第37話 宮殿にて(前編)

              1942年12月13日8時45分(現地時間)


 ストックホルム宮殿はスェーデン首都ストックホルムの旧市街地ガムラスタンのスターズホルメンと呼ばれる地区にある。この1942年の世界では国王グスタフ5世がその宮殿の主であった。

 スェーデン王国はナチス・ドイツと連合国が戦争を繰り広げる動乱のヨーロッパにおいて、あくまで中立国としての立場を貫いている。


 しかし、中立国であるが故に、戦火を交えている国同士の大使館も同時存在しており、各国のスパイが諜報戦を行う舞台ともなっている。

 今日は宮中で各国の大使館員や駐在武官を招いての小規模なパーティーが催されていた。


 戦時中ということもあって参加人数は王宮のパーティーとしては簡素かつ小規模なものではあったが、その場にいる人間の誰もが緊張感に包まれていた。

 この場でかわされるどのような些細な会話の中にも、金塊のように貴重な情報が紛れ込んでいるかもしれない。


 仮にそのようなことがなくとも、連合国と枢軸国の大使や武官が顔を合わせる機会などこのストックホルムか、あるいは同じ中立国のスイスくらいしかあり得ない。

それだけでも、外交上の価値は計り知れないものがある。


 パーティが催されているのは宮中の晩餐会が催されることもある広間であった。既に1942年の残すところ一ヶ月を切り屋外は切りつけるような寒さだが、しっかりと暖炉で暖められた広間は、上着などを着ていては暑いくらいの気温だった。


 外地でのパーティなど海上自衛隊の練習航海以来だな、とワイングラスを片手に吉永幸康国防海軍少佐は思った。


 中立国での和平工作要員として長距離航海に対応する改造を受けた潜水艦「こうりゅう」に乗り込み、佐世保出港したのがはや三ヶ月ほど前のことだ。スエズ運河を使うわけにもいかず、日本からマラッカ海峡を通りインド洋やマダガスカル沖を通過して、希望峰を回り、連合国の対潜哨戒が行われている大西洋方面を通過してスェーデン沖へと到達した。


 英米の対潜哨戒網をくぐり抜け、直線距離でも8000キロ、海上移動距離なら一万数千キロ離れたこの北欧まで潜水艦を到達させたのは、艦長の手腕と平成の時代においても世界一を謳われた静粛性能のたまものだった。


 潜水艦からゴムボートで事前に上陸地点に選定していたフィヨルドへ移動、陸路現地の警察や軍の警戒をすり抜けてストックホルムの日本大使館へ移動した。途中トラブルに見舞われることがなかったのは、偵察衛星による支援が大きかった。


 何故、潜水艦による潜入という手段をわざわざ取らざるを得なかったのか。それにはいくつかの要因が複雑に絡み合っていた。


 第一にこの時期フィンランドとソ連の間で、後に「継続戦争」と呼ばれる戦争が勃発していた。この時期であれば中立条約が生きているソ連のシベリア鉄道による移動では、モスクワ付近で立ち往生しかねない。

 

 第二に、ドイツとソ連の間でも独ソ戦の戦端が開かれており、東欧方面からの進入も不可能に近い。


 第三に、この工作に使われる『機器』はこの時代における『未来技術』の塊であり、万が一にも奪われる訳にはいかない。ドイツやソ連の手に渡れば、日本の存立どころか人類の命運が危うい。


 それが、彼らの長きに渡る航海の所以ゆえんであった。


 なお、公式記録としてはシベリア鉄道による移動のあと、このとき『盟邦』ドイツ占領下になっているノルウェー王国に海路で(!)移動、その後陸路でスェーデン入りしたと偽装されている(とはいえ、いささか無理のあるカバーストーリーではあった)。


 外交暗号を用いて大使館に電信で到着を予告していたので、現地での着任手続きは滞りなく済んだ。


 しかし、それは同時に英米をはじめとする連合国の諜報員にその存在を暴露されていることを意味した。英米の暗号解読によって日本の外交暗号、英米側の通称で言う『パープル暗号』はとうの昔にやすやすと解読されていたからである。


 余談ではあるが、吉永らは持ち込んだノートパソコンによって衛星回線を通して、量子暗号通信を用いた電子メールで本国とやりとりをしている。よって、この工作に必要な『本物』の通信は、この時代の人間には解読不可能であった。


 現地の『大日本帝国』大使館員やスェーデン当局に疑いをもたれないためとはいえ、メガホンを用いて大音量で到着を報告してしまったようなものだった。 


 そのため、吉永らは連合国諜報員の注目を集める存在であった。

 中立条約を結んでいるとはいえ微妙な関係のソ連領を通過し、戦争当事国や被占領国をすり抜けてまでやってきた者たちの任務を知りたがるのも無理はない。


 今回、派遣されたのは軍人である吉永に加え、外交官としては型破りなことで知られる新村榮太郎一等書記官も加わっていた。新村榮太郎は伊福部政権で導入された民間人登用制度で入省した中途採用の外交官であった。


 小さなベンチャー企業を東証第一部に上場する大企業まで成長させた立志伝中の人物なのだが、その企業を「飽きた」の一言で部下に押し付けると、外交官中途採用試験に応募した変わり者である。「俺は平成の小村寿太郎になる」というのが採用試験の第一声というのだから相当に変わっている。

 吉永が判断するところ、少なくとも語学力とコミュニケーション能力は外務省生え抜きの外交官達でもかなわないところがある。


「吉永少佐、硬くなり過ぎているぞ。こういう場では堂々としていることがなによりも求められているのだからな」


 短躯に燕尾服姿が奇妙なほど様になっている新村は、料理を皿に盛りながら不敵な笑みを浮かべている。どんな場所であってもこの男は臆するということがない。

「まあ、王宮というのは誰しもがそれなりの緊張を求められるところですからな。緊張感が無さすぎるというのも困ります」


 やや呆れ顔でそう述べたのは小野寺信という眼鏡をかけた帝国陸軍武官だった。吉永、新村の潜水艦密航組ではなく元々大使館に勤務していた人物である。


 ストックホルム大使館駐在陸軍武官であり、同時に情報将校として諜報活動を行っている人物である。かつての歴史通りならソ連が日ソ中立条約を破棄して対日参戦するという最高機密を掴み、日本へ打電することになるはずだ。しかし、日本陸軍上層部がその情報を握りつぶしたため結局終戦を早めるという目的を果たすことはできなかった


 その暗号電を握りつぶしたのは――諸説あるが――陸軍参謀本部の高級参謀である瀬島龍三とも言われている。この男は、戦後ソ連のスパイであったという説が囁かれる曰く付きの人物だ。

 どちらにせよ、この時震後のこの世界ではすべてが「無かったこと」になっているのだから真相は闇の中だが。


――最高機密を探り出したこの人物が、無能であるはずがない。

 吉永の緊張の原因はこの一見温厚で誠実そうな男のせいでもあるのだった。


「楽しんでおられますかな、日本国の大使殿。戦時中の祖国のことを思えば心から楽しむことは難しいだろうが、息抜きは必要だろう。といっても物資が潤沢でないのは中立国たる我が国も同じでしてな。質素な料理ばかりで申し訳ない」


 不意に訛のない英語クィーンズイングリッシュで背後から声をかけられ、吉永は肩を震わせそうになる。なんとか醜態を晒さずに振り返ると、そこには鼻眼鏡をかけ口髭を蓄えた礼装の人物であった。


 年齢は白人男性なのでわかりにくいが五十手前といったところだろうか。柔らかな眼差しではあるが威厳に満ちた顔のその人物が、この王宮の主であることを一瞬で悟った。


「これは国王陛下。御自らお声をかけていただき…」


「いや、謙った挨拶は抜きにしよう、オノデラ殿。今日はブレイコウだ。この国際情勢だからこそ、貴国も含め諸国の友人達と友誼を深めることこそこのささやかなパーティの目的なのだからね。」


「は。有難くあります。それでは、我が大使館に新たに加わった者を紹介します。新村榮太郎領事です。そしてこちらは帝国海軍武官の吉永幸康少佐です。シベリア鉄道と中立国を経由して本国から新たに着任いたしました」


「ほう、それはそれは。なんとも豪胆な道行きであったろう。是非ともその冒険譚を聞かせていただきたいものだ。だが、あいにくそこで侍従長が睨んでいるのでな、後に譲ろう。ああ、先日の書状に書かれていた『余興』の件だが、後で時間を設けさせてもらおう」


 国王は茶目っ気のある笑みで片目をつぶって見せる。

 音もなく侍従長らしい厳しい顔つきの老人が傍らに寄り添うのを、三人は三者三様に見送った。




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