第10話 払暁に指極星
一夜明けて、早朝。
まだ夜明けから、そう時間は経っていない。
ほとんどの者が、昨夜遅くまで騒いでいて、皆、まだ寝静まっている。部屋を出て回廊を抜け、城の中庭に出ても、周翼は誰にも出会わなかった。今時分起きているのは、城門の見張りぐらいなものだ。そんな事を考えながら、周翼は、何気なく空を仰いだ。朝のひんやりとした空気の中、空に残っていた最後の星が、ちょうど消えようとしていた。
「……
周翼が見据える先、その淡い蒼い空色の中に、別の星が、一瞬だけ輝いて消えた。
「これは珍しい……
呟いて、周翼は考え込んだ。全く、こちらの都合などお構いなしに、事態はどんどん動いていく様だ。
馬屋へ向かって歩きながら、周翼は、なお思索にふけっていた。
初めの予定では、もう二、三日都に留まるはずだったのだ。だが、昨夜遅く、劉飛が宰相に呼ばれて、急に出発が決まったのである。天海元帥への急ぎの書状を届けるというのが、その理由であったのだが、周翼には、どうも腑に落ちなかった。
周翼が馬屋へ入っていくと、そこに先客がいた。
宰相の息子、蒼炎である。
「これは、妙なところで会うな」
「
そう言われた蒼炎が笑った。
「私を幼名で呼ぶのは、今では、お前ぐらいだ」
「……申し訳ございません」
「いや、いい。燎羽という者はもういないのだ。名前ぐらい残っていてもよかろう……蒼炎という名は、嫌いではないが、どうも馴染まぬ」
冗談めかして言う蒼羽に、周翼は言葉を返す事が出来ない。
「それにしても、どうしたのだ?こんなに朝早くから……」
問われて、周翼が、数時間後に出立する事を告げると、蒼炎は、見るからに残念そうな顔をした。
「……
「燎羽様……」
別に、皮肉を言うふうでもなく、蒼炎は明るい口調でそう言ったのだが、周翼にはかえってそれが、辛く感じられた。
「燎羽様。恐れながら……」
「どうした?改まって」
「恐れながら、我が周家の者は、始皇帝陛下の御世より、ずっと李家に仕えて参りました」
「そう、優秀な軍師としてな」
「及ばずながら、この周翼。燎羽様のお役に立てるのでございましたら……」
「周翼」
周翼の言葉を遮った、蒼炎の口調は思いがけなく、厳しいものであった。
「それは、
「いえ、それは……」
「まぁ、いいが。周家の武将は忠義に厚く、一度仕えた主君には、死ぬまで尽くすとか。しかも、有能で、良く働く。手放すには惜しいが。しかし、お前の剣は、すでに守るべき主を決めてしまったのだろう?」
「……」
「お前が自分の意志で決めた事だ。何も後ろめたく思うことなどないぞ。李家はもう六年も前に、滅んでしまっているのだからな。私は、ただの残照にすぎない。劉飛殿は、見所のある武人だ。良い御方を選んだな」
「はい……」
六年前に、燎羽様を見失わなかったら。そして、あの日、劉飛様と出会っていなかったら。
寂しげに笑って、自分から離れていった少年の後ろ姿を見送りながら、周翼は、ぼんやりと考えた。
周翼が初めて燎羽に会ったのは、彼が七つになった年の秋のことだった。
燎羽の父、
周翼は、その時、父親から、この方がお前のお仕えする御方だ、と言われて、ただ頷いていたのを覚えている。以来、兄弟のように一緒に育てられ、自分はこの二歳下の若君に一生お仕えするのだと、子供ながらにそう信じていた。しかし、六年前の内乱が、周翼の運命を大きく変えてしまった。
六年前、燎羽の伯父、
燎羽は、李家の重臣だった蒼羽に連れられて、すでに河南城を脱出していた。
当時、李笙騎の従兄妹、
それから三年後、蒼羽は帝国宰相として再び表舞台にその姿を現わす事になる。その三年の間に、相次いで二人の皇帝が崩御し、まだ四歳だった雷将帝が即位した。そして周翼が、宰相の息子となった蒼炎と、彼の捜していた燎羽が、同一人物であると知るまでには、更なる年月を必要としたのである。
周翼の愛馬、雪妃が不意にいなないた。人の気配を感じて、周翼は辺りの様子を伺う。
「誰だ?」
誰何すると、近くの藁の山が、乾いた音を立てて僅かに崩れた。そしてそこから、小さな足が覗いた。
それに気づいて、周翼は笑い出したいのを堪えながら、更に声を掛けた。
「何をしているんですか、そんな所で……」
すると、藁山の中から、決まり悪そうに現れたのは、昨日の盗っ人の少年、星海である。
星海は、昨日、蒼炎と入れ違いに、何時の間にか姿を消していた。蒼炎が官服を着ていたが為に、役人が来たのだと見て、逃げ去ったのだと思っていた。思わぬところで皇帝陛下と遭遇した劉飛は、もはや少年の事など眼中になかった。蒼炎と共に、陛下と華梨を、燎宛宮に無事送り届けるという大事な役目の前では、盗っ人の少年の探索など、劉飛には、どうでもよくなってしまった様である。
周翼にしても、夕方、華梨を見舞った折に、陛下からお預かりしたと言って、劉飛の財布を渡されるまで、その事を忘れていたぐらいである。また再び、この少年の顔を見る事になろうとは、思いもしなかった。星海は、その様子から察するに、藁に隠れて眠り込んでいた所を、雪妃の声に起こされた様だ。
「あの兄ちゃんに、話があってさ」
「劉飛様に?まさか……弟子の件、ですか?」
「まあ、そんなとこ」
周翼が訊くと、星海が頷いて言う。
「……もしかして、昨日から、ずっとここに?」
「こっそり、後付けて来たんだけど、途中で兄ちゃん達、見失っちゃって。探してたら、ここに兄ちゃんの馬が居たから、ここに居れば、そのうち来るかなって……」
「にしても、ここは、燎宛宮の中なんですよ。よく入り込めましたね」
「それは、蛇の道は蛇って、やつ?」
盗っ人家業をなりわいとしていた星海は、悪びれもせずに自慢げに言う。
「それに、これは、運命だから」
「運命?」
突拍子も無い事を言った星海に、周翼が怪訝そうな顔をする。
「おいらを育ててくれた、占いばばが、おいらに言ったんだ。星を拾ったら、放しちゃいけないよ、お前の星は、特別な星だからって……」
「星……?」
「……えっと、ほら。あの、金ぴかの玉」
「金ぴか……ああ、あれは、封魔球。使い魔を封じておくものなんだよ。星なんかじゃ……」
占い師が星と言ったのなら、それは、人のことだろう。
星を拾う……人との出会いを、そんな風に比喩することがある。
「……星か」
周翼は、先刻、天空で瞬いた星を思い出す。
……あれは、特別な星。
――指極星。
それは、
この少年が、そうなのか。周翼は、ふと思う。真偽はすぐには分からない。
……拾っておくべきかな……天下を手に入れるのなら、この星は大きな力になる。何しろ、智司の星だ……
自分が無くしてしまったもの……それを、この少年が持っているのかも知れない。
周翼は、懐から、例の封魔球を取り出した。
「これをお貸ししましょう。これを返す代わりに、劉飛様に、弟分にして下さいとお願いしてみてご覧なさい」
「弟分?」
「弟子とかって、堅苦しいのは、あの人は好きではないからね……」
渡された封魔球は、昨日の様に光ってはいなかった。今は透明に澄んでいるその球に、星海の顔が映りこむ。封魔球を、真面目な顔で覗き込んでいる星海の本当の目的。それは、さすがの周翼にも、推し量ることは出来なかった。
実は、星海はそこに、昨日の姫君の顔を思い浮かべていた。
……この球は、おいらの見つけた大切な星、あの子に繋がる大切なもの……
あの少女は、この自分が守る。
少年は、そう決心したのだ。
そのためには、強くならなければならないのだと、そう考えた。
きっと、劉飛のそばにいる事が、その近道である。そう考えたのである。
星海は、この瞬間、まさに自分の運命を手にしていた。
そして、それを自分のものにするという強く堅い意思を、この少年はその内に秘めていたのである。
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