第25話 指極の選ぶもの

 広間に通された二人を待っていたのは、年若い女性であった。黒衣の女人服を身に纏って、華美な装飾などはつけず、一見地味な印象を受ける。だが、彼女のかもしだす雰囲気は、実に優美で高貴なものだった。燎宛宮で、数多くの美姫を見慣れているはずの蒼炎でさえ、しばしその美しさに見とれてしまっていた。周翼も思いがけない人物がそこにいたことに、内心驚いていた。


 数日前、南にいた大きな星が消えた。

 周翼は、それは恐らく、河南公楊桂であろうと推測していた。そして今、彼らの前に河南公と称して、この女が現れた。

 河南の鬼姫の異名を取る、大公軍右将軍、麗妃である。突然の事に、周翼は状況をただ見守ることしか出来ない。


 麗妃がそんな周翼に目を止めて、微かに笑ったような表情をみせた。そして、徐に蒼炎の前へ歩み寄り、その場に膝を着いて頭を垂れた。

「お待ち申し上げておりました。華煌帝国第十一代皇帝陛下」

「お前は一体……」

 麗妃の言葉の意味を測りかねて、蒼炎は困惑し、彼を見上げる麗妃の顔をまじまじと見た。

「私は楊桂が娘、麗妃にございます。亡き父の跡を継ぎ、この城の主となったものでございます。どうかこの私に、陛下のご即位のお手伝いをさせて頂きたく……」

「……周翼。六年も経つと、言葉まで変わってしまうらしいな。私は河南の生まれだが、この姫君の言っていることが、とんと理解できぬ」

「はぁ……」

 答えに詰まって、周翼は間の抜けた返事をした。あまりにも唐突な物言いである。一体、麗妃は何を考えているのか……

「……他に話がないなら、我等はこれで失礼させてもらう。行くぞ、周翼」

「お待ち下さい、李炎様」

 立ち去りかけた蒼炎を、麗妃が呼び止めた。

 蒼炎は、彼の本当の名を呼ばれて、思わず足を止めた。


「李炎様。始皇帝陛下の血を継ぐあなた様には、この帝国の混乱を収める義務がございます」

「天下に、皇帝は一人だ。私に、雷将帝を倒して、また、皇家に怨恨の種を増やせというのか?」

「雷将帝には、皇帝の資格はございません。その事はあなた様も、良くご存じのはず」

「……」

「女でありながら、諸侯をたばかって即位なさったのですから。それが公になれば、諸侯は黙ってはおりますまい。皇帝は当然廃位。幼い皇帝には、まだ跡を継ぐ者もいない。父、楊桂亡き後、皇家の血を受け継ぎ、皇帝となる資格を持つ者は、もはや、あなた様をおいて、他にはいないのです……このままでは、この帝国は滅びてしまいます。そうなれば、諸侯が相争い、力で他を制することが正義だなどという、乱世となりましょう。あなたが、謀反をおこしたのだって、そう考えたからなのでしょう?」

 麗妃の言った事が、自分の心中を見透かしたようなものだった事に、蒼炎は動揺した。

「それは……」

「この河南の兵、それに湖水や広陵、海州の諸侯達の中にも我等の味方はおります。李炎様が兵を挙げられると聞けば、他にもお味方は現われましょう。その力を合わせれば、皇帝を倒す事も…」

 麗妃の話を聞いていた蒼炎が、唐突に笑い出した。

「李炎様……?」

 麗妃が訝しげな顔をした。

「伯父が挙兵したときも、恐らくこんな風だったのだろうな。その結果、伯父は全てを失った。命までもな」

「しかし、あの時と現在とでは、状況が違います」

「麗妃殿。お忘れではあるまいな。李家に楊家、それにすでに滅んでしまった劉家の三皇家は、帝位という魔物に魅せられて、互いにそれを奪い合い、殺し合ってきたのです。その敵同志が手を結ぶなど……この私の中に、父母の殺された日の記憶のある限り、そんなことは、決してあってはならない事だ」

「李炎様……我が父のしたことを水に流せなどと、そのようなことは申しません。ただ、私に、少しでも、その償いをさせていただけるというなら、この言葉に耳をお傾け下さい……皇族として、この帝国を守りたいという気持ちに偽りはございません」

「……」

「ご返事はすぐでなくとも結構でございます。良くお考えになって、お答えをお聞かせ下さい……互いに歩み寄る気持ちがなければ、帝国を二分するまでの深き溝……いつまでも埋まりませぬ」

 麗妃はそう言うと、立ち上がって蒼炎の手を取った。

「良いお返事を、お待ちしております」

 そう言って微笑した麗妃の、まるで邪気のない表情に、蒼炎は戸惑った顔をした。横にいた周翼は、先刻から麗妃の動きをつぶさに観察していたが、彼女の本心を測りかねていた。麗妃が役者だとは思わないが、今の彼女は、河南の鬼姫という名の麗妃と、その印象があまりに違いすぎていた。ふと、周翼の心に嫌な考えが浮かんだ。


……まさか、覚醒しているのか……


 確かめる必要があるかも知れない。

 彼女の記憶の中に、あの時の自分がいるのかどうかを。




「この城には、李王の怨念がついているのかもしれないな。何が何でも、私に李家の再興をせよと迫ってくる様だ」

 蒼炎が溜め息交じりに言った。

「麗妃殿があのような事を言い出すとは、驚きましたが……」

「女一人の独断ではあるまい。彼女の後ろに、誰かいるのだろう?お前のことだから、もう目星はついているのだろうな?周翼」

「以前、西畔せいはん星陵城せいりょうじょうが落城した折に、広陵公こうりょうこうがこの河南に逃れたと聞いたことがありますが……以来あまり噂は聞きません。病気がちで、床離れもままならぬ御方という事ですが」

「広陵公か。案外その辺が、黒幕かも知れぬな。して、周翼。先刻の麗妃殿の話。お前はどう見る」

 周翼は、彼に問い掛ける蒼炎の顔を見て、溜め息をついた。

「お答え、もう決まっているのでしょう?」

「少なくとも、先刻の麗妃殿の言に嘘はない様に思った。それに、私とて、いつまでも謀反人として、罪人扱いされるのは、気に入らぬ。だが、雷将帝に代わり、私が皇帝になるというのは大事だ。いくら、始皇帝の血脈といっても、今の私には、何の力もない。河南を後ろ盾にするといっても、燎宛宮に弓引くというのは、簡単な事ではない。あの河南公楊桂でさえ、成すことの出来なかった野望だ。だが、周翼、お前がその知力を尽くすというのであれば、望みがないでもないと思う」

「燎羽様……」

「お前の返答次第だ。お前が止めろと言うのなら、止める……お前が、劉飛殿の元に戻るというのなら、この話はなかった事にしよう……」


……指極星しきょくせいという星は、天極を定むる星。故に稀なる星だ。お前が、望むと望まざるとに関わらず、その宿命は、どこまでも付いて回るのだよ。だから、この私、智司ちし藍星王らんせいおうが、こんな地の果ての方までも、禁を犯してそなたを探しに来たのだぞ。その力は、希少なもの。使わずに、大事にしまっておいてどうするのだ。出し惜しみはなしだ……


 周翼は、かつて藍星王に言われた台詞を思い出す。


 自分の選ぶものによって、この帝国の運命が、大きく変わる。宿命によって、そういう力を与えられた――それが、智司の力。大きすぎる力に、今まで、それを使う事をためらっていた。


 だが、周翼の思いとは関係なく、星の配置は、容赦なく決められていく。一度、運命の手によって配されたものを覆すのは、容易なことではない。


 この帝国は、遠からず、いずれ滅ぶ。その定めを覆すのは、星王の力を持ってしても、簡単な事ではない。むしろ、滅びによって生じる混乱を、最小限に押さえる事を考えるべきなのではないのか。そのための選択ならば、答えは、もう決まっている。


 この身は、もはや、自分のものではない。

 藍星王と盟約を交わした時から――その宿命を受け入れた時から、もう、自分の思う様にはならないのだと、分かっていた。分かっていたはずなのに、いつまでも迷い続けていた。そんな自分の往生際の悪さを、周翼は自嘲した。


……小さな感傷など、捨て置けばいい……それだけのことだ……


「……帝国の未来の為に、この身がお役に立つのでしたら……」

 劉飛はこんな自分をどう思うだろうか……こうなった以上、恐らく、再び会う事があるとするならば、その時は、戦場で、敵として、という事になる。

 運命という言葉はあまり好きではなかったが、そう考える事で少しは気が楽になるのだということを、周翼はこの時、初めて認めた。

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