戻ってきた。

「なんか楽しくなってきちゃったよ。雰囲気にのまれた」

「それはよかったな」

「何事も楽しむのが一番だね」

「もちろん! せっかく見に来たんだ、勝ちゲームが見られるといいな」

 と、試合前ならではの緊張感に浸っていると、ライトスタンドからの応援が一層強くなった。

 試合開始である。


 試合は相手ペースで進んだ。初回に先制し、続く二回にも追加点を挙げ、七回まで三―四となっていた。

 拝島は得点が入った時はもちろん、ヒットが出た時にも身を乗り出していたり、アウトになった時は周りのファン同様ため息を漏らした。

 テレビで見ている時とはまた違う迫力に押されているのかもしれないが、それより拝島が野球を好きだということがひしひしと伝わってくる。

 そういえば、拝島はなんであんな中途半端な時期にマネージャーとして入部してきたのだろうか。考えたこともなかったが、不思議なことだ。

 試合は八回の表まで進んでいた。

 下では相手チームの攻撃が行われている。一塁側席からとはいえ、マウンドから席までの距離は遠い。

 すでに抑えのエースを起用していた巨人。しかしどうやらその選手が捕まってしまったようだ。現在ノーアウトで一、二塁というピンチに見舞われている。

 ここまで一点差ゲームを演じてきた相手チームも、このチャンスに応援が過熱している。 

 覚悟を決めたのか、セットポジションに入り、勝負の一球。

 変化球に打者の軸がぶれて、打球はぼてぼてのサードゴロ、併殺打。

 さすがプロ野球選手、このピンチを凡打に抑えた。

 拝島も思いつめた表情で見ていたが、打球の行方を確認した後、脱力して席に座る。すごい見入りようだ。

 その後ツーアウト一塁から三振に抑え、攻撃へ向かっていくナインを見ながら、ため息をつく。

 そうか、プロ選手はピンチ抑えるんだ…………いや、抑えてきたからこその抑えのエースってことか。

 じゃあ、俺は?

 

 しかしスコアは動かず、一点差で負けていた巨人は、九回の最後の攻撃に向かった。打順は二番から。好打順だ。

 相手も守護神を起用して勝ちにいっている。せめて先頭打者だけでも出塁してくれれば、多少の突破口が見えてくるはずだ。

 が、先頭打者は直球をひっかけてしまい、サードゴロ。東京ドームの大観衆が同時にため息を漏らす。東京ドームでの巨人戦はほとんどが巨人ファンで埋め尽くされるので、その全員がため息をもらせば、選手にはかなりの精神ダメージがあるだろう。俺だったら泣いてる。

 しかし、続くバッターは四球を選び取り、出塁を果たす。

 重い空気の球場が歓声に包まれ、お祭り状態だ。すげーうるさい。

 そして迎えるのが、巨人の四番である。

 歴代の四番打者に劣らない打撃力で巨人打線をけん引してきた彼の登場に、割れんばかりの声援が送られる。むろん、俺もそのうちの一人だ。

「あっ」

 拝島が何かに気づいたような声を上げる。が、今はそれどころではない。

 そして、二球見送った後の三球目、彼のバットが快音を上げる。

 ライトスタンドに突き刺さっていく打球は、一塁側から見ればそれは本当に半円を描いており、美しいとさえも言えるきれいなホームランだった。

 サヨナラホームランである。

 逆転勝利の喜びを、それぞれがそれぞれの方法で爆発させている。全然知らない人に話しかけられ、ふっと振り返りハイタッチみたいなのをした。さっきからビールばっか飲んでるからか、妙に酒臭い。

 ところで、忘れていたわけではないが拝島の様子を見ると、口をぽかんと開けてつっ立っていた。

「面白かったか?」

「…………」

「どうした?」

 ただ突っ立っていただけだった拝島は、俺のほうに向き合うと、おもむろに口を開けた。

「…………見たことある…………」 

「え?」

「野球……見たことあるよ」

「は? なかったって言ってなかったっけ」

「いや、うん。でも……私、何か覚えてる……気がするよ。お父さんと来たことあるかも」

「そうなのか?」

「そう……前来た時も、こうやって、最終回に突然盛り上がって、私、何があったかわかんなくて、そんな私に、なんか言ってくれた人が……いる」

「そうなのか? お父さんじゃね? 野球好きだったなら、一回くらい連れてきてくれたことあったんじゃね?」

「そうかも」

「んじゃ、そろそろ帰るか。遅くなってもあれだし、駅が混む前に帰ろう」

「……そだね」

 そうだ。試合後は特に人でごった返す水道橋駅。早くいかないと人込みに呑まれることになる。そんなのはいやだ。

 ものすごい風を受ける回転扉を抜けると、大量の人がドームの下にいた。人がゴミのようだとはこういうことだ。あの映画放送しすぎだろ。

 拝島はさっきの会話のときのパッとしない表情が嘘のように楽しそうな笑顔になっている。そうだ。せっかく勝った試合を見られたんだから楽しくいこうぜ。

 日は傾いて夕方。オレンジ色の空がビル群の奥に広がる。

 俺と拝島は人込みの真ん中を歩く。

「ありがとね、今日」

 人込みにのまれないように俺の袖を抑えている拝島が、喧騒の中そういった。

「おう、楽しかったか?」

「うん。いろいろ勉強にもなったしね」

「そうか」

 野球部マネージャーとして駆け出しレベルの拝島は、それなりの仕事ができるようになるために勉強熱心だ。感心。

「じゃあ、早く帰って宿題しなきゃ。数学の」

「え? 宿題なんてあったっけ…………」

「十二ページ」

「あー、完全に忘れてたわ」

「ダメじゃん」

「うるせぇ」

「野球もいいけど、ある程度で折り合いつけて、勉強もしてかないと。野球選手になるわけじゃないし」

 試合の終わった東京ドームからどんどん遠ざかる。

「まだわからんぞお前、これからに期待だろ」

「県立高校入った時点で無理でしょ」

「そんなことないぞ、俺が久々の県立勢の甲子園出場校にしてやるよ」

「そう? じゃあ、私を甲子園に連れてって」

「どっかで聞いたようなセリフだな」

「これ言っとけばどうにかなるんだよ女の子は」

「知らねぇよ」

 いつの間にかすっかり日は落ち、ビルにもちらほら電気がつき始めた。


 拝島と別れて家に帰ると、疲れが押し寄せてきた。フローリングにそのまま倒れこんでテレビをつける。時刻は六時を少し回ったところ。気分的にはもう深夜だが、そういえば晩御飯も食べていない。

 もう今日は冷凍食品でいいや…………と思い、立ち上がろうとしたところで、ひとつの段ボール箱を見つける。ここに引っ越してきてから、「別に後でもいいや」的な感じで放置していた箱だ。さして重要なものもはいっていないので、今すぐどうにかしなければならないものでもないが、この際処理してしまおう。なんか腹も大して減ってないし。

 上から順番にものを出していく。グローブに塗る油、少年野球時代の写真、なんかのCDなど、確かに今すぐ必要なものはいっていなかったが、とりあえず出してしまったのでそれぞれ適当なところに配置。部屋をさらに狭くする。

 冷凍庫から冷凍ギョーザを取り出し、炊いてあった白飯とともに食べる。

 カウンターの上に何も置かないのが我が家の主流だったが、写真とか飾ってみると割と映えるな。新発見だ。これからもそうしていこう。


 3


 五月七日、ゴールデンウィークという高校生活最初の連休がおわって、みんなそれぞれ重い足を引きずって登校してきた。一週間ずっと日曜ならいいのに。あーでもそれだと経済止まるか。じゃあ休日出勤してもらいばいい。給料も高いし。あーでも今度それが標準の値段になるのかー。とかなんとか考えていると、一限が終わっていた。はい。寝ました。

 ぼへーっと外を眺めていたところ、ここ数日聞かなかった声が耳に届いた。

「なんか用か、五ノ神」

 この一週間弱顔を合わせていなかったが、どう過ごしたのだろうか。友達とかいなさそうだし。できなさそうといったほうが正しいか。

「羽村くん、さっきは完全に寝落ちしていたけど、疲れていたの?」

「いや、特には……」

「どこか遊びにでも行ったの? リア充ね」

「まだなんも言ってないだろ」

「どうせどっかいったんでしょ、リア充みたいに」

「……まぁちょっと」

「そう、まぁこれ以上問いただす気は特にはないわ。リア充さん」

 嫌味っぽく言いながら、五ノ神は指を髪に通す。

「なぁお前リア充嫌いなのか? 根に持ってるのか?」

「別に。路上で二人乗りしてる自転車は警官と鉢合わせして補導されればいいのにとか、カラオケ行こうとか言ってる連中はどこ行っても満席で喫茶店にでも逃げろと思うだけよ」

「ものすんごい根に持ってるよなそれ‼」

「信じるか信じないかはあなた次第よ」

「百%信じるね」

「……勝手にしなさい」

「ねぇなんでお前が怒り気味なの? 俺悪くないよね?」

「さぁね」

 と五ノ神が発したところで、教室のドアが開く。現在三限と四限の間。早弁は禁止されているのにしていたやつらが弁当を隠す。いやいや手遅れだから。箸出ちゃってるし。

「おとといはありがとねー」

 そんなドアから、元気な拝島が飛び込んできた。

「おう。あのあとちゃんと帰れたか?」

「何歳だと思ってんの? 高校生になったんだけど」

「それもそうだな」

「てか羽村くんが親みたいなの嫌なんだけど」

「知らねぇよ」

「ちょ、ちょちょ、ちょと待って」

「少し前のネタか?」

「違うわ、素よ。あなたたち、おとといなんかあったの?」

「ああ? 別にいいだろ」

「よくないわ。あのあとって、『あのあと』ってなんのあとよ。てかちゃんと帰れたかって、そんなに夜遅く……まさか」

「ちがうちがう! 絶対に違う!」

「何が違うのよ」

「野球見に行ったの! 東京ドーム」

「そんな夜遅くに会ってたなんて」

「デイゲームだったから! 二時試合開始‼」

「そ、そう。わかったわ。不純だったのかと思ったわ」

「お前が思い込んだだけだろ」

「そうかもしれないわね」

「羽村くん、この人だれ?」

 完全に二人きりで会話してしまっていたために疎外されていた拝島が、いたたまれなくなったように訊いてくる。

「ん? ああ、これは五ノ神っていう」

「羽村くんの幼馴染よ」

「またそれかよ」

「だってそうだし」

「根拠ないじゃん」

「まぁ、私は引っ越したから、羽村くんは覚えてないのね。そういうことにしてあげるわ」

「なんで俺が許された側なんだろうか」

「あの……お二人って……仲いいんですね」

「「よくない」」

「お、おおう」

 拝島はうめき声をあげて帰って行った。女の子が上げる声じゃない。てか何しに来たんだろうか拝島。あとドア閉めといてほしい。クーラー入ってるし。

 五ノ神と仲がいいなんて誤解にもほどがあるだろ。殴られるか殴られないかの瀬戸際なんだぞ。実際殴られたことはないけど。


 今日も六限まで授業を受けた。途中数学の時だけガチで眠くなったが、何とか乗り切っている。

 練習試合の後、部活としては二連休があり、その後では初めての活動である。

 グラウンドを端から端まで歩いたところにある部室に着くと、そこにはすでに十人ほどが集まっていた。うちのクラスのホームルームはほかのクラスと比べてちょっと長めなのだ。明日の予定とか明日になってから言えばいいと思う。

 明白な実力世界になった野球部に、Bチーム内ではすでに緊張感が出てきている。入部一か月足らずで早くも部員との明らかな「差」に悩まされることになるとは思わなかったのは俺だけでなく、ほかのメンバーも同じようだった。

 まぁ、この前の試合の惨状を見れば、Bチームからベンチに入るメンバーはほとんどいないと思っている。完全試合だったし。

 緑葉が目立ち始めた桜並木が部室の窓から見える。

 適当にカバンを置くと、そそくさと着替え始める。

 普段は部員の話し声で多少うるさめの部室が、今日は水を打ったように静かだ。異様な緊張感みたいのが漂っている。

 着替えも終了し、グラウンドに降りると、監督はまだ来ていなかったものの、部員たちはグラウンド整備を始めていた。

 アップとなるランニングとキャッチボールを終えたタイミングで監督が入ってきた。

 監督は今日の練習が実戦形式の練習であることを伝えると、すぐさま去っていった。今日も向こうの練習に向かったのだろうか。

 内野までしか取れないグラウンドが、今日は顧問がいないというサッカー部の休みのおかげで、野球部が占領できている。

 先輩を含めてBチーム総勢三十人余りを二チームに分け、部活の終了時刻までの実戦練習が始まった。

 相手チームは先輩がピッチャーをやっている。いうほど投手能力は高くない。

 一年はほとんど試合に出られないのがこの練習なのだが、ピッチャーのもう一人の先輩が来なかったので、今日は俺がピッチャーをやることになるだろう。たぶん。

 初回の相手の攻撃を終え、マウンドに向かおうとしたところで、後方で声がした。

「先輩、今日ピッチャーいないんなら俺にやらせてください」

「おう、いいぞ」

「ありがとうございます」

 と。

 ピッチャーの先輩がいないのは事実だし、正直断りもなしにピッチャーをやろうとした俺も俺なのだが、それにしても、この人からピッチャーをやるという宣言を聞くことになるとは思わなかった。

「御嶽……お前、ピッチャーできたのか?」

 声の主は、この前センターをしていた御嶽であった。

 状況をうまく呑み込めない俺がいたたまれなくなって問うと、さも当然であるかのように御嶽は振り返って答えた。

「俺、ピッチャーできたし」

「え?」

「だから、ピッチャーできるっての」

 御嶽はグローブをはめなおし、帽子も深くかぶりなおして答える。

 ここで、俺はいまひとつ引っかかっているポイントを見つけ出し、一つ問うことにする。

「この前、なんで『ピッチャーいるか』って訊かれて答えなかったんだよ」

 それは、この前の練習試合――結果的に俺が敗因である――あの試合の前、監督がチームのポジション分けをするときに行った質問のことだ。あの時投手宣言をしたのはまちがいなく俺だけだったはずだ。

「高校にもなったし、そのころはAチームなんて知らなかったしよ。県立とはいえベスト八の強豪であることには間違いないし、どうしたってすごいピッチャーはいるんだと思ってた。名も知れぬ中学で二番手ピッチャーやってた俺は必要とされないと思ってた。したら」

 バックネットを凝視したまま、言葉だけ俺に投げてくる。言葉のキャッチボールとはよく言ったものだ。野球部のキャッチボールは優に百キロに到達する。

「ピンチの一つも抑えられないほどやわな奴だったとはな。あんな自信満々に手を挙げてたやつがよ。笑わせんな」

 ――満塁でワイルドピッチとかする奴だったのかよ。

 彼はそういうと、一人マウンドに上がった。ほかより多少盛り上がった地形のマウンドに登った彼は、センターを守っていた時よりも少し大きい。センターより近い位置だったからか。もしくは――

 御嶽は淡々とピッチングを続けた。初回だけでなく、毎回ランナーを出すものの、要所を締めるピッチングというだろうか、三振こそないものの、凡打を的確に打たせている。

 部活終了のチャイムが鳴ると、先輩の号令で試合は中断し、片付けが始まる。

 今日の試合はいつも通り出番はなかった。いつも通りだが、いつも通りではなかった。

 部室に戻ると、六回二失点という好成績で今日のピッチングを終えた御嶽がBチームの部員にちやほやされている。

 すげーなお前、ピッチャーできたんじゃん、変化球とか投げやがって、これならお前もAチーム候補だなー。

 ――ピンチも抑えてたし。

 誰にも話しかけられずに、喧騒の中一人黙々と制服に戻る。

 外野手として、足の速さで守備範囲を蹂躙していた御嶽は、今度は投手としての一面も見せて活躍していくのだろう。

 俺にはないものも持ってるしな。素質は十分だろ。

 あーあ、どうすっかな。ピッチャー以外できるポジションもないし、二番手…………いや、中野入れたら高一では三番手か、その辺のピッチャーでやっていくしかないのかな。

 あー……つまんねぇな。


 4


 翌日。

 放課後になって部活にいけば、「投手」御嶽が仲間同士キャッチボールに励んでいた。この前はバッテリーを組んでいた吉祥寺も、「捕手」としてボールを受けている。

 走塁を基本とした練習を行うときは、「外野手」御嶽は自慢の快速を見せている。

 一躍Bチームの顔となったようでなによりだ。

 しかし、守備練習ではBチームっぷりを発揮する珍プレーを連発していた。トンネルとかしてた。

 一方の俺はといえば、走塁はそれなりに、守備ではノーミス……堅実とでもいうべきか。そんな身のこなしだった。

 一通り練習を終え、今日も目立ったイージーミスをしなかったことに安堵しつつ、帰宅の準備を進める。

 気が付けば周りのやつらは全員帰ってしまっていたので、電気を消して最後に部室を出る。小走りで校門に向かうと、途中で五ノ神にあった。

「まだ帰ってなかったのか?」

「部活がいま終わったのよ」

「じゃあなんでこんなところに突っ立ってんだよ」

「わざわざ羽村くんに会いに来たとすれば?」

「んなわけねぇだろ」

「ご名答」

「ふざけんな」

  五ノ神は微笑を浮かべる。

「あなたこそ、一人で出てきてるじゃない。野球部っぽい集団はもう通りすぎたわよ?」

「最後に部室出てきたんだよ。悪いか」

「そうね、何かあった?」

「別に」

  五ノ神に語るようなことは何もない。あるとすればそれは野球部の話だし、文芸部であるこいつには何一つ関連がない。

 だから、語らない。

 あたりはすでに薄暗くなり始めている。五ノ神の姿にも影がさしてきた。

「拝島さんと野球を観に行ったそうね」

「誰から聞いた」

「……現場には羽村くんもいたわ」

「そんなはずはない」

「やめなさい羽村くん。見苦しいわ」

「うっす」

  一応しらばっくれてみたが、効果はないようだ。

 なんだか知らないけど五ノ神からはものすごい負のオーラが出てきているように感じる。チャクラを巡回させたのだろうか。

「楽しかった?」

「な、なあ、帰ろうぜ。時間もあれだし」

「そうね」

 これからはなんとか五ノ神の注意を逸らそうと尽力していこう。すんごい怒られそう。

「で、楽しかった?」

「まあ、うん」

「そう」

「おう」

「勝ったの?」

「ああ、サヨナラホームラン」

「劇的ね。まさに私のようだわ」

「は?」

 線路と平行して通る道路が通学路だ。こちらの方がかなり高台にあるが、線路の鉄の臭いがここまで届いている。

「どういうこと?」

 五ノ神はただ前を向いて歩きながら、

「私の方が幼馴染みなのに」

と、呟いた。

「いやっ……だから、どういうこと?」

「忘れて。今のは風の歌よ」

「いや風の歌て」

  忘れろとか言いやがったぞこいつ。忘れようとすればするほどその事が頭を駆け巡るんだよこの野郎。

  既に空には星がちらついている。


  駅につくと、そこにはものすごい数の人がいた。黒山の人だかり、リターンズである。

「事故か?」

「そうかもしれないわね」

 ぐっと背伸びして、後方から電光掲示板を確認する。くそっ、あと五センチ身長ほしいところだな。

「ポイント故障か……もう動かねぇな……」

「え、そうなの?」

「そりゃそうだろうよ」

  進行方向の切り替え装置がポイントだ。それ壊れてんのに電車通したらどこいくかわかんねぇじゃねぇか。それがほんとのミステリーツアー、ってね。

「お前どっから来てんだっけ」

「四十キロ南西よ」

「普通に答えろよ…………湘南の方か? なら……キツいな」

「羽村君は?」

「俺は振替輸送で帰れるからいいんだけど……お前は厳しそうだなー」

「あとどれくらい待つ?」

 珍しく五ノ神が慌てぎみである。見たいテレビでもあったのだろうか。

「…………未定らしい」

「未定って……あと何時間もまたされるかもしれないのかしら」

「そうだなー」

 スマホの画面を見ながら俺がうなずく。

「あー、これダメだ。三時からこうなってるっぽい」

「なっ……」

  何かを察したように五ノ神が絶句する。

 にわかに五ノ神が制服のポケットから携帯をとりだし、画面を少しタップして、

「あーもしもし、お母さん?」

と電話を始めた。まあたぶん今日は帰り遅くなる的なこと言ってんだろう。

「えっ……あっ、そう、その発想はなかったわ……わかった、そうする。あっ、はーい」

 どうやら交渉が終わったようだ。

「羽村くん」

「ん?」

「というわけで羽村くんの家に泊めてもらうことになったわ」

「はあ⁉」

「お母さんに言われたんだもの、仕方ないじゃない。私だって率先していきたがったわけじゃないし」

「わかってるよそんなの」

「あくまで言われただけよ。私は従うだけなんだからっ」

 と、妙に自分に語りかけるように、思い込ませるようにぶつぶつと言い続けている。

 一方の俺はといえば、家は散らかってるし、飯はないしでこちらも焦っている。帰りにスーパーよらなきゃ。


 5


 振替輸送ということで、いつもの倍以上混んでいる車内を十五分くらい耐え抜き、途中で適当に惣菜とか野菜とかを買って帰った。ここのコロッケがうまいんだな、これ。

 家につくと、五ノ神は礼儀正しく、お邪魔しますと挨拶して家に上がっていった。

 高校生の独り暮らし、しかもバイトをしていないとなると、頼りになるのは月に一回の仕送りだけだ。故に家具も必要最低限のもの――テーブルとかカーペットとか――しかない。寂しい。友達はゲームとテレビ。電気代は親持ちなので、そこで目いっぱい楽しむしかない。

「ごめんなさい、こんなことになって」

「いや、俺は別にいいんだけど、お前はいいの? その……年齢的に、お前が男の部屋に泊まるって、よく許してくれたな」

「許すっていうか、私はそんなこと一言もいってないのだけど」

「それもそうだったな」

 適当に荷物を置き、着替えようとしたが、今日の我が家が異常であることを思い出し、制服のままでいることにする。

「鍋にするから」

「ありがとう」

 五ノ神も制服のまま座っている。

俺は冷蔵庫に奇跡的にあった白菜とかその他の野菜と、賞味期限ギリギリの三十パーセント引き豚肉をとりだし、鍋に水をはって火にかける。

 数分して沸騰したところで、切った野菜と豚肉を無造作に突っ込んで、即席の鍋の完成。

 俺が鍋を調える間、部屋に置いてあるテレビを最大限に楽しんでいた五ノ神は、完成とともに席に着いた。少しは手伝えよ。

「鍋の素は買わなかったの?」

「うるせぇ、金欠なんだよ。ほら、食うぞ」

「いただきます」

 礼儀正しく両手を合わせて挨拶をした五ノ神は、目ざとく肉を見つけて食らった。それ俺が育ててた肉なのに。

「一人暮らしってほんとだったのね」

「あれ? お前に言ってたっけ」

「誰かから聞いたわ」

「あそう」

「大臣か」

「それは麻生」

 時間とともに風化していくネタをぶっこんできたな。

「羽村くん、野球部のことなんだけど」

「なんだ」

「あなた、何かあった?」

「別に」

「いや、なんかあったはずだわ」

「やけに食い気味だな」

「そりゃだって」

 だいぶ前から温めていた白菜を取った五ノ神が答える。

「練習の時だって一人でずっとベンチにいたじゃない。ピッチャーやってたの一年生だったし」

「なんで知ってんの?」

「文芸部の位置からだとグラウンドがよく見えるわ。気を抜かないほうがいいわね」

「なんでお前なんかに気を遣わなけりゃなんねぇんだ」

 鍋に入れたばっかで若干芯の残る人参を口に入れる。このくらいの固さのほうが好きだ。

「肩でも壊したの?」

「んなわけあるか。そんなに投げてもいないのに」

「じゃあなんで投げてなかったの? 一年生の中ならエースとかじゃないの?」

「誰も俺がエースだなんて言ってねぇよ」

「言ってたわ、拝島さんが」

「あいつが? ……あぁ、マネージャーか」

「拝島さんはマネージャーでしょ? それ以上でもそれ以下でもないわ…………やっぱり拝島さんとなんかあった?」

「だから何もないって」

「そう。ならいいわ」

 すでに時刻は八時台だ。テレビは五ノ神がつけたまんまのチャンネルになっていて、それはバラエティだ。スタジオの中で出演者が談笑している声が耳に突き刺さる。音量いくつなんだよ。

「羽村くん」

「なんだよ」

「あなたは今野球部にいて、楽しいの?」

「知らねぇよ」

「知らないって…………楽しくないのによく続けてるわね」

「できるもんが野球しかねぇしな。それに一年の五月に退部とかイメージ悪すぎだろ」

 いたとしたらものすごい勇者である。パーティーに入れたい。

「そうね……そうかもしれないわね」

 また肉を奪っていった五ノ神がつぶやく。だからそれ俺の。

「羽村くんは……エースになりたいの?」

「なんだそのスポ根漫画みたいなセリフは」

「いや、落ち込んでるみたいだったから」

「どこがだよ」

 落ち込んでるだと? 俺が? 身に覚えがない。何が理由でだよ。知らねぇよそんなこと。

「あっふ」

 五ノ神は口にした豆腐の思いのほかの熱さに驚いているようだ。口をはふはふさせている。ちょっとかわいい。


 6


「ごちそうさま」

「ん」

 一通り鍋の中身を空にすると、晩さん会はお開きとなった。二人だけどね。

 時刻は九時。普段なら風呂入って適当にクエストこなし始める時間だが、今夜はちょっとわけが違う。

 部活で汗かいてるし、風呂に入ろうかと思ったところで、まだお湯を沸かしていないことに気づく。二十分くらい待たなきゃいけないじゃんこれ……そういえば、五ノ神も今日は満員電車に乗ってきてそれなりに疲れているはずだ。

「風呂入る?」

「着替え持ってないし」

「あ、そうか…………俺のジャージくらいならあるけど」

「わざわざ人のジャージ借りてまで流すほど汗はかいてないから、今日は入らなくてもいいわ」

「でも、さすがに衛生上どうよ。先に入っていいから。遠慮すんなって」

「…………じゃあ失礼するわ。ちょっと長風呂になるけど」

「おう。ジャージ持ってくるから」

 それだけ言って、部屋にジャージを取りに行く。

 四月にここに引っ越してきてからというもの、一人の来客も来ていなかったが、親より先に来たのが五ノ神とは、人生わからないことだらけである。

 まぁ別に家に呼んだわけじゃないし、来てもらいたくて来たわけでもないからどうかと思うが、入学当初こいつを家にあげるとは思ってもみなかっただろう。むしろこっちがごめんだ。

 棚の奥から中学時代に使っていたジャージを引っ張り出す。五ノ神の身長的にこのサイズで十分なはずだ。

 このジャージは部活でも使ったことがある思い出の品だった。中学の時の野球部は穏やかで

 高校に入ってから、野球ではどことなくついてない。なんだか。思うようにいかないというか、予想外というか。

 あの時のことを引きずっているつもりはないが、どうしても、その時の再演みたいになってしまう。

 ――ピンチに弱いんだ。俺。

 中学の時は抑えられたものも、あの試合からすべてが狂いだしている。おかしい、おかしいんだ。

 一人で試行する俺の頭に、御嶽の言葉がこだまする。

 ――満塁でワイルドピッチとかする奴だったのかよ。

「やっぱだめかなー……」

 ピンチを抑えられないピッチャーほどイライラするものはない。見てるほうもムカつく。

 野球は九人でやるスポーツだが、注目が一人に集まってしまうというのが一つの、まあ暗黙の了解的なものだ。守備の残りの八人は、周りから投手を見ることしかできない。

 それはつまり、いつも八方から見られてるってことで。

 どうにもならないことを、どうにもならずに考えていたところ、手元のジャージを見て本来の任務を思い出す。

「タオルは好きなの使っていいからなー、あとジャージここに置いとくぞー」

 姿が見えないが、たぶん奥の部屋にでもいるのだろう五ノ神に言うと、洗面所のドアを開ける。

「えっ」

「あっ」

 そこには、今まさに下着を取ろうとしていた五ノ神がいた。

「あっ……と」

 そうだな、うん、落ち着こう。いったん落ち着こう。な、な? 俺が扉を開けるだろ? うん、そんで着替え持ってきただろ? うん、で、そしたらそこに全裸の五ノ神がーー

「いるわけねぇだろ‼」

「ちょっと、叫びたいのは私なんだけど」

「おっと、そうだよね、そうだよね…………」

 そうだ、この状況一番恥ずかしいのは五ノ神だ。

「ごめん、着替え、ここ置いとくからっ!」

 この状況から逃げ出さんとばかりにドアを閉めようとしたところ、

「待って」

「ひぃっ」

 腕をつかまれた。タオル一枚という薄い隔たり越しに、五ノ神のない胸が当たる。ほんとまっ平らだなこいつ。

 全身をタオルで器用に隠している五ノ神は怒り出すのかと思いきや、

「あっ……ちょっとまって」

と。

 普段と違う少ししおらしい言い方に一瞬戸惑うが、何とか耳だけで五ノ神の言葉を聞く。

「私がお邪魔している側なのに、怒るっていうのもどうかと思うわ。その……だから、あまり気にしないでいいから」

「お、おう」

 想定外のタイミングで五ノ神の優しさが現れた。天然記念物レベル。

「まぁ、出てきたら、覚えときなさい」

 ですよねー。


「事故ですよね?」

 風呂から上がったジャージ姿の五ノ神に、真っ先に発したのは言い訳だった。

「そうね、まぁ広くとれば事故ね。そういうことにしてあげる」

「ありがたきお言葉」

「でも」

 五ノ神は、はぁっ、と一つ息を吐いて続ける。

「…………どの辺までみえた?」

「えっ…………その…………………脚くらいまで」

「そう…………ならいいわ」

 なにがいいのだろうか。

「じゃあ、その…………本格的に全身は見てないのよね」

「そうだ。あんなに平らだったとは正直俺も――」

「歯を食いしばりなさい」

「ごめんなさい‼」

 完全なる土下座である。正直こんなに早く土下座出せるとは思ってなかった。俺のスペックが変に上昇中である。

「まぁ、いいとするわ。仕方ない」

「ありがとうございます!」

 一連の失態を体へのダメージなしで何とか乗り切れたのは大きい。これからもこうしていこう。

「じゃあ、俺も入っちゃうし、今日は俺の布団使っていいから、先に寝ていいぞ」

「羽村くんは?」

「俺は床で寝るからいい」

「いや、泊まらせてもらう身としてはそれは申し訳ないわ。いいのよ、気を遣わないで」

「何言ってんだよ、まがりなりにも女子なんだから、ぞんざいに扱えねぇよ」

「一言多い気がするけど、まあいいわ、ありがとう。そうさせてもらうわ」

「おう」

 五ノ神にそれだけ言って、俺は風呂に入る。

 一日着ていたワイシャツを洗濯機に突っ込んだところで、洗面台の上に見慣れないものが置いてあった。桜の髪のゴムだ。五ノ神が風呂で使ったまま置きっぱなしにしているのだろう。あとで渡しておくとしよう。

 てかこれ、よく見たら顔が描かれている。桜に顔があるとか狂気の沙汰としか思えない。幼稚園児が描いたような感じ。俺もこんな絵しか描けなくて泣いてた。泣いてたかは覚えてないか。

 さっと汗を流す程度に風呂に入って、例の髪ゴムを渡そうと部屋に戻ると、激動の一日を終えた五ノ神がすでに寝ていた。遠慮したいたが俺の布団を使って夢の世界にトリップしている五ノ神は、普段の冷ややかな顔とは違って気持ちよさげに寝ている。

 わざわざ起こしてまで伝えることはないか――と思って、髪ゴムをテーブルの上に置いた。


 翌朝。

 床の上に寝るのは甚だ厳しいもので、昨晩は三回くらい起きてしまった。酔っぱらった父親は頻繁に床でダラ寝していたが、それはそれですごい。

 とはいえ、朝日を見れば無条件でさわやかな気分になるものだ。

 普段ならランニングに出かけているが、今日は五ノ神も来ていることなので、それはやめておく。

「おい、起きろよ」

「うーん、あと五分」

「なまけんな」

「うるっさいわねなんで私が怒られてるのよ」

「朝から逆ギレすんな」

 さわやかな朝が台無しである。

「パンくらいしかないけどいいか?」

「ありがとう」

「弁当は俺が作っといたから」

「え、あなた、まさか料理できたの?」

「一人暮らしにそのスペックは重要だからな。ちなみに弁当は全部自分で作ってる」

 作る側に回ると、冷凍食品と電子レンジにはかなり感謝できるようになる。時短レシピには本当に感謝している。

「そう……あなた…………意外と女子力高いのね」

「そういうこと言うな」

 五ノ神が席について食パンを食べ始めたころ、テーブルの上のゴムに気が付いたようだった。

「あ、これ、どこにあった?」

「洗面台に置いてあったけど、探してたのか?」

「いや、今まで忘れてたけど、そういえば置きっぱなしにしてたわ。ありがとう」

 五ノ神はゴムをしまう。俺は昨晩から訊きたかったことを尋ねることにする。

「なぁ、そのゴムってなんで使ってんだ?」

「どういうこと?」

「だってその柄幼稚園児が描いたみたいじゃん」

「えっ、あぁ、まぁ確かに」

「なんで? もっといいのほかにあったと思うんだけど」

 制服に着替えるため、一度自室に戻る。

「羽村くん…………ほんとに覚えてないのね…………」


 登校するのが同じタイミングだとめんどくさいから、時間をずらしていこうと提案したのは五ノ神だった。確かに一理ある。もし一緒に登校しようものなら、日野にあーだこーだいわれてめんどくさくなるに決まっている。ほんとめんどくさいなあいつ。

 ので、俺は五ノ神の十分ほど後に家を出ることにする。

 策略通り登校時間をずらして席に着いた俺は、いろいろあってできなかった宿題を片付けようとクリアファイルを取り出すと、横からプリントが差し出された。

「せめてものお礼よ。書き写したとばれない程度に写していいわ」

「お、サンキュ」

 五ノ神にしては珍しい配慮だ。毎回こうしてくれればいいのに。

「おはよう羽村くん」

 黙々と答えを書き写していたところ、後ろから声をかけられた。焦ってプリントを隠す。

「拝島かよ」

「なにその反応」

 現れたのは拝島だった。

「最近ほんとよく来るよなお前」

「そうかなー? 周りの人とか結構他クラスに移動して喋ってたりするよ?」

「え……嘘……」

 俺、ひょっとして友達いないんじゃないだろうか。

「ま、まぁあいにく俺はあんま人を気にしないんでな。人がこうだから俺もこうするとかそういうの好きじゃないんだ」

「あ、そ」

「うおう、なんて冷徹」

「さすがにある程度の流行には乗っといたほうがいいよ? そうじゃないと話についていけなくなるし」

「話す相手がいないんでな」

「え……やっぱ友達いないんじゃ」

「うるせぇ」

 A組には野球部の部員がほかに二人いるものの、どちらも俺はあまりかかわってこなかったから、今更話し相手にはならないだろう。一人鎖国状態。国じゃなくて人だから鎖人か。中二病みたいだなこれ。

「今日、部活行くの?」

「ああ、今日部活あるのね」

「知らなかったの?!」

「だから誰にも聞いてないからだって」

「いやそんなこと聞いてないし。ていうかそれぼっち認めてるよね」

「ほっとけ」

「とにかく!」

 グイッと身を乗り出してきた拝島に、思わずのけぞる。ほんと胸デカい。

「今日、部活だから」

「お、おう」

 やけに部活にこだわってるな、重大発表でもあるかのような勢いだ。怖い。

 

 完全に散りきった桜を横目に、半ば強制的に参加させられた部活に顔を出すと、もうほとんどのメンツは着替えを済ませて出て行っている。俺も端のほうにバッグを置いて着替える。長年人気の部活である野球部にはそれなりの広さの部室が与えられているが、そのすべてがしんと静まり返っている。

 グラウンドに降り立つと、今日はやけにざわざわしていた。Bチームの一年がグラウンド整備をしているが、今日は人が多い。

 どうやらAチームも来ているようだ。彼らには彼らの活動場所――隣の公営の野球場――が与えられているはずだが、今日はここにきている。

 遅れて自分もボールのかごをもっていき、集合の号令がかけられたところで集合した。

「今日はAとBの入れ替えを考えた試合を行う。時間的に五回までしかできないが、それでも可能な限り入れ替えをしていく。夏まであと二か月。しっかりとアピールしろ」

 監督はそれだけ言うと、三年生は隣の野球場で、一、二年生はここのグラウンドで試合をすることが伝えられた。

「メンバーは俺が決めたので、最初はこのメンバーで始めてくれ」

 と、二年生の先輩にオーダー票が与えられ、ポジションなどが伝えられていく。

「ピッチャーは、まず一人は中野」

 さすがは一年のエース。しっかりと結果を残して、先輩を差し置いての先発獲得だ。

 もう一人はAチームの二年生の先輩か。たぶんそうだ。

「そして、もう一人は御嶽――」

「えっ」

 御嶽? 御嶽ってあの、一年の? 先輩じゃなくて? 一年なのに?

 衝撃の事実に戸惑っている中、オーダーが続々伝えられている。

「――以上が今日の先発。じゃあ始めるから。ここに入れなかったのは適当に二チームに分かれて座っとけっていうのが監督の指示。よろしく」

 一塁側のベンチから、試合の様子を眺める。両チーム合わせて十八人のうち、先発の一年は五人。Aチームでもない御嶽はその中でピッチャーを務めている。

 今日も今日とて淡々と抑えていく御嶽に、俺は一つの結論にたどり着く。


 ――もう、ここに居場所はない。


 その後、何度か監督の指示で選手交代があったものの、結局俺の出番はなく、一球も投げずに今日の部活が終わった。

 部室に帰っても一言もしゃべらず、一人帰宅の準備。試合後の疲れであまり素早く動けない御嶽の周りに一年生が集まって何やらしゃべっている。

 カバンをひっつかんで肩に担ぎ、喧騒の横を通り抜ける。逃げるように速足で横を抜けた俺は運悪く――タイミングが悪かったと御嶽も思ったはずだが――御嶽が発した一言を聞いてしまった。

 試合に出てすらいないのに、疲れを感じている。


 野球部から逃げるように走って帰る途中、マネージャーの仕事を終えた拝島にあった。食パンをくわえてたらラブコメに発展していたかもしれない。それはそれで面白そうだな。拝島転校生じゃないけど。

「あれ、なんで走ってきたの?」

「ちょっと所用が」

「所用ってどんな?」

「別に言う義務はない」

「隠すほどのことなの?」

 そんなにがっついてこなくても。

「まあいいじゃんいいじゃん」

 言葉だけ流しつつ、後方から接近する野球部集団を警戒する。既に部内のポジションが奪われ、その上マネージャーとどうこうなんて噂がたったらそれこそ終わりだ。社会的に。

「この前ありがとね。ほんとに楽しかった」

「そうか、ならよかった」

 拝島と並んで坂を下り、校門を抜ける。

「マネージャーの仕事ってさ、意外と奥深いところがあって、なんかはまっちゃいそうだよ」

「そうか、それはよかった」

  野球の仕事が与えられてる拝島は、没頭できるを得たらしい。いいことだ。

「練習後にボールを磨くのもそうだけど、洗濯とか、基本雑用なのにさ、それでも、いや、だからこそ、ちゃんと部員の役にたってるっていうのが、そのまま実感できるの」

「そんなにこき使われてる状態が好きなの? マゾなの?」

「違うし」

「冗談だよ」

「冗談でもそれはちょっと」

「マジレスかよ」

  拝島は冗談の通じないやつらしい。もっとユルくなろうぜ。

「部員の役にたってる、ねぇ……」

  役に立つ、というのは、自分が利用されているということを間接的に認めているから嫌いだ、と言う人がいる。

 しかし、「役に立つ」というのを「必要とされている」と変換すれば、それはいいことだ。と思う。

 「必要とされている」ということは、そのまま自分の存在が認められている、ということだ。

 拝島は部内のポジションを、「マネージャー」ということで獲得したらしい。必要不可欠。欠けることも許されないほど、その地位は確固たるものになったらしい。

「私ね、前にも言ったかもしれないけど、野球が好きなの」

「ああ、知ってる」

「でもね」

 拝島は路傍の石を爪先で軽く蹴ると、夜空を見上げた。釣られてみると、そこには一番星がキラリと輝いている。

「私、女の子だから……」

 俺の返答を待つように、そこで言葉をつまらせる。このままだとらちが明かないので、

「だから、何?」

と、曖昧に、どうとでもとれる返事をする。

「野球は男の子のスポーツだから。私は、画面の中で躍動する人たちにはなれない」

 ――野球は男の子のスポーツだから。

 心の中でその言葉を反芻する。

 今でこそ女子野球は認められてきているが、それでもプロ野球と比べれば精彩に欠ける。

 甲子園に行けるのは男子だけ。女子は「つれていってもらう」ことしかできない。

 ましてや女子校に通っていた拝島は、自らの生まれ持ったものの差を意識してきたに違いない。

「でも、何とかして野球に関わりたかった。だから、マネージャーやってみようと思った」

「…………」

「あ、ごめ、こんな話するつもりじゃなかったんだけど」

「……あ、いや、うん。悪く思ってない」

「そう……よかった」

「おう」

 これだけ堅い信念を持っている拝島からは、これからの野球部の活動への希望しか感じられない。楽しそうで何よりだ。

「羽村くんは――」

 前からくる車のヘッドライトが視界を一瞬埋める。眩しい。

「――どうして、野球部をやってるの?」

 それは、堅い信念を持っている拝島からの意思確認だ。もしくは、私が言ったからつぎはあんたの番だという可能性がある。そっちの方が可能性は大きそう。

「俺は――」

 跨線橋を越える登りに差し掛かった。教科書類の入った授業用の鞄に、野球部道具の入ったスポーツバッグの二つを持っている俺には、登り階段は立ちはだかる壁にしか感じられない。エスカレーターになってしまえ。

「――居場所、かな」

「居場所……」

 居場所。サッカーができるわけでもない。楽器が出来るわけでもない。理科は嫌いだし、社会も放課後研究するほどに好きではない。

 個性を伸ばす、趣味の幅を広げるのが学校による部活の意義だとするなら、それは違う。それなりの技能、経験値が必要なんだ。

 先の部活紹介でもそうだが、高校にもなれば結局その部で上位になれるのは、既にその道をなぞってきた人たちだけだ。

 だから、今更転部なんて――野球をやめる――ことはできない。

 「野球」が好きで、「野球部」が嫌い。そんなところか。

 拝島もさっきから黙りこくってしまっている。野球が好きだからとか、そういうノーマルな答えを期待してたかもしれない。もしそうなら、なんか申し訳ないことをしたと思う。

 二人して電車に乗り込んだあとも、一言も交わすことはなかった。


 次の日から、部活にいかなくなった。誰のせいでもない。もしかしたら御嶽の一言が止めを指したのかとも思うが、自分から部活にいかないと決めた。

 放課後になればすぐに教室から飛び出して、一目散に帰路につく。

 ときおり、ギリギリ名前を覚えた野球部員とすれ違うが、顔を逆に向けて交わす――視線から逃げる。

 そんなことを一週間続けた。


  日が経って月曜日。今日から中間試験の一週間前ということで、部活禁止となる。

 ノータッチの数学と英語を何とかして平均点に持っていこうと意気込んで授業を受けるが、積み重ねた土台がないために、完全なゼロからのスタートだ。

 どうにもやる気が出なくて放置していたプリントにいよいよ手をつけようと、足りない知識を最大限にフル活用して問題を解き始める。

 うん、うん。やっぱ一問目からわからんわ。こりゃまた解答丸写しだ。

「ちょっといいかしら羽村くん」

「のわっ、びっくりした!」

 目と紙の間、二十センチほどの隙間ににゅっ、と顔を入れてきたのは五ノ神だった。

「丸写しの途中に申し訳ないけど、ちょっと見てほしいものがあるの」

「あ、バレてたのね」

「当たり前じゃない。羽村くんが二次関数とか解けるわけないじゃない」

「さすがに中学で習うよね」

 曲がりなりにも高校は入試受けたよ?

「じゃあこれは?」

 そういって五ノ神が指差したのは、解答に記載された∴のマークだ。自信がある。

「ん? これは畑だ。社会は得意だぞ」

「羽村くん、表紙のこの漢字読める?」

「は? 数学だろ? 現に今大量に数字書いてるじゃん」

「そうね、たしかに数学だわ。で、数学になぜ畑の地図記号が出てくるのよ」

「製作側のユーモアだよ。学生に『ん? なんだこれ、どっかで見たことあるな……あ、あぁー! これ地図記号じゃん! なんだー』っていうツッコミを入れさせる高等テクニックだよ」

「そう……そうね、そうかもしれない」

 頭を抱える五ノ神はそういうと、寄りかかっていた机から離れた。

 はい、論破。

 俺史上初、五ノ神を論破。もう賞とかもらえるんじゃね?

「ひとつだけ言っておくわ」

「おぅ、負け惜しみか?」

「そうね、負け惜しみととってもらってもいいわ」

「早くいえよ」

「畑の地図記号はそれじゃないわ」

 穴があったら入りたい。


 今日が月曜日であるということは、昨日が日曜日であったことを暗に示す。戻りたい、あのなにもない休日。

 昨日が休みだったかどうだかも知らない。日曜日の予定は基本土曜日に伝えられるが、その土曜日も行ってないからわからない。

 野球に関わりたい、という一心でマネージャーになった拝島は、野球部の選手の中に知り合いは俺しかいないみたいだ。彼女の所属するC組は六人の部員がたしかいたが、その誰とも喋ってすらいないらしい。

 こいつ、俺を散々ぼっちよばわりしといて、自分もじゃねぇか。

 その俺が部活サボりだして、寂しそうにしてないかと思い、自分からC組に乗り込んでいってみる。

 ドアを開けると、一番近い位置に拝島が寝ていた。おいおいまだ三限だぞ。

 黒板を見れば、英語が書きならべられている。どうやら前の授業は英語だったらしい。それは眠くなるわ。

「おい、拝島、拝島」

「んー…………あと五分」

「あと五分じゃねぇ、起きろ」

「うーん……? 羽村くん……?」

「おう、そうだよ」

「…………すごいね……………へんかきゅ…………」

 会話かと思ったら寝言だった。やけにはっきりとした寝言を言うなこいつ。変化球て。夢の中にも野球出てくるくらいには没頭できているらしい。

「おにいちゃ……ん…………」

 どうやら拝島には兄弟がいたらしい。知らなかった。知る由もなかった。まあ別にいいけど。

 気が付けば始業の時間まで五分を切っていた。一向に置きそうにない拝島を放置して周囲を見渡す。

 やっぱり知り合いはいない。どこにも。


 拝島が全くかかわっていないというので忘れていたが、野球部メンツが教室の真ん中のほうで固まって何やら話をしている。時折こっちを見て笑いあっている。絶対話題の中心に俺がいるだろ。

「んぁ?」

 いまさら目を覚ましたらしい拝島が間抜けな声を上げている。袖口で口を拭うと、もう一回机に突っ伏して――

「いい加減起きろよ!」

「うわぁっ‼」

 二度寝しようとしていた。

「は、羽村くん? なんでここに」

「あ、あぁ、特に用はなかったんだけど」

「特に用ないなら寝てる私なんか放っといてもうちょっと寝かせてくれればよかったのに」

「それもそうかもしんないけどさ、なんだか心配で」

「心配? 何が?」

「なんか……俺がいなくなってから、お前どうしてんのかなー……って」

「あ、そういうこと……」

 拝島は突っ伏したまま顔を窓側――俺とは逆側――に向けた。

「やっぱりね、野球ってチームスポーツなんだよね……」

 拝島は頬づえをついて、そうつぶやいた。

「うまくいってないのか?」

「そういうことじゃなくて…………まぁ、いいや。もう時間だよ、ほら、帰んなよ」

「あ、お、おう」

 さっきまで寝ていたはずの拝島が、突然立ち上がって俺の背中を押した。もっとも、元気出せとかそういう押し方ではなくて、なんかこう、追い出すような、そんな感じだった。

 もう用済みだといわんばかりに。


 結局、野球部という肩書がなくなってしまえば、俺というものはなくなってしまうのかもしれない。いや、むしろ「野球部」羽村であるからこそのクラス、学校内の居場所があったのであって、その肩書がなくなってしまえば、もう居場所なんて端からないのである。

 テスト前だというのに、勉強を差し置いて素振りに出かけた。満天の星空のもと、心のなかのもやもやした何かをフルスイングで掻き出そうとしたものの、全く取れることはなかった。



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