第17話 蛍火を纏う少年

 陽が沈んでしまうと、辺りは漆黒の闇に包まれた。


 新月の夜だった。

 闇夜である。


 城壁の上で焚かれているかがり火の照らす、ほんの僅かな空間だけが、辛うじて闇を退けていた。


 好奇心に押されて、麗妃は息を潜めながら、城の西側の小庭へ続く階段を下っていた。先刻の藍色の光珠が消えたのは、その小庭のあたりだったのである。

 手にした灯が照らし出す、その足元以外には、何も見えない。灯を高く掲げてみても、城壁がその光を返す他は、闇が果てなく広がるばかりである。


 石の階段を下りて、草の上に立つと、麗妃は見張りの兵に見付からなかった事にひと安心して、大股に歩き出した。虫の鳴く声が、麗妃の草を踏み分ける音に時々途切れたが、少女はもう気にも止めなかった。


――それは、小さな、小さな光だった。


 ほんの一瞬だけ、草叢で何かが光ったのだ。捜し物をして、きょろきょろしていた麗妃だから見つけられたという程の小さな光だった。

「蛍……?」

 呟いて、蛍が飛ぶには、季節外れだと考えた。麗妃は跪くと、灯を脇に置き、草叢に顔を寄せて、そっと両の手で草を分けた。そこに、小さな格子窓があった。中は真っ暗で、何も見えなかった。だが、確かに、人の気配があった。


……ここは、地下牢か……


 麗妃が、そこに誰が居るのかを確かめようと、灯に手を伸ばした時である。



 金色の蛍火が、闇の中に一つ、二つと現われて、そこに少年の姿を浮かび上がらせた。蛍火は、少年の体にまとわりつく様にくるくると彼の周囲を巡り、天井近くまで上がっては消えていった。少年は、その光の動きを目で追いながら、それが消える度に、寂しそうな表情を見せた。


 と、少年が、麗妃の気配に気付いてこちらに顔を向けた。その顔は間違いなく、先刻の少年だった。麗妃と目が合うと、少年の回りに見えていた光は一瞬にして消え、牢の中は再び闇に閉ざされた。

「あなたは……誰?」

 麗妃が問い掛けたが、少年の返事は無かった。

「光を出していたの、あなたでしょう?ねぇ、もう一度、顔を見せてよ。話がしたいの」

 だが、闇の中に、微かにその気配を残すだけで、少年は二度と、彼女の前には姿を見せなかった。



 翌日、勅命により、城に捕われていた人々は、都へ移される事になった。見せしめのため、華煌京かこうきょうで処刑される事になったのだという。その中に、あの少年がいると知って、麗妃は護送役を父に願い出た。そして、その護送途中で、彼女は少年を密かに逃がしてしまったのである。


 彼が一体誰なのか、どういう身分の者なのか、麗妃は何も知らなかった。というのも、少年は、ついに最後まで全く声を発しなかったからである。


 これまで、大公の娘として自由勝手に生きてきた麗妃には、自分の思い通りにならない事はなかった。だが、結局最後まで、彼女には、その少年の心を開く事が出来なかった。自分の思い通りにならないままに、この少年が地上から居なくなってしまうという事が、麗妃には我慢できなかったのだ。


 その時、麗妃は、自分が彼のその後の運命を変えてやったのだという、大きな自己満足を感じながら、礼も言わずに走り去る少年を見送ったのだった。


――その少年が、周翼だった。


 その後、逃亡した周翼は、劉飛と再会し、やがて時を経て、敵となって彼女の前に現われた。その時、少年の記憶から、かつての少女の姿は消えていたが、少女のほうは記憶の底に沈んでいたものを、再びその意識の中に拾い上げたのだ。


「……周翼」

 あの時、逃がしてやったのに、彼はまたここへ戻ってくると言うのだろうか……

「嬉しくないんですか?」

 楊蘭が麗妃を見ていた。

「……河南は、呪われた地ですもの。あまりお客様はお招きしたくないわ。皆、この地に来ると、不幸になるんですもの……」

「そう心配することはないよ、麗妃。その呪いを解く鍵を、多分、彼が持ってきてくれるのだから」

 そう言った楊蘭を、麗妃が不思議そうな目で見たが、彼はそれ以上、何も言わなかった。




 劉飛達は、天海の陣を出て街道を北上していた途中で、燎宛宮からの使者だという男と行き会った。そして、蒼炎そうえんが、天河の河口近くにある、夕都ゆうとに逃げ込んでいるという情報を得、東へ進路を変えた。


 その情報を持ってきたのは、緋燕ひえんという男であった。


 緋燕は、宰相蒼羽に仕えていた八卦師である。蒼炎の謀反が露見して、その父である蒼羽は職を追われ、裁きを待つ身となっているという。そして、その右腕とも言われた緋燕は、今度は、皇帝の……というより、恐らくは太后の命を受け、蒼炎を追っているという。劉飛は、そんな変わり身の早い緋燕に、どうもあまり良い印象を持てなかった。



 天河の川べりに馬を進めながら、わずか数百米を隔てただけの、霧に包まれた対岸に目をやった劉飛は、無意識のうちに馬を止めていた。

「劉飛様?」

 劉飛にあわせて、馬を止めた周翼は、静かに問いかけた。

「ああ、すまない」

 劉飛はそう言うと、手綱を軽く打って、再び駒を進めた。

「やはり、違うもんだな。同じ天河であるはずなのに、こちらから眺めるのと、あちらから眺めるのとでは」

「ここからだと、黒湖こっこの村が近うございますね」

「ああ」

 黒湖村こっこそんは、劉飛の生まれ育った地であり、周翼と初めて出会った地でもあった。

「幼い頃は、天河の先にある都にあこがれていたんだが……いざ出てきてみると、今度は、黒湖のほうが良かった様な気もする。戻れぬと言うと、戻ってみたくなる。不思議なもんだな」

「……」

 淡々と言う劉飛に、周翼は何も言えなかった。


 かつて、李笙騎の乱に加わった周翼の叔父鴻麟こうりんは、戦への同行を求めた弟子の劉飛を半ばだます様にして、無理矢理、村へ置いていったのである。だが、それを、叔父の言いつけに背き、劉飛を村から連れ出したのは、他ならぬ周翼であったのだ。

 河南落城の後、燎羽を捜して黒湖村に戻った周翼と共に、劉飛は村を後にした。

 以来、劉飛は黒湖村へ戻っていない。


 劉飛が村を出て数年の後に、三大公の乱が起こり、黒湖のある河南地方は、大公の支配下に収まった。その後、天河を渡ることは出来なくなっていたのである。


「だが、周翼。俺達には、これからやらなければならない事が沢山ある。失うものが多くても、まだ立ち止まるわけには行かない。過去を振り返るのは、ずっと先の話だ」

 過去の何かに囚われている、周翼の心を見透かすように劉飛が言った。

「劉飛様、私は……」

「いいよ。何も言わなくて。ただ、俺にはお前が必要なんだって、それだけ覚えておいてくれれば……」

 そう言った劉飛の顔は、穏やかで優しい笑みを浮かべていた。それは、まるで無防備で、多分、彼が信頼している者にしか見せない顔だった。この時の顔が、何故か、他のどの表情よりも鮮やかに、周翼の心に残った。


「日暮れまでに、夕都に入りたいな。少し、急いだほうがいいかもしれない」

「そうですね。緋燕殿にその旨、伝えて参ります」

 馬首を返して、後方にいる緋燕の許へ向かった周翼を見送って、劉飛は鐙を蹴った。頬を掠めていく風が、湿気を含んでいるのが感じられた。

「……嵐が来るな」

 呟きながら、心の中では劉飛は別のことを考えていた。


……追いかけて、失ったものが取り戻せるのなら、誰も後悔なんてしない……


 だが、一度流れた時間は元には戻らないし、過去は変えられるものではない。そんな事は、周翼だって分かっているだろう。劉飛はそう思った。だが、理屈だけで全てが解決できるのなら、誰も苦労はしないのだ。周翼が、過去の何に囚われているのか、劉飛には分からなかった。しかし、彼は、自身が相棒と決めた少年が、その因縁の糸を断ち切るために、何かをしようとしているのを感じ取っていた。

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