第6章 階の上に立つ者

第19話 約束

 湖北村こほくそんは、天河を隔てて河南側にある黒湖こっこという湖の、ちょうど北に位置する村である。この黒湖の東岸には、劉飛の郷里である黒湖村こっこそんがあり、湖北村との距離は、平地であれば、馬でわずか半刻ほどであろう。しかし、二つの村は、帝国で最大を誇る天河によって隔てられており、また、天河の渡河が禁止されている現在においては、全く交流の絶たれた状態であった。

 この村は、かつて始皇帝の離宮のあった場所としても知られているが、うち続く内乱のために、今ではすっかりさびれていた。


 湖北村に逃げ込んだ蒼炎に遅れること半刻。

 劉飛の兵が村の外れに姿を現わした。その数はおよそ百数十騎で、ほとんど無傷と言っていい。劉飛の命で、村は包囲され何人もそこから出ることは出来なくなった。蒼炎は必ず生きて捕えて、都へ連行すること。燎宛宮からはそういう命が下っている。このまま大勢で踏み込んで、蒼炎を追い詰め、自ら命を絶たれてしまっては、元も子もない。蒼炎をどうやって捕えるか。劉飛が数名の部下を集め、その意見を尋ねたとき、周翼が蒼炎への使者を願い出た。


「お前が降伏を勧めに行くというのか?」

「はい。蒼炎殿とは、知らぬ仲ではございません。必ず説得して参ります。ですから……」

 そんな周翼を、冷ややかな目で見ていた緋燕が、おもむろに口を開いた。

「蒼炎殿は、自尊心の強い御方でございます。自らの非をお認めになるとは、考えられませぬ」

 宰相に仕え、蒼炎とも近い所に居た緋燕の言葉は、その静かな口調にもかかわらず、説得力があった。八卦師としての、この男の力をただ一度見ただけの劉飛であったが、そのまだ見ぬ計り知れない力に、妙な威圧感を感じていた。こいつは、あの宰相が認めていた男……そんな思いが、彼の心の奥にあった。


「ならば、緋燕。お前の意見は?」

「は。手近な家屋に火を掛けるのがよろしいかと」

「この村を焼き払うというのか?罪の無い村人を巻き込むことになる。そういうのは、あまり感心出来ないな……」

「罪の無い者を巻き込む。そう思わせれば良いのですよ。空き家、数軒に火をかけ、その後、蒼炎殿に出てくるようにお命じになれば、応じましょう。そういう御方です」

「劉飛様」

 緋燕を制するように、周翼が強い調子で口を挟んだ。

「ん?」

「その様な策を図らずとも、私が参れば事が済みます。私を行かせてください」

 周翼の瞳が、真っ直ぐ劉飛の瞳を見据えていた。その瞳の奥に、何か揺ぎない強い意思のようなものを感じて、劉飛は息苦しい気分に襲われた。


 いつもは控え目な周翼が、こうまで自己を主張するのに驚いていた。周翼が、おそらく初めて劉飛に見せた、激しい感情。それを拒絶する事を許さない様な、その激しさに、劉飛は、自分の知らない周翼の一面を垣間見た様な気がして、困惑したように、ただ、その顔を見据えていた。

 やがて、劉飛は手で合図を送り、他の者を下がらせると、周翼を自分の正面に座らせ静かに言った。


「周翼、お前には言っていなかったが……都を発つ前の晩に、俺が宰相に呼ばれた時の話だ」

「宰相に?」

「そう。宰相はこう言った。このままでは、骨肉の争いを続けている皇家は自滅する。もし皇家の存続を望むならば、河南にいる大公を暗殺し、早々に、この内乱を収めろと。俺になら、それが可能だと言ってな」

 劉飛が話す内に、周翼の張り詰めていた様な鋭い気が、ふと緩んだ。

「その様な短慮な仰せ事……勿論、断られたのでしょう?」

 周翼の思考が、いつもの様に回り始め、気持ちの昂ぶりが解けた。そう感じて、劉飛は内心安堵しながら、更に話を続けた。

「まあな。宰相だって、本気で言った訳でもないだろう。今更、河南公一人が死んだところで、河南が簡単に白旗を揚げるとは思わない。皇家の因縁は、もう百年以上も前から続いているものだ。多くの人の血を犠牲にし、その生活を踏みにじって、皇帝の位を奪い合ってきた。それが、皇家の、この華煌の歴史だ。だから、この国の皇帝となる者は、その身を引き換えにしても、流された血の代償を払わなければならない。手にする権力と富は、栄耀栄華えいようえいがの為ではなく、民の為に使うものでなければならない。それが出来ないなら、この帝国も、皇家も滅びる事で、過去の罪を償うべきだろうと思う」

「まさか、劉飛様……」

 周翼が言いかけて、言葉を飲み込んだ。その周翼の反応の意味を察した様に、劉飛はあわてて付け加えた。


「誤解するなよ、周翼。俺は、皇家は滅びるべきだなんて、思っちゃいない。雷将帝陛下は、そういう事を全て、ちゃんと分かっていらっしゃる御方だと思っている。だから俺は、この剣を、陛下に捧げたんだ。だが、陛下はご自身では、まだ何のお力も、持っておられない。その敵から身を守る術を、不正を行う者を正す術を、まだ持っておられないんだ。だから、我等がお守りしなければならない。目下の最大の敵は大公だが、生憎と、それだけという訳ではないしな……」

 少し考えて、周翼が言った。

「……恐らく、今度の内乱は、間も無く終わるでしょう。そして、宰相蒼羽は、此度の事で失脚を余儀なくされる。蒼羽という宮中の大きな柱が抜ける事で、燎宛宮の勢力図は大きく変わるはずです。良しにつけ、悪しきにつけ……」

「つまり、宮中を掃除する、好機でもある。だから、俺達は……」

 真面目な顔をして、そう言いかけた劉飛のその表情から、周翼は何かを読み取って、自らの剣を劉飛の前にかざしてみせた。

「劉飛様、この剣は、あなたを守るためのものです」

「周翼……」

「劉飛様が、陛下をお守りするのと同じです。私は、この剣で劉飛様をお守りすると、そう決めたのです。六年前の、あの時から……だから、私を必要として下さる限り、私はずっと、あなたのお側にいます。……心配いりません。必ず、戻ってきますよ」

「ああ、わかっている」


 今までと同じに、これからも、自分のとなりに周翼がいる。そう思っているのに、どうして、こんなに不安になるのだろうか……劉飛は目の前にいる周翼の顔を、無言のまま見詰めていた。

「あなたを一人になんて、しておけませんよ。危なっかしくて……」

 いつもの調子で、おどけてみせる周翼に、劉飛はつられて笑ったが、その笑いもすぐに消えてしまった。自身の不安な気持ちを悟られまいと、劉飛は周翼から目を反らした。そんな劉飛の心中を知ってか知らずか、周翼は、淡々とした口調で言葉を続ける。

「一つだけ、お願いがあります。私が戻るまで、どうか、兵は動かさないでください。蒼炎殿をいたずらに刺激してはいけませんから」

「わかった……」

 周翼は、劉飛の短い返事の余韻を確かめるかのように、一寸その動きを止めた。そして劉飛の返事が、それで終わりだと確認すると、軽く一礼して立ち上がった。歩きかけて、ふと歩みを止め、陽気な声で劉飛に言った。

「劉飛様。驪驥りき、借りてっていいですか?」

「……驪驥りきを?」

 驚いて劉飛が顔を上げた時には、周翼の姿は、もう、そこにはなかった。風に乗って、声だけが届く。

「すぐに戻りますから」

 周翼の陽気な声と共に、馬のいななきがし、その後に続いたひづめの音が、次第にそこから遠ざかっていった。

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