第5章 星宿は廻り

第15話 第八の奥義、操星術

「……北天の七曜星。その光の守護を受けし者、地上の主として天下の和を定めん……天上の星王……地上の覇王……大いなる力がこの地に集い、七人の覇王が現われる……か。天上界の思惑とは、いささか違うようだが……さて」

 卓上の水晶球に浮かんだ星図を、不思議そうに眺めて、太后は考え込んだ。


 薄暗い地下の隠し部屋の中は、ひんやりとして物音一つなかった。完全に現実世界から隔離された、別の空間の様な錯覚すら覚えるその部屋の中で、水晶の放つ、星の光に照らし出された太后の顔は、透き通るように白く、どこか人間らしからぬ印象を与えている。


 知らせでは、もう間もなく、秋白湖で戦が始まるという。天海は名将であるから、戦は上手い。しかし、この戦がここまで膠着してしまったのは、やはり、あの者の存在が無視できない。


――広陵公楊蘭。


 八卦師でもないのに、八卦に通じ、策略を巡らし、小細工を労す。実に目ざわりな存在。邪魔立て出きぬ様、動きを封じておく必要があるやも知れぬ……


 太后は、しばし考えた後、やがて思い切ったように水晶の上に手をかざした。一瞬にしてその中の星々が消え、水晶は透明な輝きだけを残して、穏やかな様相を示した。太后は手元の古ぼけた書を開き、再びその水晶の上に、今度は両手をかざした。


「第八の奥義、操星術そうせいじゅつ。南方の守護者、朱雀すざくの火に影映す者……汝、楊桂ようけい、冥府の王の召喚に応じ、その御許へ参られよ……」


 太后の掌から、蒼い稲光が生じ、透明だった水晶の中に、光の波が現われた。そして、その中心に一つの星が現われ、それを包み込むように光が小さくなったかと思うと、一瞬の後、波は漆黒の渦に変わった。現われた星は、その漆黒の渦に吸い込まれる様に、その中で、次第に光を失っていく。だが、今にも消え入りそうなその光は、消えたかと思うと、再び弱い光を放つ。

「また、あの結界か……河南の坊やも、やってくれる。でも、今度は、逃がしはしない」

 太后の呟きが漆黒の渦に力を与えたかの様に、渦が大きく水晶全体に広がった。

 太后が肩で息をして、その身を支える様に両手を卓上に突いた。

「消え……た……か」

 水晶は、もはや何も映していなかった。

「……稜騎りょうき様……」

 広げられた古書を、ぼんやりと見詰めたまま、太后は無意識のうちにそう呟いていた。



 八卦八奥義はっけはちおうぎという言葉がある。

 八卦には、星見術せいけんじゅつ星読術せいどくじゅつ星換術せいかんじゅつ気刀術きとうじゅつ飛空術ひくうじゅつ五行操術ごぎょうそうじゅつ天行術てんこうじゅつ操星術そうせいじゅつという八つの奥義があるというものだが、その全ての術を使うものは、現在はいないはずであった。八卦師の始祖である鴉紗あしゃが残した、その八つの奥義を記した八卦の手引書……八卦の秘本と呼ばれたこの書は、時の流れの中で散逸し、消滅してしまっているからである。


 だが、実は、たった一冊、その写しである書が、この世に存在していた。燎宛宮の宝物殿の奥で、数百年の間眠り続けていた書。鴉紗が、その主君であった始皇帝に献上した写本がそれであった。そして、十年ほど前に、それを偶然手にしたのが、葵姫という娘――即ち、現在の太后、その人であった。


 八卦師の八奥義の中で、最も難しく、未だかつて、この奥義を完成させた八卦の始祖、鴉紗しか使ったことがないといわれる術……操星術とは、人の持つ守護星を自在に操り、その者の生死をも術者の思いのままにするという恐ろしい技であった。

 それを、この太后は使ったのである。河南公楊桂を、抹殺する為に……



 突然、激しい頭痛が彼女を襲った。術を使った反動である。

 太后はよろめきながら、壁を伝い、地上への階段を昇り、隠し扉から私室へ出た。だが、部屋の中が大きく揺れて、天井や壁が彼女を押しつぶすかの様に迫って来る。息苦しさを覚えながら、思うようにならない体を引きずるようにして、中庭へ続く回廊へ出た。中庭の池へ注ぐ小川の流れる音が、太后の耳には耳障りな程大きく、そして、不快な音に聞こえた。回廊の柱にすがるように立って、顔を上げた所で、彼女の視界は真っ白に変わった。




「……広い……どこまで行っても、迷路の様な回廊が続くだけ。燎宛宮には果てがないの?」

 葵姫にとって、燎宛宮は広く空虚な空間だった。彼女が十五の年に後宮へ来てから、四度目の春が巡ってきていた。


 葵姫が後宮に来たこの当時は、八代皇帝炎雷帝の御代であった。そして、葵姫の父である円葵えんきは、河南の領官を努めていた。

 河南は、帝国の要衝の地である。その事実上の支配者である河南領官とは、地方官という身分でありながら、中央の高官と同等の権力を保持する者だった。


 李円葵は、七代皇帝建栄帝けんえいていの異母弟である。皇族の血を引いてはいたが、母親が姫妃きひという、あまり身分の高い妃ではなかったから、その半生は、宮廷での政争とは遠い所にいた。だが、ある事件をきっかけに、彼の人生は反転する。


 大陸歴二百十年、天河の戦いにおいて、建栄帝が敗北し、帝位を追われてしまったのである。


 代わって、この戦いの勝者である、楊家の流れをくむ炎雷帝が即位して、新しい時代が始まると、今まで中立でいたことが幸いしたのか、李円葵は河南領官という地位に取り立てられたのだった。

 もっとも、炎雷帝としては、李家を統べる立場になっていた李円葵に、河南領官という餌を与えて、これを丸め込む事で、李家の勢力をその支配下に収める心積もりだったのである。


 ところがこの李円葵という男、実は見掛けよりも野心家であり、したたかであった。頻繁に貢物をして、皇帝のご機嫌を取り、従順を装いながら、彼が河南領官として努めた三十年の間に、その裏でやっていた事といえば、炎雷帝を葬るための謀反の準備だったのである。

 湖水こすいの離宮に幽閉されていた建栄帝の息子、李笙騎の影の後援者として、暗躍していた人物こそ、この李円葵であった。


 葵姫は、そんな父、李円葵の政略の一つとして、都へ送られた。当初、李円葵は、葵姫を、皇太子の妃にするつもりで、婚儀の申し入れをしていた。しかし、彼をあまり快く思っていなかった炎雷帝が、これに難色を示した。だが、それですんなりと諦めないところが、この男のしたたかな所である。李円葵は、娘を献上品として、無理やり送りつけるという、前代未聞の事をやってのけたのである。


……私に、もう少し力があれば、お前を都になどやりはしないものを……


「稜騎様……」


……いつか必ず、お前を迎えにいく。何があっても、希望を捨ててはいけないよ……


 瞳を閉じれば、葵姫にはいつでも、李稜騎の声が聞こえる。別れた時のことは、昨日の事のように思い出す事ができる。だが、葵姫はあれから、もう四度の春をたった一人で過ごしていた。



 皇太子の虎伯こはくは、大方の娘と同様に、後宮にやってきた葵姫には、全く興味を示さなかった。更に言えば、自分の娘と、五つほどしか年の違わない葵姫は、彼にとっては妻というより、娘という感覚である。後宮入りに関して、物議を醸した葵姫を、哀れに思った事もあったが、その存在も、やがて忘れてしまっていた。

 もともと、第一夫人の藍玲あいれいとの仲は睦まじく、複数の妃を持つのが皇族のしきたりであるから、仕方なく第二夫人を迎えたという程である。真面目で潔癖な性分の虎伯にとっては、権力欲しさに、娘を後宮に送り込んでくる者たちの事など、わざわざ気に掛ける程のものではなかったのである。


 だから、葵姫は、幸か不幸か、この四年の間、皇太子に会った事はなかった。葵姫は、ただ郷里の河南を夢見、稜騎を待ち続けて時を過ごしていた。そして、いつしか、この燎宛宮を抜け出して、河南へ帰る事を考える様になり、またそれを実行するようになっていた。

「……貴妃きひ様。貴妃様……」

 妃官ひかんと呼ばれる彼女の侍女の、主を探す声が聞こえた。侍女とはいっても、葵姫にとっては監視人と変わらない。葵姫は、妃官に気付かれないように、別の回廊へと入っていった。



 急に視界が開け、葵姫は驚いて足を止めた。見渡す限り何もなく、白い小石を敷き詰めただけの殺風景な庭がそこにあった。そこは、後宮を抜け、皇帝の政所へかかる場所であるが、葵姫はそういうことは知らなかった。燎宛宮に来てからずっと、後宮の外へは出たことがなかったから、ただその広さに圧倒されていた。


 この燎宛宮という迷宮から抜け出す事など、出来はしない。そんな絶望感に襲われて、彼女はその場に座り込んでしまった。この孤独で冷たい後宮で、たった一人で、この先ずっと生きていかなくてはならないのである。ただ生きているというだけの、なんの意味もない虚無な時間。気の遠くなるようなそんな時間を、いつまで続けていればいいのか……もう河南へは戻れない。その事実を眼前に突き付けられ、葵姫は呆然自失としていた。

「そんな所で何をしている。……どうした、気分がすぐれぬのか?」

 男の声と共に、懐かしい香りが葵姫を包みこんだ。

「……星華香せいかこう

 その男の香は、稜騎のものと同じであった。顔を上げた葵姫の瞳から、涙が溢れ出していた。葵姫はただ、子供の様に泣いた。その男の胸に顔を埋めて泣いた。その香りの中で、葵姫は河南にいた。


 葵姫がその男と再び会うことになるのは、これより更に五年の後である。後宮の彼女のもとに、星華香と共にやってきたその男は、虎伯と名乗り、葵姫はその時初めて、彼が皇太子だったのだと知った。




「……様、太后様」

 呼ばれて、太后は、水底に沈んでいた体が、水面に浮き上がっていく様に感じて、意識を取り戻した。稜騎の姿も、虎伯の姿も消え去っていたが、星華香の香りはそのまま残っていた。

「今、妃官をお呼びしますから……」

 側らにいた少年が、そう言って立ち上がった。

「……稜騎様」

 近衛の隊服を纏ったその少年が、一瞬、稜騎に見えた事に、太后は微笑した。

……そういえば、この者は、あの方のお子じゃ……蒼羽の息子というのは、偽りの姿……

「わらわの、皇帝陛下……」

 目を細めて太后は、愛しげに少年を見上げる。

「太后様……?」

 太后の尋常ならぬ様子に、蒼炎は思わず眉をひそめる。

「李家の血筋のそなたこそが、この帝国の正統な主じゃ……」

 その言葉に、蒼炎の心の中で閉ざされていた何かが、目を覚ました。


……そなたは、この地上の主……覇王となる宿命の者。この私、風司ふうし紫星王しせいおうが選んだ覇王なのだ……


 遠くから、囁きかけるような声が聞こえた。

「……覇王」

 その言葉は、呪文のように、蒼炎の心に絡みつき、その心を支配していった。


……雷将帝には、この帝国を治める力はない。いや、力以前に、あの者には、その資格がない……


「私になら……できるはずだ」

 少年の声を聞きながら、太后の意識は、ゆっくりと現実から切り離されて、再び深い水の中へ沈んで行った。その手から大切な星が零れ落ちていった事に、気づかぬままに……

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