第34話 都へ
数日後、河南から都へ、使者が発った。
河南領官
杜礼の送った書簡の内容は、彼の河南領官辞任の意を表明したものであった。
杜礼は当年七十八という高齢である。杜礼は、先々代の皇帝、炎雷帝が即位した折に
領官は、皇帝の意向を得て、宰相が任命するものである。だが、昔からの慣例として、前任者の推薦がある場合は、その者が任命される事が多かった。しかし、名を変えても、彼が、謀反人である蒼炎だという事は、周知のことである。その李炎を河南の領官に、というのは、どう考えても、難しい話だと思われた。ところが、燎宛宮に波紋を呼んだこの人事は、大方の予想を裏切って、杜礼の希望通りのものとなる。宰相と、そして何よりも、太后が肯定の意向を示した為だった。杜礼の公文書に添えられていた、宰相あての一通の書状が、その決定に大きな力を及ぼしたのである。
宰相が読み、太后が眺めて、すぐに焼却されてしまったそれは、周翼が李炎の名で書いたものだった。そこで彼は、皇帝の出生にまつわる秘密を盾に、李炎の河南領官着任を認めさせたのだった。
……私が河南領官となりし上は、私が陛下の秘密を守る盾となり、陛下の治世を守る忠実な臣下となるでありましょう……
その書状の結びの句を読んで、太后は無表情のまま、手元の
「……火種は、小さいうちに消した方が、良いのであろうな……」
「御意にございます。が……互いに、手負い同士、いまひとたび戦に晒されれば、死に至るやもしれません」
厄介な事に、周翼は、皇帝軍の内情に詳しい。それに、兵たちは先の戦で疲弊している。今この状態で、河南に兵を向けるのは、無謀というものであろう。そして恐らく、そこまでを読んでの、この
「わが軍に、河南を制する力は、もはや残っておらぬか……」
「残念ながら……」
「ふ、まあよい。しばらくは、好きにさせてやる。彼のものを、河南の領官に」
その一言で、全てが決まった。
「
面白そうにそう言った太后に、見上げる宰相の顔は、もはや血の気が失せている。この書状によって、天海は初めて雷将帝が女であるという事実を知ったのだ。動揺するなという方が無理であろう。
そして、この時から、蒼羽が、宰相という地位と共に引き摺ってきた因縁を、天海は否応なしに引き継がされる事になった。
「……帝国に皇帝陛下は、ただお一人。雷将帝陛下のみが、我が、お仕え申し上げる、皇帝陛下にございます」
天海は苦渋に満ちた表情で、ようやくそれだけ言った。
「さよう。この帝国の皇帝は、ただ一人じゃ……」
扇で口元を隠し、太后は低い声で笑った。
「火種が大火にならぬ様、気を付けねばならぬぞ。火の扱いは、難しい……」
「……心得てございます」
天海は、固い表情のまま、その場を辞した。
「此度だけじゃ……帝位が欲しければ、力尽くで奪うがいい。そうしてこそ、真の華煌の皇帝……真の覇王と申すもの。わらわの皇帝陛下じゃ……」
程なく、燎宛宮から、李炎を河南領官に任命するという辞令が届いた。
そして、三大公の乱は、新たな河南領官李炎が、皇帝と河南の和睦を取り持ったという形で終止符を打った。
河南公楊桂とその重臣であったものは死罪。――但し、河南公はすでに病死している。
河南公息女麗妃は、皇族の身分を
そうして、河南は河南領官李炎の下、皇帝の支配下に戻った。
月が変わって、大陸歴二百四十八年の十二月。
講和の締結の為に、河南領官補佐となっていた周翼が、李炎の代理として都へ赴く事が決まった。
「……お呼びと伺いましたが、何か?」
杜狩が、いつもの陽気な調子で部屋に入ってきた。李炎は、頷いたが、すぐには言い出しにくいようで、何かを思案するように黙っていた。杜狩は、李炎が河南領官になってから、会計監査官の他に、周翼の推挙で李炎の参謀官に取り立てられていた。
「……都へ。周翼と共に、都へ行ってはもらえないだろうか?」
「都、でございますか?まあ、領官様が行けとおっしゃれば、地の果てにでも参りますが……しかし、私などが参りませんでも、周翼様お一人で、用は足りましょう」
杜狩が理由を尋ねる様に、李炎に切り返した。
「……そういう事とは……少し、違うんだ」
李炎が口ごもる。
その表情を読む様に、杜狩は、しばし李炎の顔を眺めていた。そして、間を置いてから、声を下げてささやく様に言った。
「……周翼様の事が、ご心配なのですか?」
杜狩の言葉に、李炎が驚いた顔をした。
どうやら、図星だったようである。
杜狩は周翼が、つい最近まで皇騎兵軍屈指の武将、劉飛の片腕であったという事を耳にしたことがあった。周翼は李炎に同行した事で、いずれは皇帝と、そして、それを守る立場にある劉飛と、敵対する事になる場所にいる。今までとは、全く逆の立場に立っているのだ。一人の人間が、そう簡単に自分の主義を変えられるものなのか……杜狩自身も、周翼に対して、一度はそう思ったことがある。だが、周翼の、李炎に対する忠誠心に、嘘があるようには見えなかった。
「大丈夫ですよ」
杜狩はあっさりと言った。
周翼は、すでに河南の中枢を占める位置にいる。それを疑ってかかったのでは、河南は内から崩壊することになる。何よりも、李炎が
「私は、河南の外を知らない田舎者ですからね。周翼様のお供をして、都を見ておくのも、勉強になりましょう」
自分が同行する事で、李炎様の気が済むのなら、それでいい。杜狩は、不安げな顔の少年に笑ってみせた。我々の、王となられる御方。もっと、強くなっていただかなくては……
燎宛宮という温室で、地位も名誉も、当たり前のように手にしていた李炎が、外の世界の容赦ない風に馴染むまでには、いま少し時間が掛かりそうであった。
杜狩が、周翼の都行きに同行すると告げた時、周翼はただ、何気ない様子で、
「そうですか……」
とだけ言った。
だが、その時の僅かな表情の変化で、杜狩には、周翼は自分が同行することの真意、即ち、自分が彼を監視する為に同行するのだという事を、分かっている様に思えた。
「やれやれ……前途多難だ」
杜狩が憂うつそうに愚痴をこぼすと、側で書類整理をしていた楓弥が一人言のようにぽつりと言った。
「大きな魚ほど、釣り上げるまで手が掛かるものですわ……」
杜狩は楓弥を見たが、彼女は顔も上げずに帳簿の計算に没頭している。
「大きな魚?」
思わず聞き返した杜狩に、楓弥が手を止めて顔を上げた。
「新しい領官様は、天下を釣り上げるお積りなのでしょう?」
――天下を釣り上げる。
その言葉が、杜狩の野心をくすぐる。
そう、自分は、その一翼を担っているのだ。
不思議な女だ、と思う。楓弥の言葉には、魔力でもあるのか……あれほど重かった気分が、気がつけば軽くなっている。
……俺は、強運を手に入れたのかも知れない……
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