第三話 ナックル


 1


 五月四日。世間ではゴールデンウィークの中間日として、Uターンラッシュとかなんとか騒がれている朝のワイドショーを眺めつつ、おもむろに練習試合への準備を始める。

 時刻はまだ七時前。いつもなら今頃起きているが、今日は集合時間が早いので、もう三十分前には起きている。

 前日は今日のことを考え脂っこいものは食べていない。よく試験の前日にかつ丼を作る家もあるが、それはかえって胃もたれとかの原因になりかねないのであまりお勧めしない。試験に勝つのも大事だが、まずは体に喝だ。誰がうまいことを言えといった。あと別にうまくねぇよ。

 セルフツッコミをしながら、家の鍵を取る。部屋の電気を落として家を出る。

「いってきます」

 誰もいない部屋に挨拶してから、駅へと向かう。

 今日の気温は三十度を軽く超えていくらしい。暑い。早く涼しいところ行きたい。


「よし、時間だな、集合!」

 監督の合図で一年生が集結する。

「今日はうちの学校の一年同士練習試合を行う。いわば紅白戦だな。夏の大会の選手選考の大きなウェイトを占める大事な試合になる」

 と言いながらも、暑いのは監督も同じなのだろう。しきりに額の汗をぬぐっている。

 ていうか暑すぎる。早く動きたい。動いたほうが暑いか。

「前にも言ったが、完全に三年生のみのチームにする気はない。勝ち上がるのに必要な戦力を部員全員から集めたいと思っている。せいぜい頑張ってくれ。特にお前らは一般入試組なんだから、気を引き締めて戦えよ」

 暑さにやられた頭を、聞き捨てならない言葉が通り抜けた。

「か、監督」

 同じように感じたのか、一人が声を上げる。

「一般入試組って……俺らのほかに、まだ一年生の部員がいるってことですか?」

 そうそれそれ。

「言ってなかったか? この学校の野球部には推薦が認められている。推薦組はお前らと別メニューで練習している」

「で、でも、俺らのほかに練習してる人なんているんですか? だって、キャプテンだって一緒に練習してるんですよ?」

「あれ? あいつ言ってなかったか? お前らが練習していた先輩はBチーム。わかりやすく言うと二軍だ。稲城は二か月前のケガのせいでしばらくこっちで調整しているんだ」

「じゃあ推薦組はどこで練習してるんですか?」

「あいつらはAチーム……まぁ一軍のほうで、より実践に近い形式で練習している。お前らが休みだった日――直近だと昨日か。昨日とかはあいつらが練習してた」

 衝撃の告白である。もう選手のクラス分けが行われていたのかよ。

 各人の顔に少なからず焦りに似た感情が浮き上がる。

「今日のおまえらの相手は、そいつらAチーム。つまり推薦組の一年だ。健闘を祈っている。…………あぁちなみに向こうは十人しかいないから、今日は七イニング制な」

 そう言い残して、もう必要ないとばかりに去っていく監督。

 突如として現れた推薦組の存在は、俺の心を深くえぐっていく。存在の知らない、推薦組の存在。でも五ノ神とかF組の存在を知ってたし、知ってる奴はそこそこにいるのか……?

 そしてその人数。十人という限られた人数。その数字は、彼らが少数の選ばれた精鋭であることを示している。生半可な奴では入れないだろう。

 だから、見えない敵の存在は、俺ら――もう二軍扱いの一年――の中では、すでに脅威になっていたのである。


「なんだよ、俺らもう戦力外通告受けたようなようなもんじゃねぇか」

 そう吐き捨てるのは、初日の自己紹介のトップバッター、河辺かべ。正直同じこと思った。ほんとそれ。

「入学したときから推薦枠の存在は知ってたけどよ、これはねぇだろ! はじめっから使う人と使わない人を分けてたっていうのかよ‼」

「まぁ落ち着けって、まだすべてが終わったって決まったわけじゃない。ていうか、野球部としてのお前は今から始まるんだろ? 最初からあきらめてどうする」

 と、地面に顔を落とす河辺を励まそうとしているのは、一年のうちの…………あぁそうか、二軍のうちでは頭一つ技能で抜ける外野手の御嶽みたけがなだめる。

 同じ外野手というポジションが功を奏したのか、御嶽と河辺は割と初期から仲が良かった。まだ部活始まってひと月経つか経たないかという時期に、これだけの連携が取れているのは、素直にすごいと思う。

「でもよ……正直しらなかったぜ。Aチームの存在もそうだけど、すでに一軍の先輩と混じって練習してるというこの待遇の差があるなんて」

「そんなもの、これから埋めていけばいいじゃないか。俺たちはなにを競っているんだ? 高校入試の順位か? 違う。もう一つのチームなんだ。野球っていう一つのスポーツで同じ土俵に立って、その技量の差を競うんだろ?」

「まぁ、そうだけど……」

「じゃあ一つ、この試合で見せつけてやろうぜ」

「うん、まぁ、そう……か?」

「そうだ。だから、最高のプレーをしなきゃな」

 はい、論破。と言わんばかりに河辺の顔を眺めた後、自分のグローブを取りに行く御嶽。いいこと言うなー、と人ごとのように感じるが、御嶽も推薦と一般の差を意識した状態で試合に臨む選手の一人のようだ。

 意識するな、と言う人は、一通りその物事について考えて、考えるに値しないという結論に至った人が言う言葉だ。

 御嶽も、だいぶ思うところがあるらしい。

 試合開始は九時ちょうど。現在八時半過ぎだ。まだ時間はある。

 ここで、三塁側特設ベンチに、今日の対戦相手様が入ってこられた。

「あれが……推薦組……」

 一般入試組はひとしきり相手を眺めた。

 監督の意向で、先攻が指定されているBチームは、指定された打順と守備位置のウォーミングアップをしていたが、その手を止めた。

 圧巻だった。

 まず、体つきが違う。町中にいたらビビッて遠回りしてでも避けたいレベルのこわもての人とか、どうやったらそこの筋肉がつくんだよみたいなところにすごい筋肉がついている人とか、それはもう見てるだけで圧倒される。

 別に筋肉マニアとかではないが、それでも、これはすごい、と感嘆するしかない。

 投球練習をしていた俺は、それをいったん切り上げて向こう岸を眺めていた。ほかのBチームの選手とともにその風貌に驚きながら、一人、肩幅の狭い、ひ弱そうな男を見つけた。

 俺はその弱そうな背中に、見覚えがある。

 入学した時からひそかにうわさされていたその背中こそ。

「斎藤…………」

 中学時代にバッテリーを組んでいた、かつての親友、斎藤の背中だった。


 この学校に入学してから初めて斎藤を見た、つまり存在を確信した――せざるを得なかった――というのに、俺は大して動揺することはなかった。

 それはたぶん、五ノ神にその存在を定期的に言われてきたからだろう。

 だから、この動揺は斎藤に対してじゃなく、たぶん五ノ神に対してだろう。なんであいつ斎藤のこと知ってんの? エスパーなの?

 投球練習に付き合ってくれたBチームのキャッチャーである吉祥寺に練習を切り上げようと伝えると、吉祥寺は俺に歩いてきた。

「知り合いでもいたのか?」

「あぁ、まぁ」

「へぇ、どいつ?」

 俺は直接斎藤の名前を告げず、人差し指でその姿を示す。

「あの一番小さい奴」

「あいつか…………正直強そうには見えないな」

「見た目はな」

 俺は知っている。斎藤の内に秘めた能力を。あの小柄な体格から放たれる鋭い打球、正確無比な送球。俺がこの目で見てきたものだ。間違いない。

 ふと見上げて時計を見る。九時になった。

試合開始だ。

 砂煙とともに、両チームの選手がホームに整列する。


 先攻のBチームは一番の御嶽が打席に立っている。

 Bチームとはいえ、彼の走力と守備力はAチームに匹敵するものがあると思っている。どんな打球でも捕球してしまうので、センターに死角はないと安心して投げられる。

 プレイボール! という声が響き渡る。今日の主審は監督だ。

 推薦組の先発の初球。Bチームの注目の視線が注がれる。

 左利きのアンダースロー。地面すれすれから投じられるボールは、ホームベースめがけて浮いてくる。

 斎藤が捕球したのを確認して、監督の右腕が上がる。

 外角高めのストレート。右打席に立つ御嶽から見ると、終始遠めをボールが通っていったように見えたはずだ。

 驚くべきはその高低差。

 マウンドすれすれのところまで振り下ろされた左腕から、十八メートルかけて高く浮き、高さは腰の上まで来ていた。

 球速はそれほど早くない。体感速度も大して変わらず、たぶん百二十キロくらいだ。が、同じく二か月前まで中学生をやっていたとは思えないほど球速は速い。

 百二十キロというと、大して早くないように感じられるかもしれないが、アンダースローで、しかも高一の五月に投げられたと考えると、もう一流である。

 斎藤の返球を軽く受け、かがんでロージンバッグを拾い、少し上に二、三回投げ、適当にマウンドに落とす。

 グローブを外してわきに挟みながら、相手ピッチャーは両手でボールを触り、土を落とす。

 再びグローブをはめ、ボールをグローブの中に入れる。

 御嶽は一度ホームベースにバットの先を当て、前に向けた後、もう一度フォームに構えなおす。

 斎藤が何らかのサインを出したんだろう、ピッチャーがうなずいて、一度足元の土を鳴らす。

 セットポジションに入った。御嶽も、バットを握る手にグッと力を込め、ピッチャーを凝視する。

 グローブを高々と天につきあげ、前足を大きく前に踏み込む。

 そこから左腕を低めに持っていき、投じる。

 初球とほぼ同じコース。さっき思った通り、球速は緩い。

 タイミングよく振り抜けば、内野の頭は超える。

 そう直感したのは御嶽も同じだったらしく、右足を踏み込んで、軸を回転させ、バットを振り抜く。タイミングはあっている。はたから見てもわかった。

 が。

 パケッ、と、明らかに芯の外れた音がした。

 ボールは三塁線遙か左を転々と転がっている。芯を外したファールボール。

「えっ」

 そう思わず漏らして、ベンチから立ち上がったのは、さっきまで諍いを繰り広げていた河辺。なんだ、やっぱり仲いいんじゃねぇか。

 河辺のほかにも、今の球には衝撃を受けた奴が何人かいる。

 外角のストレート――と思われたその球は、途中でインコースに曲げられていた。スライダーである。

 下から浮き上がってくる球筋でありながた、さらに手前で曲げられてしまっては手の出し方がない。

 ましてや今の御嶽は直球と思ってバットを振り出している。完璧にタイミングをずらされた。

 だが、球速は直球と大して変わっていない。高速スライダーか。

 涼しい顔で鬼畜スライダーを要求した斎藤からボールを受け取ったピッチャーは、なんでもないかのようにたたずんでいる。というかむしろバットに当てられたことに少しショックを受けているようだ。

 ざくざく地面をけった御嶽は、バントの構えをした。セーフティバントの構えだ。

 突然のバスターに、ピッチャーはおどろいたような表情をしたが、すぐに帽子を目深にかぶり直し、セットポジションに入った。

 三塁手がダッシュの構えを見せる。

 今度は内角へ。大きく外してくることはなかった。

 寝かせたバットを向かってくる白球の高さに合わせて上下させる。

 少し三塁側にバットを傾けて、いざセーフティバントといったとき。

 刹那、背中をかける違和感。悪寒。

 白球が寸前、バットの下に潜り込む。

 下に構えられた斎藤のミットに、ストンと収まる。

 バントを外す、無回転の魔球。

「ストライク! バッターアウト‼」

 すでに一塁側に数歩走っていた御嶽が、異変に気付いて監督を見返す。

 御嶽を打ち取った三球目。バントにかすらせもしなかった三球目は。

 フォークボールだった。


「ずるいぜ、アンダースローのフォークは……上がって落ちるんだもん。上がってきたのに落ちるんだもん」

 自らに向かってまるで言い訳するよう、になんども同じセリフを繰り返して言う御嶽。寝かせたバットにかすりもせずに涼しく通り抜けた相手のボールへの素直な感心と、三球全く何もできなかった自分への悔しさが同時にこみあげてきたらしい。ヘルメットを脱ぐと、バットを乱雑にケースに入れた。

 現在右打席には二番のキャッチャー吉祥寺が立っている。日々の打撃練習を見る限り、打撃はむいてないらしい。

 初球は遠めにストレートが外れた。

「試合前からすごそうな投球練習してたもんな……化けもんだぜありゃ。中学の時から神奈川じゃそこそこ有名だったけどよ、あいつは」

「知らねぇんだよな、あいつのこと。名前もわかんねぇ」

 と訊き返したのは河辺。

「知らねぇのか? 中野だよ。中野。中学の夏の県大会で無名の公立中学をベスト4まで導いたサウスポーだよ。この界隈じゃ有名なはずなんだけどな」

「知らねぇな。俺そもそも野球とかあんま興味なかったし」

「そうなの? それでも知ってると思ったけどなー」

 二人の会話を左耳で聞く。中野という投手はきいたことがある。御嶽の言う通り、聞いたこともない中学のエースだった気がする。たしかに、名門と呼ばれる中学を初戦で倒したのはそこだったかもしれない。それなりの話題にもなった。

 ていうかお前らよく他校の選手覚えてんな。

 打席では吉祥寺がツーストライクワンボールと追い込まれている。一回も打球音が聞こえてこないことから、バットにかすりもしていないんだろう。

 一通り話しきったのか、ベンチの中は静まり返る。

 投球フォームに入った中野から投じられた四球目は、吉祥寺のバットを無様に振らせて三振を取っていた。

 その後も簡単に3人目をセカンドゴロに打ち取った中野は、涼やかな顔でベンチに戻っていった。


 2


 一回の裏、Aチームの攻撃。

 無言でマウンドに上がった俺は、プレート上の砂を足で払い、落ちていたロージンバッグを拾った。

 懐かしい感覚だ。十八・四四メートル離れたホームまで、そしてさらにその先に構える吉祥寺のミットをにらむ。

 一球投げてみる。感覚は悪くない。高校にきて初めての試合だが、特別緊張はしていなかった。

 監督の合図で、一番打者が入ってくる。

 監督が右手の人差し指をこちらへ向ける。試合再開の合図だ。

 俺は初球を投じる。右打者への外角へのストレート。

 バシッ。

 見送ってストライク。大して厳しいコースでもなかったが、高さがギリギリのところに決まってくれたおかげか、一つストライクをもぎ取ることができた。

 吉祥寺からの弱い返球。お前中学野球やってたんじゃなかったっけ。へなへなした返球だな。力抜けるわ。

 二球目三球目と、バッターはスイングをすることなく見送ってきた。カウントはツーストライクワンボール。悪くない。

 推薦とか言ってたけど、所詮高校生だし、それも一年だ。大した差はないのだろう。三球目だって甘く抜けたボールだったし、正直絶好球だ。

 吉祥寺が構えるので、俺はうなずきセットポジションに入る。

 四球目。外角へ逃げるスライダーで見逃し三振。結局、バッターは一球も振らずにアウトになってしまった。

 三振というのは気分がいい。ゴロやフライを打たせてアウトにするのも悪くないが、自分でアウトが取れるというのはそれだけ安心感がある。

 先頭を三振にとった後も、淡々と三振を取り、連続三振でイニングを終えた。


「なぁ、お前実はすげぇやつなのか?」

 ベンチに座るなり話しかけてきたのは吉祥寺だった。

「え? いやぁ、そんなでもないと思うけど」

「いやでもすごいだろー。相手は推薦っていうだけあって体つきはいいし、いかにも打ちそうだったじゃん。バッティングフォームとかすごいいいし」

「そうだなー」

 それにしては、全部見逃しだったけど。

「お前のリードがよかったんだよ。スライダーもいいところで使ってくれて、気分はよかった」

「ありがとう。そう言ってもらえるだけでもうれしいよ」

「そうかしこまるな。あと六イニングもあるんだ。四番もまだ出てきてないし、これからだぞ」

「そうだな」

 それに、斎藤もまだ出てきてないし……心の中だけでそう付け加えて、無様に空振って三振に終わった選手を遠目に、肩を作り始めた。


 二回の裏、Aチームの攻撃。先頭は彼らの四番、ファーストの立川という人だ。四番を張っているだけあって、素振りやボックスでの存在感はある。てか怖い。

 吉祥寺は冷静にミットを構える。内角へのストレート。この強面相手に初球から内角攻めとは、彼もなかなかの人だ。正直怖い。

 初球を投じて、見逃しのストライク。こいつも振らない気なのか?

 二球目もストライクを取り、三球目。高めに一つ外し、あわよくば空振りを誘おうというつり球を要求してきた。

 足を上げてモーションに入り、投球。

 スパン、と。

 指に引っかかってちょっと低めになって危険なところに入った球を、四番は完璧に見逃していた。三振である。

 焦ったぁ~……絶対ヒット打たれたと思った……が、結果オーライである。

 続いて打席に入ったのは、Aチームの五番、斎藤だった。

「斎藤……」

 中学のころから確かにバットコントロールはすごかった。が、五番を張るほどのものではなかった。夏の大会でもうちの中学で六番だったし。

 だいたいその肩幅で強打者じゃないことくらいわかる。華奢とか言ってもいいくらい。

 吉祥寺の指定するコースに投げる。なかなかいい配球をしてくるので、この時点ですでにこいつを信用しきっていた。

 カウントツーストライクツーボールからの五球目、左打者の斎藤のひざ元へえぐりこんでいくスライダーを投じて、見逃し三振。斎藤までも見逃しで、これで五者連続三振。できすぎだ。

 続く六番も同じく見逃しで三振をとった。最後にど真ん中を投げてしまっても、彼は全く動かず、視線だけで追ったのみだった。

 二回まで互いに得点なし。地面に落ちる桜の花びらを踏みながらベンチに戻る。


 その後、多少スイングしてくるようになったAチーム打線も、カットしかできずに苦しんでいた。結果、二つの内野ゴロ以外ほかは全部三振に取られたAチーム。ふがいなさすぎる。俺だったら泣いてる。

 一方の我らがBチームは、中野のアンダースローに終始苦しめられ、こちらもノーヒットに抑えられていた。見てる側からしたら何一つ面白くないだろう。両チームからホームラン出たらハンバーガーとか、そういう次元ではもうない。ノーヒット同士だし。

 お互いにヒットのでない状況にも、監督は動じるそぶりを見せない。むしろ余裕そう。

 試合は進んで七回表。一番バッターからの打順のはずなのに、何一つ好打順などではなく、あたかも当然であるかのように三振していった。かすりもしない。三打席目だろ、慣れろよ。

 五分もかからなかったと思われるBチームの攻撃を終え、最終回――実感がわかない――の裏の守備についていく。

 ここまで十八打席無安打に抑えているのは中野だけでなく俺も同じなのだ。忘れてたけど。

 監督を信じるなら、ここまでノーヒットに打ち取れたならベンチも見えてきているはずだ。最終回もこのまま抑えていきたい。

 最終回の七回、ここまで無安打のAチームは一番からの打順だ。

 打順も三巡目となってきて、打者の癖などは多少なりともわかってきた。

 先頭への初球。高めのストレートを空振り。過去の打席、初球を振ったのは初めてだ。

 二球目、三球目はボール。外へ外れる。

 四球目。吉祥寺の構えは内角。高さ的には真ん中よりやや高め。

 変化球を要求してきているが、今日は直球のキレがいいと思うので、首を振る。

 春の温風を右から受けている。両腕を突き上げ、五球目。

 キン、と。

「えっ」

 しばらく聞くことのなかった快音に、視線を後ろに向ける。

 放たれた打球はセンターの御嶽の前に落ちる。変な回転がかかっていたのか、御嶽は処理を誤ってボールを手前に落とす。

 それを見逃さず、すでに一塁を回っていたバッターが、針路を二塁に向け、悠々と二塁に到達。

 両チーム通じて初のヒットは、センター前へのツーベースヒットだった。

「タイム!」

 初めて許したヒットに呆然としている俺の下へ、吉祥寺が駆け寄ってくる。

「ヒット一本でそう気を落とすなよ。ヒットなんて打たれて当然だろ?」

「あぁ、そうだな……」

「どうした? そんなに辛かったか?」

「いや……」

「もしかして完全試合狙ってたとか?」

「……いやそれは別に」

「そうか、じゃあどうした?」

「いや…………足速いなと思って」

「ああー、それな。たしかに足速いよな。普通のセンター前ヒットだったろ?」

「見た感じはな」

「いくら落球したとはいえ許される範囲内。つーかそもそも御嶽の手にボールが当たった時点で一塁到達してなかった?」

「え、そうなのか」

「たぶんそうだったと思う」

 吉祥寺の話がもし本当だとしたら、嫌なバッターを出塁させたな……Aチームの先頭を張っているだけのバットコントロール、脚力は持ち合わせてるということか。さすが。

 しかし打たれてしまったものは仕方ない。切り替え切り替え……

「プレイ!」

 監督の合図でグローブを構える。

 左足をぐっと踏み込んで、二番バッターへの初球。

 カキンッ、という音にまた顔を後ろに向ける。セカンドの深い位置へのゴロとなり、二塁ランナーは動かなかったものの一塁を埋める形になってしまった。

 ノーアウト一塁二塁のピンチ。最終回だし、もう失点は許されない。

 でもここを抑えないとベンチ入りは見えてこない。何とか気合を入れなおしていかないと。

 続く三番打者はピッチャーフライに抑えたものの、四番にフォアボールを与えてしまう。少し力を入れすぎた。四番だし。顔怖いし。

 そしてワンアウト満塁の状態から迎えるバッターは五番の斎藤。

 横からの風が向かい風にかわる。

 満塁で迎える斎藤というものには恐怖しかない。中学時代にチャンスをことごとく生かしてきたのは斎藤のバットで、決勝点を挙げることもしばしば。

 ここまで完璧に近いリードをしてきた吉祥寺も、ちょっと打ち込まれはじめてビビったみたいだ。今までの配球は高めを積極的に生かしたものだったが、最近は低め中心の投球になっている。

 吉祥寺は今度も低めを要求してきた。外角の隅へのスライダー。

 セットポジションからクイックで初球を投じる。

 斎藤は初球からスイングすることはなく、見逃して一つストライクをもぎ取る。

 続く二、三球は低めへの直球をいずれも外しボール。

 四球目。今度は内角低めに直球。今日の球種は八割がた直球で構成されていた。吉祥寺は俺のストレートに自信があるようで、今日にいたるまでの練習もストレートを頻繁に使っていた。

 そのストレートを構えの位置やや外に投げ込んだ。斎藤はちょっと真ん中よりになったストレートを見逃さずフルスイングしたが、球威に押されて打ち上げる。

 バックネットの大きく後ろ、敷地内の森の中に白球は飛んで行った。

 五球目はスライダーが曲がりきらず外れて、これでフルカウント。

 満塁のランナーはそれぞれがそれぞれの息遣いで間合いを取っている。一塁ランナーはカウントも手伝ってリードが大きめだが、今は斎藤との勝負に集中することにする。

 吉祥寺が構えたのは…………高めだった。

 今まで低めに構えてきたのが一転、決め球に高めの要求。

 球種もスライダー。

 どうやら吉祥寺、ここまでの配球で低めの直球ばかりだったところに、高めへの変化球でタイミングを外そうという魂胆らしい。面白い。

 人差し指と中指をボールにひっかける。縫い目も確認し、セットポジションに入って――

 

 桜が盛大に散る。


 吉祥寺のミットよりはるかに上、監督も驚くようにすっぽ抜けたスライダーがネットに当たる。その音はとても軽い。だからか、目の前に相手選手が通過しても、試合が終わったという事実が頭に入らない。

 ただ、ぼんやりとした意識に、またか、ということだけ残る。

 斎藤が驚いたような表情をして俺を見ている。やめろ齋藤、こっちみんな。

 斎藤の口がわずかに動いている。驚いたように。

 驚きたいのはお前じゃない、俺だよ。

 監督がなんか言ったみたいだ。勝ったAチームの選手はホームに集合してきている。事情を察したBチームもぞろぞろと集まりだした。

 いつのまにか太陽が頭上まで昇ってきていた。初夏の日差しは無差別に地上の人々に突き刺さる。

 炎天下のマウンドから静かに足を下ろす。自分を中途半端に前に押し上げるように、投げ切った疲れで重くなった左足を適当に前に放り出す。

 そうか、負けたんだ。俺のエラーで。暴投で。

 無理やり小走りにして、さっきまではボールが一瞬にして通り過ぎていた十八メートルを進む。

 この試合を勝ちで終えたAチームに頭を下げる。言葉だけ、ありがとうございます、と伝え、ベンチに引き返す。

 七回とはいえ一試合を投げ終えた疲れがどっと押し寄せて、ベンチになだれ込む。さっきまで落ち着いてリードしてくれていた吉祥寺も、今朝言い合いをしていた外野手二人組も、だれも話しかけてくることはなかった。

 ただただ、周囲からの視線を背に受けていた。

 五月の日差しは、すでに暑かった。

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