第4章 秋白湖畔の戦い
第11話 天暮の姫
朝の陽光の中、街道を南へ向かう一行があった。
劉飛と周翼、そして星海の三人である。
周翼の白馬、雪妃にその主人と一緒に乗っている星海の妙にはしゃいでいる様子を見て、劉飛は軽く頭を振った。昨日の騒ぎのどさくさに紛れて、星海から封魔球を取り戻しそこねた劉飛は、それを盾に七つも年下の少年に、同行を承知させられてしまったのである。今になって思えば、何故か星海を気に入ったらしい周翼が、少年に入れ知恵をしたに違いないのだが……
「念のため言っとくけどな、星海。俺はお前を弟子にするつもりはないからな」
劉飛が不機嫌そうに言うと、星海は、周翼の腕の間から顔を覗かせて、にっこり笑った。
「うん。弟子じゃなくて、弟分。わかってるってば」
「あのなぁ……」
「いいじゃないですか」
そう言った、周翼の余裕の笑みに負けて、劉飛は反論できずに、弟子と弟分とどう違うんだ、といった意味の言葉を、しばらく聞こえよがしにこぼしていた。
燎宛宮の謁見の間に続く控えの間で、宰相蒼羽は考え事をするように、椅子に座ったまま腕を組み、天井の一点を見詰めたまま、身動き一つせずにいた。
蒼羽は、昨日、燎宛宮を抜け出して、お忍びに出かけていた皇帝が、蒼炎に伴われて帰ってきた時の事を思い返していた。雷将帝はこともあろうに、女装姿でお忍びに出かけていたのである。
「全く、なんたる失態か……」
宰相は天を仰いだまま、自己嫌悪に苛まれて、溜め息をついた。
雷将帝が、女装していたということが問題なのではなかった。蒼羽の自己嫌悪の理由は別にあった。蒼羽は、雷将帝が女であるという事実を認識してはいた。だが、昨日、実際に目の前でその女装姿を見るまでは、それが、超一級の重大事なのだという認識が欠けていたことに気が付いたのである。女の格好をすれば女に見えてしまう。元が女なのであるから、当然の事なのだが、雷将帝の場合、それは由々しき問題となる。今はまだ七つだが、年を経るごとに、更に女らしくなっていくだろう。
そう、あと五年もすれば――
雷将帝は、あの、太后の娘なのだ。彼女が宮廷一の美女となるのも、そう不思議な事ではない。ばれるのは時間の問題といったところだ。万が一、宮廷の貴族達に、皇帝が女であるという事実が露見したら、それこそ一大事である。
六年前、河南を脱出した蒼羽は、李炎を連れて、燎宛宮の後宮にいた
葵姫というのは、李家の血筋の姫で、
当初、李家の側は、葵姫を後宮に入れたいという旨の申し入れをしていた。皇太子との政略結婚を目論んだのだが、この件に関して、燎宛宮からは色よい返事が得られなかった。潔癖な性格の皇太子が、娘程も年の離れた姫を、しかも、誰が考えても、あからさまな政略結婚として、受け入れることに頑として首を縦に振らなかったのだという。そんな経緯がありながら、なお、葵姫が都に送り込まれた理由は、実は彼女が持つ守護星にあった。
表面上は従順を装いながら、水面下で反乱の計画を進めていた李家では、その計画を完遂する為に、あらゆる方策を施していた。その方策の一つとして、葵姫は都に送られたのだ。彼女が、楊家の力を削ぐ為の、人柱となりうる者であるという、八卦師の進言によって。
――天暮星という、星の故に。
一方、送られた方は、両家の関係を良好に保つという名目の献上品であるから、来てしまった以上、これを送り返すという訳にも行かず、その処遇について、官吏たちの頭をしばし悩ませた後、結局、他に決めようが無く、葵姫は、後宮に召されることになった。そして、その存在は、いつしか忘れられていった。
ところが、どういう運命のいたずらか、やがて、葵姫が身篭ったことが判明する。そして生まれたのが、皇子であったことから、葵姫は皇太子妃の地位を手に入れたのである。
皇太子には、他に二人の妻があったが、葵姫が最初に皇子をもうけた事で、彼女が皇太子の正妃となっていた。他の妃には、まだ姫皇女しかいなかったのである。葵姫はあろうことか、正妃の位を手に入れるために、自分の生んだ娘を男に仕立て上げたのである。
閉ざされた後宮で、ただ過ぎていくだけの時間。
いつかは、河南に戻りたいという、儚い願い。
大きな絶望と儚い希望が、代わる代わる彼女の心を蝕んでいた。
そんな時、どんな運命のいたずらか、葵姫は皇太子の子を身篭ったのだ。すると、周囲の対応が、今までとは明らかに変わった。その事を敏感に感じ取った彼女は、皇子を産むという事が、どういう意味を持つのかということに気づく――
これが、最初で最後の好機だと思った。この後宮から、抜け出す為の……河南へ戻るための、これが最後の望みであり、その力を手にすることが、それを叶える唯一の道なのだ。皇子を産めば、その力が手に入るのだという事に、彼女は気づいたのである。
途方もない話である。だが、彼女は決断した。そして、後に振り返ってみれば、実はこの決断によって、彼女は破滅から救われたのだと言えた。
――優慶が生まれて、半年も経たないうちに李笙騎の乱が起こった。
もし、彼女が皇子を産んでいなければ、李笙騎の従兄妹という立場の彼女は、確実に燎宛宮から追われ、命さえも危うかったに違いなかった。葵姫は、辛うじて、逆境の中から、自分の居場所を確保したのである。
しかし、彼女の頭の中には、その先の絵図は描かれていなかった。そして、そんな彼女が、日々、成長していく我が子を見ながら、途方に暮れていたところにやってきたのが、蒼羽であったのだ。
李家の嫡子、李炎を伴って……
その時から、葵姫と蒼羽、二人の遠大な計画の歯車が回り始めた。李炎を皇帝に立て、李氏皇家を再興すること。それは、何より、お互いの保身の為に、そして、葵姫にとっては、河南へ戻る望みを絶たれた事への復讐でもあった。
四方が敵だらけの燎宛宮で、蒼羽の緻密な計算のもとに、謀略の糸は少しずつ張り巡らされていった。
そして、六年――
だが、ここに来て、大きな誤算が生じたのかもしれないのだ。
……事を急ぐ必要が、あるやもしれぬ……
やがて、蒼羽は彼の待っていた告時の鐘が、九つを数えるのを聞いて、ゆっくりと立ち上がると、謁見の間へと進んだ。
雷将帝は、朝一番に顔を見せたのが宰相であると知って、不快そうな顔をした。
「私は、劉飛を呼んだのだぞ。なぜ、お前が来るのだ」
「恐れながら……劉飛准将は、早朝、秋白湖へ発ちましたので、私が代わりに参ったのでございます、陛下」
「その様な話、私は聞いておらぬぞ」
「昨夜遅くに決まりました。陛下はすでにお休みでございましたので、ただいまそれをご報告に参った次第にございます」
「……不愉快だ。退がれ」
蒼羽は、深く頭を垂れて、退出の意思を示した。だが、雷将帝と宰相、両者の意思に反して、宰相はそのまま、謁見の間に引き留められることになった。
「我儘もたいがいになさいませ、陛下」
衣擦れの音と共に聞こえた女の声が、その場の支配権を、あっという間にその手中に収めた。その絢爛豪華な女人服に焚き染められた独特の香が、目に見えぬ霧のように部屋の中に降り、広がっていった。そして、顔を上げるまでもなく、蒼羽には、その声の主が太后であるということが分かった。
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