第29話 鬼姫襲来

 部屋を一通り片付け終わった劉飛は、何気なく室内を見回して、華梨が窓辺に座って夜空を眺めているのに気が付いた。どうも作業がはかどらないと思ったら、部屋の主である華梨は窓辺で呆けていたのだ。


「全く、手伝ってねが聞いて呆れる。おいっ、こっち終わったぞ、お姫様」

「……」

 華梨は呼ばれても返事一つしない。

「何してんだ。一体……」

「……天動星の後に、天光星が来たわ」

「は?」

「嵐が来るかも知れない」

「嵐……って……七星八卦術か?」

「よくご存じね」

「華梨殿が、本当に八卦師だとは思いませんでしたよ」


 前に、その不思議な力を目にしたことはあったが、その時は、貴族の姫君がきまぐれに八卦師の真似事をしているのだと思ったのだ。周翼の様に、星見を日課にしているとなると、これはかなり本格的である。


「私は、八卦師ではないのよ。星見術せいけんじゅつを少しかじっただけ。八卦師って、生涯独身でいなければならないの。だから、修業も途中で止めてしまったわ」

「それは、もったいない」


 貴族の生まれではない劉飛から見れば、八卦師の才があるということは、この乱世のなかでも、それなりの身分の保証を得られる、ということである。もっとも貴族である華梨にとっては、そんなことを気に止める必要はないのだろうが。


「あら、だってやっぱり、好きな人がいたら、その人と結婚したいって思わない?」

 同意を求めるように、華梨が劉飛の顔を覗きこんだ。

「……周翼が、好きだったんですか?」

 その名前を聞いて、華梨はせつない顔をして微笑んだ。

「……ずっと、片思いだったわ」

「そんな馬鹿な。だって周翼は、あなたが……」

「そうなのよ。子供の時からずっと。周翼はいつだって、李炎が一番なんですもの。今度だってそう。結局、私より、李炎を選んだのだから」

「李炎?ええと、李炎っていうのは……」

 独り言を言うように呟く、華梨の話の内容を理解しかねて、劉飛が口を挟んだ。

「蒼炎の事よ、私の義弟の。私達、幼馴染みなの。河南の城が楊桂に奪われるまで、そこで三人一緒に育ったわ」

 河南の城で育った。彼女はそう言った。

「まさか蒼炎殿は、李家の……」

 蒼炎が李家の嫡子だというならば、周翼は始皇帝の時代から、幾度も宰相を出している河南の名家、周家の人間ということになるんじゃないだろうか。


……住む世界が違う……


 そう考えて劉飛は、突然、周翼がとても遠い世界の人間であるような気がした。

「……もう戻ってこないかもしれないな」

 呟いて、劉飛は溜め息をついた。

 周翼は元々いた、本来の場所に戻った。――そういう事なのだ。


 劉飛は、彼に背を向けたままの華梨に、何か言おうとしたが、その小さな肩が、微かに震えているのに気付いて、そのまま声を掛けずに部屋を出ていった。


 多分、華梨は天に一番近いこの場所で、星々の声を聞きながら、たった一人で泣くのだろう。気丈なばかりの姫などではない。人前では、ずっと涙を隠していたのに違いないのだから。


……ようやく泣ける場所を、見つけたんだな……


 劉飛は延々と続く階段を降りながら、そう思った。




 砂宛区さえんくの砂漠の地平線上に、かすかな砂煙が上がったのを初めに見つけたのは、星見の宮にいた華梨だった。麗妃の率いる大公軍、わずか三百騎の騎兵である。


「何故あのような所に兵が……」

「まだ星を見るには、早すぎるだろう?」

 そう言いながら、劉飛が姿を見せた。

「ああ、劉飛様。良いところへ」

「また何かか?俺に出来る事なら、何でもしてやるぞ。どうした?何でも言ってみろ」

 昨日とは打って変わって、自分を気遣う様な劉飛の口振りに、華梨は思わず苦笑した。


 そう言うつもりではなかった。

 華梨自身、人前で泣くことが出来るとは思わなかった。ただ昨日、劉飛が側に居てくれて、気持ちが緩んだのは確かだ。

 人を安心させてくれる。この者には、そういう気がある。


……心根が真っ直ぐで、優しいお方……確かに、そうね……


 前に、周翼が劉飛を評した言葉を思い出す。だから、傷つき易くもある……

 それを守るのが、自分の役目だと言っていたのに。


……あなたの放り出していったお仕事を、私が継ぐべきなのかしら、ね……


「ちゃんとした、お仕事ですのよ。皇宮警備隊副隊長、劉飛様。あれを」

 華梨が指し示した窓の外に目を遣って、劉飛はその白い指の先にあるものに視点を合わせた。

「どこの兵だ」

「当節、燎宛宮に剣を向けるものは、北の蛮族か南の大公軍……」

 塔上で見ている彼らの前で、その砂煙は瞬く間に大きくなり、兵馬が華煌京の城壁へと迫ってくる。

「あの旗印は……ありゃぁ、河南の鬼姫だ」

「鬼姫?」

「河南公の一人娘、よう麗妃れいひだよ。あの真紅の鎧には戦場で何度かお目に掛かっている。しかし、こんな作戦を立てるなんて……無謀な。一体、何を考えてるんだ」

「南の街道には璋翔しょうしょう様がいらっしゃるし、どうしてもこの燎宛宮に来たいのなら、北からと……理屈には合ってましてよ。大方、海路で来て、北口村ほっこうそんあたりに上陸したんでしょうね。でなければ、北河ほくが天橋てんきょうあたりまで船で来たか……ってとこかしら」

「奇襲は夜やるものだよ。こうして、見付かってしまうからね」

「劉飛様、どちらへ?」

「愚問。お仕事だ。ここに居ろよ。奴等、さすがに、ここまでは上がって来ないだろうから、ここなら多分安全だ。心細い様なら、誰かよこすぞ」

「結構よ。高みの見物をさせてもらうんだもの、退屈なんかする訳ないわ」

 華梨の返答に、劉飛は肩をすくめて、部屋を飛び出していった。




 華煌京の北の城壁。

 そこでは、すでに城壁を守っていた兵達と、麗妃の兵達の間で戦いが始まっていた。


 北壁は、華煌京の守りの薄いところであったから、麗妃の狙い所はそれほど悪くなかった。この時、ここを守備していた兵は百人余しかいなかった。

 麗妃軍が城壁の上から雨のように降り注ぐ矢を巧みに避けて、城壁に取り付いたのが警備隊の援軍が北壁に着くよりもわずかに早かった。間をおかず、城壁内に入り込んだ兵が北の城門を開いた。劉飛が駆け付けたのは、ちょうどこの時であった。


 劉飛と同じく、油を売っていた警備隊の隊長を捜すのに手間取った結果のことである。しかし、隊長就任以来、未だかつて実際の戦闘に遭遇した事がないという幸運に恵まれていた隊長は、怯えるばかりで役にたたず、結局、劉飛が実戦の指揮を執るはめになった。


「中門を閉じるのだ。伝令!第三中隊を西側へ回せっ!」

 彼の怒鳴り声を聞いて、伝令の兵が走り去った。

「何してるんだ!囲い込め!突破されてしまうぞ!」


 兵の動きが遅い。

 日頃の訓練がなっていないのだ。

 劉飛はわずか数分の戦闘でその事を悟った。


 思えば、優秀な兵は皆、河南の戦線へ送られる。燎宛宮に残っている兵など、近衛を除けば役立たずなのである。しかし、頼みの綱になるはずだった近衛兵は、隊長であった蒼炎の謀反にその大半が追従してしまっていたから、現在近衛隊は事実上解散してしまっており、再編成のめどはたっていないという現状であった。


「なんてこった」

 呟きながら、劉飛は真紅の鎧を捜した。劉飛が、その視界に麗妃を捕えたとき、彼女は閉じかかっていた中門を突破し、華煌京の中へ進入した。

「追えっ!敵は中門を突破したぞ。一兵たりとも燎宛宮に近付けてはならぬ!」

 劉飛はそう叫んで驪驥りきの鐙を蹴り、麗妃を追った。

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