第85話 対英交渉

 グランドホテルはストックホルムにある老舗ホテルだ。

 ノーベル賞受賞者が宿泊するホテルとして世界中に名前を知られている。


 世界各国から訪れる人々を受け入れるホテルだけあり、東洋人が出入りしてもさして違和感のある場所ではない。


 秘密裏に行う会談の場所として、この場所ほど相応しい場所はないだろう。グランドホテルの数多くの客室の中でもひときわ広いスィートルームのソファに深く腰掛けているのは、平成日本からやってきた外交官、新村榮太郎であった。


 彼は傲岸不遜そのものといった笑みを浮かべ、現地で仕立てたやや低い身長にぴったりと合った背広を着ている。部屋の中なので帽子は脱いでいるが、彼が帽子をかぶるとハリウッド映画に出てくるギャングのボスといった趣きがある。


 彼の向かい側のソファに座っているのはいかにも気難しそうな英国紳士だった。

 顔立ちだけを見れば女性を振り向かせるのに十分な恵まれた容姿の持ち主だが、神経質そうな鋭い視線がそれを台無しにしている。


 敵国同士の大使館員が極秘裏に接触するのに、両国の大使館は秘密保持に相当な苦労を強いられていた。

 仮にその交渉が表沙汰になれば、英国にとって深刻な外交的影響が免れないからだ。

 特に主要な同盟国たるアメリカの反発は避けられないだろう。

 そんな重要な役目を背負った英国側の外交官はドナルド・マクリーン一等書記官。

 それが先ほど彼の名乗った名前だった。


――しかし、とんでもない「大物」が出てきたものだな。


 内心で新村は皮肉な取り合わせに苦笑せざるを得なかった。

 事前にデータベースで交渉相手となりそうな英国外交官のリストを頭に叩き込んでおいて正解だったと思う。 このマクリーン一等書記官は「戦後」に明らかとなった情報では、英国におけるソ連スパイ網「ケンブリッジ・ファイブ」の一人であった。英国情報部MI6のエージェントにして二重ダブルスパイであるキム・フィルビーと並んで、英国の最高機密情報をソ連に提供し続けたスパイの一人である。

 今回の会談の結果も、数日中にはモスクワに届いているであろう。

 外交上の相互主義の観点から同じ一等書記官を寄越すとは思っていたが、この男がやってくるところまでは想像が及んでいなかった。史実通りならばこの人物は1943年の今頃は本省勤務ではなく、アメリカの大使館へ派遣されているはずだ。 

「この度は、面会に応じていただけて有難うございます」

 新村はまずは反応をうかがう意味もこめて、謝意をこめて頭を下げて見せる。

「我が国としても、今回の会談が現在不幸な関係にある両国の関係を改善するきっかけになればと考えています」

 意外なことにマクリーンの返答はとげとげしいものではなかった。

 その背景を想像することは容易だった。現在英国は非常に厳しい立場に追い込まれていたからだ。

 硫黄島海戦の影響で、アメリカ海軍が大西洋に展開する艦艇をパナマ運河経由で太平洋方面に回していたからである。護衛艦艇の不足は大西洋方面でのドイツ軍潜水艦Uボートによる通商破壊を深刻なものとしていた。

 東南アジア方面では日本軍の陸上兵力が減少した反面、インド洋方面の通商破壊作戦が深刻化していた。潜水艦による襲撃と機雷敷設によりインド方面の海上輸送は壊滅的被害を受けている。ただでさえ昨年のセイロン島空襲によって東洋艦隊の根拠地を後方のマダガスカル島へ下げざるを得なかったいる英国海軍は、日本軍の潜水艦対策に忙殺さていた。

 英国はこの戦争を失いつつある、とチャーチルに批判的な英国人が声高に批判する有様だった。

 その程度のことは外交官であるマクリーンも理解しているはずだ。

「我が国に降伏を勧告でもしますか?」

 マクリーンは眼鏡の奥のナイフの刃のような煌めきを放つ光で、新村の挑戦的な視線を受け止める。

「まさか。我が国は現在不幸なことに英国と敵国同士ではありますが、我が国の開化期に多大な貢献をしてくれた貴国への感謝の念を忘れたわけではありません。かつての日英同盟の時代とまではいかなくとも、せめて休戦状態へ移行したいというのが、首相閣下ならびに天皇陛下の御意志であります」

 新村は歯の浮くような台詞をこともなげに並べ立てながら、わずかに歯並びの良い白い歯をのぞかせる笑みを見せる。

「それは簡単なことではありますまい。我が国は貴国の海軍に象徴的な戦艦二隻を沈められ、他にも大きな損害を受けている。復仇せよ、という国民感情を我々も無視することはできません」

 マクリーンの涼しげな口調に、新村は内心でよく言うぜと舌打ちをする。

 日本の対米宣戦布告と真珠湾攻撃の報を聞いたチャーチルが英国の勝利を確信しておおいに喜んでいたことを、チャーチルの回顧録を読んだことのある新村は知っていた。ちなみにその後、「レパルス」と「プリンス・オブ・ウェールズ」という二隻の英国が誇る新型高速戦艦を日本軍に沈められて消沈するというオチがつくのだが。


「貴国将兵の戦没者には哀悼の意を申し上げます」


「有難うございます、首相閣下に伝えましょう。それでは貴国の申し出に、首相閣下からの返答をお伝えしましょう。答えはNOです。我が国はアメリカをはじめとした国々と、単独講和を不可とする宣言に署名しています。」


――まずは原則論で拒否してきたか。ここまでは想定内だが。

 新村は表情一つ変えずに傾聴する姿勢を取りつつ、次にどのカードを切るか考えていた。


「なるほど、連合国共同宣言を遵守せねばならない貴国の立場は十分に理解できます。ただ、我が国の立場もご理解いただきたい、アメリカはカサブランカ会談の記者発表において、我が国に無条件アンコンディショナル降伏サレンダーを要求している。国家解体に等しい要求を受け入れる訳にはいきません」


 マクリーンの顔がわずかに曇るのを、新村は見逃さなかった。

 英国にとっても、アメリカがろくな根回しもなしに発表した無条件降伏要求には困惑していたからだ。


 無条件降伏とは文字通り、交戦国にすべてを委ねて両手を上げろホールドアップというものだ。史実通りならば、国家の基本法である憲法を改廃させられ、軍隊を取り上げられる等々、枚挙に暇がない国家主権の解体が行われる、はずだ。


 この苛烈な要求により枢軸国側の敗北が確定的になった後も講和交渉が難航する原因となり、文字通り本土が焦土になるまで戦う羽目になる要因となった。当時の日本とすれば国家体制そのものである皇室の安全が約束されなければ徹底抗戦するほかないからである。


 英国にとってみれば敵国を焦土化するまで戦うことは国益にならないどころか、適当なところで手打ちをして莫大な戦費に喘ぐ財政のの立て直しと、戦場となって傷ついた国土を回復したいのが正直なところであった。


 会談後の記者会見でルーズベルトが突然言いだした無条件降伏要求に、チャーチルが文句を言いたくなるのも当然と言える。

「我が国としては、連合国として発表されたことは遵守せねばならない立場にあります」

 マクリーンの木で鼻を括ったような返答に、新村は内心焦れるような思いで睨み付ける。

 公式の場で発表している立場をあくまで主張する英国だが、本音のところでは日本との交渉に何の価値を見出していないわけではない。それだけは新村が確信するところだった。

 ドイツ、イタリアとの同盟条約を破棄したこともいくらかは影響しているだろうが、敵国である日本との秘密交渉に応じたからには何かしらの期待があるのだ。

 反面スパイとして、マクリーン個人は是が非でもこの停戦交渉を失敗させて日英の戦争状態を継続させるように働きかけるだろう。ソ連とすればドイツと戦っている最中に日本から背後を突かれたくないからだ。

「そういえば、だいぶ前になりますがオーストラリア豪州は連合国から離脱し、中立を宣言したそうですな」

 突然、新村はわざとらしく視線をそらしながら、世間話をするような口調で言った。

「貴国も連合国から離脱してみてはいかがですかな?もし、それが実現されるならば我が国はドイツ、イタリアに対して宣戦布告する用意があります」

 マクリーンは目をむきながら絶句し、しばらく沈黙する。

 はったりブラフなのか、それとも本気なのか理解に苦しむという顔だった。

 それも当然であり、時震前の日本の頑なな態度を知っていれば、史実のイタリアのように枢軸側から連合国へ鞍替えして、かつての同盟国を攻撃するとはにわかには信じがたいのだろう。

 新村は余裕の態度で手を組むと、相手の発言を待つといった仕草をして見せる。

「馬鹿な、アメリカとの同盟関係を破棄するだと?…私が与えられた権限ではすぐには判断できない。時間をいただきたい」

 新村は内心してやったりと言いたいくらいの気持ちであった。

 英国が連合国と離脱することなど期待はしていないが、英国が少しでもぐらついてくれればしめたものだし、ソ連に対しての攪乱工作にもなる。

 反面日本は仮にドイツやイタリアに宣戦布告したところで、中東や北アフリカに派兵する理由も余裕もないからさほど不利益はない。紙の上だけでの宣戦布告をなるべく高く売りつけてやれというのが新村の腹であった。 そして新村はそれを可能とする権限を与えられていた。

 対称的に、マクリーンは深く息を吐くと、なんとか落ち着きを取り戻そうと努力しているように見えた。

「構いません、待ちましょう。我が国としては貴国の判断がどうあろうとも、それを尊重します。ただ、時間は有限であるということを理解いただきたい。なにしろ戦争ですからな」

「無論です。可及的速やかに首相閣下の判断を仰ぎます」

「そうそう、インド国民軍INAなる独立派の武装組織をご存知ですかな。先日、指導者にスバス・チャンドラ・ボースが就任したとか」


 マクリーンは苦い顔で応じた。

 チャンドラボースはインド独立闘争の闘士であり、インド独立運動の武装闘争派の中では最もカリスマ性と指導力を持つ男であった。利用価値を認めたアドルフ・ヒトラーがドイツに滞在させていたが、硫黄島海戦の情報を耳にした彼は日本行きを熱望し、日独同盟破棄の直前に日本海軍の潜水艦によってドイツを出てシンガポールへ渡航。現地でインド国民軍の仲間と合流していた。


 「英国にとって最も重要な植民地であるインドを失えば、いくら戦時内閣であるチャーチル政権といえど総辞職は免れないでしょうなあ」


 新村は世間話のように言うと、マクリーンの顔色が真っ赤に変わる。


「今日の交渉はここまでにさせていただく。急ぎ本国と対応を協議せねばなりません」


 マクリーンは乱暴に立ち上がると、足早に部屋を出ていく。

 新村は慌ただしく出ていくマクリーンを見送りながら、どっかと革靴を高そうな白無垢の机に投げ出す。

 今にも笑い出したくなるように気分が良かった。

 胸ポケットから小型の情報端末を取り出すと、新村は小さな声でこの会談をモニターしていたバックアップ要員へ通話する。


「お喋りに耳を欹てろ。ああ、もちろん『東側』もだ。まったく、外交交渉ってのは楽しくてたまらんね。いい酒が飲めそうだ」


 新村は自分の転職の判断が正しかったことを確信しつつ、腕時計でマクリーンとの

時間差を確認して部屋を出て行った。

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