第22話 天河を越える

 村の混乱に紛れて、部下を逃がし自らも周翼と共に逃げる支度をしていた蒼炎は、周翼が突然地に手をついて、苦しそうにうずくまってしまったのに気付いて、慌てて周翼に駆け寄った。

「どうしたのだ?周翼」

 蒼炎が声を掛けると、周翼は頭を振って無理矢理立ち上がった。

 だが、足元がおぼつかない様で、蒼炎に寄りかかってしまった。


「……申し訳……ございません」

「気にするな。どこか悪いのではないか? 顔色が良くない」

「いえ、大丈夫です。少し、このまま……」

 周翼は蒼炎の肩に頭を乗せたまま、しばらく黙り込んでいた。

「……少し横になった方が、良いのではないか?」

 心配そうにささやいた蒼炎に、周翼は顔を上げると、半ば作ったような笑みを浮かべ首を横に振った。

「いえ。もう大丈夫ですから。すぐに出発いたしましょう」

 何か言いたげな蒼炎を、周翼は強引に驪驥に乗せた。そして自分もその後ろに乗ると、鐙を蹴った。驪驥が疾風の如く、南を指して走り出した。


 南から来る暖かい風に吹かれながら、周翼は自分の中から聞こえる、星王の声を聞いていた。


――智司ちし藍星王らんせいおう

 それが、その声の主の呼び名であった。


……先刻、橙星王が出現した。我らの封印が破られるとは……橙星王の力、前にも増して、強くなってきている。このままでは、いずれ封印は破られる。いま、あの者の側を、離れるべきではないのだがな……


……かといって、こちらを放って置く訳にも参りません……


……紫星王の事は、緑星王に任せておけば、心配なかろう。何か、大きな力が、星を動かしている。白星王なら、何か気付いているかも知れないが。今は、そちらの方が気掛かりだ……


……星を動かす程の力……それはつまり……


……そう、星王の力だ……


……まさか、冥府のあのお方が……


……分からぬ。だが何か、嫌な予感がする……




 劉飛が目を覚ました時、側に人の気配があった。

「お気付かれましたか?」

「周……いや、緋燕か。どうしたんだ?俺は……」

 緋燕は、劉飛が身を起こすのを手伝いながら答える。

「広陵公の差し向けた刺客に、襲われたのでございますよ」

「ああ、そうだった。あの闇師。広陵公の手の者だったか」

 ふと、何かを思い出したように、劉飛は自分の胸に手を当てた。そして、すぐ側に、破の骸が転がっているのに目を止めた。

「……やられたかと思ったが……お前が助けてくれたのか?」

 そう問い掛ける劉飛に、緋燕は彼が先刻のことを覚えていないことに気が付いた。

「はい、左様で……」

「そうか。とりあえず礼を言う」

「恐れ入ります。劉飛様、闇師に踊らされて、西北の兵が村へ乱入した模様で……」

「なんだって?」

「村が混乱しておりまして、この騒ぎで、未だ、蒼炎殿を発見することが出来ませぬ」

「周翼は?周翼はどうした。まだ戻らないのか?」

「はい。周翼殿の行方も分からず……兵達に捜させておりますが」

「出口は固めてあるんだ。逃げるとすれは、天河に出るしか……」

「昨夜からの大雨で、天河は増水しております。渡河は困難かと存じます」

 緋燕がそう言った時、馬のいななきが二人の耳に入った。

「驪驥の声だ。戻ったのか?おい、周翼。お前、蒼炎殿は一体……」

 途中まで言いかけて、驪驥を視界に捕えた劉飛は、その背に誰も乗っていない事に気がついて、言葉を失った。


「……周翼。まさか、お前」

 劉飛は自分を捕える悪い予感を、懸命に消し去ろうとしたが、間も無く、その予感は現実のものとなった。

 劉飛のところへ、村には、蒼炎の姿はなく、そして周翼も煙のように消えてしまっているという知らせが来たのは、それからすぐのことだった。


「今頃は、もう河南に着いている頃だろう」

「まさか、あの天河を?」

「ああ、渡ったんだ。ただし、水の下を通ってだが」

「水の下、でございますか?」

 緋燕が不可解だという顔をした。

「この湖北村は、始皇帝の時代に帝の離宮のあった所だということは知っているな?」

「はい。確か南の天河を望む丘陵地に、そのような……」

「今ではただの廃虚になっているが、あの地下に、抜け道が掘ってあって、それが河南の黒湖村まで続いているのさ。子供の頃、探険したことがあって、何かの折にその話を周翼にした覚えがある」


 周翼が蒼炎を連れて逃げた。

 未だに劉飛には信じられなかったが、蒼炎が見付からないとなれば、たぶんそういう事なのだろう。必ず戻ると言ったのは、嘘だったのか。別れ際の周翼の笑顔を思い浮かべて、劉飛は苦々しい顔をした。

「……八卦師というが、未来の全てを知ることが出来る訳ではないのだな」

「まだ、未熟者にございます故。申し訳ございません」

「いや、別にお前を責めている訳じゃないんだ。済まない。少し一人にしてくれないか。今後のことは、追って指示を出す」

「はっ。では、御用がございましたら、お呼び下さい」

「ああ」

 劉飛がそのまま考え込むように押し黙ってしまったので、緋燕は少年をそこに残したまま立ち去った。



「星が手を擦り抜けていったか。しかし、このままでは済まぬだろうな。あのお方は、どう出るか……」

 気が重いといった顔をして、緋燕は地面に方位陣を描き、手にしていた水晶球をその中央に置いた。緋燕が水晶球に気を集中させると、水晶から金色の光が生じ、間も無くそこに人影が浮かび上がった。

「……緋燕か?」

「はい」

 光の中に太后の姿が浮かんでいた。

「……蒼炎様、河南へ向かわれました」

「その様じゃな。せっかく、河南公を始末したというに、あれが、河南の小娘の駒になるというのは、癪じゃ」

「連れ戻してまいりましょうか?……それとも、殺してまいりますか?」

「いや。あれは、李家の血を引く者。いずれ、自らこの燎宛宮に戻ろう。それに、今のそなたでは、あの八卦師を相手にはできまいよ」

「……」

「このまま捨て置いても、構わぬのだが……」

 太后が、緋燕の意向を確認するように、言葉を切った。

「……かように、河南に力が集まるは、いささか厄介かと」

「されば、次の布石でも打っておくかの。……そうじゃな、広陵公には借りがある。この私を出し抜いたままで、済ます道理もないの。緋燕……」

「はい」

「そなた、このまま河南へ参れ」

「はい」

「行って、此度の始末を着けてまいれ。よいな?」

「はっ」

 緋燕が顔を上げた時には、太后の姿は消えていた。


 緋燕は地面の上の水晶球を拾い上げ、代わりに自身がその方位陣の中に立った。

飛空術ひくうじゅつ……我が角は南、天闇星てんあんせい宿しゅくなり!」

 八卦師の声と共に、方位陣の中で小さな空気の渦が生じ、一瞬の内に緋燕の姿はそこから消え去った。




 燎宛宮では太后が、私室で占術球を無表情に眺めていた。その球の中では、幾つかの光の点が輝き、時と共に色を変え、光の強さを変えしていた。素人目にはただ美しいだけのその光の輝きも、八卦師にとっては、一つ一つが人の運命を教える天空の星の動きを指し示すものとなる。太后は手にしていた、古びた書物を音もなく閉じた。太后は深い溜め息と共に、疲れた様に瞳を閉じると、座っていた椅子に深く身を沈めた。

「……藍星王らんせいおう。他の六人の力を封じておいて、自分が覇王の守護者になるでもない。一体、どういうつもりなのか……」

 太后の口から呟く様に出る言葉は、次第に声音が太后とは違う者のものに変わっていく。それにつれて、太后の体を、黒い霞が包み込み、それがやがて人型を成し、そこに黒衣の男が姿を現わした。男は、すでに意識の無い太后を、無表情に見下ろす。


「その様に、身を削ってまで、星を弄ぶ。この力は、その様に使うものでは、ないのだがな。困ったものだ。紫星はおろか、藍星までも天河の向こうに押しやってしまうとは……厄介なことをしてくれたよ。これでは、智司が敵に回ってしまうぞ……」


 河南という土地は、この国の中では、特別な、因縁深き場所だ。

 常に、時の権力に反する力を集め、戦の火種を生んできた。

 そういう力を集める、特別な磁場がある土地である。


 そして、ひとたび河南に乱が起これば、この国を二分する境界となるのは、天河である。故に、この天河には、さまざまな人の想い……とりわけ、恨みや憎しみの類が、長年に渡り、深く積もっている。そして、いつしか天河は、それ自体が、あらゆるものを隔てる力を持つようになった。結界と言っては、言いすぎだろうが、一度、天河を越えたものが、再び元に戻る事は容易ではない。


 さいの振り合いばかりしていては、事態は収拾しないというのに。一体、何を考えているのか。智司ほどの者が、その程度の理屈を分からぬはずがないだろうに。掛かっているのは、国の行く末……つまりは人の命なのだということを……

 だが、思いがけない目が出て、翻弄される者達を、このまま放っておく訳にもいかない。あまり使いたくはない手だが……

「荒療治が必要になるかも知れないな……」

 人の気配がして、男は戸口に目をやった。


「母上……」

 そこに雷将帝の姿を認めて、男はその姿を興味深そうに見た。


 皇帝とは名ばかりの、か弱い少女である。それでも、四天してん皇帝こうていは、この者を皇帝と認めた。


……いや。運命に押しつぶされそうになっていた、か弱い少女だったからこそ、か……


 皇帝という力を与えて、その身を守る力としたのだ。だが、その優しさこそが、歴史の混迷を深めたのだと言わざるを得ない。皮肉なことだ。

「……わが身を……重ねてしまったのか」

 男はやるせない気持ちになった。

「……そなたは、何者だ?……ここで、何をしている?」

 雷将帝の誰何に、男はゆっくりと一礼した。

「……我は、水司すいし黒星王こくせいおう。この身、この世にあらぬものなれば、どうかお忘れ下さいませ、陛下」

 その言葉と共に、男の姿は消え失せた。雷将帝が瞬きをするわずかな隙のことである。そして、その記憶の内に、男の姿はもう残っていなかった。




 天河を越えた周翼と蒼炎は、まさかそこに彼らを迎えに来ている者がいようとは、思わなかった。

 白銀の髪に、紫水晶の瞳。羅刹族らせつぞくの娘、伽羅からは待ち人の姿を認めると、座っていた木の枝から軽やかに地上に降り立ち、優雅に一礼をした。

「何者だ?」

 蒼炎を背にかばって、周翼が推何した。

「あたしは、羅刹の伽羅。我が主の命により、お二人をお迎えに上がりました」

 そう言って伽羅は、周翼に向かって艶やかに笑いかけた。

「姫様との賭けに負けてしもうたわ。あたしは、李家の主は来ても、あんたは来ない方に賭けたんやけどな」

 意味ありげに笑う伽羅に、周翼は言葉もなかった。

 伽羅の後ろから、十数人の兵が姿を現わした。今度の事は、全て仕組まれた事だったのだ。周翼は、ここに来て初めてそう気付いた。成り行きだなどと、とんでもない話だ。誰者かが、あらゆる策謀の手を使って、彼らをこの河南へ呼び寄せたのである。もしかしたら、自分でも気付かないうちに、ある分岐点を、もう引き返す事の出来ない所まで来てしまったのかもしれない……突然、恐怖にも似た思いが、周翼の心を掠めて行った。


……飛ばされたのか……


 星を動かす程の、大きな力が働いている。藍星王はそう言っていた。その余波で、恐らく……


……戻れるだろうか……


 周翼は、初めて自分の力の限界を感じて、心に不安を覚えた。友と交わした約束を果たす事が、出来るだろうか。自分の中の確信が、揺らいでいくのを止められない。

 蒼炎が、自分の腕を掴んだのに気付いて、周翼はその不安を心の隅に追いやった。蒼炎も不安なのだ。自分がしっかりしなくては、と思う。

「大丈夫です、私が付いていますから」

 言葉にしてそう言うと、周翼自身も、少し気持ちが落ち着いた。


……こちら側には、緑星王りょくせいおうがいる。まだ、望みがない訳じゃない……


 見えない未来を、憂いてばかりいても、何もならない。ともかく今は、蒼炎を守る事だけを考えなくては。


 周翼と蒼炎は、伽羅に促されるまま、用意された馬車に乗った。これからどうすればいいのだろう。考えながら、周翼は馬車の走る音に混じって聞こえる、天河の流れる音を聞いていた。それも次第に遠のいて、やがて聞こえなくなった。

 単調な車輪の音だけが、規則正しく聞こえてくる。その音は、過ぎ去った時を、少しずつ遠くに隔てていく。そんな気がした。


 ふと、懐かしい緑の香りがして、周翼は顔を上げた。気が付けば、窓の外には、懐かしい河南の田園風景が広がっていた。明るい緑の色と、眩しい陽光が、彼らを出迎えていた。

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