(7)

 朝、先生に起こされたのは6時過ぎ。普段よりもだいぶ早い起床時間に頭はなかなか働かなくて、ぼんやりとベッドに座って30分程経った頃、先生が私に声をかけた。


「翠、駅まで車乗ってくなら7時頃には家出るからな」


 7時……? と時計を見た私が、慌てて支度を始めたのは言うまでもない。よく考えてみたら、高校の始業時間は8時半だし、その前のSHRの事も考えたら、先生が家を出る時間が早いのは当たり前だけど、そんなことすっかり忘れてしまっていた。先生だってもっと早くに言ってくれたっていいのに、なんて勝手なことを思ってしまう。


 そんな私を他所に、一人だけさっさと支度を終えた先生は何か紙を見ていた。その口元が笑ってるように見えて、何を見てるのかと足を止めると、先生は私を見て言った。


「翠、お前、今日は家に帰るんだよな?」


「え? なんで?」


 今日は金曜日で、私としては特に先生と会わない理由が思い当たらなかった。


「これ、落ちてたぞ」


 私の目の前に、先生が今見ていた紙をぺらっと見せてくる。そこに書いてある文字は、見覚えのある、女の子っぽいクセのある文字で書かれているそれは、藍から私への手紙だった。恐らく着替えの入っていた鞄の中に入っていて、服を出すときに気づかずに落としたらしい。


『お姉! 明日は仕事終わったら家に直帰してくること!それから、明後日は買い物行くから絶対に付き合うこと!!」


 物凄く一方的なその手紙に、「えぇ…?」と思わず眉をしかめる。今日直帰するのは良い。だけど、明日は、一応バレンタイン。そんな日に買い物って。しかも絶対って。藍、自分の彼はどうするつもりなんだろう……? それに、先生はこの手紙を見てどう思ってるんだろう? 


「いいから行って来いよ」

 

 面白がってるようなそんな表情で私を見ていた先生は、いともあっさりとバレンタインなんて全く歯牙にもかけていない言葉をくれた。先生って興味がないことにはとことん興味がないし、バレンタインとかめんどくさいとか思っていてもおかしくない。いや、そもそも明日バレンタインだとか覚えてすらいないかもしれない。


「面白そうって思ってるでしょ?」


「もちろん」


 ニッといたずらっぽい笑みを浮かべた先生は、私の髪をそっと撫でた。


「行ってきな」


「はい……」


 余裕の表情でで言われたら渋々ながらも頷くしかないわけで…… 何かを計画していた訳じゃないけれど、先生と過ごそうと思っていたバレンタインの予定は『藍とデート♡』に見事に書き換えられた。



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 仕事が終わった後、ロッカーで不敵な笑顔を浮かべた里美に捕まった。


「すーいちゃん、今日のご予定は?」


「……か、帰るよ?」


 里美のその表情があまりにも不敵で、逃げ腰になりながら返すと「ふぅん……?」と含みのある相槌が返ってくる。


「ほんと?」


「な、なんで?」


 里美は私を見てにっこりと笑って続けた。


「なんか翠、最近すっごく楽しそーにしてるから」


「そ、そう……?」


「うん。最近翠、仕事終わるとすーぐ携帯見てるし、帰りは早いし。あと、髪とか服とかちょびっと可愛くなったし」


 言われて、一瞬自分の服に視線を落とす。確かに最近、前と少し服は変わった。パンツスタイルで地味な事はたぶん変わっていないけれど、以前の「パンツとシャツを適当にローテーションしているだけです」と言う感じは薄れたと思う。仕事の後に先生と会うから、ちょっと位は可愛くしたい。先生が仕事終わるの待ってる間、駅ビルで時間をつぶすのが習慣になってしまったので、お店を眺めて居るとついつい買いたくなってしまうのだ。今まで使ってたシュシュは超どうでもよさそうな茶色だったのが、ふわふわしたファーの付いたヘアゴムや、ラインストーンの綺麗なヘアクリップとか気付けばいろいろと増えていた。選ぶのが、朝ちょびっと楽しい。


「なんかあったのかなーって思ってたんだけど?」


 付き合っている人が居る。それを言えばいい。それは判っているのに、どうしてか言葉が上手く出てこなかった。先生の事よりも、先輩の事が暗雲の様に立ち込めてくる。男の人が苦手なのに彼氏が出来た事、先生の事、どうして平気なのか…… 訊かれるであろうことの答えが、先輩にたどり着いてしまうのが何よりも怖くて、声が出て来なくなってしまった。


「翠?」


 里美の心配そうな声音に、我に返った。


「あ……ごめん。大丈夫」


「そう? ならいいけど。それはそうと、今日飲み行かない? さやかと飲もうかーって言ってたんだけど」


 丁度その話題を振られたところで、背後からさやかの元気な声がした。 


「里美、お待たせ! 翠も暇だったら飲みにいこーよ!!」


「ごめん、今日妹と約束してて。また今度誘って」


 ちょっと残念そうな二人とロッカーで別れて家に帰ると、藍が夕飯を作って待っていた。ものすっごく手抜き感の漂ううどんだったけれど。


「はいはい、さっさとご飯を食べる」


 藍にせかされながら手抜きうどんを平らげると、食べるや否や藍に食器を下げられた。


「さ、お姉!! やるよ!!」


「……なにを?」


 藍は何に気合を入れてるんだろう? 結構まじめにそう思った私の前に、藍はドン! とスーパーの買い物袋を置いた。


「明日は何の日?」


「バレンタイン」


「だよねー?」


 微妙な沈黙の後、相変わらずよく判らずにキョトンとしていると、呆れたようにいわれた。


「だから、お菓子作るに決まってるでしょ!!」


 当たり前でしょ!! と藍に言われて、バレンタインのお菓子を一緒に作る為に今日呼んでくれたんだ、とようやく合点が行った。そして、藍が超絶手抜きのうどんで夕食を作るかわりに、お母さんから台所を貸してもらったのもやっと判った。


「何作るの?」


 藍が置いた買い物袋を覗くと、小麦粉、ベーキングパウダー、無塩バター、チョコレートチップ、ココア。この材料だと、ケーキでも作るのかな? と思っていると案の定、藍が「カップケーキ」と返事をくれた。


「うちの彼氏は甘党だからガッツリ食べるんだけど、お姉の彼は?」


「え?」


「え? って。だからさ、彼氏さん甘いもの好きなの?」


「ああ、あんまり、食べないかな?」


 ふぅん、と聞いているんだか聞いていないんだかよく判らない返事をしながら藍はスマホをいじってる。


「タバコは?」


「吸わない」


「お酒は?」


「飲まないわけじゃないと思うんだけど、帰り車で送ってくれるから一緒に飲むことあんまり無いんだよね」


「小麦粉、160g」


 私の答えには何のリアクションもなく、いつの間にやら私の前におかれていたのは、はかりとボウル。計れという事だと察してボウルを計りに乗せて小麦粉160gを測る。


「いいねー、タバコもお酒も殆ど無しって。歳いくつ?年上だよね?」


 昨日見られているから隠す意味は無いのは判っていても、12歳と言う年齢差年は何となく気後れしてしまって藍に聞き返してみる。


「藍の彼氏は?」


「あたしの彼氏? 3つ上の美容師だよ。お酒好きでさー、毎日飲んでんだよね。砂糖、80g」


 私のほうをちらりと見た後、藍は言いよどむことなくスラスラ答えてくれた。そして砂糖の袋を棚から出して、ボウルと一緒に私の前におく。次いで、藍はハンドミキサーで卵を泡立て始めていた。


「で?」


「はい?」


「彼氏さん、おいくつ? 結構上みたいだったけど、そんな言いたくない程上なの?」


 言いたくないほど上かと言われると、そんな風にとらえられるのも嫌で渋々と口を開く。


「12歳……上」


「12? ってことは、んーと……35?」


 卵を泡立てていた手を止めた藍は「あのさ、お姉」と声を潜めて、言いにくそうな表情でダイニングテーブルの向こう側から乗り出してきた。


「な……なに?」


「あたし、昨日かるーく、泊まりに行けばなんて言っちゃったけど…… 実は不倫だったりする?」


「ち、ちがうよ!? 何言い出すのさ!!」


 不倫と言う言葉に思わず声が大きくなった私に、藍がほっとしたように息をつく。


「あー、よかった~。ドキッとしたじゃん。やっと出来た彼氏が妻子持ちだったらどうしようかと思った」


 さらっと恐ろしいことを言った後、藍はまたスマホを見ながらケーキ作りを再開した。




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