第9章 南天に君を想う頃

第32話 また一つの出会い

 温暖な河南にも秋風が吹き、木々の葉が少しずつ色付き始めていた。近隣の村々では、作物の収穫を終え、大地の神に豊穣を感謝する祭りが行なわれているという。天河を隔てたこの河南は、まるで平和で、戦の気配など、どこにもなかった。


 麗妃が河南を後にしてから、ひと月が経とうとしていた。

 華煌京での戦闘の報告は、僅かに逃げ帰った兵達から伝えられていた。出兵した兵、三百余。そのほとんどが戦死である。完璧な惨敗だった。そして、麗妃の消息は未だ不明のまま、戦死の知らせも、捕えられたという知らせもない。



 周翼は、城の一室で、河南公の支配下にある村の行政官達からの報告書を整理していた。麗妃の命により、彼女の留守中、李炎は河南城の城代という肩書を与えられていた。李炎が、かつて李王と呼ばれていた、李笙騎の後継者であるという事実は、まだ公表していなかった。

 すべては麗妃が戻ってから……という、李炎の意向の為である。そして、河南城の城代である李炎の主席書記官として、周翼はここ一月の間、様々な書類の山と格闘していたのである。


「……やれやれ、このままでは、身動きが取れないな」

 手にしていた書類の束を、無造作に机上に放り出して、周翼は大きく伸びをした。周翼には、麗妃が再び河南に戻ってくるとは思えなかった。彼女は楊蘭の敵討ちという私怨のために全てを捨てて、この河南を後にしたのである。

「……そもそも緑星王が、その力を敵討ちなどに貸すとは、思えないしな……」

 麗妃が戻らないのだとすれば、彼女の代わりに、李炎の後ろ盾になる者を探さねばならない。そして、李炎がこの河南の支配者となるために、何か別の手を考えなければならなかった。

「申し上げます。周翼様、都より、天海様の使者と申すものが参っております」

「天海様の?」

「はい。河南城の城代に目通りを願い出ておりますが、如何致しましょう」

 どうやら、使者は宰相としてではなく、私人としてのものの様であった。

「私が会おう。西南の間へ通せ」



 天海からの書状には、麗妃が燎宛宮に捕えられている事と、彼女が大公軍の敗北を認め、河南の支配権を放棄したという事が記されていた。そして更に、後日、正式な皇帝の使者と共に新しい城代を差し向けるので、城を明け渡す準備をしておくようにという事などが記されていた。


「……新しい城代と言われてもな」

 周翼は立ち上がって窓辺に立ち、眼下に広がる町並を眺めた。その城下町の向こうには、収穫を終えたばかりの田畑が地平まで続いている。


……六年前とは違う。この河南が、敗北したという訳じゃないんだ。負けたのは、大公の一族。河南はこんなに活き活きとしているじゃないか……


「これをあの太后に、ただでくれてやるというのは面白くないな。李炎様には、この河南の力が必要なのだから……」

 周翼は、腕組をして考えながら部屋を出て、李炎の許へ向かった。


 李炎の姿は自室にはなかった。隣室にいた部屋係の者に尋ねると、北の水苑すいえんへ行ったのだと答えた。

「水苑?どの位前だ?」

「半刻程かと……」

「すぐに追い付ければいいが……」

「は?」

「いや、城下に出かける。夕方には戻るから。皆には、その様に……」

「かしこまりました」

 周翼は、自分の予想が外れていてくれることを祈りながら、小走りに水苑に向かった。




 水苑とは、水の庭園である。

 始皇帝がこの河南の城を建てた時に、南の湖水地方の田園風景を模して造ったものであった。水苑の広い池の上には、幾本もの道が幾何学模様を描いて通っている。その道の高さは水面とほぼ同じになっており、水上を歩く様な感覚が味わえるという趣向を凝らしたものである。空を映す水面に囲まれたその道を渡ると、天を歩いている様な気がすると言い、始皇帝はよくこの庭で思索にふけっていたとも伝えられている。


 周翼は、水苑の池の上に人影がないのを認めると、池を回って東側にある水門へ走っていった。この東の水門をくぐると、街へ伸びる水路へ出る。そして、その水門に繋いであるはずの小舟が、一艘無くなっているのを見つけて、周翼は溜め息をついた。


 もともと、城主がお忍びで出かける時に使っていた水路であるが、周翼達は子供の頃、城と屋敷を行き来するのに専らこれを使っていた。城門から入るのは、何かと面倒な取り次ぎが多かったから、彼らは裏口とも言えるこの水路を利用していたのである。水門を出て、水路を下っていくと、周家の屋敷の裏手にある水路に出るのだった。


「ひと月も城に籠りっきりというのは、退屈なのだろうけど……まだ、あまり出歩かれては、困るんだけどな」

 周翼は慣れた手付きで水門を開くと、残っていた小舟に飛び乗った。小舟は水門をくぐり、ゆっくりと細い水路へ入っていった。




 李炎は舟に揺られながら、横たわって空を見ていた。

 水路は、貴族の屋敷の並ぶ大通りと平行に、丁度、その屋敷の裏手を通っている。そして街を抜け、水路はやがて大運河梨花りかきょへと続く。李炎は、流れる雲を眺めながら、ぼんやりとしていた。別に、これと言って行きたい所があった訳ではなかった。どうして、城を抜け出そうと考えたのか。自分でもよく分からなかった。


……六年という歳月は、長いものだと思います。建物は変わらなくても、人を変えてしまうには……


 先日、周翼の言った言葉が、李炎の心に重く響いた。李炎には、自分のすぐそばにいる周翼が、何故か遠い存在の様な気がするのだ。


 昔とは違う――そんなことは分かっている。

 ただ、河南に戻って来て、周翼が傍に居る時間が増えた分、何と無く、以前より疎外感を感じるようになったのは事実である。

「……お前が迎えに来なければ、このまま海の果てまで流れていってしまうのだぞ」

 無意識に呟いて、李炎は溜め息をついた。


……我ながら子供染みている。何て事だ。私は、周翼が迎えに来てくれるのを待っているのか……


 李炎には、何も言わずに自分に仕えている周翼の真意が分からない。いつか、周翼が都に、劉飛の許に戻ると言い出すのではないか。そんな不安が、李炎の心から消えなかった。

 河南に来てから、周翼が、都の事を話題にすることはなかった。劉飛のことは勿論、華梨の事すらもである。それらを全て心の中にしまいこんでしまったかの様に、何も言わない。そしてそれは、周翼の中で、たとえ李炎といえども、踏み込むことの出来ない聖域となっていた。自分に対して、そういう聖域を持ち、一歩引いて接している周翼が、李炎には歯がゆかった。


 何故、昔のように、何でも言い合う事ができないのだろう。

 何故、自分は、周翼を信じる事が出来ないのだろう。

 何故、こんな、周翼を試すような真似をするのだろう。

 自分の心の弱さが、やりきれなかった。



〜辺境の王〜西へ向かい草原の国〜女神の姿見〜天の鏡〜映す姿は星の王女〜娘の名前は鴉紗という〜


「……歌?」

 透き通った女の声が、風に乗って李炎の耳に届いた。思わず身を起こした李炎の眼に、一瞬だけ女の姿が映った。

「うわっ」

 女だ、と思った瞬間、李炎の顔に何か固いものがぶつかって、彼はのけ反って舟に倒れ込んだ。

「あらっ、大変。ごめんなさい。大丈夫かしら?」


 彼女は、水路に架かる石橋に足を投げ出して座っていた。どうもその彼女の足が、李炎の顔を直撃したらしかった。彼女は空を見ながら、歌っていたので、李炎に気付かなかったのある。


「あら、あら、あら……気絶しちゃったのかしら。流されちゃうわ」

 女の声が聞こえたが、李炎は顔を上げるどころではなかった。だが、大きな水音がして、ふいに舟が止まったので、李炎は顔を押えながら何とか身を起こした。

「いつっ」

 起き上がった途端、頭痛と目まいがして李炎は船縁に掴まった。その李炎の手を、何か暖かいものが包み込んだ。

「え……?」

「ごめんなさいね。人がいらっしゃるなんて、思わなかったものだから……」

 女が船縁から顔を覗かせていた。そして、申し訳なさそうに李炎の手をとっていた。

「水路に飛び込んだのか?何て事するんだ……」

 呆れた顔の李炎に、女は安心したように笑った。

「ここは、それ程深くないですから、平気です」

「いや、そう言う問題ではなくて……」


「……楓弥ふみ、楓弥はいるか?」

 若い男の呼ぶ声がして、女がそれに答えた。

「こちらです、若様」

 程なく、橋の上から、男が顔を覗かせた。

「何を……しているのだ?もう、水遊びをする時期ではなかろう?」

「ちょっとした、事故なのでございます」

「訳は後でいい。早く上がってこい。風邪をひくぞ。そちらの御方、何かうちの者が、ご迷惑をお掛けしたようで……」

「いえ。私のほうも悪いのですから」

「お急ぎでなければ、うちへお寄りになってお休みしていらっしゃいませんか?」

「はぁ……」

「ああ、申し遅れましたな。私は、河南の会計監査官を努めます、杜狩としゅと申す者です」

 そう言って差し出された男の手を、李炎は何も考えないうちに取ってしまっていた。

「私は……燎羽と申します」

 不思議な事に、この時、李炎の中には何の警戒心も起こらなかった。

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