第3章 星を拾う少年
第7話 緋燕本気出す
その朝、いつもの時刻に皇帝を起こしに行った女官が、取り乱した様子で宰相の部屋に飛び込んで来たのは、半刻を告げる鐘が聞こえて間もなくのことであった。
「何事だ、騒々しい」
「蒼羽様、陛下が……陛下のお姿が、お見えにならないのです」
女官は、宰相蒼羽の鋭い視線に圧倒されながら、雷将帝の寝室が、もぬけの空であった旨を説明した。
「華梨はどうしたのだ?」
「あの、それが……華梨様のお姿もない様で」
華梨と言うのは、今年十六になる宰相の娘で、まだ幼い皇帝の話し相手として、その側に常に控えている少女であった。
「……あのじゃじゃ馬娘め、全くよく問題を起こしてくれる……この事は、他言無用だ。よいな」
厳しい口調でそう言った宰相に女官は頭を下げると、宰相の指示を受け、あたふたと退室していった。
「緋燕、おるか?」
「ここに……」
宰相が呼ぶと、寸分を置かずに、誰もいなかったはずの場所に緋燕が姿を見せた。
「陛下がいなくなられた。行方を捜すのだ。お前の八卦を用いれば、容易かろう」
「御意にございますが……そう大騒ぎをせずとも、いずれ戻られましょう」
皇帝のお忍び好きは、今に始まったことではない。好奇心旺盛な雷将帝は、側近の華梨を従えて、城外へ物見遊山に出掛けてしまった事が、これまでにも度々あるのだ。本来ならば、皇帝を止める立場にある華梨が、一緒に出掛けてしまうというのも、宰相には頭の痛い事であった。
「昨夜、
「河南公の病状が、思わしくないのでございましょう」
「恐らくな。だが、それだけとも思えぬ。昨晩の刺客騒ぎにしてもそうだが、近頃、影の者共が、何かと騒がしいのも気に入らぬ。それに、昨夜の刺客……一人は、捕えた様だが、今一人は取り逃がしたそうだな」
「はい。相手が羅刹でございましたので、勝手が違い、面目次第もございません」
神妙な様子の緋燕を、蒼羽は一瞥する。
この男が、自分に対して、全幅の忠誠心を捧げているのでない事は、知っている。だからこちらも、その力は、利用するだけのものだ。その能力を思えば、多少の不具合は、問題ではないと考える。
「まあ、良い。ところで、そなた、広陵公楊蘭を知っておるか?」
宰相の突然の問いに、緋燕はその意味を図りかねるといった様子で少し考え、そして答えた。
「……河南公の、年の離れた異母弟でございますか。確か、まだ十九か二十歳の若者だと聞いておりますが……」
「若いと言っても、あれでなかなかの策士でな……権謀術数では、お前と良い勝負だろう。八卦にも通じていると聞く」
「……それは少々厄介ですな」
緋燕は軽く眉を上げて、不愉快そうな表情を見せた。宰相が、誰かを引き合いに出すということは、つまりそれだけ、緋燕の力量を信用していないということである。
「広陵公に、どの様な意図があるかは分からぬが、ただ、陛下を亡きものにしようと、色々と画策をしている様だ」
「……しかし、解せませぬな」
「なんじゃ」
「広陵公が、閣下の言われるようなお方なら、死にかけている河南公や、剣を振り回すだけしか能の無い海州公のために、帝位を用意するとは思えませぬ……また、広陵公自身が帝位に即くというのもいささか……」
「裏に何かあるか……」
「恐らく。何か切り札をお持ちなのかもしれませぬな……」
「切り札か。……まさかとは思うが……」
宰相は、何やら意味ありげな事を呟いたが、緋燕は、それを軽く聞き流したようであった。
「いずれにしても、陛下をお守りするのが先決でございます。こちらへ」
そう言って、緋燕が壁面の一点に軽く触れると、隠し扉が開いた。
照明のない薄暗い階段が下方へ続いていた。
緋燕に付いて蒼羽がそれを降りて行くと、やがて窓の無い小部屋に行き着いた。
これまで緋燕は、好き勝手にやりたい様にやっていた。今ほど状況が切迫していなかったということもあって、宰相も緋燕のやることには、あまり口を挟まなかったのである。だが、どうやら、やや風向き変わってきた様である。宰相の信用を失わないように、この辺で自分の仕事ぶりを見せておく必要があるのかもしれない。緋燕はそう考えた。
緋燕が室内の蝋燭ろうそくに火を点けると、部屋の中央に置かれている占術盤が照らし出された。その盤の上の空間に、直径が数尺はあろうかという巨大な水晶球が浮かんでいる。その光景に、蒼羽は息を呑んだ。
「これはまた、面妖な」
術師の水晶は、その力に比例して大きさが変わるのだと聞いたことがある。蒼羽がこのような大きな水晶を見るのは、もちろん初めてのことである。それ程までに、この緋燕の力は大きいというのか……
……この男、ただの八卦師という訳では、ないのかも知れぬ……
そう考えて、その男の得体の知れなさに、蒼羽は背筋が寒くなった。
掌に乗せるには、相応しくない駒かもしれない。大きな力は役に立つ。だが、大きすぎる力は、それを使うものにも害をなす。これは危険な駒だ。私に御し切れるのか……
蒼羽の心中を知ってか知らずか、緋燕は意識を集中する様にその水晶を見据えると、それに向かって、何か呪文のようなものを唱えた。すると、その水晶球の中に、七つの光点が浮かび上がった。傍らに立つ蒼羽のちょうど目のあたりの高さの位置に二つ、それより下方の空間に上下して四つの点があり、更に球の底のほうに一つある。それぞれ、その光の強さが違い、よく見ると色も異なるようである。
「どう言うことなのだ?これは……」
黙ったまま水晶球を見詰めて、身動き一つしない緋燕を急かすように、蒼羽が尋ねた。
緋燕は蒼羽の声によって現実に引き戻された様な感じで、数回瞬きをした。
「……北天七曜星というのは、ご存知かと思いますが……」
「天星剣の事であろう。皇家の紋章にもなっておる。よく、占術師があれを使うようだが」
「左様にございます。七星八卦術と申すものですが……
この水晶の中の光点は、かの星々を示すものでございます。
上から順に、
そしてここには現われておりませんが、北天七曜星には、
という八つ目の星がございまして、これは国が滅ぶ時に現われる星と言われております。これらの星々にはそれぞれ意味がございまして、北天の中央にある帝王星、
「ふむ。それでこの星の配置は、どういう意味なのだ?」
「水晶球の上下は、因果を、左右は方位を表わします。これに依りますと、陛下はご城下にあられます。華梨殿もご一緒のご様子。方位は、ここより南西と出ておりますから、西の三条の辺りかと……」
「西の三条か。全く、何をしておられるのか」
そう言って、そのまま部屋を出て行こうとした宰相を、緋燕が呼び止めた。
「閣下、陛下の側に、影の気配がございます。例の、広陵公の影共かと。お急ぎを」
緋燕の言葉に頷くと、宰相は足早に階段を上がっていった。
宰相が出ていった後で、しばらく水晶の光点を眺めていた緋燕だったが、やがて右手を天にかざし、水晶の光を消した。
「広陵公楊蘭か……気に入らぬな。たかが、人間の分際で、この私の邪魔をしようなど、笑止な」
緋燕は、日頃の沈着冷静な彼からは、想像の出来ない様な不敵な笑みを浮かべ、蝋燭の火を吹き消した。
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