第35話 再会と別離

 周翼の一行が華煌京に入ったのは、月の半ば過ぎであった。

 内乱の後始末を新年にまで持ち込みたくないという雷将帝の意向で、講和の締結はわずか数日の内に処理された。


「……予定より早かったな」

 やや疲れた様子で周翼が言った。

「都見物でも、して行きますか?」

 杜狩がそう言ったが、周翼は首を振った。

「私はいいよ。少し、疲れてしまったから……杜狩、お前はゆっくりしてくればいい。李炎様には、私から言って置くから」

「周翼様がお帰りになるのに、私だけ遊んでいく訳にはいきませんよ」

「仕事熱心なんだな、杜狩は」

「皮肉でしょうか?」

 笑って言い返した杜狩に、周翼はつられて口元を綻ばした。

「いや……お前が居てくれて、本当に良かった。感謝している」

「周翼様」

 ちょっと照れた様にそう言った周翼は、勢い良く椅子から立ち上がると、窓の手摺を飛び越えて、裸足のまま庭に下りた。そしてすぐ側の木の枝に両手を掛けると、慣れた仕種で梢近くまで上っていった。

「……時々忘れてしまうんだが、まだ十六なんだよなぁ。大した御方だよ。あなたに出会えて、感謝しているのは、私の方ですよ。なかなか、楽しい人生が送れそうだ」

 杜狩は周翼を見守りながら、語りかけるように呟いた。



 翌日になって、周翼は熱を出して寝込んでしまった。

 医者の見立てでは、過労だろうという事だった。この為、一行は、図らずもしばらく都に留まる事になった。しかし、周翼の体調は良くなる兆しを見せずに、微熱が続くまま年を越した。



 新年が明けて数日した頃、宰相の使いの者だという少年が、周翼の見舞いに訪れた。

「星海か?」

「兄ちゃん、少し痩せちゃったな」

 星海は真新しい近衛の隊服を纏って、腰には剣を下げ、以前より落ち着いた顔をしていた。

「……俺、天海様の養子にしていただいたんだ。それで、今は、近衛に見習いで入ってる」

「それは、良かったな。何だか、随分大人っぽくなったな。見違えた」

「そうかな……なら、ちょっと嬉しいかな」

「そんなに早く、大人になりたいのか?」

「うん。誰よりも強くなって、お守りするって決めたから……優慶様の事」

「優慶様って……雷将帝陛下?」

 星海はこっくりと頷いた。

「そっか……」

 周翼は星海の視線を外してうつむいた。


「……ねぇ、兄ちゃん。雪妃、俺が預かってるから……」

「ああ、雪妃」

 周翼は、その名前を懐かしそうに呟いた。

「兄ちゃんの帰って来るの、待ってたんだ。だから、迎えに……」

「雪妃は、お前にやるよ。あれは、雷将帝陛下から頂いた馬。もう、私には乗る資格がないから」

「兄ちゃん……華梨様も、劉飛兄ちゃんも、みんな……みんな兄ちゃん帰ってくんの待ってんだぞっ。なのに、何で、また河南なんかに行っちゃうんだよ」

「星海……」

「華梨様、兄ちゃんはもう河南の人だから、会わないなんて言うんだ。河南の人って、何なんだよ?兄ちゃんは、兄ちゃんじゃないか。何で……俺、分かんないよっ」

 星海の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。

「何でなんだよぉ」

「……ごめん」

 周翼は、その一言で全てを済ませてしまおうとする自分が、とても卑怯な様に感じた。言ってやりたい事は沢山あった。だが、周翼には、何を言っても言い訳にしかならないことが分かっていた。だから、それ以上のものは言葉にならなかったのだ。



 星海が帰ってからも、周翼の心の中では、星海の訴える様な姿が消えなかった。熱のせいもあるのだろうが、いつ迄も寝付けずに、周翼は幾度も寝返りを打った。

「……杜狩」

 昼近くになって、意を決したように周翼は杜狩を呼び寄せて、すぐに河南へ出発する事を告げた。

「まだ、お加減がすぐれないのでは……」

 周翼の顔色を見て、杜狩が心配そうに尋ねた。

「いいんだ。大丈夫だから……」

「では、すぐに馬の用意をさせます」

「頼む」


……私は、意気地無しだな。このまま、河南に逃げようとしている。藍星王……私には、自分の罪と向かい合う勇気がないんだ。劉飛様にも、華梨にも……別れを告げて、彼らの中から、私を消し去るべきなのに。せめて、想い出の中では、きれいなままで残っていたいなんて……憎まれるのを、こんなに恐れているなんて……




 周翼は、もうろうとする意識を辛うじて正気に保ちながら、馬に乗った。

 眼前の門がゆっくりと開かれていく。

 それが、やけに遅い様に感じられた。ようやく、門が開き、周翼が鐙を入れようとした時、目の前を黒い影の様なものが横切った。ふいに銀色の光が現われて、顔を掠めた。その瞬間、肩に痛みが走った。その痛みのお陰で、周翼の意識がはっきりした。

「曲者だっ!」

 杜狩の叫び声が、周翼の耳を刺した。周翼は反射的に手綱を短く持って身を屈め、鐙を蹴った。

「追えっ。奴が逃げたぞっ」

 後方から、無気味な声が周翼を捕える。

「……私が狙われているのか。一体……どこの刺客だろう……」

 半ば人事のように、周翼は呟いた。



 どのぐらい走ったのだろう。

 一体、どちらに向かって走っているのか……それさえも、周翼には分からなかった。


 馬に揺られるうちに、再び意識が不安定になっていた。手綱を握る手が自分のものとは思えないほど、掴んでいるという感覚がすでになかった。そして、程なく全身に衝撃を受けて、気が付くと周翼は地面に倒れていた。


 体が重かった。

 上半身を起こしてみると、覆面をした刺客達に取り囲まれていた。

 それでも、戦意は起こらなかった。全てが物憂くて、現実が鬱陶しかった。


「こんなに大勢で追っ掛けてくるなんて、私は、全く、人気ものなんだな……」

 周翼のとぼけた台詞に、刺客達は、緊迫感を削がれた様子でお互いの顔を見合わせた。

「何すっとぼけた事言ってんだっ。さっさと、目ぇ覚ませ、周翼っ!」

 馬の蹄の音に交じって、聞きなれた声が周翼の耳に響いた。

「……劉飛……様?」


 剣を交える鋭い音。

 人の呻き声。

 そして人が倒れる鈍い音。

 それらの音の中で、劉飛が剣を手に舞っていた。

 周翼は、その光景に魅入られた様に、空ろな瞳で、彼の人の姿を追っていた。

 そして――


 目の前に、血潮ちのりで赤く染まった剣があった。

 その剣先は、ぴったりと周翼の喉元を捕えている。そして、その剣の向こうに、劉飛の姿があった。


 乱れた呼吸を整える様に、長い呼吸を繰り返しながら、周翼を見据えている瞳には、言い様のない怒りが込められていた。周翼には、劉飛の視線を反らさずに受け止めることしか出来なかった。

「……俺に、何か、言いたい事はあるか?」

 劉飛が声を搾り出すようにして、ようやくそれだけ言った。

 劉飛が、周翼にどういう答えを言って欲しいのか、周翼には分かっていた。だが、周翼には、それは言うことが出来ない答えだった。


……もう、これ以上待たせては……いけない……


「……何も」

 周翼の一言で、劉飛の眼から怒気が消えた。

「……そうか。ならば、次に会う時は、お前は俺の敵なんだな」

 抑揚のない静かな声で劉飛はそう言うと、剣を納めた。

「この次は、体の前で止めたりしない。この剣で、必ずお前の体を貫く」


 劉飛の言葉は、その一つ一つが剣を突き立てるような激しい痛みを伴って、周翼の心に深く刻みこまれていった。その痛みを感じながら、周翼は自分もまた、劉飛の心に深い傷跡をつけてしまったのだと思い知った。

 劉飛はそのまま何も言わずに、背を向けて馬に乗り、走り去った。それが、周翼が最後に見た少年の姿の劉飛だった。




 周翼は、朦朧もうろうとした意識の中、ずっと馬車に揺られていた。

 幾度か眼を覚ましたが、その度に、薄暗い馬車の天井を見て、また馬車の振動に身を任せて眠りに就いた。


 どのぐらい眠っていたのだろう。

 幾晩か幾日か……


 周翼が、何度目かに目を覚ました時、馬車の揺れはなくなっていた。周翼は、柔らかな蒲団に包まれていた。大きな窓から、明るい日差しが差し込んでいた。その光の向こうに、青い水の平原が続き、彼方の水平線で空と二分されていた。

「……ああ、海か……って……えぇっ……海っ?」

 周翼は思わず身を起こした。

「ここは……」


琳鈴りんれい。病人が寝ているんだぞ。こんなに部屋に光を入れたりして……」

 開いている扉の向こうの続き部屋から、若い男の声が聞こえてきた。

 それに続いて、お転婆そうな少女の声がする。

「十日振りのお天気ですもの。締め切ってたりしたら、太陽がもったいないわ」

 そして扉から、その声の主と思しき女の子が顔を覗かせた。


「あら、お目覚め?兄上、お目覚めよ、お客様」

「お、やっと起きたか、お客人」

 少女の頭をぽんと弾いて、青年が大股で部屋に入ってきた。

幻亀げんき先生の薬は良く効くんだが、眠りすぎるのがいけないな。お客人、気分は?」

「……悪くないです」

「そうか、それは結構。お天気の日に目を覚ますなんて、ついてるぞ。ここじゃ十日に、一日二日晴れりゃいいって位なんだから」

「あの、ここは……」

「ああ、岐水きすいだよ。まず、自己紹介だな。私は、岐水領官の稜鳳りょうほうという者だ。あれは、妹の琳鈴」

「岐水……領官……」

 周翼は、岐水という地名を、頭の中の地図上に探した。

 西畔に近い、秋白湖畔の南側にその村はあった。


「皇帝陛下に、新年のご挨拶に行って来た帰り道に、街道筋の出来たての、死体の山の中からお前さんを拾ってきた、という訳さ」

「そうでしたか。助けていただいて……」

「元、皇騎兵軍こうきへいぐん大尉で、天海元帥の幕僚の一人。で、今は、河南領官の補佐官をなさっている周翼殿……ですな?」

 陽気な稜鳳の瞳に、瞬間、鋭い光が走った。


「……良く、ご存じですね……」

 周翼は、警戒心を抱きながら、稜鳳の様子を伺った。が、次に稜鳳の口から出てきた言葉は、思いがけないものだった。

「そんな若いうちから、あんまり無理をしないほうがいいぞ」

「え?」

「いや、天才軍師だの、謀反人だの、詐欺師だの、陰謀家だの……って言われている、燎宛宮で噂の周翼様とは、一体どういう御仁なのかって、興味津々だった訳なんだが……何ていうか、どうも、お前さんには、似合わないんだよな。そういうの」

 言われて、周翼は自嘲めいた笑みを浮かべた。

「私は、見掛け通りの人間じゃないんです。この外面は、中味を偽るためのものなのですから……」

 周翼が疲れたように、溜め息交じりにそう言うと、稜鳳は突然笑って、周翼の背中を勢い良く叩いた。

「大丈夫だ。根っからの悪人は、そんな事考えもしないさ。ま、皆、それぞれ、いろいろ事情がある。見掛け通りのままの人間なんていやしないさ。皆、心の中にいろんな傷を抱えてる。そういうの、背負いながら生きてるって訳だ。そんなに思い詰める程の事じゃないぞ。何も、お前だけが特別だって訳じゃないんだから」

「……ええ。そうなんですよね……」

 皆、傷ついている……劉飛様、華梨、麗妃様、李炎様……

 心の中でその名を呼ぶと、何故か、彼らの笑った時の顔が、周翼の心に次々と浮かび上がった。


 気がつくと、涙が周翼の頬を濡らしていた。その涙を、慌てて拭おうとした周翼の手を、稜鳳が掴んだ。

「気の済むまで、泣いたほうがいい。今のお前さんには、それが必要だ。私は、いなくなるから」

 そう言って、手を離した稜鳳を、今度は、周翼のほうが捕まえた。

「側に……いて下さい……」

 稜鳳は黙ったまま頷くと、周翼を抱き寄せて、その背を数度優しく叩いた。その温もりの温かさに、心にわだかまっていたものが、溶かされていくような気がした。そして、全てを洗い流す様に、涙が止め処なく溢れ出していった。

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