第8話 星海と姫君
その日の警備の予定表を見ながら、何気なく、窓の外に目をやった蒼炎は、見覚えのある女官が、慌てた様子で出かけてくの見付けて、思わず呟いた。
「……また、あのお方は、お忍びにお出かけなのか……」
「どうしました?隊長」
傍らに立っていた副官に、そう問われて、蒼炎は何気なく呟いてしまった言葉を悟られはしなかったかと、内心慌てながらも平静を装って部下の顔を見た。
蒼炎は宰相蒼羽の養子で、華梨の二つ下の義弟である。
まだ十四だったが、その若さで、すでに近衛の隊長として納まっていた。
宰相の七光である、と中傷する者もいたが、蒼炎が太后の甥に当たる血統であることが公の事実であったら、その軽口に自らの命をもって償わなければならないところだった。しかし、幸いな事に、この事は宰相と太后しか知らぬ極秘事項であり、二人はお互いの利害のために、この事実を闇の中に葬り去っていた。
なぜなら、蒼炎がその真の名を李炎と言い、華煌の三皇家の中で始皇帝の直系の、最も由緒正しい血筋を持つ李家の生き残りであるなどと言うことは、現在のところ、宮中にいらぬ波風を立てる要因にしかならないからであった。
「兵の配置は、このままで良い。三時間後に東の中庭に全員集合させるように。それまでは自由時間だ。ただし、城内からは出ぬようにすること、以上だ」
副官に指示を与えて退出させると、蒼炎は外出の支度を始めた。
蒼炎が出かけようとして扉を出たところで、彼は慌てた様子でやってきた義父蒼羽と鉢合わせた。
「義父上!一体、どうなさったのです」
「陛下がまたお忍びに……」
「ああ、その事でしたら……多分、そんな事だろうと思っておりました。先刻、義姉上が、慌てて城を飛び出して行きましたから。今から、お迎えに上がろうとしていたところでございます」
「おお、そうか。では、陛下は西の三条におられるゆえ」
「西の三条?行く先を告げていらっしゃったので?」
蒼炎が不思議そうな顔をした。
「八卦師がそう申しておるのだ」
「八卦師……また緋燕でございますか。あまり良い噂を聞きませぬ。あのような者の言、あまりお信じにならぬが宜しいかと存じますが……」
「お前は、影の者をあまり好かぬようだが、私の後を継ぐのであれば、もうそろそろ……」
「私は、武人でございますから」
「まあ、その話は帰ってから聞こう。陛下の御身が心配だ。早く行け!」
蒼炎は肩をすくめると、馬屋へと走っていった。
城から聞こえる告時の鐘を、無意識のうちに数えていた劉飛は、その数が九つになったのを知って、軽く舌打ちをした。
「燎宛宮を出てから、もう一刻になるって言うのに。馬で都大路を真っ直ぐ行けば、半刻も掛からない距離だなんだぞ。全く」
「今日は、祭りの最終日ですからね。一年のうちで都大路に一番人のいる日ですし、焦っても、詮無い事ですよ」
二人は、昨日、城下の宿に預けてきた馬を取りに行く所であった。元はといえば、混雑を避けて、いったん町の外へ出、城壁の外を迂回した方が良いと言った周翼を説き伏せて、祭り見たさに、都大路を通るのを主張したのは、劉飛の方であったのだ。言うなれば、自業自得というものである。だが、劉飛を責める素振りも見せずに、周翼が落ち着き払ってそう言ったので、かえって劉飛は気分を害してしまった。
「そうだな……軍師様の進言を聞かなかった、俺がみーんな悪い」
「また、劉飛様。そういう……」
「だけどな、お前だって悪いんだぞ。強硬に反対しないで、俺に丸め込まれたんだからな。お前の、自己主張が足りないのが悪い」
ここまで来ると、完全に責任転嫁というものだが、周翼は笑って聞き流している。
「第一、お前は軍師なんだし、もっとさ、なんて言うか……いてっ」
ちょうど、劉飛の愚痴がお説教めいてきたところだった。前方から、走ってきた子供が勢いよく劉飛にぶつかったのである。
「てめえ、気を付けろ!」
「そっちこそ、ちゃんと前見て歩いた方がいいよ、兄ちゃん」
謝るでもなく、にこやかにそう言い放って、少年は人ごみの中に姿を消した。
「あんのやろう……」
元々あまり良くなかった劉飛の精神状態が、大きく負の方向へ傾くのを感じて、周翼はとっさに、少年を追い掛けようとする劉飛の腕にしがみついた。
「放せ、周翼。あのガキ、二、三発殴ってやんなきゃ、気が済まない」
「止めてくださいよ。相手は子供なんですよ。本気になるなんて、大人気ないですって……」
一瞬、劉飛の動作が止まった。
周翼は、つい言いすぎてしまったかと、恐る恐る劉飛の顔を覗きこんだ。
「あーっ!」
「なっ、なんなんですか。唐突に」
「やられた」
劉飛が、自分を掴んでいる周翼の手を、簡単に腕からひきはがした。
「あのガキ、スリだ。金はともかく、封魔球。あの中には、昨日捕まえたばかりの、羅刹が入ってるんだ。追うぞ、周翼」
そう言いながら、少年の消えた人ごみの中へ劉飛も身を投じた。あまりにも早い反応に、今度は周翼も劉飛を捕まえ損ねた。
「早くしろ、周翼」
人垣の向こうから、劉飛の手だけが見え、周翼を呼んでいた。
結局、物を盗られたことを不本意に思うよりも先に、犯人を捜す事を楽しんでいるような劉飛に、周翼は短い返事をすると、その後を追った。何時の間にか、機嫌の良くなっている劉飛を追う周翼も、まんざら悪い気分ではなかった。
都大路の人波から抜け出た少年は、人気の無い裏通りへ出ると、さっそく、本日の戦利品を改め始めた。その中の一つに、見慣れない小さな水晶球を見つけ、興味深そうにそれを手にとった。少年の手の中で、それは金色の光を発して輝いた。そしてその光は、まるで呼吸をしている様に、強くなったり、弱くなったりを繰り返す。見慣れた術師の水晶の様でもあるが、どうも様子が違う。
「……何か、星みたいだな、これ。おばばの言ってた星って、この事かな……」
そう呟いた少年の着物の袖を、くいくいと引っ張る者がいる。気が付けば、すぐ後ろに人の気配があった。
「だっ、誰だっ」
少年は上擦った声でそう言いながら、慌てて振り向いた。そこに、先刻のカモ――劉飛が立っているような気がしたのである。だが、意に反して、少年の瞳に映ったのは、その場所にはおよそ似つかわしくない格好をした、かわいらしい女の子だった。年の頃は、七つか八つ……というところか。
「人に名を問う時は、自ら先に名乗るのが礼儀だと、教わりましたが、違うのですか?」
「はあ?」
少年は、一瞬にして緊張の糸を断ち切られ、体の力が抜けるような感覚に襲われた。
……何でこんなところに、こんな子がいるんだ?……
少年がそう思ったのも当然だった。身なりからすると、貴族のお姫様といったところだ。少女は唖然としている少年に、可愛らしい笑みを送ると、いきなり彼の手にしていた水晶球を取り上げた。
「何すんだよ」
少年は、自分が少女に見とれていた事に気付いて、慌ててそれを隠そうと、大袈裟な動作で水晶球を少女の手から取り返そうとした。が、少年の手は空を切った。少女が空気のように軽やかに避けて、その体を一歩後ろに引いたのである。
「人のものを盗るのは、良くないですね」
「え……」
少女が、物をスル時の仕種を真似る。
「なんだ、見てたのか。けどな、俺は、悪いなんて、これっぽっちだって思っちゃいないぜ。生きてくためには、こうしなきゃ食べらんないんだからな」
「……」
少年は少女の反応をチラリと見たが、少女が驚いた様な顔をして、少年を見据えているのに気付いて、慌てて視線を外した。
「あんたみたいな、貴族のお嬢さんには、到底理解できないだろうけどな」
「あの……ご両親は」
「いねーよ。そんなもん。戦に巻き込まれて、とうに死んじまったし」
「……そうでしたか。私、何も知らなくて」
殊のほか少女がしょんぼりしてしまったのを見て、少年は気まずさを感じて、慌てて言った。
「別に、あんたのせいじゃないだろっ」
「でも、私は……」
少女が何かを言いよどむ様に、言葉を切った。その場に、何となく気まずい空気が流れる。
……何なんだよお……
少年には訳が分からない。そもそも、貴族のお姫様なんて代物を、こんなに間近で見るのは初めてなのだ。その扱い方など、分かる筈も無かった。だいたい、何で、こんな所に現れたりするんだ、と思う。少年は、急に腹立たしくなってきた。
「だいたい、そんな格好で、こんな所をふらふらしてたら、悪い奴に売り飛ばされたって、文句は言えないんだぞ。……?なんだよ、これ」
目の前に差し出されたものを見て、少年は怪訝そうな顔をした。それは、いままで、少女の首を飾っていた、金の輪だった。所々に、宝石が散りばめられていて、見るからに値打のありそうな代物である。
「これ……差し上げます。だから、盗ったものは、持ち主の方に返してあげて下さい」
少女に言われて、少年はそれをしげしげと眺めた。二、三年は遊んで暮らせるかもしれない、という考えが少年の頭を掠めたが、彼は、すぐにその答えを否定した。
「施しを受けんのは、好きじゃない」
こう言ってから、少女に対して、見栄を張っている自分に気付いて、少年は何となくおかしな気分になった。
「これは、私の大切な方の物なのです。ですから……」
自分を見上げる少女と、思いがけず目が合い、少年は慌てて視線を外した。自分の意思に反して鼓動が早まり、顔が熱くなる。
「わかった……分かったから」
少年は言い捨てて、少女に財布を付き返した。
「ありがとうございます」
「……もう、いいから」
少年は、深呼吸して気持ちを落ち着かせた。
「送ってってやる」
言ってから、そんな言葉が自分の口から出た事に、少年は内心驚いていた。
「屋敷はどこだ?送ってってやるよ。迷子なんだろ」
何時の間にか、この少女の守護者気分になっている。ついさっきまでは、自己を守るので精一杯であった筈の自分が、他者を守ろうと考えている。
十一年間生きてきて初めて出会ったそんな感情に、素直に従うだけの純粋さを少年はまだ失っていなかった。
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