第三章(1)

 私の手の中でスマホが震えているけれど、大きな画面に表示されている『新島せんせ』という文字を見つめたまま、動けずにいた。


 先生? 本当に? ……何かの間違いじゃなくて……?


 電話のアイコンをスライドしようとする指が震えていた。指だけじゃない、身体中の感覚がおかしくなってしまったように、麻痺しているのが判る。震える指でゆっくりと電話のアイコンをスワイプして、画面が通話中になるのを見て、耳に当てた。


 声が出てこなかった。


 電話の先の音も何も聞こえなかった。聞こえるのは、止まない雨が屋根を叩く音……それだけ。


 何も聞こえてこないスマホを少し耳から離して画面を見ると、通話中の数字がゆっくりとカウントアップされていた。


「……先生?」


 漸く出た私の声は、掠れて震えていた。そして、しばらくの沈黙の後に私の耳に静かな低い声が届いた。


「……元気だったか?北川」


 それは紛れもなく、懐かしくて、ずっとずっと聞きたかった先生の声。高校を卒業して以来聞くことのなかった先生の声は、沁み込むように胸の奥を満たしていく。


「北川?」


 言葉が出てこない私の鼓膜を先生の声が優しく揺らす。口を開いたら零れそうになる嗚咽をぐっと飲み込んで、電話越しに聞こえないようにそっと息をつく。


「うん。元気、だったよ。先生は?」


 声が震えそう。そう思ったのに、喋りだしてみたら案外スラスラと声が出てくる。その一方で心臓だけはドキドキと早く脈打っていて、私の思考を麻痺させていた。


 本当に元気だったかと言われたら、正直よく判らなかったけれど。少なくとも、今普通に生活していられる程度には元気だ。


「俺は相変わらずだよ。毎日ガキ共の相手してる。……大学、卒業したか?」


 先生の、声だ。電話の相手が先生なのだから当たり前のことなのに、耳元で響くその声に目が熱くなって、世界がぼんやりと滲む。


「うん、卒業した。今は普通にOLしてるよ」


 泣き出しそうなのをぐっとこらえて、元気ぶった声を出して答えると、電話の向こうで先生が想像つかねぇな、と小さく笑うのが聞こえた。


「……ちゃんと彼氏、出来たか?」


 そう言った先生の声が凄く優しくて、胸がぎゅっと痛む。


「出来ないよ……。ずっと、居ない」


 出来るわけがない。私は男の人が今でも怖い。知ってるくせに。私が男の人が嫌いな理由を知ってるのにそんなこと聞くなんて、先生は相変わらず意地悪だ。


「そっか」


 帰ってきた先生の返事は、静かだった。居ないことを責めるわけでもなかったし、早く作れと急かす響きもなかった。


 訪れた沈黙に言葉を必死で探したけれど、先にそれを破ってくれたのは先生だった。


「……今度、飯でも食いに行くか?」


「え、行く!」


 あまりにも意外な先生の言葉に思わず即答した私に、先生がククッとのどを鳴らして笑ったのが聞こえた。


 相手が先生なら、断る理由なんて一つも無い。


「あとで暇な日メールで送っといて。アドレス、変わってないから」


「うん」


 会話が途切れて、私は漸く息をつけた気がした。思っていた以上に心臓は早く脈打っていた。


「じゃぁ、また」


「先生っ」


 電話を切られる、そう思うと思わず声を上げてしまった。


「どうした?」


 何を話そう。何も思いつかなかったけど、先生との電話が切れてしまうのは嫌だった。やっと話せたのに、これだけで切れてしまうのが凄く寂しくて。少しでも長く繋がって居たかった。


「先生…」


「北川」


 話す事を探している私の声を、先生の声が遮る。


「俺は職員会議のある木曜以外なら大体空けられる。お前は?」


「私は……いつでも良い」


 本当にいつでもよかった。もし先生さえいいって言うなら、今からでも良いくらい。1秒でもいいから早く会いたい。5年も会ってないんだから、今更1秒なんてたいした問題じゃないと思うのに。


「……明日、会うか?」


「うん」


 明日。その言葉に自分でも思って居た以上に、心臓が跳ねる。


 返事は、迷わなかった。



 -----


 まじまじと見つめてくる視線のあまりの居心地の悪さに少し不機嫌に里美を見てしまう。


「そんなにじろじろ見ないでよ」


「だって……どうしたの?そんな恰好して」


 そんなに変?と思いながら自分の姿を見下ろしてみる。私は普段パンツとカッターシャツという色気の欠片も無い格好で通勤しているけど、今日は白いニットとカーディガンのアンサンブルに、スカートを履いていた。


 そして、普段が普段なだけに里美が見逃してくれるわけもなく、出勤早々ロッカーで里美に捕まった。


「変?」


「変ってわけじゃないよ、可愛い!でも、翠、今までそんな格好してきたこと……」


 里美は途中まで言ってふと思い当たったように声を小さくして私の耳元でささやいた。


「もしかして、デート?」


 だったら応援するんだけど。と言外に含んだ少し嬉しそうな里美の声音に「違うよ」と小さく返すと、ふぅん……とちょっと含みのある相槌が返ってきた。


 菊池君は昨夜のラインで、里美も誘ったと言っていたから、もしかしたら何か聞いているのかもしれない。だけど、決定事項の様に告げられる菊池君からのラインは、どうしても先輩の強引さを思い出してしまって、言い返すのが怖い。だけど従いたくはないのだ。


 パタンとロッカーを閉じた里美は「あ」と声を漏らした。どうしたのかと視線を向けると、ため息交じりに言った。


「今日、柿崎さんお休みだから給湯室当番やらないといけないんだった。ごめん、先に行くね」


「あぁ、そっか。いってらっしゃい」


 フロアに1か所ある給湯室の布巾やタオルの洗濯や洗剤や石鹸などの補充をするのが給湯室当番。1週間交代で、女子社員の当番制なのだ。


 パタパタとあわただしく出て行った里美と入れ替わりに夏帆がロッカーに入ってきた。

 

「おはよう」


 夏帆は、さやかや里美とは少し雰囲気が違う。大学時代に一年留学していて一つ年上なのもあるかもしれないけれど、しっかりしているお姉さんだ。


「ねぇ、マナから聞いたんだけど、菊池からライン来てるの? 大丈夫?」


 唐突に言われて言葉に詰まると、夏帆が苦笑する。昨日、総務で菊池君と話しているのを愛香に見られていたらしい。逃げ腰になっている私の腕を掴んでいたのが愛香としては気になって、私が帰った後に菊池君に事情を聞いて、それを夏帆に話したという事の次第。


「無理なら無理って、はっきり言っちゃいなよ。まぁ、前の事もあるから、あんまり強引には来ないだろうけど……」


 去年の四月の終わり頃、新入社員全員での研修が終わって、それぞれの配属が決まった後の同期の飲み会で、私は戯れに肩を抱いてきた菊池君をとっさに突き飛ばしてしまっていた。ふざけていたのだとは判っていても、それでも恐怖と不安で頭が真っ白になってしまったのだ。

 

 その一件以来、私の男嫌いは同期の間には知れ渡って、男子はあまり踏み込んでこなくなったし、女子も男の人が絡むことに関しては気を使ってくれている。


「悪い奴じゃないんだけどね……。久しぶりにこっち戻ってきたからみんなと遊びたいみたいだし」


「うん……それは、判ってるんだけど」


 判っているけど、出来れば距離を置きたい。

 

「何かあったら言ってね。それより、スカート珍しいね」


「あぁ、うん…変じゃない?」


 夏帆は私を見て小さく頷いてふっと笑う。


「可愛いよ」


 その言葉に安心して、息をついた。別に里美の感性を疑っているというわけではないのだけど、里美に言われる『可愛い』と夏帆に言われる『可愛い』は何となく違う。里美も夏帆も可愛いと言ってくれるなら、大丈夫なんだろうとちょっと安心した。


 会いたい気持ちを抑えられなくて、先生の気が変わるのが怖くて、明日会うか?と言ってくれたときに即答したけれど、今朝、服を選びながら激しく後悔したのだ。同い年の女の子たちが合コンやデートのときに着て行くような、可愛らしい服なんて一着も持っていなかったから。


 とりあえず、持ってる中で一番可愛いかな?って感じがするのを選んできたつもりだけど、正直スカートなんてめったに履かないから全然落ち着かない。このスカートも、去年内定者の懇親会のときに『スーツじゃなくても良いけど準正装程度に』というお達しがあって渋々買ったもの。それ以来出番がなかった……というと不憫なスカートだけど、気に入っていないワケじゃない。


 本当は可愛い恰好自体は好き。妹がお目当ての付録を外した後に投げ出してるファッション雑誌見るのも大好き。同期の女の子たちの事も、みんな可愛くていいなとは……思ってる。


 だけど、その格好で自分がするかっていうとまた別の問題で。可愛くして出掛けられるかというと、それは更に次元の違う問題だった。


「今日、何かあるの?」


「え?」


「だってそんなに服気にしてるトコ、見るの初めて」


「……うん」


 小さく頷いた私に、夏帆が優しく笑う。


「そっか。後で聞かせて」


遅刻しちゃうから行こうと夏帆に促されてロッカーを出た。


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