第31話 恋は落ちるもの

「華梨殿!」

 不意に劉飛の声がして、白星王の気配は消えた。

「こんな所で何をしているんです!あなたはっ。塔の上で大人しくしていろと……」

 その劉飛の声に、麗妃が振り向いた。


 刹那、劉飛と麗妃の視線がまともにぶつかった。劉飛は驚いた様に、その場に立ちすくんだ。


 劉飛はこの時、麗妃の顔を初めて見た。今まで、戦場で相対したことは何度かあったが、甲の下に隠された麗妃の素顔を見る機会はなかったのである。

「鬼……姫……?」

 彼女が見覚えのある真紅の鎧を纏っていたことで、劉飛はかろうじて、それが麗妃であると確認することが出来た。だが、そう呟いたまま、劉飛はその場に立ちすくんで、動かない。――いや、動けなかった。


 この人に剣を向ける事は、出来ない――劉飛はそう思った。


 心の中で、その不可解な感情の理由を捜し回ったが、その時の劉飛には、それを見つけることは出来なかった。


 一目惚れ――

 この時の彼の心理状況を簡単に説明すると、まあ、そういう事である。



 燎宛宮への侵入者を捜して、兵達が近付いてくる気配が伝わってくる。この時、劉飛は理屈よりも、その感情に従った。

 劉飛は剣を下げたまま、麗妃の方へ近付いた。反射的に、麗妃は劉飛に対して剣を向けた。だが、その麗妃の剣を、劉飛の剣が弾き飛ばした。


 一瞬のことに、麗妃は何が起こったのか分からなかった。剣を持っていた手がしびれ、自分の手にあったはずの剣が大きく孤を描いて、回廊の柱に突き刺さるのが見えた。

「こっちだ」

 そう言って劉飛が、麗妃の手を掴んで引っ張った。

「なっ……?」

 驚いた麗妃は、その手を振りほどこうとしたが、劉飛は麗妃を掴む手の力を、更に強める。

「何をする。放せっ……」

 なおも手を振りほどこうとする麗妃に、劉飛が怒気を込めて言った。

「大人しくしろ。死にたいのか?」

 その勢いに圧倒されて、半ば、引き摺られるように、麗妃は劉飛に手を引かれたまま、燎宛宮の庭園の奥へ姿を消した。

「……星が呼び合う……もしかしたら、まだ、希望はあるのかも知れないわ。……ねぇ、星司の白星王」

「華梨殿、あなたも早く!」

「はい」

 劉飛の呼ぶ声に応えて、華梨もその後を追った。


 その日の日暮れが来る頃には、燎宛宮の騒ぎは大方納まっていた。

 大公軍の奇襲に、浮き足だった守備隊の兵達であったが、敵兵の数が少なかったこともあり、どうにか大公軍を華煌京より排除する事ができた。




 陽が落ちてから程なくして、星見の宮から、人目を避けるように二つの人影が現われた。麗妃を連れた劉飛である。


 麗妃は感情を無くしたかのように、その顔は無表情で、生気というものがまるでない。ただ、自分の手を引く劉飛の導くままに歩いている。

 劉飛は時折後ろを振り返り、そんな麗妃を心配そうに見たが、適当な言葉が見付からずに、話しかける事も出来なかった。河南の鬼姫と言われた程の女丈夫であるはずの麗妃だが、この時の彼女は、どこか儚げで、手を離したら今にもこの夜の闇の中へ消えてしまいそうな、そんな感じがした。


 北の城門の辺りは、昼間の戦闘で死んだ者達の屍がまだ片付けられずに、そこかしこに残っていた。その人々の間を、燐火りんかが青白い光を発しながら浮遊している。そこを通り過ぎていく、劉飛と麗妃の気を引くかのように、燐火は二人の側を幾度となく掠める様に飛んでいた。


 戦の中で生きてきた彼らにとって、こんな光景を見るのは初めてではない。だが、こういう光景を目にする度に、死んでいった者へ、その死は無駄ではなかったと、はっきりと言ってやれない自分の無力さを、劉飛はいつも痛感する。

 戦によって利を得る者は、それによって権力を手にする一握りの者だけなのだ。兵とは、彼らの道具として使い捨てにされるもの。戦略図の上で、兵を駒の様に動かす人々は、その駒の一つ一つが感情を持った人間であるということなど考えはしない。


……せめて、死者が眠りにつくまでの僅かな時間でいい。戦のない平和な時があれば……


 死者の冥福を祈る間もない。

 まさに、世は乱世であった。



「馬を貸してやるから」

「……」

「河南へ帰るんだ……」

「……河南には、戻らぬ……私は、河南を捨てた身だ。もう……どこにも戻る場所など……」

 麗妃が生気の無い声で、呟くように答えた。

「何でもいい。西畔せいはんでも、湖水こすいでも、火見ひみでも。とにかく、一刻も早くこの都から出るんだ」

「私は、いずこにも落ち延びようとは思わぬ。皆、死んでしまったというのに、一人で生き延びて、どうしろと言うのだ。私一人が生き残って……」

 その瞳から、涙が溢れそうになるのを辛うじて押し留めて、麗妃は顔を背けた。

「頼むから、生きていてくれ。その……うまく、言えないけど……」

 劉飛が何かを言いかけた時、北門の見張りの兵が、二人に気付いて誰何した。


「私は皇宮警備隊、隊長付補佐官、劉飛だ。城壁の外の見回りに出る。門を開けろ」

「何人たりとも、ここを通すことは出来ぬ。これは、陛下の勅命である」

 そう言いながら、明かりを手に彼らの前に現われた人物を見て、劉飛は自分の目を疑った。

「……天海様。なぜ、このような所に」

「そなたを待っておったのだ。城の八卦師が、ここに来ると教えてくれたのでな。連れは、麗妃様、だな?」

 劉飛は、反射的に麗妃をその背に庇った。

「……劉飛。その御方を燎宛宮より連れ出す事は、このわしが許さぬ」

「しかし……」

「劉飛、そなた、これ以上事を起こせば、燎宛宮にはいられなくなるぞ」

「覚悟の上です」

「馬鹿な事を。全く、若さというは……陛下も、麗妃様のご境遇にはご同情を示されておる。悪いようにはせぬ。ここは、わしに預けよ」

「しかし、天海様……」

 更に食い下がろうとする劉飛を、麗妃が押しとどめた。

「……宰相殿のお宜しいように。私は、宰相殿と一緒に参ります」

 そう言って、麗妃が天海の前に進み出る。

「麗妃様っ……」

「劉飛殿……私の様な女に関わってはなりません。皇家の人間は、呪われた血の持ち主。これ以上、禍の種を増やすは、この国の為にならぬ事……そうですね?宰相殿」

 天海は麗妃の問いに、複雑な顔をして、ただ頷いた。




 燎宛宮にまで敵が侵入したということで、太后は不機嫌な様子だった。その愚痴をまともに被ったのは、宰相の天海であった。烈火のごとく怒りをぶちまける太后を、天海は適当になだめて、早々にその場を退散した。太后の小言から解放された天海が執務室で一息ついた時、彼の許を華梨が訪れた。


「お疲れの所、申し訳ありません」

「何、これも役目のうちでな。わしなどが宰相というには、ちと役不足なのだがな。他に、出来るものがおらぬ故の。まぁ、あと十年もすれば、劉飛がわしの後を継いでくれるじゃろう。年寄りの夢想では、そういう展開になって居るのだが……」

 天海の本気とも冗談ともつかない言葉に、華梨は笑みを浮かべる。

「麗妃様の件、お骨折りいただきまして、ありがとうございます」

「そなたが、そう申すのだからな。それが最善なのだろう。何しろわしは、そなたの才に惚れこんでおる」

「恐れ入ります」

「で、先日の話だが、どうじゃ?考えてみてくれたかな」

「……あの方は、不思議なお方ですね。何か、人を引き付けるものを持っていらっしゃる。陽の光が、大地の全てを包み込むような、そんな大きな力をお持ちです。ただ、人の上に立つ者としては、純粋すぎるとお見受けしましたが……」

「そなたなら、それを補佐できよう」

「彼の人と一緒にいれば、きっと、退屈しない日々が送れるのでしょうね……失ったものを嘆く暇もない程に」

「おお、では……」

「はい。このお話、お受けいたします。周翼様ほどうまくはできないでしょうけど、劉飛様の副官として、出来る限りのことはさせていただきます。この帝国の未来のために……ところで、天海様。麗妃様の処遇は、如何なりましょうか?」

「うむ。実は太后様には、まだ見付からぬということにしてあるのだ。今少し落ち着かれてからの方がよかろうと思ってな。いずれ、時を見てお話しする積もりではおる」

「麗妃様は、大公軍の右将軍までも務めたお方……太后様がお許しになるでしょうか?」

「分からぬ。……が、実は、陛下が、太后様を説得なさると申されておる」

「陛下が?ご自分から、その様に?」

「如何にも」

「そうですか」

 華梨は嬉しそうに言った。少しずつだが、色々な事が、良いほうへ動き始めている。そんな予感めいたものが、華梨の心の中にあった。




 燎宛宮の西宮の一室に麗妃はいた。毎朝定時に、天海が挨拶に訪れる他は、見張りの兵が、日に数度食事を運んでくるだけである。


 ここへ来てから数日が過ぎていたが、麗妃は食事も取らず、また、眠っているという様子もない。ただ、窓辺に腰掛けたまま、身動き一つせず、ぼんやりと空を眺めているだけである。その瞳に映るものは、瞳の上を掠めるだけで、彼女の心の上には何の像も結ばなかった。彼女の心は、無くしてしまった過去を探して虚空をさ迷っていた。


「……麗妃様」

 白色とも銀色とも見える光が、麗妃を包んだ。麗妃は窓の外に顔を向けたままだったが、彼女の口から微かな声が漏れたのを、その訪問者は聞いた。

「……華梨か」

 八卦の力で、自身の影だけをその場に送りこんだ、半透明の華梨の姿が宙に浮いていた。

「食事をお取りにならないとか……そんなことをなさっていては、お体にさわります」

 華梨の言葉を聞いて、麗妃が薄笑いを浮かべた。

「そう簡単には、死なせて貰えぬ。星王の守護を受けるものは、その役目を終えるまで不死に近い。緑星王が、私を必要としている限り、私は自由に死ぬ事もできぬのだから」

「目的が果たされるまで、我等も、星王の持つ宿命を共に負う……それが、星王との盟約……」

「盟約など……覇業を成すなど、とんだ茶番だ。七人もの覇者が出て、地上が平穏でなどあるものか……」

 麗妃が思いを吐き出すように言った。


 星王の力を人間に自在に使わせることで、その者が地上の覇王となれば、その星王が天上の支配者となるのだという。ただ、今までは、地上に下りる星王は一人だけだった。四天皇帝の指命を受けた、選ばれた星王が、新たな四天皇帝となる儀式として、地上に覇王を誕生させるのである。


 今度の星王降臨を、藍星王は、自分達は天上界から追放されたのかもしれないと言っていた。

 天上界での異変は謎のまま、星王は地上に封じられている。そして、星王が手っ取り早く天上界に戻る方法はと言えば、覇王の擁護者として、四天皇帝の位を手に入れることであった。逆に言うと、星王が天上界に戻る方法は、今のところそれしかないのである。


 だが、そうして天上界へ戻れるのは、七人のうちただ一人だけであった。

 一体、誰が戻るのか……未だにその結論が出ていない所を見ると、星王達の間にも、何か複雑な事情があるらしかった。そして、星を司り、未来見の異名を持つ白星王の力をもってしても、その混迷の先を見通す事は、まだできなかった。


「盟約が、このように重いものだとは……分からなかった。ただ、あの時は力が欲しかった。楊蘭様のお役に立ちたくて……楊蘭様をお守りしたくて……ただ、それだけだったのに……」

 麗妃の頬を、涙が銀の雫となって滑り落ちた。その名を口にして、麗妃は楊蘭の存在が、自分の中でいかに大きなものだったか改めて思い知った。


「私が、星王の力を望んだばかりに、楊蘭様を戦いの中に巻き込んでしまったのだ。私のせいで……あんな、羅刹の手に掛かって……死なせてしまうなんて……私のせいで……」

 麗妃は、うつむいて、静かに肩を震わせながら声を立てずに泣いていた。


 人前で涙を見せる事は、武人に有るまじき事。女でありながら、剣を持ち、武人としての道を選んだときから、他のものよりも事更に、武人であるという事を意識してきた彼女にとって、泣くという行為自体が自己の主義に反するものだった。

 そんな麗妃の、押えつけられた感情の激しさを現わすかの様に、彼女を緑色の光が包みこみ、その光は果てしなく強くなっていった。

 その光を見詰めたまま、華梨もまた、手にした力と引き換えに、自分が失くしてしまったものを思い、深い溜め息をついた。

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