第33話 河南の意思

 水路から上がって木戸を通り抜け、屋敷へ続く小路を歩きながら、李炎は子供の頃、ここを幾度も通ったことがあるのを思い出した。


……ここは、周翼の屋敷だ。あの頃と、何も変わっていない……庭の木も、屋敷の様子も……


「素晴らしい庭園でしょう?我が家の自慢です。ここの、前の持ち主だった周公は、李王の参謀長を努めたお方でね、李笙騎の乱で負けて、処刑されてしまったんだが……私の祖父が、こういう河南風の趣の庭が好きで、そのまま残してあるのですよ」

「祖父殿……というと、もしや河南領官の杜礼とらい様ですか?」

「そう。ああ、ほら。丁度あそこに。祖父は、毎日、庭師を連れて、庭を見回っているんですよ。近頃では、庭園の手入れだけが、生き甲斐でね」

 杜狩が指し示した先に、白く長い髭の老人が、杖を片手に数人の男を従えて歩いていた。


「大旦那様は、楊桂様の右腕とまで言われたお方ですが、楊桂様が亡くなってしまわれて、河南領官といっても、今では名ばかり。退屈なさっておいでなのですわ」

 李炎の隣にいた楓弥が、杜狩の反応を伺うように言った。

「もういい加減、引退したって可笑しくない年だ。それをいつまでも、若いつもりで……」

「若様が、ご結婚なさるまでは、現役でいるとおっしゃられていましたよ」

「……楓弥。お前も、爺の味方なのか?」

「いいえ。楓弥は、誰の味方でもございません。思ったままを口にしたまでです」

「ふん」

「若様」

「なんだ?」

「……大旦那様が、こちらへ」

 杜礼が、杜狩達を見つけた様であった

 近付いてくる老人の鋭い視線が、何と無く自分に向けられているような気がして、李炎は身を固くした。




「……これは、ご城代様。よくお越し下さいました」

 そう言って会釈をした杜礼に、李炎は心臓が止まる思いがした。何と答えて良いのか分からずに、少年が黙ったままなのを見て、杜礼が微笑した。

「祖父殿。今、何と……」

 杜狩は、呆気に取られた様子である。

「この御方は、麗妃様の留守を預かる、河南城のご城代様じゃ。ほっほ……そう驚かれずともよろしいわい。全ては、麗妃様よりお伺いしております。明日にでも、城へ伺う所存にございました」

「城へ……私に会いに?」

「はい。麗妃様より、書状をお預かりしております。麗妃様がご出発の後、ひと月したらお渡しする様にと、言い付かっておりました」

 杜礼の眼が、李炎をしっかりと見据えていた。




 庭園の池に浮かぶ東屋あずまやに連れてこられた李炎は、杜礼から一巻の書状を渡された。その麗妃の書状に眼を通すと、李炎は何も言わずに、それをまた元通りに丸めた。眼前に控えている杜礼が、李炎の言葉を待つように少年を見据えている。

「お前は、全てを承知の上で、この役目を引き受けたのか?」

「はい。お話は、麗妃様より承っております」

「私の……出自の事も?」

「はい」

「ならば、燎宛宮に弓を引くことも、いとわないと……そう、申すのだな?」

「それが、麗妃様のご意向でございます」

「お前は、どうなのだ?」

「私の意思など、問題ではございませぬ。燎宛宮の支配下には納まらぬ……それが、この河南の意思でございます」

「成程……」

 李炎は、呟いて、何か考え込むように黙り込んだ。杜礼も、李炎を見守るように黙ってそこに控えていた。


 水上を渡る風が、李炎の頬を掠めた。

 水鳥の飛び立つ音が、その静寂を破った。

「失礼致します」

 明るい女の声が、それに続いて聞こえて、楓弥が姿を見せた。

「何じゃ?」

 杜礼が、険しい顔付きで尋ねた。

「はい。ご城代様に、お迎えの方がお見えです」

 李炎が池の向こうに眼を遣ると、杜狩の姿と、その隣にもう一人、見知った顔があった。

「……周翼」

「ご城代様は、忠実なご家臣を、お持ちですのね。あの方、ご城代様の事、とてもご心配なさっておりましたわ」

「忠実な……家臣。ああ、そうですね」

 楓弥の言葉を聞いて、李炎は少し寂しそうな顔をした。


 周翼が、自分の事を何かと気にかけているのは、自分がだからなのだ。何と無く、李炎はそう思った。


……周翼は、李家の軍師なのだから……


 自分が、麗妃殿の計画に乗るなどと言わなければ、周翼は多分、あのまま劉飛殿の許へ戻ってしまっただろう。そう思った。周翼を自分の許に繋ぎ止めておくには、自分は覇道の道を進むしかない。周翼はあくまでも軍師なのだ。それ以上でも、それ以下でもない。そういうことなのだ。ならば――

「皇帝になる……か」

 李炎の呟くような声が聞こえたのか、楓弥が驚いたように少年を見た。


「杜礼、委細承知した。城で待っている。明日にでも参れ」

「畏まりまして」

 李炎は立ち去り際に、楓弥を一瞥すると、付け加えるように言った。

「そなたも、参れ。陰謀の相談事では、場が暗くなるからな。華が欲しい」

「まぁ、お戯れを……でも、私は、若君の補佐官ですから」

「会計監査官殿にも、当然同席してもらう事になるだろう」

「そういう事でしたら、お伺いさせていただきます」

 楓弥は、うやうやしく頭を下げた。




 その夜は新月だった。

 周翼は、蝋燭ろうそくを片手に、城の一番高い楼閣ろうかくへと上った。

「光寄せの術……」

 周翼が、何事か呪文を唱えると、小さな蛍火が幾つも闇に浮かんで周翼の回りを飛んだ。その光達は、しばらく周翼にまとわり付くように飛ぶと、やがて何かに吸い寄せられるように天へ上っていった。周翼は、それを眼で追って、最後に北天七曜星に目を止めた。


「……指極星しきょくせいの君。智司ちし藍星王らんせいおう……」

 その声と共に、周翼の体が藍色の光に包まれ、それが彼の体から抜け出して、影のような、ぼんやりとした人型を成した。その影と向き合って、周翼は語りかける。

「……いずれ、都へ行くことになると思います。近いうちに」

 影が動いて、そこから声が響いてきた。

「お前が行くのは、あまり感心しないな。お前は、何でも一人で抱え込みすぎる」

「あなたも……でしょう?」

「私の事はいいよ。星王の事情はいろいろと複雑なんだ」

「人間の事情も、ですよ」

「行くのは構わないが、いいのか?劉飛や、華梨の事は……」

「会って……ちゃんと、さよならを言っておかないと……いつまでも待たせておくのでは、申し訳ないですから」

「もう、帰らないと……面と向かって言うというのか。残酷だな。ささやかな希望すらも、残してはやらないのか……」

 藍星王の責める様な口調に、周翼は、せつない顔をした。

「私は、本当は、ここにはいない人間です。余計な縁は、断っておくべきでしょう」

 周翼の言い分を聞いて、藍星王はため息をついた。

「お前を、巻き込むべきじゃなかったのかもしれないな。お前は、優しすぎるんだ。羅綺らき殿が、お前を冥王府めいおうふから連れ出すのを、反対なさった訳が、今なら分かるような気がするよ。私に恨み言を言っても、構わないのだぞ」

 藍星王がそう言うと、周翼は少し困った様な顔をして、笑った。


「六年前の風渡かざわたりの原……周翼は、あの時、あの場所で、もう死んでいるんです。でも、あの時の私には、やり残したことがいっぱいあって。それを、藍星王、あなたが私の力を必要として地上に連れ戻してくださった。感謝こそすれ、恨み言などありませんよ」

「全く、お前があの時に死んでいなければ、私がお前を覇王にしてやったものを」

「私など、器ではありませんよ」

「この私が、お前を選んだのだぞ。……まあ、いい。過ぎた事を言ってもな。しかし、私が、あの優柔不断な移ろいの風司ふうし紫星王しせいおうの後ろ盾となり、我が力を貸そう、というんだからな。皮肉と言えば皮肉な事だ」

「他の星王様方のご意向は……」

「……力づくというのは、性にあわないのだがな……聞く耳を持たぬ者の説得は、難しい」

「また……人がたくさん死ぬんですね」

 藍星王の影が揺れた。それは、音もなく、再び周翼を包み込んだ。


……もう、光寄せの術は使うな。そうやって、死んだものの言葉を聞いて……彼らの思いを負うのは止めろ……


「藍星王」


……お前のせいではないのだから……そうして自分を責めるものではないよ……お前は、星王ではないのだから……


「私は……」


……人は、神の領分に、足を踏み入れてはならない。それを忘れるな、八卦師よ……


 周翼を包んでいた光は次第に弱まって、やがて消えた。

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