第8章 星々の出会う
第28話 降格処分
その入り口に立って、華梨は、しばし部屋の中を眺めていた。窓は、ずっと閉じられたままで、薄暗い部屋の中は埃っぽく、空気が淀んでいる。
「戻って来たんだわ。やっと、私の場所に」
燎宛宮で一番高い北の塔。
その最上階に造られた物見の為の部屋。
別称を星見の宮という。
都へ来て、初めに隠れ住んだこの部屋が、燎宛宮の中で華梨の一番好きな場所であった。
ややあって、思い切ったように部屋に足を踏み入れて、華梨は、部屋の窓を開け放った。外は夕暮れで、天上の星々がちょうど輝き始めた頃であった。
「ほらね、ここからだと北天七曜星がよく見える」
城壁を越えた向こうの、
「こりゃ、ひどいな。どこもかしこも埃だらけだ」
不意に後ろで声がして、華梨は振り向いた。そしてその声の主が知った顔であるのを確認すると、ほっとした様な顔をした。
「驚かさないで……びっくりするじゃない」
「言ったろ?俺は、閑人なんだって。お姫様の監視が、目下最重要のお仕事なんだ」
「退屈なお仕事、ご苦労様。ご自慢の剣が錆びないよう祈ってるわ、劉飛様」
「星見姫の華梨殿のお祈りなら、さぞかし効き目があるんだろうな」
「さあ、どうかしらね。願った事すべてが叶うなら、誰も苦労はしないわ。さあ、そんな所に突っ立っていないで、手伝ってちょうだいな。ど、う、せ、お暇なのでしょう」
華梨に言われて、劉飛は面倒臭そうに返事を返した。
一体、この女の頭の中はどうなっているのだろう。父親に弟、それに恋人と一度に別れてしまったのだ。そして、自身はこんな人も訪れぬ様な、寂しい場所に引き篭もるという。それなのに、悲しみに暮れるでもなく、ただただ平然としている。気丈なんだといっても、半端ではない。
彼女の義弟、蒼炎が謀反を企て、この都から河南の大公の許に逃亡したのは、ほんの十日ほど前のことである。蒼炎の犯した罪のために、宰相であった彼の義父、蒼羽はその地位を追われ、辺境の
代わって帝国宰相の位に就いたのは、
一方、劉飛は蒼炎を取り逃がした事で、太后の不興を買い、皇騎中隊准将の任を解かれ、燎宛宮の
今回の謀反事件と、それに伴う宰相の交替は、燎宛宮の人々に、少なからず動揺をもたらした。唯一、大公軍との戦が、休戦状態にあったことが救いであった。燎宛宮の人々のほとんどがそう考えていた。しかし、彼らはこの時まだ、河南の鬼姫、麗妃が、この都を指して進軍中であるということを、知る由もなかった。
ところで、劉飛が、華梨の監視役というのは表向きの話で、実を言えば護衛役という方が正しい。
新しく宰相となった天海は、その人望においても、政治力においても、前宰相と比べて劣るものではなかったが、ただ、太后とあまり折合いが良くないという点において、その仕事に必要以上に気を使うことになった。劉飛は天海の右腕的存在であったから、蒼炎を捕えられなかった劉飛を表に立って庇うという訳にいかず、太后の手前、かえって厳しい処分をしなければならなかったのである。
結果、劉飛は皇宮守備隊へ転属となった。だが、天海が、皇帝の意向を汲んで、劉飛に密かに命じたのは、華梨の護衛であった。
劉飛が、天海と合流して都に戻ったのは、五日前のことである。だが、劉飛は、太后は勿論の事、皇帝にも目通りを許されず、謹慎処分を受け、そのまま屋敷に籠もるはめとなった。そうして、劉飛が日々憂鬱な気分と寝食を共にしていた頃、燎宛宮では天海の宰相就任と、それに伴う人事の大異動が行なわれていた。勿論、太后を立てての事であるから、すべてが天海の思い通りになったという訳ではない。劉飛を巡ってのその処分についてもご多分に漏れず、太后の意向を大いに考慮したものとなった。
宰相天海が、その屋敷に劉飛を訪ねたのは一昨日のことだった。
劉飛の降格を条件に太后から、謹慎処分の解除と出仕の許可を取り付けての事である。
その朝、劉飛は久し振りに、着慣れない宮廷服に身を包み、天海の来訪を待っていた。士官以来、ほとんど戦場で過ごしてきた劉飛が、宮廷服を纏う事は希である。
劉飛がその華美な衣装に身を包んで、宮中に出向けば、女達が鈴生りになってついてくるだろう、と言ったのは、天海だったが、生憎、劉飛はそれを試した事はない。
劉飛が宮中に伺候する時は、軍服に帯剣というものものしい出で立ちで、愛想も振りまかぬから、女達も張り合いがないのだ、と璋翔が、息子が未だに独り身なのを嘆いていたとか、いないとか……。劉飛自身、女嫌いという訳ではないが、戦が一段落着くまでは、それどころではない。という心境である。なまじ、若くして出世してしまったために、今はその責任を果たすので手一杯なのである。
天海は午後になってようやくやって来た。
数日ぶりに会った天海が、心成しか少しやつれな様な気がするのを見て、劉飛はその多忙ぶりを察した。天海は過日の戦で負った傷を養生する暇もない様子で、杖をついたまま歩きにくそうに歩いている。その手を取りながら、劉飛は、自らのことばかりを思い悩んでいた自分が、ひどく恥ずかしいものに思えた。
「お体の具合はもう宜しいのですか?」
「まあ、ぼちぼちとな。薬師はまだあまり動くなと言うのだが、帝国宰相が寝所に居っては政が滞るのでな」
「お呼び下されば、私のほうから参りましたものを、わざわざお越し下さいまして、恐縮にございます」
「いや……燎宛宮では周囲が騒がしいでの」
「……?」
「辞令を渡す前に、言っておきたいことがあるのだ」
「はい」
「この度のお前の復職を、太后様は快く思ってはおらぬ。そもそも、陛下がお前をお気に入りなのが、太后様には気に入らぬ。これはまあ、いつもの事じゃがな……太后様には、此度の謀反騒ぎに乗じて、そなたを陛下のお側より遠ざけようとのお心積もりがあったようにお見受けした」
「……はぁ」
特に向こうから好かれたいという人物ではないが、そこまで嫌われているとなると、少々厄介ではある。
……執念深いので有名なんだ。あのお方は……
一度不興を買った者を、そう簡単に許すような人物ではないのは、誰でもよく知っている。だから天海程の者でも、そのご機嫌取りには、神経を使うのだ。
太后が皇帝のお気に入りの者達を、次々に遠ざけてしまうという話は、いまや燎宛宮で知らぬ者はいない。ここ数年のうちに、皇帝に仕える者の大半が様々な理由により、その地位から去っていた。
急病により亡くなった者。突然、捕えられ投獄された者。地方の閑職に飛ばされた者……等々である。そんな太后の力を恐れ、皇帝に肩入れしようとする者など、もう宮中にはいない。
「あまり、顔を会わせない様に心掛けていたんですけどね。それも甲斐のない事でしたか……」
劉飛の言い分に、天海は苦笑する。
「……お前は、まだ若いな。会わずば、済むというものではなかろう。時には、贈り物でも持って、ご機嫌伺いをしておくものだ」
「しかし、私は」
「身の保身のためには、時には不本意とて、汚い手を使わねばならぬ事もある。お前の力はお前だけのものではない。この帝国にはなくてはならないものなのだ。その点を心に留めておくのだな」
天海の意図するところは、劉飛には分からなかった。だが、天海が宰相として、何やら遠大な未来図を描いていることだけは感じ取った。そして、その未来図の中で、劉飛の果たす役割は、どうやら彼が思っているほど簡単なものではないようであった。
「取り敢えず、出仕は明日からだ。皇宮警備隊の
「……皇宮警備隊、でございますか?」
やや拍子抜けしたような様子の劉飛に、天海は頷いた。
「皇宮警備隊指揮官補佐。これがお前の新しい仕事だ。太后様の手前もあってな、元のままという訳には行かぬのは、分かって貰えるな?」
「はぁ……お察し致します」
「まあ、しばらくの間だ。すぐに、皇騎兵軍の方へ転属させてやる。手柄の一つ二つ立てて待っていろ」
太后に睨まれているのでは、しばらく大人しくしている他はなさそうである。だが、周翼のいない今、たった一人で、知っている者もいない所で、今までのように巧くやっていけるのだろうか……天海とて、忙しい身なのだ。そうそう劉飛ばかりにも、かまけていられないだろう。そう考えて、劉飛は改めて、周翼がいかに彼の精神的な支えであったかを思い知った。劉飛の冴えない表情にその心情を読み取ったのか、天海が口を開いた。
「……華梨を存じておるか?」
「は?華梨殿ですか。はい。二、三度、お目に掛かった事はございますが……」
「しばらく星見の宮に移るそうだ。その、華梨の護衛をお前にやって欲しいと、陛下から内々にお言葉があった」
「どういう事でございましょうか……?」
「華梨も、太后様と折合いの悪い口でな」
……例の北境送りの件か……
太后が、華梨の父、蒼羽と共に彼女を北境の牢へ流刑にしたのを、雷将帝が止めさせたという話は、劉飛も聞いていた。太后の決めた事を、雷将帝が強引に止めさせたという。
雷将帝が即位してからずっと、華梨は皇帝付き女官として、一番近いところで仕えていた。恐らく、雷将帝にとっては、宮中で一番気を許せる存在なのだろう。いわば、雷将帝の一番のお気に入りという訳だ。そう考えると、太后が華梨に、何らかの危害を加えるかもしれないという話も、さもありなんである。しかし、お役ご免になった女官を、そこまで気に掛けるというのは、末は、華梨を妃候補にでもする心積もりなのか……まだまだ、子供だと思っていたが、七歳といえば、そろそろそんな事も考え始めるのか……
「……しかし陛下が、それほどまで華梨殿にご執心だとは存じませんでした」
つい、口をついて出た言葉に、天海が顔をしかめた。
「陛下は、ご自身のことをよく分かっておられる。ご自分の力となる者、この帝国に本当に必要な者を、分かっておられるのだ」
邪推した劉飛をたしなめるように、天海が言った。
「申し訳ございません。ただ今のは、失言でございました」
劉飛は慌てて頭を下げた。その頭の上から、天海の静かな声が聞こえてくる。
「……いずれ華梨は、お前にとっても、大切な者となろう」
「……?」
天海の含みのある言葉に、劉飛は顔を上げ、その顔をうかがった。しかし、天海の表情から、その意味をうかがう事は出来なかった。
「しっかりと、お守りするのだぞ。よいな」
「はい……」
天海がそこで席を立ってしまったので、劉飛が、この言葉の意味を知るのは、もう少し先のことになった。
劉飛は、華梨という少女が、宰相の娘であるということぐらいは知っていたが、特別親しく言葉を交すような間柄ではなかった。ただ、周翼の想い人の少女がそういう名前である。その程度の認識だった。だから、ごく最近、会話を交わすようになって初めて、自分が勝手に思い描いて華梨像と、現実の彼女があまりにも掛け離れていた事に、実は、劉飛は驚かされていた。
もっとも、彼がもう少し、宮廷内の風聞に注意を払っていたら、彼女が宮廷の変わり種であることは、すでに分かっていたはずなのであるが、彼もまた、そう言う事には疎いのだから、それは仕方のないことである。
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