第70話 前原清史郎
前原家は武士の家系であった。
その先祖は仙台藩に士官する下級武士であった、らしい。
藩の財政が幾度も破綻してきた仙台藩の中でも、前原家はとりわけ貧しい武家だった。さほど歴史に名を残した家でもないが、古くは大坂の役から戊辰戦争まで歴代の当主が文献に登場するという歴史の長さだけが誇りであった。
明治新政府が出来てからは幾人かの軍人を輩出したものの、尉官以上へ出世出来たのは清史郎ただ一人であった。その背景にはやはり、戊辰戦争で佐幕派について新政府軍に敗北し『賊軍』の汚名を着たことがあるのかもしれない。
そのような家に生まれた時から、清史郎は家系の歴史に恥じない立派な軍人として立身出世を遂げることだけを期待されていた。
賊軍の汚名を雪ぎ、「官軍」の将軍となることが求められていたのである。
そんな窮屈な家に生まれた清史郎は学業成績も優秀で、かつ身体能力にも優れた文武両道の青年に成長していった。ただ容姿にだけは恵まれなかった。
が、軍人にとって不要な要素であるということで彼はさほどの劣等感を持つことはなかった。
そんな優秀の誉れ高い青年の内面の歪みにまで、気づくものはほとんどいなかった。
清史郎は生来の気質からか、良心の呵責や罪悪感というものを感じたことはなかった。
少年時代に吠え癖の治らない犬を五月蠅いという理由で、床の間に飾られていた日本刀を持ち出して、据え物斬りでもするかのように眉一つ動かさず切り捨てたことすらあった。
そんな異常さを、前原家の人々は無いものとして扱った。父は軍務に専念して家庭を顧みない男であったし、清史郎の実母である先妻が早逝した後に、前原家へ嫁いだ継母は清史郎を腫れ物扱いするばかりであった。
青年に成長するに従い、清史郎の持つ「歪み」はより大きなものとなっていった。
犬の次にどの毒牙にかかったのは、彼の腹違いの妹であった。
ある日、継母が土蔵の中に入った時に目撃したのは、獣欲のはけ口とされたことがありありと分かる、裸でぐったりとしている少女の姿だった。彼女は継母の娘であり、清史郎の腹違いの妹である。
その隣では清史郎が下半身丸だしの恰好のまま、紙巻き煙草を美味そうにくゆらせている。
半狂乱になっている継母を尻目に、清史郎は煙草を一本丸々吸い終えると着衣を整えて土蔵から出ていったのであった。
そんな「事件」ですらも、前原家では「無かったこと」になった。
むしろ、その事件をきっかけに清史郎は一度も会ったことのなかった、とある軍人の娘と結婚することとなった。
所帯を持てば、「事件」など起こすまいと考えたのであろう、と清史郎は父の意図をそれとなく察した。少尉として任官した後に帰省した折に、清史郎は妹が遠く離れた街へ若くして嫁に出されたことを知った。
清史郎はその話を聞かされても、ああそうかと答えただけで何の感情も示さなかった。
前原家では以降、妹の話題が皆の口に登ることはなかった。
そのころには父が軍を負傷で退役していたこともあり、表立って清史郎を批判出来る人間は家にはいなかった。
そして、順調に出世していった清史郎の転任先が満洲に決まったのは昭和11年(1936年)の春であった。満洲の地における参謀としての勤務は特段の波風もなく、順調に過ぎていった。
彼が人生において最初で最後の蹉跌を経験するのは、大東亜戦争開戦の前年のことであった。
激しい閃光を後ろから浴びせかけられ、前原は後ろへ向き直った。
それがカメラのフラッシュだと気づいた時にはすべてが遅かった。
彼がいたのは隣の人家まで半日かかるような満洲の寒村の農家、その馬小屋であった。
「いけませんなあ。いくら事に及んでいた後とはいえ、軍人たるものそう易々と背後を取られては」
ドイツ製のカメラを構えながら、嗤って見せたのは顔を見たこともない男だった。
紛れもない日本語だったが、その恰好は満洲人の労働者風の格好だった。
しかし、無駄のない所作と片手に拳銃を握っているところを見ると、醜聞目当てのカストリ雑誌記者とも思えない。
むしろそんなものより、よほど厄介な手合いに見えた。
「年端もいかぬ少女をまあ。両親の頬を札束で叩いて黙らせるのはいいですが、詰めが甘いですな。事が露見すれば、国民党や英米の格好の宣伝材料になる」
「その両親をどうした、貴様。血の匂いがし過ぎているぞ」
「無論、殺しました。情報を売られたり、官憲に喋られるのは私としても困る」
「貴様は誰だ。俺の醜聞が目当てか」
前原はその男の背格好や持ち物を、ゆっくりと観察する。
カメラは高名なライカ社製で使い込んだ形跡のある年代物だったが、普通の労働者の給料でおいそれと買える値段ではないように思えた。
拳銃の方はといえばブローニングM1910であった。小型軽量でサラエボ事件でオーストリア皇太子の命を奪った銃としても有名だ。護身用の拳銃は自弁することになっている帝國陸軍士官が、扱いやすさから買い求めることの多かった拳銃でもある。
そして目線を、馬小屋の端に乱暴に脱ぎ捨ててある自分の衣服に目をやる。
その衣服と前原の中間には、少女というには少しばかり幼い満洲人の少女が光を失った目を見開いたまま、微動だにせずに転がっていた。着衣は乱暴に引き裂かれて素肌が露出しており、首筋には赤黒い圧迫痕が認められた。
あの革製のコートの内ポケットに護身用のワルサー拳銃が忍ばせてあるが、それを取りに行く余裕を与えてくれることは無さそうだ。
「少しだけ違います。醜聞が目当てなのは確かですが。あなたを脅迫するためにね」
「脅迫だと?」
前原の目に獰猛な肉食獣の色が宿る。
「そう怖い目をしないでいただきたい。私は単に『おともだち』になっていただきたいのです」
前原はその男の手慣れた様子の脅迫の文句を反芻しながら、以前陸軍内の防諜に関する文書を思い出した。
共産主義国の諜報員の用いる手練手管に関してだ。彼らはいわゆる
こいつもその類という訳か。まさか、この少女を『手配』したのがこいつという訳でもあるまいが。
「なるほどそうか。お前は俺に祖国を売り渡せと言いたいのだな」
「話が早くて助かります」
「私が醜聞など気にしないと言ったら?」
「いやいや、貴方はこの程度の出世で満足される方ではない。軍人としての経歴に傷をつけることを何よりも恐れている人のはずだ」
「よく調べているな。その通りだ。俺は立身出世こそが全てという男だ」
「では、貴方と私との利害は一致している。そういうことですな。なに、今すぐ何をしてくれという類のものではありません。貴方には『秘密のおともだち』になって欲しいのですよ。我々が何か事を起こす時にこっそりと協力していただきたい」
「よかろう。貴様と俺は共犯者だ」
「私の事は『リシーツァ』とお呼びください。かの国の言葉で狐を意味する言葉だとか。それでは友情の印を…と、その前に処置が必要ですか」
貧困に負けた親に売られ獣欲の犠牲となった哀れな少女の眼球を、小さいが鋭利なナイフで斬りつける。
魚を三枚におろすかのような容赦ない斬撃に、激痛に耐えかねた少女は声にならない声で悲鳴をあげる。
しかし、周囲に人家のないこの馬小屋に助けは来なかった。
「それでは、我らの友情に」
「俺も狂っているが、貴様も相当だな」
握手を求めながら嗤った男の顔を、前原は生涯忘れることは無かった。
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