第27話 手から零れ落ちた星
そこにあるはずの無い気配を感じて、伽羅は、息苦しさを覚えた。引き寄せられる様に、その気配を辿って、回廊を進む。彼女の良く知っている気配が、少しずつ、間近に迫ってくる。
「……なんでやろ」
自分にとって、その気配は、とてもいとおしく大切なものだったはずだ。そう感じるのに、何故それは、いつも自分の敵として現れるのか……何故いつも、刃を交えることになるのか。
……なんやのん。緋燕って……
訳が分からない。自分にとって、緋燕という存在は、どういう意味を持つものなのか。
「伽羅!」
麗妃に呼ばれて、伽羅は我に返った。
気が付けば、楊蘭の部屋の前に立っていた。この扉の向こうに、緋燕がいる。
「姫さん、中に八卦師の気配が……」
……来るんじゃない……麗妃!来ちゃ……いけない……
麗妃のもとに、再び楊蘭の声が届いた。苦しそうな、今にも消え入りそうな声である。弾かれるように、麗妃は扉を押し開けて、部屋に踏み込んだ。
「これは、河南公、麗妃殿」
麗妃は自分にそう呼び掛けた男を見、更にその足元で、楊蘭がその身を血に染めて倒れているのを見た。そして、この部屋で何が起こったのかを、瞬時にして悟った。
「貴様!」
そう叫んだ時にはもう、麗妃は腰の剣を抜き、緋燕に切りかかっていた。
すんでの所で、緋燕はその剣を受けてかわし、横に飛んだ。体勢を立て直して着地し、同時に、片手で印を結ぶ。
「
緋燕の声と共に、今度は光の刃が、麗妃に襲いかかる。
「結界、氷龍の陣」
とっさに、伽羅が麗妃の前に回りこんで叫ぶ。空中の水分を集めて結晶化した氷の壁が、二人の盾となり、緋燕の攻撃をかわした。
「姫さん、下がってて。奴は、羅刹や。まともにやりあって、かなう相手やない……」
伽羅が皆まで言わない内に、麗妃は、再び緋燕に切りかかる。
「姫さん!」
麗妃は怒りに我を忘れ、半ば正気を失っていた。伽羅の声など、耳に入らない様だった。麗妃の剣戟の勢いに、緋燕は、術を仕掛ける間を得られず、しばらく激しい剣の応酬が続いた。
伽羅は、二人の間に入ることも出来ずに、ただ、その場に立ち尽くしていた。
「
一瞬の隙を突いて、緋燕の声が麗妃の動きを封じた。緋燕は肩で息をしながら呼吸を整えると、剣を取り直し、麗妃に切りかかった。
「姫さん!」
間に飛び込んだ伽羅の短剣が、緋燕の剣を受け止める。
「どうして……こんな事するんや、緋燕。姫さんに手ぇ出したら、このあたしが承知しない……」
「随分と、飼い慣らされたものだな」
緋燕が皮肉交じりの言葉を返す。
「道理で、本来の力も、記憶も封じられた状態で、平然としていられる訳だ」
「なっ……」
その言葉に、伽羅は動揺した。
「そんなだから、奴に付け込まれる!」
緋燕が伽羅を床に叩き付けた。その衝撃で、伽羅は動くことが出来ない。
「伽羅!」
麗妃が、怒りに満ちた瞳を閉じた。
「……天空の
麗妃の声が響き渡った時、天より緑色の光の塊が落ち、彼女を包みこんだ。
と同時に、麗妃を縛っていた気が四散して消えた。
手にしていた剣が、緑色の光を帯びて輝く……
「…お前が、緑星王の守護せし者だというのか」
緋燕は思いがけない事に、その場に立ち尽くしている。麗妃がその剣を、緋燕向けて一振りすると、緋燕はひとたまりもなく吹き飛んだ。とっさに防御の陣を張り、致命傷は免れた様だが、緋燕の受けた衝撃はかなり大きかったようだ。
「貴様は、
麗妃の問いに、緋燕は不敵な笑みを浮かべた。
「ふっ……八卦などと、小賢しい策を弄し、私の邪魔をした報いを与えたまでだ」
そう言って、剣を取り直し、立ち上がった緋燕に、麗妃は冷ややかな視線を浴びせる。
「黙れ……羅刹ごときが、愚かにも、この緑星王に剣を向けるか」
「地司様は、まだ覚醒半ばとお見受けする。羅刹退治には、力不足でありましょう」
「試してみるか?貴様、楊蘭様に手を掛けて、生きてここから出られると思うな」
麗妃はそう言い放ち、緋燕に向かって剣を振り下ろした。
剣先からほとばしる光が、大音響と共に、部屋の壁を吹き飛ばした。だが、その光は、わずかに緋燕を捕え損ねた。麗妃は舌打ちをして、続けざまに剣を振る。今度は、緑色の光の刃が、緋燕を捕えた。
その体は、頭から左右に二分された……
「緋燕!」
その瞬間、伽羅は自分でも気付かぬうちに、羅刹王の名を呼んでいた。
……消えてしまった……
そう思ったとき、伽羅は自身の心の中に説明のつかない空虚な感覚を覚えた。
だが、そのすぐ後で緑色の光が完全に消え去ったとき、麗妃がいまいましそうに、その剣を床に突き刺したのを見て、伽羅は緋燕が逃げおおせたのだと知った。そして、無意識に強く握り締めていた手から、突然力が抜けていくのを感じた。
「姫さん……」
「逃げられたわ。この緑星王の力をかわすとは。奴は、何か大きな力に守られている……」
「……れい……ひ……」
楊蘭の微かな声が、麗妃の耳に届いた。
「楊蘭様……」
麗妃が楊蘭をそっと抱き起こすと、楊蘭は弱々しく微笑んだ。
「少しは……あなたの役に立てればと思っていたのだけど……麗妃……」
楊蘭が、苦しそうに息を吐く。
「喋らないで」
「……ああ……緑の光が……大地の女神様の……ようだね……すごく綺麗だよ……」
「楊蘭……様?」
楊蘭は、静かに瞳を閉じた。
そして、ほっとした様に大きく息を吐くと、そのまま眠るように息絶えた。
「楊蘭様!」
抱きかかえた楊蘭の体から、しだいに温かみが失われていく。麗妃は、その温もりを逃すまいと、楊蘭の体を強く抱いた。
不意に、涙が零れ落ちた。
楊蘭の死を、麗妃の本能が感じ取ったのだ。
だが、その心は、まだ、目の前の事実を受け入れられないでいる。麗妃は、すがる様に、楊蘭の胸に顔を埋めた。しかし、そこからはもう、生きている証は聞こえてこなかった。
「……なぜ、こんな事に……」
あふれ出る涙をとどめるものは、もう何も無かった。
心に湧き上がる、楊蘭に対する想いに翻弄されながら、麗妃は、ただ悲しみに身を委ねていた。
やがて顔を上げた麗妃は、無言のまま楊蘭の亡骸を抱きかかえ、隣室へと姿を消した。
しばらくして戻ってきた麗妃は、やや固い表情で床に刺さっていた剣を抜くと、それを鞘に収めた。
「都へ行く」
「麗妃様!?」
「……絶対に許さない。あの男だけは」
そう言って部屋を出ていこうとした麗妃は、そこに周翼が立っているのに気付いた。
「敵討ち、ですか」
冷めた目で自分を見据える、周翼の瞳から逃れる様に、麗妃はその視線をはずした。
「藍星王、周翼。私の行く手を遮るというなら、例えあなたでも……」
「少し、冷静になって下さい」
「周翼、私は……」
「私に言い訳など、必要ありません。それよりも、あなたに緑星王を納得させる事が出来るんですか?星王はその力を使うものには、かつて交した盟約に基づいて覇王としての義務を要求する。それが果たされぬときは……」
「すべて、承知の上です」
「……命を掛けて、と?」
「楊蘭様がいないこの世の生など、何の価値も無い……」
麗妃の決意は、容易には変わりそうになかった。楊蘭を失った悲しみに、麗妃はこの世への執着がなくなってしまっている。周翼には、麗妃を止める手立てが思いつかなかった。悲しみを癒す時間があれば、頑なな思いを解きほぐす手立てもあるだろうに。だが、このまま麗妃を死なせる訳にもいかない。
「……ただ敵討ちというのでは、都へ行かせる訳には行きません」
「……」
「命を掛ける覚悟があるというなら、皇帝の首をお取りなさい」
「何?」
「さすれば、覇王としての使命は果たせましょう。それに、緋燕は燎宛宮の持ち駒。楊蘭殿の敵と言うなら、雷将帝が、真の敵という事でしょう」
「雷将帝……」
元を正せば、楊家の崩壊は、あの者が帝位に即いたが為に始まった。雷将帝さえ、即位しなければ、父、楊桂も破滅する事はなかった。そして、楊蘭が命を落とすこともなかったのだ。
麗妃が顔を上げた。その瞳には、元来の力強さが戻っていた。
「かつて、楊蘭様は、あなたに河南を託すのだと、そうおっしゃっていました。あなたになら、この河南の力を使い、帝国を支える新たな柱を創ることが出来るだろうと」
自分が河南に呼ばれた理由を聞かされて、周翼は、楊蘭の慧眼に舌を巻いた。
「あなたが、楊蘭様の願いをお聞き入れ下さるというなら、李炎の為にも、この命に代えても雷将帝を葬ってご覧に入れましょう」
「麗妃殿……」
「私怨の為でなく、河南の為……ひいては、この帝国の為に。それならば、緑星王とて文句はあるまい」
やや強引な理屈だが、怒りのままに八卦師を追いまわすのだというよりは、まだましだろう。そもそも、緑星王云々以前に、この河南の者たちを説得出来なければ、兵を動かすことなど出来はしない。
「いいでしょう。……ただ、刺し違えるというお覚悟は立派ですが、この周翼、あなたに、ただの負け戦をさせるつもりは、ありませんよ」
言われて、麗妃の表情が和らいだ。
「頼もしいな、周家の軍師殿は……」
軍師。そう……それが、自分の役割なのだ。
「軍議を開く。皆を招集せよ」
伽羅に命じて、麗妃は部屋を後にした。
ただ、運命という言葉で片付けてしまうには、現実はあまりにも重い。この先、いったい自分達はどこへ流されていくのか。麗妃を見送りながら、周翼は自分たちの行く末に思いを馳せ、人知れず溜め息をついた。
雨が降っていた。
音もなく大地に降りそそぐ霧雨である。
命を失ったものを追悼するように降るその霧雨が、この地上の全ての音を消し去ってしまったかのように、城の中は静まり返っていた。
周翼が、髪を濡らして戻ってきた。それに気付いた少年が、つぶやくように言った。
「行かれたか……?」
「はい。李炎様」
呼ばれて、少年はふと笑った。
「李炎か……この名の為に、本当に多くのものを無くしてしまったな」
「無くしたものよりも、得たものの大きさをお考え下さい」
「ふふ。ものは、言い様だな。軍師殿は、口が上手い」
「恐れ入ります」
「そういえば、義父、蒼羽の後任が決まったそうだな」
「は、天海殿と聞いております」
「天海殿か……麗妃殿とはよくよく縁があるようだな。麗妃殿は海路をとって都へ参られるそうだな。おまえの入れ知恵か?」
「ささやかな、手向けにございます。
「今度の戦、勝てると思うか?」
「結果はどう出るにせよ、少なくとも、李炎様のお役には立ちましょう」
そう答えた周翼に、李炎は意外そうな顔をした。
「何か?」
「いや。お前が、そういう言い方をするとは思わなかったから……」
李炎の言葉を聞いて、周翼が笑った。
「私は、軍師でございますから。李炎様、この帝国を統治するには、武人としての力量も大切ですが、それ以上に政の技も必要でございます。全てが、光の中を歩むようには参りません。影のものも押し包んでなお、光を失わぬ強さを持つ者を覇王と申すのです」
「覇王……」
その言葉が李炎の中に、強く刻み込まれた。
麗妃は、留守の間の、河南公代理として、李炎を河南城の城代として指名していった。だが、元より、戻る積もりの無い出立である。
この日より、李炎は、城代という名の元に、河南城の主となった。
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