第24話 俺様の補佐官
予定より早く着きすぎてしまったらしかった。川面を渡る風が、ほんの少しだけ夏の間のそれとは違う。秋の気配がもう間近に来ていた。
「待ちやっ!」
突然、女の声が風に乗って杜狩に届いた。運河の対岸に並んでいる、行商人の市の雑踏中で、どよめきが起こった。行商人の小さな天幕の一つが、突然吹き飛んで、運河にその残骸が飛び散った。その後に、銀髪の女と、少年が対峙していた。それを遠巻きに、やじ馬が見物している。
「あれは、確か、お姫様の羅刹。……あの少年は、一体何者だ?羅刹に術を仕掛けるなど、何とまあ、無謀な」
杜狩は事の成り行きに気を引かれて、いつの間にか立ち上がっていた。
星見以外の術を使うのは、周翼にとって六年振りのことである。それに、もともとが、八卦の使い魔である羅刹とでは、分の悪い勝負であった。
実は、八卦術は鴉紗が考え出したものという訳ではない。八卦師の始祖といわれる鴉紗であるが、正確には羅刹の妖術を八卦術として体系だて、再編したという方が正しい。羅刹が八卦に似た術を自在に使うというのは、その為である。
「いつまでも、逃げられると思うんかい?全く、往生際の悪い。……
伽羅の手から光の帯が伸び、それが鳥の形を成してはばたいた。その光の鳥は、いったん天高く舞い上り、それから、獲物を見つけた猛禽の様に急降下を始めた。
「結界、
周翼は左手で水晶を掲げ、右手で印を結んだ。見えない空気の壁が彼を包み込んだ。
「何ていう闘気だろう。羅刹は戦いの一族と言うけど……くっ、気力の差が、ありすぎる……」
光鳥の翼が、周翼の上にのしかかるように大きく広がっていく。
「うわっ……」
周翼を包んでいた気の塊が、羅刹の光鳥に押し潰される様に裂けた。光鳥の鋭い
「そうら、仕上げや。
伽羅がそう叫んだ途端、二人の姿は影も形もなくそこから消えていた。
「いてっ」
対岸でこの騒動を見守っていた杜狩の頬を、何か固い石の様なものが掠めた。
「……これは、水晶の破片か」
足元に小さな水晶の欠片が落ちていた。杜狩がそれを拾い上げて、陽に透かしてみると、その小さな欠片の中にほんの一瞬、少年の顔が浮かんだ。そしてそれは、まるで雪のように音もなく、彼の手の中で跡形もなく溶けて無くなった。
……あの少年、何者なのだ……
杜狩は、自分の手の中で消えた少年に、大きな関心を持った。
杜狩は屋敷に着くなり、その雰囲気がいつもと違う事に気が付いた。家来達がどことなく落ち着かない様子なのである。その訳は、間も無く分かった。彼が自分の部屋に足を踏み入れると、目の前に女が座って頭を下げ、そこに控えていたのである。
「……ここで、何をしている」
「私は、
「誰に言われて……」
「領官様に。お見合いというものなのだそうです」
「見合いぃ?冗談ではないぞ。あの狸じじい」
部屋を飛び出しかけた杜狩を、楓弥が慌てて呼び止めた。
「お待ち下さいませ、杜狩様。ご無礼いたしました。ただ今の言は、
「な……に?どういう事だ?」
「私は、師、
「九鉾先生の……というと、まさかそなたが……」
九鉾というのは、河南の学問所の学長を努める智者である。かつて、杜狩の家庭教師だったことがあり、今度の旅に出る前に、杜狩は彼に、自分の補佐官を紹介して欲しいと頼んでおいたのである。
「折角だが、そなたでは、私の補佐は務まらぬ。第一、女ではな。…何が可笑しい?」
杜狩の言葉に、楓弥が声もなく笑った。
「あまりに噂通りの方なので……せっかちの上、筋金入りの女嫌い」
大方、九鉾先生が、余計な事を吹き込んだのだろう。男に寄りかかるばかりの女は鬱陶しいが、小賢しい女は、もっと始末が悪い。
「ふん。所詮、女などに、男の大志は分かるまい」
言って、ふんぞり返った杜狩に、楓弥は苦笑しながら、言った。
「あら、女にも、野心もあれば夢もございますのよ。まぁ、私をお気に召さぬというのでは、いたしかたございませんね。帰ります」
「……」
そっぽを向いて、顔も合わせようとしない杜狩に、楓弥はまた苦笑した。
「杜狩様」
「何だ?」
「今日のご縁のついでに、一つだけ申し上げます」
「……」
「河南を動かれますな。……それでは」
楓弥の意味ありげな言葉が、杜狩の心に波紋を広げた。
「待て。今の言葉、どういう事なのだ」
興味を示した杜狩に、楓弥はにっこり笑って、はっきりとした、澄んだ声で言った。
「杜狩様の求めるものはすべて、この河南に集まっております故。その頬の傷、良い印でございますよ」
「……傷?」
楓弥に言われて、頬に手をやった杜狩の脳裏に、先刻の水晶の少年が浮かんだ。
「楓弥」
「はい?」
「私は近いうちに登城する。その時は、私の供をせい。そなたの予言、当たっていれば、私の補佐官に取り立てよう」
「私は、八卦師ではございませんから、予言はいたしませぬ。私の申したのは、現状に基づく推測でございます」
「どちらでもいい。とにかく、答えは河南城だ」
「はい、若様」
明るく答えた楓弥に、杜狩は、ふと、彼女はもしかしたら、あの爺やよりはましかも知れないと思った。
河南城。この城は李笙騎の乱の後、楊氏のものとなり、三大公の一人、河南公楊桂の居城となっていた。現在では、先日亡くなった楊桂に代わり、その娘の麗妃がこの城の主となっていたが、そのことはまだ公にされていなかった。
窓から中庭を眺めている蒼炎を横目で見ながら、周翼は椅子に座ったまま、考え事をしていた。伽羅によって、半ば無理矢理、この河南城に連れてこられたものの、二人の待遇は思っていたほど悪くはない。無論、部屋の外には見張りがいて、軟禁状態ではあるのだが……
「こうしていると、昔に戻ったような気がするな。この城は何も変わっていない。何もかも六年前のあの頃のままだ。そうは思わないか?周翼」
蒼炎が何やら嬉しげに、顔をこちらに向けて、そう言った。
ここは、蒼炎――燎羽にとってここは生まれ育った城である。きっと、ずっと帰りたくて帰れなかった場所であるに違いない。だがここは、もはや彼らの城ではなく、今では、皇帝に反旗を翻す、大公軍の本拠地なのである。浮かれている場合ではないのだが、蒼炎は、その辺が分かっていない。
「六年という歳月は、長いものだと思いますよ。城を変えずとも、人を変えてしまうには」
たしなめる様に言われて、蒼炎は少し寂しそうな顔をした。
「そうだな、我等も、もう何も分からない子供ではない……お互い、六年前のままという訳ではないのだしな」
蒼炎は再び窓の外に目を遣った。
城の佇まいは何も変わってはいなかったが、かつてここにいた者達は、彼らの他には、もう誰もいないのだ。
しばらくして、伽羅が彼らの許に姿を見せた。この城の主、河南公が彼らと会うというのである。それを聞いて、蒼炎の表情が急に険しくなった。河南公といえば、李笙騎の乱の時、李家の一族を皆殺しにした張本人である。蒼炎にしてみれば親の仇である。
「燎羽様……」
周翼が蒼炎の心中を慮って、自重を促す様に声をかけた。
「……分かっている」
蒼炎は不愉快そうな声でそう答えた。
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