第20話 知らされた真実
湖北村のはずれに、古びた寺院があった。村の守護神を祀っている寺であろうが、長びく戦のために、僧侶も居らず、荒れ果てている。その寺の本堂の暗がりで、人影が動いた。二人の供を従えた蒼炎は、ここに潜んでいた。外へ様子を探りに行っている二人を合わせて、蒼炎の部下はわずか四人になっていた。
「もはや、これまでといったところか。村はすっかり包囲されている。蟻の這い出る隙もないし……」
悲観するのではなく、その状況を楽しんでいる様な蒼炎を、供の者が怪訝そうな顔で見た。
「さて、どうしたものか……」
そう呟きながら、先刻の河辺で会った周翼の、何かを訴えるような瞳を思い出して、蒼炎は軽く溜め息を吐いた。
今のこの状況が、すべて、偶然と成り行きの結果だとは言えない。心のどこかで、望んでいたのかも知れないという事も否定できない。言うなれば、出るべくして出た結果なのだろう、と思う。
六年前、自分が蒼羽に連れられて都へ逃げたときから、こうなる事は決まっていたのかもしれない。蒼炎はそんな風に思っていた。雷将帝、そして太后にとって、彼という存在は、決して好ましいものではなかったに違いないのだから。
「始皇帝の血か……」
呟いて、腕に巻かれた包帯に滲んだ、赤黒い染みを、蒼炎はしみじみと眺めた。
その傷は、彼の義姉、華梨の長刀によって負わされたものであった。その時の、華梨の声がまだ鮮明に耳に残っている。
「……同じ赤い色をしているというのに、自分の血だけ特別だとでもいうの?目を覚ましなさい、蒼炎っ!」
……特別だなんて、一度だってそんなふうに思ったことはありませんでしたよ、義姉上……
蒼炎は心の中で、弁解するように言った。
宰相の息子で、近衛の隊長で……地位も身分も名誉さえも、自分には過ぎるほど与えられていた。何も不足は無かったし、こういう生活がずっと続いていくのだと、彼自身も信じて疑わなかった。あの日、あの事実を知らされるまでは。
蒼炎は先日、東の離宮に現われた男に会った時の事を思い出して、腹立たしげに拳を床にぶつけた。
あの男、何と言ったのか……
「真の覇王となられるのは、始皇帝陛下の血を受け継ぐあなた様をおいて、他にはございません。あなた様こそ、始皇帝陛下の、正当な後継者であられる。我が主は、あなた様のご即位をご支援いたす所存。付きましては、河南にご同行頂きたく……」
彼の頭の中で、その男の言葉が、繰り返し繰り返し、呪文のように現われては消えていく。
彼の心に楔を打ち込むように。
そして、彼の心に潜む望みを解き放つように。
繰り返し、繰り返し……
雷将帝が東の離宮へ遠出した、あの日。都から、彼を追ってきた男がいた。広陵公に仕える影の者……闇師だと言っていた、あの男。自分の言葉に、蒼炎が耳を貸そうとしないのに業を煮やして、彼が告げた事実は、間違いなく、蒼炎に大きな衝撃を与えるものだった。
「雷将帝は皇帝の資格の無い皇帝。
「戯言を……」
「……お疑いはごもっとも。私の言では、ご信用できないと、そうおっしゃるのも道理でございます。ご自身で、お確かめになられるがよろしいでしょう。帝国宰相であられる、お父上に」
陛下が女だなどと、言うに事欠いて……信じられよう筈もなかった。
……だが、事実だったのだ。
蒼羽は、全てを承知の上で、雷将帝に仕えていた。その理由は何なのか。雷将帝が玉座にいるのを黙認している理由は何なのか。問いただした蒼炎は、その答えに言葉を失った。
「そこにお前を座らせる為である」
と、蒼羽はそう言ったのだ。
時満ちた時、お前が、この帝国の真の主になるのだと。お前が、この帝国の窮状を救うのだと。それが、お前の宿命であり、使命であるのだと。蒼羽はそう言った。
真実が重かった。
今まで、帝位のことなど、考えた事も無かったのだ。
血筋のことなど……考えた事も無かった……
六年前、自分はまだ幼くて、両親と死に別れたことだけが、ただ悲しく、寂しかった。名前を変えて、新しい暮らしが始まって、過去の自分とは決別したのだと思っていた。もう、李家のことは、忘れるべきなのだと、そう思っていた。雷将帝をお守りする、近衛の長という場所。それが、自分に与えられた場所なのだと思っていたのに……
「……今すぐに、どうこうという話ではない」
蒼炎の狼狽振りに、蒼羽は加えて言った。
「河南の戯言など、捨て置けば良い。だが、そなたが、李家の当主なのだということ。それだけは、しかと心に留め置く事だ」
そして、気持ちの整理の付かないまま、数日が過ぎた。
その間の事は、よく覚えていない。
だた、真実が、心に重くて、息が詰まりそうだった。
そして気が付けば、雷将帝の部屋で、華梨と対峙していた。
華梨のあんな顔は、初めて見た。その気迫に押されて、呆然としていたところに、皇宮警備の兵に踏み込まれた。恐らく、華梨が知らせたのだろう……華梨は、私が帝位に付くのを、快く思っていないのだ。華梨にとっては、雷将帝こそが、皇帝なのだから。
逃亡する私に、近衛の一隊が従った。蒼羽が手配したものらしい。逃げ延びて、李家の主としての役目を果たすのを、願ってのことなのだろう……
だが、物事は、そう単純にはいかない。燎宛宮の差し向けた追っ手は、あの劉飛殿だった。
蒼炎が、物思いにふけっていると、低い調子で口笛を吹く音が数度聞こえ、その思考を中断させた。偵察に行っていた一人が戻ったらしい。その合図に中の者が外を確認し、用心深く扉を開いた。入ってきた部下を見て、その背に負われてる少年に気付き、蒼炎はその訳を尋ねた。
「馬に乗って、村の様子を探っていたんですよ。恐らく、劉飛殿の放った偵察の者でしょう。あちらの様子を聞き出してやろうと思って、捕えて参った次第で」
「死んでいるのではないか?」
少年の腕から血が流れ出しているのに気付いてそう言った蒼炎に、男は首を振った。
「眠っているだけです。騒がれると面倒なので、手刀に薬を……」
床に降ろされた少年の顔を見て、蒼炎はそれを確認するように数回瞬きをした。
「周翼……」
「いかがなされました?蒼炎様」
「すぐに傷の手当をしてやれ。この者は私の大切な友だ。何をしている、早くしろ」
「はっ」
蒼炎の剣幕に驚いて、部下が慌てて周翼の手当を始めた。
間もなく意識を取り戻した周翼は、薄暗闇の中で、自分の顔を心配そうに覗き込んでいる蒼炎に気が付いた。
「大丈夫か?周翼」
「……燎羽様」
まだぼんやりとしている様子の周翼であったが、蒼炎の顔を見据えて、急に何かを思い出した様に、再度その名を呼び、慌てて身を起こした。
「大丈夫なようだな……部下が手荒な真似をして済まなかった」
「燎羽様。……ああ、お会いできてよかった。私は、あなたをお迎えに参ったのです。お願いです、どうか私と一緒に……」
「……私に、投降せよと?そうだな……お前がそう言うのなら、それも良いかも知れない。これ以上、見苦しいまねをするものでもないしな……何しろ、相手があの劉飛殿では、分が悪い。……もうすでに、死ぬ覚悟は出来ている」
「燎羽様!」
静かな口調の中に、織り込まれた言葉。死という、まだ若すぎて、あまりにもそれにふさわしくない少年の言葉に驚いて、声を上げた周翼を見て、蒼炎は弱々しく微笑んだ。
「謀反人が死刑になることくらい、端から分かっている」
「燎羽様。一体何があったのです。何故……謀反など……」
自分を見詰める周翼の瞳を、蒼炎は悲しげに見返した。
「私の中に流れている、始皇帝の血がそうさせたのかも知れないな。別に帝位が欲しかった訳じゃない。ただ、この帝国の、混沌とした現状を変えたいと思った。それだけだ」
「ならば、他にも方法はあったはずです」
「そうだな。だが、私にはこれしか思いつかなかった。今の皇帝は無力だ。太后や宰相である義父上が、幾ら取り繕ってみたところで、陛下がまだ子供で、しかも女だという事実は変えられるものではない」
蒼炎の、その言葉の意味を、周翼は、一瞬、理解できなかった。
「今……何と?……女?陛下が女って……まさか……そんな」
「お前も見ただろう?陛下がお忍びで城下へ出られた時のお姿を。あれが、陛下の本当のお姿なのだ」
「しかし、あれは……」
「太后と義父上しか知らぬ事……いや、義姉上は、存じていたか。お前にも話さなんだとは、口が堅いな」
蒼炎が呆れたように言う。
「……まことに……女なのでございますか……」
「ああ、そうだ。女は帝位に即けぬという法はないが、前例のないことだし、まして雷将帝は大公達の手前、男として即位した。今更、実は女でしたなどとは、言えまい。民を欺いていたとなれば、皇帝の権威も地に落ちる。そうなる前に、雷将帝には、消えていただくべきだろう」
「しかし、宰相閣下のお考えは……」
「義父上は、今でも李家の家臣なのだ。李家を再興せよいう、主君の遺した命には逆らえぬ。私とて同じだ。李王の命には逆らえぬ……私は、李家の嫡子なのだ。李家の再興という幻を追い続ける宿命からは逃れられぬ。生きている限り、その呪縛より解放される事はない」
「燎羽様」
「だが私は、この身が帝国の安泰に影を落とすものであるというなら、我が命、帝国のために喜んで捧げたろう。しかし、このままではこの帝国は滅びてしまう。それなのに、燎宛宮の者達は楽観主義者ばかりで、誰かが、何とかしてくれるだろう……そればかりだ。雷将帝に始皇帝のような力があれば、良かったんだろうが……あのお方は、お優し過ぎる。今の帝国には新しい主が必要だ。強い力を持つ皇帝が。誰かがやらなくてはならなかった事なのだ。私にその資格が無かったと思うか?周翼」
「……」
周翼は何も言えずに、ただ蒼炎の顔を見返すばかりだった。
「まあいい。ここで過ぎた事をあれこれと言ってもな。まこと、皇家の血というのは、因縁深きものだな。これのために、今までどれだけ無益な血が流されたことか……」
「燎羽様。あなたは、こんなところで死ぬお方じゃない。死んでしまったら、何にもならないじゃないですか。生きていてこそ、この国の為に、出来る事があるのでしょう」
「……周翼」
「劉飛様の許へ参りましょう。あの方ならきっと力を貸してくださいます。死ぬなんて、絶対にだめですからね。まだきっと、何か良い方法があるはずです」
蒼炎は、そう言って自分の手を取り、語りかける周翼の声を、心地良さそうに聞いていた。
「やはり、周家の者というのは、根っからの策士なのだな。お前にそう言われると、ついその気になってしまう」
「燎羽様。では……」
周翼が身を乗り出した。
「待て、周翼。劉飛殿の所へは行かぬ。彼が、私を助けるというのなら、なおの事だ」
「何故です」
その訳を問う周翼に、蒼炎がそれを説明しようとした時、再び先刻と同じ口笛が彼らの会話を遮った。
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