第12話 仮初めの太陽

 太后は優雅な仕草で、皇帝の隣の摂政席に腰を下ろした。そして、一段低いその場所から、太后は雷将帝を仰ぎ見て口を開いた。

「……陛下。宰相はこの国の重鎮でございます。そう、ないがしろになさっては……」

「そんなに偉いのであれば、早々に河南の反乱を収めてみせよ!」

 雷将帝はそう叫んで玉座から飛び降りると、太后の制止にも耳を貸さず、謁見の間から飛び出していった。

「ほんに、まぁ……いつまでも子供染みて……」

 呆れた顔でそう言った太后は、口調こそ穏やかではあったが、その声にはどこか冷めた響きが籠もっていた。太后が蒼羽の方へ向き直った時、すでにその表情は一転して鋭いものに変わっていた。


「例の者、計画通りに参ったようじゃな。おかげで、天の星共が何やら騒がしい……さて、どう転ぶか……見ものじゃ」

「はい」

「宰相殿。ゆめゆめ、二心など持とうと思わぬ事ぞ。さすれば、そなたの皇子をそこに」

 低く押えられた太后の声が、無気味に響いた。

 太后の手の扇は、空の玉座を示していた。

 蒼羽が初めて彼女に会った時からずっと、吸い込まれそうになる程の、その美しさは変わっていなかったが、いつの頃からか彼女の美しさには、艶美な影が伴うようになっていた。


 葵姫という名の一人の少女が、後宮世界に足を踏み入れてから、十余年という歳月が流れていた。皇太子妃時代の貴妃きひから、後宮の最高位である皇妃、華妃かひに……そして、今では皇帝をもその手の上に乗せて、華王朝の絶対権力を手中に納める、太后という身分にまで上り詰めていた。


 誰しも、初めは自己防衛の為に戦う。だがいつしか気付かぬうちに、権力という魔物を自ら求めるようになり、やがてその虜となっていくのである。

 太后も例外ではなかった。そして、そういった者の持つ、独特の闇の気配が、太后の場合、艶美な影となって現われるのかも知れない。蒼羽は、そう感じていた。そして、自分の中にも、それと似たような気のあることを蒼羽は知っていた。


 権力という甘美な果実の味を知ってしまった者に残される選択肢は二つ。

 後続の者にそれを奪い取られ命を落とすか、或いは、それを奪われない為に戦い続けるか、しかないのである。


「我が忠誠は、ご本家のもの。この心に偽りはございません」

「うむ。……時に、そなたの八卦師……」

「緋燕、でございますか?」

「いずれ、あの男に河南へ赴いてもらうことになろう。河南の件も、そろそろ片を付けねばならぬしの」

「八卦師ごときが、お役に立ちますかどうか……」

「八卦には、八卦じゃ」

 太后が嫣然と笑う。

 蒼羽の脳裏に、ふと広陵公楊蘭の名が浮かんだ。


……このお方は……一体何をなさろうとしているのか……


「そなたが参れば、事は簡単なのだかな。そうもいくまい」

「はい。宰相の私が、燎宛宮を空ける訳には……」

「ふっ、だろうな……しかし、宰相ごっこは、楽しかろうが、そなたの使、忘れぬことじゃ……」

 その言葉に、蒼羽は思わず顔を上げた。


 太后が不思議な微笑を浮かべて、蒼羽を見据えていた。その曖昧な表情に、蒼羽は何か背筋の寒くなるような、そんな感じを受けた。


……この御方は……


 本来の使命、という言葉に、蒼羽は動揺していた。

 自分の秘密を……知っているのか。

 蒼羽が、ここにいる、本当の訳を。


……まさか、そんな事は、ありえない……


「星が動く……天の摂理ではなく、人の傲慢によって。無理を通せば、大きな波が立とう。足元をすくわれぬ様に気をつけることじゃ」

「……はい」

 その言葉の裏には、いくつもの意味が隠されている。蒼羽にはそう思えた。太后の口から出るその言葉は、時折、太后のものではない様な気さえする。


 太后様は、変わられた。大きな権力を有するものの、余裕とでもいうのだろうか。かつて、彼女を支えていたひたむきさが見られなくなった代わりに、全てを見透かした様な、曖昧な表情が時折見え隠れする。彼の共犯者だったはずの彼女は、いつしか彼を共犯者に仕立てて、主犯者に成り代わろうとしているのかもしれない。


……もしかしたら、すでにそうなのか……


 薄暗い謁見の間から退出した蒼羽は、突然、晩夏の明るい日差しに目がくらんでよろめき、回廊に並ぶ柱にもたれ掛かった。

「……だが、私はまだ舞台を下りるわけにはいかないのだ……全てが終わるまでは……全てを見届けるまでは……」

 抜けるような青空に向かって、蒼羽は呟き、何か言い知れぬ不安を抱きながら、重たい足取りで歩き始めた。




 近衛の騎馬訓練の監督をしていた蒼炎は、ふいに規則正しい栗毛の馬の、波の中に、白雪の色が交じったのに気が付いた。

「陛下」

 雷将帝が、宮廷服のまま馬にまたがり、蒼炎のもとに走ってきた。


 いつもの事だが、雷将帝は、突然、彼の目の前に現われる。蒼炎がさして驚きもせず、兵に合図を送ると、一瞬にして全ての動きが止まり、次の瞬間にはその場の一人残らずが、馬を下りて片手に手綱を持ったまま地面に片膝を付き、頭を垂れていた。それを確認してから、蒼炎自身も馬を下り、雷将帝を迎えた。

「東の離宮へ狩りに参る。供をせい」

 単調な口調でそれだけ言うと、雷将帝は馬首を巡らして鐙を蹴った。

「……留守を頼む」

 蒼炎が一言そう言うと、彼の隣に居た副官はいつもの事ですね、という様に笑って見せた。

「お気を付けて」

 蒼炎は小さく頷いて、馬に飛び乗った。

「第一小隊、騎乗っ!」

 蒼炎の凛とした声が響いた。

「私の後に続けっ!」

 蒼炎は鐙を蹴って、雷将帝の白馬を追った。その後を、一定間隔を保って、十数騎の騎馬が続く。それを見送って、何事も無かったかのように、再び騎馬の訓練が始まった。




 東の離宮は、華煌京の南東部に広がる森林地帯の外れに建てられた小宮である。美水びすいへ向かう海州道かいしゅうどうを馬で数刻ほど進んだ、街道を少し外れた場所にある。狩りをこよなく愛した始皇帝が、二百年のその昔に建て、以後数回の改築を重ね、代々の皇帝達に愛用されてきた小宮が東の離宮であった。


 蒼炎は街道を走りながら、何かが、彼らの後を付けて来ている、そんな気配を感じていた。また、大公の影共なのだろうか……

 義姉の華梨から、過日の皇帝暗殺未遂事件の事は聞いていた。陛下には十分ご注意していただかなくては、と思う矢先のこの遠出である。

「全く……」

 前を走る雷将帝の小さな背中を見ながら、蒼炎は人知れず溜め息を漏らした。


 大方、また太后様と折合い悪く、燎宛宮を飛び出して来たに違い無いのだ。蒼炎は、雷将帝のまつ毛が濡れていたのを、先刻、僅かに顔を会わせた折に、めざとく見つけていた。だが、政の主導権を握っているのは太后で、雷将帝が名ばかりの皇帝なのだとしても、やはり皇帝は皇帝なのである。太后がどんなに力を持っていようと、所詮は太陽の光を受けて輝く星に過ぎない。皇帝という太陽が消えてしまえば、一緒に消え去る運命なのである。それは、父宰相にしても同じ事だ。自分自身にはそういう力があるのだという事を、どうやら雷将帝はまだ分かっていない様であった。


「……宝の持ち腐れだな。目先の事に気を散らされて」

 半ば同情する様に、蒼炎は呟いた。

 だが、太后や宰相が、自らの太陽に雷将帝を選んだのではないのだということを、蒼炎は知らなかった。


 雷将帝の周囲には、有用な者が少ない。もともと居なかったという訳ではなく、徐々に居なくなってしまったのだ。太后が、そういう者を次々に、雷将帝から遠ざけていったのである。実を言えば、太后にとって雷将帝とは、新たな太陽を作り出すまでの、仮初めの太陽に過ぎなかった。そして、今、新たな太陽の出現を巡って、水面下で幾つかの謀略がせめぎあっていた。

 そして蒼炎は、自身が、その候補者と目されていることなど、知ろうはずもなかった。

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