第7章 落星
第23話 若様と爺や
河南の南東に
都から、海路で河南へ向かう場合、この梨花が河南への玄関口となる。梨花から河南までは、始皇帝の跡を継いだその息子、
彼は、農作物の収穫が始まるこの時期になると、河南地方の村々を数ヶ月かけて順に回る。村々の作物の出来や収穫高を見てまわり、農民に適切な租税が課されているかを調査して回るのである。河南の財政状況を一番正確に把握している人物が、この男、杜狩であった。
「坊ちゃま、船が参りました」
「……爺、その、坊ちゃまという呼び方、何とかならないか?私とて、もう二十五。子供ではあるまいし……」
「なんの、爺に言わせていただければ、まだまだ子供でいらっしゃいますわい。奥方もまだ、お迎えでございませぬしの」
「……」
杜狩は肩をすくめて船に乗り込んだ。
近頃、やたらに身を固めろだの、結婚しろだのという言葉が耳元を掠めていく。そういう事を率先して勧めにかかっているのが、この老人であった。正直なところ、結婚など、今の彼にとってはどうでも良いことであった。仮に、ある日、目の前に花嫁を連れてこられて、これがお前の妻だと言われれば、声も聞かず、顔も見ずに結婚してしまうかもしれない。
「……女の相手などして、人生を浪費するなど、つまらぬわ」
老人に聞こえないように、杜狩は呟いた。
何か、大きな事がしたい。
そんな野心が彼の中にはあった。
……この河南は平和すぎる。天河を渡った向こうは、戦場なのだぞ……
「それにしても、坊ちゃま……」
「……爺や」
「若、この度の大旦那様の急なお呼び……何事でございましょう。若のお仕事も、まだ半ばでございますのに」
老人の問いに、杜狩の瞳が輝いた。
「時代が、変わるのだ」
そう言って、杜狩は空を仰いだ。
祖父、杜礼の使者が彼にもたらしたのは、河南公楊桂の病死と、大公軍が秋白湖で敗北し、全軍が河南へ撤退したという知らせであった。その知らせを聞いた時、杜狩の中で何かが動き始めた。時代が変わる。杜狩は直感的にそう感じた。
……あのお姫様が、河南公の跡を継ぐ……
果たして、麗妃とは、私の将来を託すに相応しい主君だろうか。女だてらに軍事の天才だというが、新しい河南公として、この地を治めるに相応しい方なのか。見極めねばならない。仕事熱心な杜狩が、その仕事を半ばで切り上げて、祖父の言う通りに帰郷する決心をしたのは、そういう訳であった。
河南は、帝国の第二の都と言われる街である。実は、始皇帝が最初に都を置いたのがこの地であった。三代目の
街へ入ってからずっと、周翼は馬車の窓に顔をくっつけたまま、往来を行く人々を興味深そうに眺めていた。向かい合わせに座っている蒼炎は、ここ数日間の逃避行の疲れが出たのか、ぐっすりと眠っていた。実に六年振りの帰郷であった。
彼らが追われてこの地を後にした時、河南はもう復興出来ないであろうという程、荒廃していた。河南公という人物の、その政治的手腕もさることながら、乱の後で、新たにこの地に移り住んだ人々の生命力の強さに、周翼は感服していた。
李笙騎の乱の後、この河南を復興するために、河南公は
肥沃な土壌と質の高い労働力。大公が皇帝軍との戦いを継続させながらも、この河南を支えられたのは、この新しい民達の力による所が大きかったと言える。
通り沿いに並ぶ屋敷の一つに、見覚えのあるものを見つけて、周翼は思わず身を乗り出した。そこは、周翼の生まれ育った屋敷だった。六年前と何ら変わらず、その屋敷は、そこにあった。
外装などが、きれいに手入れがされている所をみると、誰か新しい住人がここに住んでいるのだろう。
「……あれが、まだ残っていれば……逃げられるかも知れない」
何かを思い出したように、周翼は呟いた。城まではまだ少しかかる。
……問題はあの羅刹だが……やってみるか。蒼炎様、すぐに戻ります……
眠っている蒼炎に軽く頭を下げると、周翼は手に印を結んで気を集めた。
「……飛空術。帰還の技。我が地上の生命点へ……光玉ひかりだまのもとへ」
馬車の中から、周翼の姿が消えた。
兵の先頭にいた伽羅は、後方で大きな気が移動したのを感じて、振り返った。
「大人しくしていてもらわんと、困るんやけどな。全く、手の掛かること。隊長さん、この馬、ちょっと頼みますわ」
伽羅はそう言うと、隣にいた男に手綱を投げた。
「伽羅殿っ!」
馬がいなないた。その一瞬のうちに、羅刹の娘は馬上から姿を消していた。
周翼が姿を現わしたのは、屋敷の裏手にある井戸の前だった。辺りに人の気配のない事を確認してから、周翼はその井戸の中を覗き込んだ。その中は漆黒の闇と静寂が支配していた。
「……光玉。お前の力をもう一度、私に貸しておくれ。眠りし闇の力、その封印を解きて、我が許に戻れ」
周翼の声が井戸の中に響いた。そして、僅かな間。井戸の底で、何かが光った。
「……良かった。まだ、残ってる。来いっ!」
周翼が勢い良く右手を上げると、井戸の中から光の塊が飛び出して宙を飛び、静かに彼の手の中に納まった。淡い蒼い光を帯びた水晶球が、少年の手の中にあった。
その水晶球は、八卦師が使うものであった。水晶球には、八卦師の力を増幅する働きがある。これを使えば自己の能力以上の術を使う事が可能となるのである。一般に、修業によって、高度な技を身につけた八卦師は、水晶球を使う必要はないのだが、水晶球には、その術の精度を高める働きもあると言われ、術に正確さを持たせる為にこれを使う事もあった。
周家の当主となるものは、代々、李家の軍師として仕えていた。だが、どちらかというと彼らは軍師というよりは、八卦師であった。ただ、八卦師には、その修業の為に生涯を独身で過ごさねばならないという戒律があった為、周家の者は、自らを軍師と称したのである。
結婚し、子を成すという事は、自身の血を分ける事であり、気を分ける事である。気とは、八卦の術の源になるものであるから、気を分けてしまった者には、八卦の奥義を極める事は出来ないというのである。
八卦の始祖である
周翼も、周家の者として、当人の意志に関わりなく、幼い頃より軍師としての教育を受け、八卦の修業をしていた。といっても、それも特別なものではなく、代々伝えられた必要最低限の知識と技である。それは、軍師としての八卦師になるためのものに過ぎなかった。
だが、この少年は、八卦師としての才能を自身の力によって開花させてしまったのである。吸い寄せられるように、修業にのめり込み、いつの間にかその奥義の虜となっていた。しかし、六年前、この河南を去る時に、周翼は八卦師を捨て、水晶をここに沈めていた。その力を使う事を自らに禁じ、河南を後にしていた。
「また、振り出しに戻ってしまったんだな。あれば、使う用が出てくる、か」
手の中の、ひんやりとした水晶の感触を確かめるように、周翼は指先に力を込めた。
「動くんじゃないよ」
突然、背後に人の気配が現われた。
「羅刹」
「この伽羅様の目を掠めて、逃げられるとお思いかい」
「……」
伽羅がゆっくりと、周翼の前方へ回り込んだ。伽羅が周翼の正面に立った時、周翼は伽羅と視線を交して軽く笑った。
「なっ……」
次の瞬間、周翼の姿が跡形もなく消えた。
「何やの。あの子の力……ちょっと、待ちいや」
伽羅は慌てて周翼を追った。
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