第14話 猛虎vs天翔馬

 劉飛は、チラリと肩越しに後方に目をやって、見るんじゃなかったと後悔してから、驪驥りきに手綱をくれた。霧は晴れつつあったが、視界はまだうっすらと白く、他のものは何も見えなかった。ただ白いだけの背景を背負っている一騎の騎馬だけが、一瞬だったが彼の瞳を占領した。


 劉飛の後方から、下品な罵声が飛んでくる。通常の倍近い速さで疾走する馬の上で、巨大な段平を振り回しながら、悪口雑言を飛ばし続けるという芸当を見せているのは、海州公楊柊ようしゅうであった。


 先刻、その隙をついて、劉飛が楊柊の甲を叩き落としてやったことで、逆上した楊柊が、劉飛を追い掛けているのである。甲が無いので、その怒り狂った、すざまじい獣のような形相を、劉飛はまともに見てしまったのである。目の毒にもいいところだった。

「追っ掛けてくるのが、せめて右将軍の方だったらな」

 同じ大変でも、目の保養ぐらいはできたはずである。

「そろそろ、だよな」

 先刻、彼が通り過ぎた窪地の辺りに、移動を終えた第二陣が、潜んでいたはずだった。その第二陣が、そろそろ横を通り過ぎた大公軍左軍の後方に回り込む頃である。霧の中、劉飛はただ闇雲に走っていたわけではなかった。恐らく、劉飛を追って走っている楊柊は、真っ直ぐに走っていると錯覚しているだろうが、実は、劉飛は窪地を迂回するように大きく曲線を描いて走っていた。多分、大将である楊柊に引き摺られて、その軍勢も彼らの後に付いてきている筈である。



 ふいに、驪驥が足元で大きく水しぶきを上げた。慌てて手綱を引いた劉飛は、自分が平原を抜けて秋白湖に行き当たった事を知った。

「早すぎたか」

 水際で立ち止まった劉飛に、楊柊の蹄の音が迫ってくる。

 その時、時を待っていたかの様に、急速に霧が晴れていった。


 夏の日差しが、辺りを一転して、鮮明な明るい世界に変えた。水辺に生い茂る葦が微かな風に揺れ、そこに不敵な笑みを浮かべた彼の敵が立っていた。

「……背景が変わっても、ぱっとしないし……」

 劉飛の呟きを、楊柊の怒号が掻き消した。

「小僧、このわしから逃げ切れるとでも思ったかっ」

 楊柊が、劉飛の身の丈の倍はあろうかという段平をこちらに向けた。

「図体の割りに、お速いんで、驚きましたよ。海州公閣下。死神役の私を追い掛けて来るとは、余程命が惜しくないらしい」

「ガキが減らず口を」

「お命頂戴いたします、お覚悟っ!」

 劉飛は剣を大きく振り下ろした。楊柊はそれを軽く受け止めて、横に払った。だが、劉飛の方は、勢いよく弾き返された格好になり、劉飛は素早く手綱を引いて、辛うじて体勢を保った。

「ほほぅ……落馬せぬとは、大したものだな」

 言いながら、今度は楊柊が段平を振り下ろした。劉飛は、日頃の習慣で反射的にそれを受け止めてしまってから、すぐにその判断が誤っていたと感じた。想像もしなかった重圧感が自分の上にのしかかってきたのである。劉飛は左手で剣先を支え、両腕でその重圧を押し返そうと試みたが、無理な相談だった。

「なんてぇ……馬鹿力」

 驪驥が突然の重圧感にいなないた。

「驪驥……」

 劉飛は金縛りに会ったように、動きを封じられてしまった。少しずつではあるが、確実に楊柊の剣が劉飛の顔に迫っていた。その剣の向こうに、楊柊の大きな顔を見て、劉飛は顔をしかめた。

「あんまり、その、うっとうしい顔、近づけるなよっ、とっ」

 劉飛の体が突然馬上から消えた。


「なにっ?」

 楊柊の力を受け止めていたものが消え、楊柊は体勢を崩してよろめいた。劉飛は楊柊の力を利用して、器用に馬から飛び降りたのである。勢い余った楊柊が落馬する。

「避けろ、驪驥っ!」

 驪驥は劉飛の声に反応して、ふいに体が軽くなったのを喜ぶ様に、大きく前足を蹴り上げて、剣を手に落ちてきた楊柊を巧みに避けた。しかし、楊柊はすぐに体勢を立て直すと、劉飛目掛けて、再度、剣を振り下ろした。湖岸の柔らかい泥が派手に跳ね上がって、楊柊の顔に跳ね返った。劉飛は、一瞬早く横へ飛び退いていた。楊柊が剣を振り下ろす度に、鈍い音を伴って、泥が宙に舞った。その剣を巧みに避けながら、劉飛は慎重に間合いを計っていた。

「……手は二本、足も二本、心臓は一つ……鋼の皮膚を持つ奴はいないんだって……そこっ!」

 劉飛の剣が、楊柊の喉元を指して、真っ直ぐに突き上げられた。楊柊が、泥に刺した剣を引き抜いた、その一瞬のことである。

「な……」

 楊柊の声が、何かを言いかけて途切れた。劉飛の剣がその喉を突き抜けて、首の後ろから現われた。それも、僅かな間の事で、剣はあっという間に消え失せた。そして、楊柊の首から真赤な血飛沫が上がった。

「……血の色は、赤。我も彼もこれ人なり」

 泥の中に身を沈めた楊柊を見下ろして、劉飛は大きく息を吐いた。

「劉飛様っ」

 葦原の向こうで周翼の声が聞こえた。

「第二陣、来たか。驪驥っ!」

 劉飛は剣を勢い良く振り、血糊を払うと、驪驥に飛び乗って、戦場へ駒を向けた。



 戦いが始まって、数刻が経過していたが、戦況が思わしくなく、麗妃は、寄って来る敵兵を薙ぎ倒しながら、苛々していた。敵の計略に、ああも簡単にひっかかった叔父、楊柊に対して、憤りを感じずにはいられなかった。また、それを見殺しにするわけにもいかず、仕方なく援護しに行き掛けたところに、新たな敵軍が現われて、その行く手を阻まれてしまったのである。完全に動きを先読みされていた事と、恐らく、楊柊を罠にかけるのに、その性格まで計算に入れられていたに違い無いという事を考えると、口惜しくて仕方がなかった。そんなこんなで、怒りをその剣に乗せて、振り回していた麗妃であるが、そこへ楊柊の討ち死にの知らせが入った。

「死んだと言うのか?あの楊柊殿が……」

 確認するように問い掛けた麗妃に、彼女の補佐役を務める副将軍が、再度、事実を告げた。

「そうか。それで、叔父上を討ち取った者の名は?」

「は、劉飛とか言う、恐ろしく腕の立つ武将と聞いておりますが」

「劉飛か……」

 その名前を頭に刻みこむように、麗妃が繰り返した。


「姫、急ぎ兵を退きませんと、敵に囲まれてしまいますぞ。もはや、左軍は総崩れで、兵共は散り散りに潰走を始めております」

「分かっておる。左軍の兵を出来るだけまとめよ。右軍だけでは、あの兵力は相手に出来ぬ。……叔父上がいま少し慎重でいてくださったら……過ぎた事を言っても詮無いな。天河を渡る。我が軍、通過の後、橋を落とせ」

「しかし、姫、橋を壊してしまいましては、後々……」

「時間稼ぎをせねばならぬのだ。今、皇帝軍に天河を越えられては困る。橋など、来たいものにかけさせれば良かろう」

「御意」

「急ぎ、伝令を回せ。撤退する」

「はっ」

 副将軍は、素早く馬を返すと、混乱している兵の中へ走り込んでいった。麗妃は右軍の兵をまとめると、天河に掛かる、月影橋げつえいきょうを指して撤退を始めた。




 大公軍を深追いせず、陣に戻った劉飛は、自分の責任を果たし終えた後の解放感に浸っていた。そこへ、折よく周翼が顔を出した。

「ご無事でなによりでした」

「今回の、お前の策。結構きつかったぞ。人使いが荒いんだから」

 劉飛が笑いながら、冗談半分に愚痴をこぼした。周翼はそれを軽く聞き流した後で、少し真面目な顔になって言った。

「天海様の傷のご様子、あまり良くない様です」

「そうか……あのお方も、強がりが多いからな。少し休息される、良い機会かも知れない」

「それで、代わりに都から、璋翔様がいらっしゃるとか」

「義父上が?」

「しばらくは、天河を挟んで、睨みあいになりそうですね。そうそう、敵軍は月影橋をきれいに壊していったそうですよ」

「へぇ……さすがに鬼姫のやる事はハデだな。となると、当分休戦ってとこだな」

「でしょうね」

「……天海様のお見舞いにでも行って来るか」

 劉飛はそう言うと、周翼と共に元帥の天幕へ向かった。



 天海は聞いていたよりは元気そうだったが、無理をして戦に出て落馬したため、傷が悪化して、歩行が困難になっていると言う。すぐに治ると言って、いつもの豪快な笑いをしたが、その途中で、足の痛みに顔を歪め、苦笑した。

「そろそろ、引退の潮時かもしれんな。この内乱の片が付いてから、と思っておったのだが……」

「まだ、お早いですよ。六十になられたばかりで……体力だって、まだ十分に」

 怪我のせいか、珍しく弱気になっているのだろうか。劉飛がそう考えかけた時、一人の兵士が天幕に走り込んで来た。


「申し上げます。只今、都からの早馬が到着いたしました」

 天海がそれを聞いて頷くと、息を切らせた使者が、転がり込むように姿を現わした。

「何事だ」

「はっ、都にて、謀反が露見いたしまして、その首謀者、蒼炎殿がこの河南方面へ逃亡したとの由」

「なんじゃと。で、陛下はご無事か?」

「幸い、事が未然に露見いたしましたそうで、大事には。元帥殿のお力で蒼炎殿を捕えられたしとの、太后様よりのお沙汰にございます」

 あの蒼炎と、謀反などという言葉が、どうやったら結び付くのか。先日、顔を会わせたばかりの、人懐こいその面影を頭に浮かべて、劉飛は考え込んだ。


 ふと横を見ると、周翼が顔を蒼白にして俯き、心ここにあらずという面持ちである。

「どうした?気分でも悪いのか?周翼」

 劉飛が話しかけると、周翼は思い切った様に顔を上げ、強い口調で言葉を発した。

「恐れながら、天海様。そのお役目、この周翼にお任せ頂けないでしょうか」

「それは、構わぬが……何か、訳ありだな」

 いつもと様子の違う周翼に、天海が尋ねた。

「はい。燎……いえ、蒼炎殿とは、旧知の仲にございます。蒼炎殿は、陛下に対する忠誠の篤き者。その者が謀反などと、到底信じられません。真偽をこの目で確かめたく……もし、謀反が真ならば、この私の手で道を正したく存じます」

「そうか」

 天海は、短く言葉を切って一息ついた。

「よかろう。お前に任せよう。……劉飛、疲れている所すまぬが、手伝ってやれ。気に入った部下を選んで連れていくが良い」

「はっ」

 劉飛は軽く頭を下げた。


 周翼と蒼炎が、旧知の仲だとは、初耳だった。確かに、蒼炎の姉、華梨とは懇意だったようだが、彼の見た限り、周翼は蒼炎とは、顔を合わせても、さほど親しい素振りは見せていなかった。

 深く訳を知りたい気がしたが、周翼が思いの外に深刻な顔をしていたので、劉飛は話を切り出す機会を得られなかった。



 劉飛は、十歳の時、八歳の周翼と出会った。

 彼らが出会う以前に、周翼が、一体どこで何をしていたのか、改めて考えてみると、詳しい事は何一つ知らなかった。


 鴻麟こうりんという、劉飛の剣の師が、周翼と彼とを繋ぐ唯一の接点だった。師匠の家に、時折姿を見せる少年。少女の様に線の細い体をしていながら、剣の扱いが尋常でない少年だった。こいつは強い。いつか、こいつと勝負をしたい。そう思いながら、劉飛は剣の腕を磨いた。幼い日の劉飛にとって、周翼とは、そういう存在だった。彼には、ただそれだけで、充分だった。

 劉飛は、昔話など興味が無かったから、過去の事など、聞きもしなかったのだ。周翼の方も、今まで、そういう話はしたことがなかったのである。

 お互い気が合って、行動を共にし、周翼は当たり前の様に、いつも自分の傍らにいた。劉飛には、それ以外に何も必要ではなかったのだ。



「兄ちゃん達、どこに出かけるの?」

 劉飛達が馬に鞍を乗せていたのを、星海が目ざとく見つけてやってきた。

「お前は留守番。天海様のお側にいるんだ」

 星海は同行を求める前に留守番を宣告されて、ふくれっ面を見せた。

「ちぇっ、つまんないの」

 その星海を、周翼がなだめるように話しかける。

「私の雪妃を置いていくから、世話をお願い出来るかな。お前に懐いている様だし」

「うん、いいけど。なんで、あの白馬に乗っていかないんだ?」

「戦で無理をさせたからね。少し休ませてやらないといけないから……」

「ふうん。劉飛兄ちゃんの驪驥は?俺、まとめて面倒見てやるぜ」

「あいにく、俺のは元気だよ」

 笑って劉飛は答えた。



 劉飛が百五十騎の兵を従えて、秋白湖の陣を後にしたのは、その日の昼近くだった。星海は周翼の愛馬、雪妃と共に、彼らを見送った。

 不意に、遠ざかる周翼を呼び戻すかのように、雪妃が悲しげな声を上げた。

「雪妃?」

 周翼が、この雪妃に乗る事はもう二度とないのだということを、星海もそして周翼自身もまだ知らなかった。ただ雪妃だけは、何かを感じていたのかもしれない…

 雪妃をなだめながら、星海は急速に小さくなっていく彼らの後ろ姿を、いつまでも、いつまでも見送っていた。

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