第16話 弱者の生存戦略
同じ頃、燎宛宮の一室では、華梨が複雑な表情で、水晶球を覗き込んでいた。
そこに現れる幾つもの星。
本来あるべきのない星の動きに、華梨は眉をひそめた。
……天の意思ではなく、人の傲慢によって、星を動かす……
それに払う代価は、当然の事ながら大きい。失うものの大きさに気づくのは、いつも大切な物を失った後。どうして、そんな事にも気付かずに、こんな愚かな真似をするのか。
「大きな波がくるな」
その声と共に、華梨の体が白い光に包まれた。
「
華梨が名を呼ぶと、白い光が人の形を成し、影の様な姿がそこに浮かび上がった。
「星が大きく動く」
白星王の言葉に、何かを決心した様に、華梨が立ち上がった。
「お前が、関わるべきではないよ。星を見る力を授けたのは、お前の身を守る為。そう向こう見ずでは……」
「放ってもおけません。蒼炎は、私の弟なのですから……」
「人の
皮肉の交じった白星王の言葉に、華梨は少し寂しげな笑みを浮かべた。
「でも、それが、人の生きる
「……私は関わる訳にはいかないよ…
白い光が、四散して消えた。
「元より、承知いたしております」
華梨は虚空に向かって頭を下げた。
自室に籠って、厚い書物を机上に幾重にも広げ、熱心に何かに没頭していた楊蘭は、お茶を運んできた侍女の後ろに、麗妃の姿を認めると、優しい顔をして一歳年下の姪を歓迎した。
日頃は、男装して剣を帯びている事の多い麗妃が、珍しく女子の正装姿で、髪を結い上げている。身に纏う衣の色は、黒色であったが、それがかえって、麗妃の美しさを引き立たせていた。楊蘭がそれを興味深そうに見ていると、麗妃のほうが先に声を掛けた。
「熱心ですね。何の研究をなさっているのかしら……」
「天文学から派生した、八卦術の奥義。簡単言えば、そんなところです」
「八卦術って、八卦師の用いる、あれですか?ただのはったりかと思っていましたわ。あれに、学問的な要素があるなんて、存じませんでした」
「意外でしたか?」
「ええ」
「七星法と言うのが、最近良く使われている物でしてね。天空の、北天七曜星。あの動きを、古来から伝わる占術盤に重ねて、事象の先触れを読み、未来を推測するものです」
「私には、難しくてよくわからないけれど……もしそれで、本当に未来が分かってしまったら、つまらなくはないかしら」
「あなたも、存外ロマンチストなんですね」
楊蘭がそう言って笑ったのを見て、つられて麗妃も口元をほころばせた。
「……そういう顔をしている方が良いですよ。あなたらしくて。一日も早く、いつものあなたに戻って欲しいですね。兄達が亡くなった今、我が一族を統べるのは、あなたなんですから」
楊蘭にそう言われて、無理に笑みを浮かべた麗妃であったが、いつもの快活さを取り戻すには、しばらく時間が掛かりそうであった。
楊柊が劉飛に倒されて、河南へ退いた麗妃を待っていたものは、父、楊桂の病死の知らせだった。
楊桂が原因不明のまま、病の床に着いたのは半年前のことである。次第に衰弱していく楊桂に、城の薬師達はあらゆる治療を試みたが、どれも良い結果は得られなかった。楊蘭が、ある占術師から不可解な話を聞いたのは、そんな頃であった。
楊桂の病は、呪術によるものかもしれないというのである。
かつて、大陸を統一し、華煌帝国の始皇帝となった
八卦術の奥義ともいうべきその書物は、現存していないという話だが、もしかしたら、時代の闇の中で、どこかで密かに受け継がれていたのかもしれない。
つまり、兄、楊桂は八卦師に殺されたのだ。楊蘭はそう確信した。楊桂の死を受けて、楊蘭は秋白湖へ使者を送ったが、戦を止めることは出来なかった。そして、楊柊までもが討ち死にする。これは、運命とか偶然などではない。八卦の力を知る楊蘭はそう思った。
本来なら、兄達の志を継いで、自分が一族の要とならなければならないのに、病弱で自室に籠りがちな楊蘭には、その役を果たすことは出来ない。まだ十九で、しかも女の身でありながら、楊家の家督を継がなければならなかった麗妃を思うと、彼女のために出来るだけのことはしてやりたいと思っている。
命のやり取りをする戦の事で、その心を煩わす事のない様に。そして、謀略の闇に心を蝕まれぬ様に。
楊家の当主として直面するであろう、あらゆる難事から、出来るだけ遠ざけておいてやりたい。そのためなら、楊蘭は、何でもするつもりでいる。その身を盾にすることすら、厭わない。
この河南を、楊家を……麗妃を守ること。それが、兄弟の中で、最後に残った自分の役目であると、楊蘭は、そう考えていた。
だが、八卦の術を頭で理解するのと、それを実際に使うのとでは、天と地ほどの差がある。八卦を操るには、多大な精神力を必要とするという。修業もろくにしていない素人が、それを用いるとしたら、どうなるか。楊蘭はいつの間にか黙り込んで難しい顔をしていた。その自分を麗妃が心配そうな顔をして見ているのに気が付いて、楊蘭は笑ってその場をごまかすと、話題を変えた。
「劉飛という男を、ご存知ですか?」
その名を聞いて、眉をひそめた麗妃の反応を肯定の答えと取って、楊蘭は先を続けた。
「私の闇師が、二人も殺されましてね。残った仲間が、ぜひ、その仇を討たせてくれと言って来たのだが……」
「劉飛ならば、
「なに、ちょっと面白い手を思いついてね。試してみたいと思って」
「また、何か、策略を巡らせていらっしゃるのですね」
楊蘭を少し責める様に言った麗妃に、彼は、自嘲めいた笑みを返した。
「正面切って向かっていくばかりが、最良の手とは限らないでしょう?私は武将ではないからね。正々堂々なんて事は、端から考えないんですよ。そんなのは、力のある者同士でやればいい。目的を達する為には、何が最善なのか。私は、いつもそこから考える。それが、力では叶わない者の、ささやかな、自衛手段なんです。私達は、まず、生き延びる事を考えなくてはならない」
もし、楊桂が八卦師に殺されたのだとすれば、次に狙われるのは、麗妃に違いないのだ。なりふりなど、構っていられる状況ではなかった。
たった一つしか年が違わないのに、楊蘭は、自分などよりずっと大人だ。
麗妃はそう思う。楊蘭の言う事は、いつも正しい。彼に任せておけば、多分、間違える事はないのだろう。この河南の行く末も、楊家の将来の事も……そうは思うものの、麗妃の中にある、漠然とした不安の影は去らない。
実は、楊蘭の体調が優れないのを、麗妃は薄々気づいている。楊蘭は、本人にその自覚の無いまま、明らかに無理をしている。
……私が、もっと、もっと、強くならなくては。でなければ、楊蘭様のご負担が増すばかり、しっかりしなくては……
顔を上げた麗妃の瞳には、生来の力強さが戻っていた。
「して、その策とは?」
「……彼の一番大事にしているものを頂いてくる様にと」
「……?」
「あなたも、会いたがっていたでしょう。例の、白馬の少年軍師殿に」
楊蘭にそう言われて、麗妃は六年前の、戦の時の記憶を甦らせた。
六年前、
麗妃が、その頃西畔に居た楊蘭に戦勝を知らせに行って、再び河南に戻ってきたのは、河南城落城から半月後の事だった。楊桂は、落城直後の惨状を麗妃に見せまいとして、わざわざ彼女を西畔への使者として送り出したのである。
麗妃が初めて足を踏み入れた河南城は、あちこちが崩れ落ちて、殺風景で陰気な城であった。だが、屍の山はとっくに片付けられていたし、死んでいった兵士達の流した血は、すでに大地にきれいに吸い込まれた後だった。そこではもはや、戦は過去のものになっていた。
楊桂は、兄である皇太子虎伯の命によって、河南に留まり、戦後処理に追われていた。
河南は、帝国の食料庫であったが、この戦で戦場となったために、その年の農作物の収穫は、ほとんど絶望的であった。この地の農民達は皆、李笙騎の世直しと称した反乱に参加し、その大半が戦死。生き延びたものも、帝国軍の残党狩りを恐れて何処かに逃亡していた。
この時期、例年ならば、大地の神に収穫を感謝する祭りがあちこちの村で行なわれているはずであった。だが、村々は廃虚と化し、人の気配はなく、ただ吹き荒ぶ晩秋の風が、無気味なうなりをあげているだけだった。
物見の塔の上から城壁の外を眺めていた麗妃は、大義そうに大きく伸びをしながら欠伸をした。眼下は、見渡す限りの荒れ地だった。そこが、かつては水田であった名残りを示すように、ところどころに幾つもの水溜まりが見られたが、それ以上のものは何もなかった。地平線に陽が沈みかけていた。
「こんなことなら、西畔の
戦の間は、父の傍にいて、一人前の武将として扱ってもらえていた。だが、戦が終わってしまうと、彼女のやることは何も無くなってしまったのである。今後の河南の立て直しに忙しい父は勿論のこと、誰もが、彼女の相手をする暇などない様だった。城の兵士達が、忙しそうに走り回っているのを、麗妃は横目に見ながら溜め息を付いた。
回廊を巡って、自室へ戻る階段を昇っていた麗妃は、その先が行き止まりであるのに気付いて足を止めた。どうやら、どこかで曲がる回廊を間違えて、別の階段に出てしまった様だった。仕方なしに向きを変えて、数段下りかけた所で、何気なく窓の外に目をやった麗妃は、そこにあるはずの無いものを見て、立ちすくんだ。そこに、青白い顔の少年が立っていたのだ。
麗妃は、兵士の間に、この城に幽霊が出るという噂が流れていたのを思い出した。ここで死んだ者の数から言えば、幽霊など、団体で現われても不思議はない。だが、何か様子が違うような気がして、麗妃はまじまじと、その少年を観察していた。
と、不意に、少年の姿が消えた。
「ちょっと、待って!」
麗妃は慌てて、窓から身を乗り出した。少年の姿はどこにも無かった。あれは、幽霊なんかじゃない。麗妃はそう確信した。麗妃と顔を合わせた少年は、気まずそうな表情を見せたのだ。
……幽霊にしては、表情がありすぎるじゃないの……
「隠れてないで、出ておいで!」
麗妃がそう叫んだ時、夜の闇に沈んでしまいそうな、濃い青色……藍色の光珠が、彼女の目の端を掠めて城の影に消えた。
「待って!」
麗妃の声だけが、濃くなっていく闇の中で、空しくこだました。少年の気配は、もう何処にも無かった。
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